はてなキーワード: 左派とは
まあそれだよね
「命どぅ宝=大義のために死ぬなんてバカらしい」というのがこれまでのジャパニーズ左派の常套手段で
それさえ振り回しておけばよかったのが、今回のウクライナで完全にパーになった
テロ食らった後のアメリカの団結ムードにはツッコミを入れられても、ああも侵略される側になってしまうと下手に冷や水もかけられない
恨み言のひとつも言いたくなるだろう
「プリキュア着ぐるみが幼児と撮影」の目撃談も...実は非公式 国営ひたち海浜公園、覆面などのコスプレ禁止に
https://news.yahoo.co.jp/articles/e1034d5215505dd291be5ccc429240aa0d29d6e1
埼玉県営プールでの水着撮影会、暫定ルールを発表 NGポーズも例示:朝日新聞デジタル
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASR7M63DYR7MUTNB00G.html
tikuwa_ore マイクロビキニを規制する法律・法令は存在しないので、それを法令未満のルールで制限するのはお気持ちでしかないんだが、そこが理解できないのが似非フェミ気質の人たちなんだとよく分かるはてブ。つか、これ検閲。
houyhnhm 検閲の問題にはなるでしょうね。違法とされていないものの範疇であれば、貸す貸さないの裁量は、公共施設にどのくらいあるのかという所があり。
TakamoriTarou 私立ならともかく、平等性を担保しなければならない県営などの公立施設においてこのルールってのは、普通に裁判になったら負けるのでは。例の天皇の絵を燃やしたり、近隣国のプロパガンダ像を展示する奴の判例で。
preciar いやだから、公然わいせつや児童ポルノに該当しない(違法ではない)ものを、公共施設の使用条件に含めて排除したら違憲だろ/アホな共産主義者どもは、自分たちが「社会との折り合い」をつけてると思ってんの?
hobo_king 未成年の参加等を問題視するなら分かるが、これはヌードデッサンのポーズに行政が「それOK、これNG」を決める位には異様。しかも資格満たせば誰でも使用可能な公共施設。規制の根拠となる土台の歪みを感じる話。
poko_pen 公営という公共施設だからこそ下手に制限設けること自体が法律違反、下手すれば憲法違反になる事を埼玉県と弁護士は理解していないのかな。撮影会は他県でやってるから埼玉が避けられるだけかと
odenboy 明らかに表現の自由の侵害。これは日本共産党とつながりが強い埼玉県政への猛烈なバッシングにつなげるべきだ。
KoshianX NGポーズ例は明らかにやり過ぎ。表現の自由という人権を甘く見過ぎだろう。専門家の人たちちゃんとこれは潰しておいて欲しい
水着撮影会のNGポーズが決められたのは表現の自由の侵害か?賛否両論に…
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2191098
poko_pen 『公共施設ではなく民間施設でやれ』って言ってる人は「表現の自由」や過去の判例についても何も理解していない。これの行く先は『政府批判するデモ活動へは利用許可しない』事になるのに、何で左派ほど呑気なの?
en-en-ra 民間なら好きに制限すればいいけど、公共施設なら法の範囲内で自由であるべきでは?と思うけど逆の人もいるんだなぁ。
この時みたいにさあ
最近、維新が自公過半数割れしたら自公維連立するぞするぞって発言して批判されてたけど。
実際今は維新がイケイケでキッシーは相当人気無いから、冷静に予測したら次の衆院選は自公が減って維新が増えるよね。
とはいえ一気に維新が過半数取るほど勢いがあるとも思えないから、いざキッシー政権が過半数落としちゃう場合、一番可能性があるのは自公ブロック、維新、左派野党ブロックのどれも過半数を取れない宙ぶらりん状態になるシナリオだと思うんだよね。所謂ハングパーラメントというやつ。
流石に一度に維新が単独過半数勢になることはないと思うし、それは左派野党ブロックも同じ。
で、ここからが本題なんだけど
将来実際にハングパーラメントになったとして、立憲•共産•社民•れいわ(+国民)当りの左派野党支持者は、左派野党ブロックにどう行動してほしいんだろう。
パッとこれくらいの選択肢が思いつくんだけど、自公をカルト政権だと看破する賢いリベラル増田様達は、立憲や共産党の議員にどう動いて欲しいの?
ウクライナは停戦に応じろ(領土をロシアに渡せ)って言ってる左派は、中国が攻めてきても戦争やめろ人命が優先だ(台湾や沖縄はあきらめろ)って言ってそうな気がするが。
今時オタクは貧乏人の道楽だと揶揄するバカが一部いるが、彼らも低水準社会の犠牲者のレイシスト予備軍。
僕の主観が入るが、オタクになる人は一定確率で「貧乏人を人と思うな」のマインドをわきまえている。
庶民いじめが好きなお気持ち勝ち組な者ほど「変わり者にやさしい社会」を是認するので、オタクになりたがる。
類は友を呼ぶでオタクとは本質的にそういう集団なのだから、オタク嫌いを静かにさせたければ「弱者蔑視容認な低水準思想を改めること」が最善策になる。
尤も、そうすれば益々、オタクの人は減って衰退するだろう。「貧乏人いじめ好きが差別大嫌い」という発想自体が矛盾しているのだから、本来そんな集団は存在しえないのが正しいのである。
こんな人間を遠ざけたいなら、やるべきことは決まっている。
XというSNSの特性をわきまえないツイートで炎上した松川るい議員のような空気を読まない行動をさせないなどの本人の居場所を奪うようなオウンゴール行為をさせないことは言わずもがなだが、より根本的なのは社会コモンの文化の整備だ。要するに大衆文化の復活である。
だが殆どの人がこの事実に気付いていないので、アクションは遅れ、近い将来「人をいじめてみたかったから」とオタクになる者が出てくる可能性がある。
因みに、日本のオタク文化のうちアニメや漫画やゲームや鉄道文化(撮り鉄含む)系はルーツは左派文化で、具体的には学生運動の当事者やそれにあこがれていた人的な人々が初期にその文化を作ってノンポリな多くの学生などの若者がそれを大衆化させた経緯があるらしい。渋谷系文化や秋葉原文化など、貴族気質が絡む社会との軋轢は日本のみならず世界中で枚挙に暇がない。
現代的な意味で賢い親は、元より「属性変更不可能なそれに絡む差別に対する批判的思考力や問題解決力が高いので結果的にオタクにならない子育てになる」が、まかり間違って子供がオタクになりたいと言っても、説得して遠ざけるか、最低でも弱者の誰かを見下す可能性の低いそれこそガジェットオタク等にさせたがる。
“これ、右派左派を逆にしても同じことが成り立つんだから、単純にコミュニティノートガチ勢の動員が多い方が勝つ(ただの多数決)に堕すシステムであることがわかるようなもんだけど”
“コミュニティノートは馬鹿が賢しらぶれる場所。そら信じたいが真実の情弱大国日本での需要は高いだろう。”
“コミュニティノート、まず作るためには5点以上評点を行うことで内部ポイントを貯めないといけないんだけどこのシステムは少数意見となった場合はポイントが引かれるのだ つまりはコミュニティノートを編集する権限があるのは選別段階から多数派に迎合する人間だけのだ”
“アルゴリズムとは手の込んだ多数決にすぎないとわかっているのだろうか。”
“それ自体がだれにも検証されないという設計がダメなんだけど、ネトウヨの人たちや、原発を礼賛してきた人たちが大いに歓迎し、活用しているのを見ると、あーそうだろうねーと思います。検証されたら困る人たちだ。”
“コミュニティノートを錦の御旗にして他人を叩いて煽り、Pvを稼ごうとするネットトロールはまさにコミュニティノートが生んだ弊害。真摯に対応している人に対してこのやり方をするのはコミュニティノートに逆ギレしてる連中と同格か、明確な悪意がある分それ以下なのでは。この人は今後確実に冤罪を生む”
Shin Hori氏の「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」というパワーワードが話題になっている。
ttps://twitter.com/ShinHori1/status/1686574496952758272
個人的な仮説だがこのパワーワードの起源は、旧社会党の綱領的文書であった『日本における社会主義への道』(以下、単に『道』と略す)にあるのではないかと思う。
『日本における社会主義への道』第一章第一節(3)福祉国家論批判
ttp://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_015.htm
(中略)
もとよりわれわれは彼ら(引用者注:資本家側)に譲歩を要求し、西欧先進諸国に比しいちじるしく立遅れているわが国の社会保障等をさらに前進させなければならないが、その彼らの譲歩にも「利潤の枠内」という厳然たる限界のあることを明確にし、またこれらの分配における部分的譲歩によって、基本的な生産関係における労働者の民主的要求を眠らせたり、勤労諸階層の革命的エネルギーを後退させたりすることのないようにしなければならない。
上記の引用文の「彼らに譲歩を要求し...」が、「社会福祉だけはあってほしい....」の起源ではないかと個人的には睨んでいる。但し『道』においては、この後に続く言葉は「アナーキスト」ではない。では何なのか。
同(3)
したがって、福祉国家論に対する闘いは、資本家の譲歩を一層拡大し、国民の要求と民主主義的進歩をかちとっていくなかで、資本主義の下では真の意昧での福祉国家は実現されないことを明らかにし、さらに革命を通じていわゆる福祉国家の限界を突破した社会主義にむかって前進しなければならないのである。
つまり、「社会福祉だけはあってほしい....」の後に続く言葉は、「資本主義。但し、その資本主義は社会主義化のつなぎに過ぎない」ということになる。
ちなみに『道』でいう社会主義とは、ソ連や中国とは異なる社会主義だそうである(詳細は同第二節「社会主義の原則と基本目標」を参照)。
『道』が示唆している考え方は平たくいえば、「福祉を拡充できるだけ拡充しろ。でも、給付と税負担の関係などトレードオフは考えない。だって、資本主義はどの道、社会主義に取って代わられるのだから」というものである。これは一見すると荒唐無稽な無責任に見えるが、実は筋が通った無責任である。例えば、3か月後に取り壊す予定の家に対して丁寧にメンテンナンスする必要はなく、好き放題して改造したり掃除をサボったりしても問題は起きないだろう。『道』の起草者たちにとっては、資本主義は3か月後に取り壊す予定の家のような仮初めのものであり、その維持に注意を払う必要性を感じなかったはずである。
『道』が旧社会党で承認を受けたのは1964年であり、まだこの時期の日本では社会主義化がリアリティーある構想であったことに注意する必要がある(日本が世界第2位の経済大国になるのは1968年)。問題は、資本主義が仮初めのものではなく、将来的にも社会主義化をしないのならば『道』の考え方はどうなるのか、である。
『道』を読むと、資本主義下での議会制民主主義に対するネガティブな評価が目につく。
http://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_019.htm
したがって、現存するブルジョア民主主義としての議会制民主主義を、勤労大衆は、形式にとらわれて、すべてがそのまま、価値あるものとして考えてはならないのであって、そこに資本家階級の支配が貫徹している支配機構としての側面を見抜かなければ、基本的な誤りをおかすことになる。
先の「筋が通った無責任」と相まって、これが左派知識人に無責任体質の種をまいたのではないかと、個人的には推測している。
『道』策定時は社会主義化がリアリティーある構想であったが、時代が下るにつれてそれは荒唐無稽になっていったと思われる。そのため、おそらく1970年代末以降は「但し、その資本主義は社会主義化のつなぎに過ぎない」の部分が忘れ去られた一方で、議会制民主主義に対するネガティブな評価は雰囲気として後世の左派知識人に継承され、「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」を誕生させたのではないか。「但し、その資本主義は...」を忘却し、議会制民主主義に対するネガティブな評価を雰囲気として継承された点が、「なんとなく」の部分として凝縮されているように思う。
『道』に通底する時代精神あるいは社会認識が、「貧困の文化」ならぬいわば「無責任の文化」を日本の左派知識人の間に醸成させてしまったように感じられるのである。