はてなキーワード: オカマとは
まあ普通に自分が見たくないものを出すな!っていう怒りなんだけど、フェミニストの人たちってこれがやばいことを理解できていないっぽい
気に入らない(本人たち的には苦痛)からって、何でも排除できてたらダメだろ
今回の交通安全動画の登場人物が筋肉ムキムキのオーバーオール着たゲイだったとして、オカマ野郎を公共の動画に出すんじゃねー!って怒鳴るおじさん連中が出たらヤバいのわかるやん
自分が嫌いだからって、排除したらヤバいんだけど。そういう差別が発生してるの認識できていない
長年の男女差別のせいで怒りまくって知能が低下してるんだろうけど
まーバカが自浄作用で治ることなんてないので、取り返しのつかない暴挙に出てボコボコに社会的制裁受けるまでこのアホくさい流れ止まらないんだろうな
ネトゲのドラゴンクエスト10は自分の外見を概ね好きに選べる。もちろん、男性プレイヤーが女性アバターを使っても女性プレイヤーが男性アバターを使っても何の問題もない。
男性アバターを使っているのに女性向け装備(有り体に言えばスカート)を着ているキャラクターが相当数いるのである。つまり、オカマがいる。
元々このゲーム、同じ装備でも男性向けと女性向けでデザインが異なることがあり、男性向けデザインは男性アバターのみ、女性向けデザインは女性アバターのみしか着ることができなかった。
それがユーザの声で緩和され、それ以降の装備は男性向けデザインでも女性アバターが着れるし、女性向けデザインでも男性アバターが着ることができるようになっている。
そして、男性向け装備を着ている女性アバターのキャラクターは滅多に見かけないのに、女性向け装備を着ている男性アバターのキャラクターはそこそこ見かける。そうした男性アバターのキャラクターは大抵筋肉隆々のオーガという種族であり、さらに女性口調だ。要約するとガチムチのオカマキャラということになる。
私は今までジェンダー自認の問題は体と心の性が一致しない人の苦しみなのかと思っていたけれど、自分のアバターを自由に選べる世界で男性アバターを選択しわざわざオカマを演じるのは、体と心の性が一致しないという観点では理解できない。それを一致させることのできる世界において、あえてそのようにしないでいるのだから。
しかし分かるのは、かの人々にとってそうした自分の姿がおそらく理想の姿なのだ。
さらに、かの人々の中の人(つまり、プレイヤー自身)の性別は分からない。
オカマを演じる男なのかオカマを演じる女なのかオカマを演じるオカマなのか分からないということだ。
「趣味や好む物に文句を言われない自由」を「表現の自由」と呼んでいる人もいる印象、とか
「ロリ」「グロ」「エロ」の趣味趣向の邪魔をするな、で片付いてしまう、とか
エロ系オタクがまた叩かれてて、一部界隈では規制して当然みたいになってるのだけど
「害がある!」言うてるけど、理由的に「嫌い」以上の論理が出てきてないように思える。
昔、ばあさん、じーさんが生きてた頃、
ばあさんは「黒人怖い!嫌い!」と公言し、黒人を近くで見たときは「傷ついて」たし、
じいさんは「オカマなんぞ、この家に絶対入れない」て「恐れてた」し、
で、LGBTも「認めるけどこそこそ生きろよな」なんてお前ら言わないじゃん。
ふらっと見たロボとーちゃんが期待より面白かったからまだたくさんあるしなんか見たい。
見たことある作品とか書いとくので暇ならおすすめ映画あげてくれい。
大人向けのわかりやすいパロディとコピー人格にありがちな葛藤がほぼなくとーちゃんに対しても終始自分がとーちゃんだと張り合ってたロボとーちゃん、しんちゃんとみさえの対比とかがよかった。
ホラーとコメディのバランス、同居感がすごい好き。世代で録画してたから一番見てて好きな映画。
ラストバトルのぼんやりとした記憶しかないけどオカマが好きだった気がする。
パラダイスキングと猿のキャラクター、格闘シーンがとてもよかった。
あと小桜エツ子が好きなのでミミ子くんが出ると加点です。
大人がいなくなったときの子供だけの無政府状態感とひろしの無声演出?が好き。
タイムスリップと戦国時代は好きだけどしんちゃんで見たい話じゃなかったな。
ストーリーにヤキニクロード関係ないなこれ…ってずっと気になって終始ノれなかった。
並べると思い出補正っぽいけどリアタイはたしかヘンダーとオトナ帝国ぐらいか。
雲黒斎とブタのヒヅメはよく話題にあがるから見ようと思いつつずるずる見ないままに…
カスカベボーイズは当時かすかべ防衛隊がメインっぽいから避けてて、あとのタイトルはキービジュアルもわからない状態だな。
LGBTとは何か?の説明を今更ながら引用させていただきます。
「LGBT」とは:レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(性同一性障がい者を含む、心と出生時の性別が一致しない人)アルファベットの頭文字を取った言葉
とされています。ここにQueerやQuestioning(クイアやクエスチョニング)のQも加えて、LGBTQは「性的少数者の総称」として用いられることもあります。
以前から、LGBTに対しては男性より女性の方が寛容的で理解を示す人が多い傾向にありました。それを即ち「女性が性的少数派に対して一切の差別をしなかった」とまでは言いません。
ですが、「ホモとか気持ち悪い」「お前オカマかよ」など、同性愛者やトランスジェンダーに対して直接的な中傷・侮蔑的な言葉を浴びせる人は男性が目立っていました。覚えがある人も居るのではないでしょうか。
では女性はどうでしょうか。上でも書きましたが、傾向の話ではありますが積極的にレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーを侮蔑しコミュニティから排除しようとする動きは女性にはあまり見られません。
むしろゲイやオネエなど性的少数派の人々と積極的に交友関係を結び、性的少数派の人々を理解しようとする女性は昔から数多く居ました。
これは、平均的に女性が男性より異性愛規範によらない人々への抵抗感が少ない事と無関係では無いでしょう。
かつて「エス」と呼ばれた女性同士の友情とも恋愛とも取れる強い絆を尊ぶ文化・文学がありました。今では「百合」と呼ばれ男性も好むジャンルになっていますが、かつては女性に深く愛された文化でした。
現代でも宝塚歌劇団など、主に女性による女性だけの世界を愛好する女性は少なくありません。例え自身が同性愛者でなくても、同性愛に対する理解を持つ女性は決して少なくありません。
それは近頃の男性が忌み嫌うボーイズラブというジャンルを女性は古くから受け入れて親しんでいる事からも見てとれます。「愛情があるなら性別など障害にならない」という理解がそこにはあります。
しかし、最近LGBT界隈で一つに議論されている事があります。
それは
というとても難しい問題です。
性自認は本人の認識によって決定される物なので、性自認が女性なら肉体が女性でも男性でも「女性」として扱うべきだという考えは近年になり広まってきました。
トランスジェンダー女性とは、肉体的性別は男性で精神的性別は女性である方を指す名称です。昔から「オネエキャラ」と呼ばれるタレントさんが活躍してきた事は皆さんはご存知だと思います。
彼女達は男性の肉体を持って生まれましたが、自分達は女性であると認識していてそのギャップに苦しんでいます。
当然公衆浴場やお手洗いなどで同じ空間に居る男性に自分達の体をじろじろと見られる事に耐えがたい苦痛を感じています。プライベートな場所で異性に体を見られる不快感は、万人が共通する物でしょう。
なので、トランスジェンダー女性が公共の施設で男性用のスペースではなく女性用のスペースを使いたいと願うのは、当然の事だと思います。
しかし、「性自認が女性なら女性用の公共スペースを使って良いのではないか」というこの願いに、シスジェンダー女性(※)の間でも意見が真っ二つに別れる事になりました。
(※シスジェンダーとは、自分自身が認識している「心の性」と、生まれ持った「体の性」が一致している人を指す言葉である。シスジェンダー女性とは自分自身を「女」だと認識しており、サラに生まれ持った性別も「女」である人の事)
「例え性自認が女性でも肉体的に男性である事に変わりはない。男性の肉体を持った人が女性用のスペースを使う事は女性に恐怖と苦痛を与える。トランスジェンダー女性は女性用スペースを使わないでほしい」
「例え肉体が男性でもトランスジェンダー女性の心は女性であり、女性として認められているのだから女性用のスペースを使う権利はある。それを一方的に拒絶するのはトランスジェンダーに対する差別に他ならない」
一行に纏めるとこういう感じかもしれません。細かいニュアンスなどは色々と異なっていると思うので、気になった方は是非トランスジェンダー女性について調べてみてください。
シスジェンダー女性の中にはトランスジェンダー女性が女性用のスペースを使う事に拒否感を持つ人が少なからず居ます。
しかし、だからと言って彼女達がトランスジェンダー女性に理解を持っていないという事ではありません。肉体の性別に関係なく、女性同士良き友人として付き合っている人は沢山居ます。
シスジェンダー女性が恐れるのはトランスジェンダー女性の「心の性」ではありません。ジェンダーに関係なく、女性を恐れ苦しめているのは「男性」という「体の性」なのです。
そもそも、トランスジェンダー女性が男性用スペースに抵抗感を抱き女性用スペースを使いたいと願うのも、男性用スペースを利用する「男性」の目線が怖いからという理由があります。
精神的には女性だと分かっていても、肉体の性が「男」である人が女性用スペースに居る事に、どうしようもない生理的な恐怖感を覚える女性の数は少なくはありません。
また、自らトランスジェンダーを称し女性用のスペースに入り込み、女性に性暴力を加えようとするシスジェンダー男性がこれから幾度となく現れてるであろう事は想像に難くありません。
そして、トランスジェンダー女性とシスジェンダー男性を本人の申告以外で区別する事は現状不可能に近く、親しくない間柄の女性が肉体的男性の性自認を判別する事は非常に困難です。
トランスジェンダーの難しい立ち位置について多くの女性は理解しようとする姿勢ですが、今のところ女性用スペースはシスジェンダーとトランスジェンダーの女性が共存出来るほど広くはないのが現実です。
『LGBT』を理解し正しい認識を持っていても、『トランスジェンダー』を受け入れる精神的・物理的余裕があるとは限らない事がこの悲しいすれ違いを生んでいるのかもしれません。
トランスジェンダー女性が公共施設の女性用スペースを利用する権利は現在のところ認められていないケースが多い、というのが正直な所です。
その代案として「男性用でも女性用でもないトランスジェンダー用の利用スペースを作ってはどうか?」という物が良く挙げられています。
例えばお手洗いならば、利用者の性別を限定しない多目的トイレが近頃徐々に増えてきています。これは性的少数派の人に対する配慮が行き届いた結果と言えるでしょう。
「トランスジェンダーを第三の性として男性にも女性にも分類しないのはそれ自体が差別だ」という声も勿論あります。
肉体的性別と精神的性別の乖離に苦しみ、それでも自分の性別はこちらだと選んだトランスジェンダーの人々に「貴方達は第三の性なので既存の性には当てはまりません」と告げるのは残酷でさえあると思います。
性別に関係なく、性的少数派であるLGBTの人達にも生きやすい社会を作っていく事が、二十一世紀を迎え20年を過ぎた人類が新たに実現しなければならない課題なのかもしれません。