はてなキーワード: ハッピーとは
心配事の9割は起きないってのは統計的に見たら確かにそうなのかもしれないけれど、でも実際当人からしてみたら起きるか起きないかの二択でしかないよね。
そして心配するかしないかも二択だから、パターンは以下の四通りになる。
1心配していた事が実際に起こった→不幸だがショックは少ない
3心配していなかった事が突然起きた→とてつもなくショックで気分はどん底に
こう考えると、心配していた方がハッピーな人生を送れると思わない?
不幸が起きても事前に心の準備をしていれば多少なりともショックは和らげられるし、逆に不幸が起きなかった時には事前の心配との対比で幸せな気分になれる
一方事前に予測もしていなかった不幸はめちゃくちゃショックだし、不幸が起きなかったとしても特に喜びもなく普通に当たり前なだけ
ジャンボリミッキーとベイマックスハッピーライドの楽しげな歌詞と楽しげな踊りで人々を魅了させる様子が怖かった。
構造の、
楽しげな曲を流し、真似しやすい楽しげな踊りを先導者がして見せる
↓
楽しそう、と思った聴衆が曲にのって体を動かし真似をする
↓
熱狂的な人(アトラクション回りで完璧な振り付けをし一般客に手を振る一般客)とライト層の人に分かれるが、そのような人々が人を呼びダンス母数が増えていく
という仕組みが怖い。
そもそもキャストの人と手を振る文化も・・・とも個人的に思うが、手振りやダンスは一体感によって生まれる中毒性があるのだと思う。
一体感の快感にハマりすぎてる本人は楽しいと思うのだろうけど周りで見ている分では怖い。
大人も子供に戻れる場所だから良いのだという考えを知り、ジャンボリミッキーを踊る大人は、同調する快感や肉体をリズムに合わせて踊らせる快感などの本能を解放して全力で快に浸りたいという欲望の発露なのだと思った。全然子供に戻りたくないし本能を解放して生きる事が怖いから怖いのだ。
すっかりお祭り気分に浸っちゃいました。
最近なんか夜食欲が有るのか無いのかよく分からない状況で食べるヨーグルトが美味しくて美味しくてたまらないんだけど、
あのさ小さい容器の4つぐらいセットになっているタイプのものでは無くて、
500ミリグラムとかの大容量的なああいうヨーグルトを最近夜盛んに食べているのよ。
だいたいスイカかヨーグルトかってのが最近のパターン化した私の夜の常食で、
試しに買ってみて食べたら、
それはそれで美味しいこちらの方もなかなかヨーグルト感あってって
もちろんそれはヨーグルトだからヨーグルト感あるってのは当たり前の話しなんだけど、
あれを代々育てていたんだけど、
それ以降作らなくなってしまって無限にヨーグルトが食べられて良いなと思ったんだけど、
もとのなんていうの?菌って言うのか
ブルガリアヨーグルトに欠かせない
ブルガリアヨーグルトがもれなくできる仕組みを私は手放してしまったのよね。
それ以来積極的にヨーグルトを食べる機会を失っていて三千里彷徨ったところで
1周してまたヨーグルトが食べたくなったってことなのかしらね?
最悪買ってきて代用できるけど、
こないだ麺か何かを茹でて食べようとしたときに、
もはや万事休す!って
茹で上がったときに気付いたのよね。
めんつゆを代用できるめんつゆ的なものの家庭でキッチンにあるかな?って思ったけど、
青しそドレッシングは試したけどなんか違うし、
私たちは調味料の中でも特に醤油を信じすぎているのと同じように
それはやはり麺つゆの代わりには使えなかったのよね。
素の麺をすするという涙ぐましい麺食だったんだけど、
今思ったらよ、
今思ったらパスタのレトルト青の洞窟的なものをかけて食べたらそれはそれで
青の洞窟として名高いなんか美味しいパスタ的に食べられるのかなって
今これ書いているこの今の瞬間に思ったわ。
そっか!
もう万事休すはゴメンよ。
今後そういう事があってもレトルトのパスタのソースで強くなれるので試してみれたらなって思うわ。
だけど、
もう当たらし麺つゆをチャージしてインして冷蔵庫にストックしていて冷えたら10秒チャージでお猪口にいれて麺を喰らう準備は出来ているから
そんな機会は当分先なのかも知れないわね。
納豆のさ
あの美味しいタレは最悪、
さすがのあの美味さ爆発の麺つゆの再現性は麺つゆをもってしても難しいわよね。
あれ白だしあるんだけど、
そう言うのを駆使しまくって
麺つゆに限りなく近い麦茶ではない本当の麺つゆに間違いないようなあの味って出せるのかしら?って思ったわ。
まあ麺つゆ切らさないことがそれが一番って
麺つゆ切らさないように今後気を付けるわ。
うふふ。
鮭好きなのよね。
今はなき内田裕也さんがケータリングのお弁当のリクエストで鮭な!ベイビーって言うぐらい好きだわ。
鮭もピンキリなので
美味しい鮭弁の鮭にあたったらその日1日ハッピーよね!
鮭おにぎりの鮭はほぐし鮭だけどね。
朝少しお寝坊した代償だわ。
夜は早く寝るに限る、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ネタバレなし。というかネタバレになる程の新展開はそんなにないかも。
全体の感じとしてはアニメの総集編と、更に解釈を分かりやすく付け加えてくれているような、エヴァでいう簡易版まごころを君に的な印象を持った。ああ、この感じ方で監督の言いたいことは間違ってなかったんだ的な。
銀河鉄道の夜未履修だし、色々詳しいことはわからないけれど、何だか人によっては救いのない作品なのかなと。
「例え運命がすべてを奪ったとしても、一度でも愛してると言われた子供は幸せを見つけられる」
と言っているように、この物語の大まかな結論はこれに尽きると思う。
生まれに恵まれなくても、環境に恵まれなくても、レッテルを貼られた人生でも、愛し愛される事で救われる事があると。
その通りだと思う。自分も結婚してて、幼少期とかあんまり恵まれた子供じゃなかったけど、今は愛し愛されて幸せ。
でもふと、愛し愛される相手を見つけられてなかったら?もし相手が死んでしまったら?と画家を前にしているような気持ちになる事があって。この今の幸せはただただ幸運に恵まれただけのラッキーと思っている。
じゃあ乗り換えできてなかったら?また呪いのレールに乗ってしまったら?そんな事誰しもにあり得る出来事だ。
そんな時にこの物語を見たらどう思っただろう?
愛がないと幸せじゃないのか?
愛を見つけられないのは産まれと同じくらい運のなす偶然であり、不条理ではないのか?
愛し愛されない人は来世に期待ってこと?
こんな感情だと思う。
ウテナ時代から幾原監督の作品は見ているけど、どの作品にも総じて愛(自己愛、他人からの愛)が重要なキーワードになっていて、幾原監督は愛を訴える人なんだなと。
それと同時に、監督も愛も平等ではなく、世の中が不条理である事を痛感していて、あえて完全にみんながハッピーになれる訳ではない、考察の余地の残る着地が常なのかなと。
昔はこうやって、良し悪しのはっきりしない、考察しがいのある作品を好んだけれど、大人になると現実を突きつけられているようでちょっと苦しくなる。名作という点に異存はないけれど。
感じるところはあれど、見に行く甲斐ある作品でした。トリプルHの歌声を映画館で聴けただけでなんかもう感慨深かった。
そろそろ上映数が少なくなるので、気になってる方は是非に。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3920s
Sara Ahmed, "You Are Opressing Us!"
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うためのプラットフォームを与えられ続けたり、あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。しかしそれだけではない。そこであなたが目にするのは、権力のメカニズムなのだ。」
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める欲望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な言語行為が次々と述べられるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだという証拠を望んでいるから、である。」
この枠組みを非常に早い時期に的確に指摘したのが、イギリスのフェミニストとして知られるSara Ahmedです。
2015年のブログ記事でAhmedは、ガーディアン紙に掲載された、これ別の書簡なんですがこれも公開書簡です、
「個人に対する検閲や口封じを許すことはできない」というタイトルの公開書簡を取り上げます。
トランスジェンダーについてあるいはセックスワークについて特定の批判的見解を持つフェミニストたちが、
大学で沈黙させられているというふうに主張するものでした。ちょっとここ分かりにくいんですけど、
2015年の英国のこの文脈では、沈黙させられているというふうに主張しているフェミニストたちというのは、
階級的にもそれからジェンダー・モダリティという点でも、いわば多数派の側になります。
Ahmedは、公開書簡で取り上げられている例というのが実際には、特定の見解を理由にした検閲だったりノー・プラットフォーミング、
ノー・プラットフォーミングっていうのはイギリスの運動なんですけど、
イギリスの学生運動の中で採用されてきた戦略で、非常に危険で受け入れ難いと見なされた見解とか信念、それこそネオナチとかです、
そういうものを公開する機会そのものを提供しない、そういうのがノー・プラットフォーミングといわれるんですが、
ただAhmedは、この公開書簡で取り上げられている例が実際には、
そういう検閲とかノー・プラットフォーミングには当たっていなかったということを、事実を確認した上で、
にもかかわらずこれをあえて、キャンセル、検閲、口封じ、ノー・プラットフォーミングという形で主張することで、
これAhmedの引用なんですが、
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うために
そういう発言をするためのプラットフォームというのを実際には与えられ続けていたり、
あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時に、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。
しかしそれだけではない。そこであなたが目にしているのは、権力のメカニズムなのだ。」。
検閲され口を封じられたはずの側がより力を獲得する、そういう目的のためにされていると。
だからこそ、検閲され口を封じられること、言い換えればキャンセルされることというのは、ここではむしろ求められている。
キャンセルされたいんですね、どっちかっていうと。
次の引用ですが、
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める希望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な」、これoffensiveですね、「侮辱的な言語行為が次々となされるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、
他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだというその証拠を望んでいるから、なのである。」。
だからキャンセルされると、そのキャンセルされた人ということでどんどん力が集まって、むしろキャンセルされたい。
キャンセルされるために、より侮辱的な、よりoffensiveな言葉が発せられるという、そういう仕組みができてるというのが、
Ahmedの見立てなんですね。
「この書簡は、フェミニストの発言は自由になされるべきで、健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、と考えている。しかし、トランフォビアや反トランスの発言を、ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消するべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、対話などしようがない。あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議や対話」をするとしたら、「討議や対話」はそれ自体が抹消のテクニックになる。特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」
学問あるいは言論の自由というものを支点とした、抑圧側と被抑圧側の逆転の構図、
表現を変えるのであれば、抑圧されて周縁化されてきた側からの異議申し立てを封じるための口実、
今日の報告では、90年代からこの図式が少しずつ洗練されつつ引き継がれた様子っていうのをざくっと見てきたわけですが、
その図式が現時点で到達しているのが、自由が侵害された口を封じられたという主張が、
実は封じられることもなく自由に繰り返され拡散されることで、力をさらに獲得している、
クリックとアルゴリズムの時代のキャンセル・カルチャーというパワーメカニズムだ、ということになります。
だからこそ私たちは、国家や強力な組織、経済あるいは社会規範の要請などから、学問の自由というものを守ると同時に、
現代の今2022年時点の学問の自由というのが、もろ刃の剣であること、学問の自由の特定の利用には警戒すべきであるということを、
忘れてはならないと思います。
最後にこういう自由の濫用というものをサバイブするためにAhmedが提唱した戦略を引用して、私の報告を終わりにしたいと思います。
健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、というふうに考えている。
ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。
食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消すべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、そこに対話など存在しようがない。
あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議あるいは対話」をするとしたら、
特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」。
ありがとうございました。
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
認知症の兆候が歩き方で分かる 高専生が開発、付いた評価は10億円
https://news.yahoo.co.jp/articles/08fea4ceb422e5875a129cf8d911a1bc6f69f5b4
この発明を絶賛している人達の考える事…早期発見で対策が出来て当人も介護者もハッピー
実際に起きる事…診断された事による社会的排除、絶望による認知症発症の早期化、自暴自棄による犯罪の増加
https://www.kantei.go.jp/jp/kakugikettei/2006/0516seimukan_pt.html
これ……首相官邸HPに載っている『あったかハッピープロジェクト』とやららしいけれど
釣りサイトじゃないかと疑うくらいに直球ストレートでヤバかった
「今日の深刻な少子化の原因の一つとして、過度に経済的な豊かさを求め、個人を優先する風潮があると考えられる。家庭生活よりも職業生活を優先させ、個人が自らの自由や気楽さを望むあまり、生命を継承していくことの大切さへの意識が希薄化し、「結婚しない」あるいは「結婚しても子どもを持たない」方が、経済的、時間的な制約に縛られることがより少ないという考え方を背景に、非婚化、晩婚化、少子化が進んでいるという側面は無視し得ないと考えられる。」
って、初っ端からまるで統一協会の教義じゃないかと思うくらいのカルト文だし
平成18年の文章とはいえ取下げられもしてないって事は政府の思考は今も多分このままだよね……
実際、『教育と愛国』という映画を見たところでは子供達への教育への愛国心の植え付けや個人主義の否定って明らかに平成の頃よりも今の方が強くなっているし
返す返すもこういう状況で子供を産む人達の気が知れないんだよなあ
この国において、子供を産むという事はこういうカルトな価値観を子供達に植え付けるという事、それをよしとするという事。
やっぱり子持ちはそれだけで人間失格だと思うわ