はてなキーワード: 文明開化とは
昨年急に浮世絵に目覚めた人です。
http://anond.hatelabo.jp/20150815210249
これに対して、
http://anond.hatelabo.jp/20150816024827
こんなエントリを返してみたのだが、風景画などに比べると、人物画は、少なくとも浮世絵というジャンルにおいては、日本は独特の様式で進化してるように思う。
ここで、それについて説明していきたい。
日本人のアイデンティティに関わる部分が多く、絵だけでなく、できれば安保やSEALsにも話を展開できればなんだが、とりあえず筆にまかせて書き綴っていく。
ここで、見てもらいたいのは、ルフィが市川猿之助に似ていないこと。
なぜだろう?
「なにを言っているんだ?」「ワンピースの絵でありゃよくて、役者に似せる必要などないだろ」
その通りだ。
ワンピースであることが大事であり、尾田絵であることが大事であり、役者の顔など関係がない。
ナミもロビンもオッサンが演じるわけだが、オッサンにする必要はないのだ。
役者絵とは、舞台看板に由来するため、元来似せる必要がなかった。
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狭い意味で言えば、鳥居派の絵こそが公式な絵、ワンピースで言えば尾田の絵であり、この後隆盛を誇る勝川派や歌川派の役者絵は、非公式なアンソロジーみたいなものである。
絵はすなわち、歌舞伎の様式美、世界観、江戸の空気を体現したものではならない。
ゆえに、役者絵に描かれる人の顔は、あのように似ていなかったのである。
似絵、似顔絵という、役者に似せた絵にたどり着き、2人の共著の一冊の絵本は世界を変えた。
勝川春章
この二名のうち、勝川春章のほうは歌舞伎の世界観、様式美との調和に成功し、商業的にも成功、多数の弟子をとり、勝川派という一派が出来る。
http://data.ukiyo-e.org/aic/images/95101_482279.jpg
顔のみならず、肢体まで正確なデッサンを基本に描いているのがよくわかる。
歌舞伎の雰囲気をそのままに、デッサンは正確、一世を風靡する。
彼は印に「画中造化」(造化とは造物主、天地の法則のこと)を用い、絵の中に神を宿すという気概があったんじゃないかと俺は思う。
ちなみに、葛飾北斎は勝川春章の弟子であり、若い頃は勝川春朗を名乗っていた。
面白いことに、この顔を対象に似せて描くというムーブメントは、男性の顔に対してだけである。
http://ginjo.fc2web.com/208sanoyama/tanikazw_otaki.jpg
歌舞伎の女役ならば、オッサンにするわけにいかないのはわかるが、町娘書く場合であっても、テンプレ顔。
正確にはテンプレ顔のなかにも表情はあるのだが、男性がデッサンを基づく顔で、立体造形は可能なのに対し、女性の顔はおそらく3D化できない。
スネオの髪型やカイジのの顎ほどではないが、この顔は立体造形が難しい。
女性の顔については、この後に続く喜多川歌麿については外すことができないのだが、こんかいのエントリでは男性の顔に主題を起きたい都合上、また別の機会にかかせてもらう。
続いては、やはり東洲斎写楽と歌川豊国について触れないわけにはいくまい。
先に写楽に触れよう。
東洲斎写楽、聞いたことはあってもなにがどう凄かったのかを説明できる人は少ないと思われる。
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http://torinakukoesu.cocolog-nifty.com/blog/photos/uncategorized/2010/03/13/sc153602fpxobjiip1.jpg
Webで調べると、「強烈なデフォルメ」と表現されるが、簡素な線は実は正確に人の顔を捉えている。
小鼻の膨らみから、顎の厚みから、少し線を書き足すだけで全て補完可能で、輪郭線の修正は必要ない。
芝居小屋の闇を表現したかのような黒バック。この黒バックは光を当てるとキラキラと光る仕様になっていて、芝居小屋の闇の中で白塗りの人間にスポットライトがあたったような臨場感を醸し出している。
実際、写楽は売れなかったらしい。
なんの実績もないし素性がわからない新人が豪華なデビュー、しかも大コケしているにも関わらず次々と新作発表。
よくみると上手いのにぱっと見で下手、よくみると下手なのにぱっと見では上手い、正確なデッサンの部分があるのに、全体だと崩れた感じ、当時の常識ではありえない色彩感覚、いまだに正体は謎である。
ところで、写楽は商業的には失敗だったが、画家たちへの影響は確かにあった。
写実とデフォルメの高次元の融合、舞台化粧、舞台の緊迫感を受け継いだのは、たとえば
歌舞妓堂艶鏡
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http://dejimashoten.sakura.ne.jp/bookimages/359787.jpg
歌川豊国の役者絵とは、ひらたく言えば二次元絵、アニメ漫画の絵の祖になる。
勝川派の始めた写実の路線から、再び二次元絵に舵を切ったとも言っていい。
http://data.ukiyo-e.org/ritsumei/images/Ebi0124.jpg
歌川派の役者絵は、わかりやすく言えば、たとえ横顔だろうと、正面から見た顔のパーツをつける。
http://data.ukiyo-e.org/mfa/images/sc214417.jpg
この流れは、幕末までずっと加速し、圧倒的な作画量を誇る国貞(実質の三代目豊国、自称二代目豊国)、幕末の豊原国周まで続く。
末期がどんなになったかといえばこんなだ
http://data.ukiyo-e.org/mfa/images/sc169830.jpg
さてさて、文明開化で圧倒的な強さを誇っていた浮世絵の様式、というより歌川派の様式の人気に陰りがでる。
人物画にふたたび写実との間でゆれうごく。
最後の浮世絵師と言われた彼の晩年は、西洋画の技法を消化し、浮世絵にした。
晩年ともなると、このような感じ。
http://data.ukiyo-e.org/scholten/images/48cf87c54075046c12f9df3e790f5dd9.jpg
http://data.ukiyo-e.org/metro/images/1594-C051.jpg
絵の上半分の人物の顔は、見えるであろうその通りに描かれている西洋式の絵。
下半分の人物の顔は、正面から見た目や口を横顔に貼り付ける歌川派の様式。
どちらかと言えば、下の絵のほうに力強さ、人間らしさを感じるならば、我々はなんだかんだいっても二次萌えの血が流れる日本人である。
劇画調の漫画は、写実から離れ、劇画という絵のジャンルが出来る。一見すると写実的なようだが、立体造形は不可能。
人物の描き分けも出来ているようで出来てない。あるいは意図的にしない。例を上げるとシティーハンター。
デフォルメしつつも、デッサンもしっかり、例を上げるとドラゴンボールか、であったが、デフォルメだけを受け継ぎ、骨格はデタラメOKになる。
人物はデフォルメでも、背景描写はパースを重視するのも浮世絵的。
っと、ここまで書いてみたものの、安保につなげられる気がしねぇのでここまで。
ちゃんとした美術史や絵の解説書から学ばずに、webの知識と年表と絵の印象だけで語ったんで、間違いもあると思うんで、指摘してくれると嬉しい。
たとえば北斎も肉筆だと
http://fast-uploader.com/file/6995210605446/
こういう写真かよ!っていう絵を描いているんだ。
なんで生首?
うーん、ほら、生首の絵の扇子で扇いだら涼しくなりそうじゃん(笑
単体ならっていうのは、透視遠近法みたいな絵がないっていうことかな?
有名な冨嶽三十六景は70代の作品だが、30代で既にたとえばこんなやつがある。
http://fast-uploader.com/file/6995210740539/
カンペキだね。
これと似たような構図を年代順にならべてやる。
http://fast-uploader.com/file/6995211010479/
70代
http://fast-uploader.com/file/6995211188891/
これ、よくみると、消失点が1点にならない。
左右の橋の梁の平行線を伸ばしてぶつかる消失点は水平線の彼方、両脇の屋敷の屋根の平行線を伸ばしてぶつかる水平線は橋の下かその少し奥。
これが、忠実な一点透視だったらつまらない作品だったとおもわん?
絵の中に動きがあるのは、ちょっと崩れてきてるおかげ。
80代
http://fast-uploader.com/file/6995211441686/
ぱっとみ同じ構図の一点透視のようで、二点透視にも見え始め、仰ぎ見てるようにも見えたり見下ろしてるようにも見え、ってことは三点透視かとおもいきや、そもそも透視図法(平行線がいつか交わる)じゃなくて投影図法(平行線はどこまでも平行)なんじゃないかと見える。
一番手前の人物にフォーカスを合わせるとそういう絵になり、その奥の人物にフォーカスを合わせても絵としてなりたち、人物を辿ってるうちに奥に奥にと視線が誘導され、そのたどる先には富士山。
多重視点というのは、「ピカソの絵は右から見た絵と正面から見た絵が合成されていて」みたいな説明をされるあれ。
ピカソの作品はそれだけじゃなくて、いろんな意味で工夫させすぎてて、話が脱線してしまうので、わかりやすくキリコ
http://www.geocities.jp/syu_58jp/we2/1.JPG
この絵のようなやつ。
http://www.geocities.jp/sakushiart/bizu/251.JPG
線遠近法的に忠実に描くと、
http://www.geocities.jp/sakushiart/bizu/252_4.JPG
こうなる。
人物やモノ画中にたくさん配置して、奥のモノ、人物は小さく、手前の物を大きく描くことで絵の中の遠近を表現するっていうのは、基本ではあるが、
それをやめて、横一列に均等に配置することで、絵にリズムが生まれる
これについても、似たようなことを既にやってる北斎
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-94-64/otyaken_suki69/folder/1050996/44/47018044/img_8?1382279701
なんというリズム感。
これ、どこがおかしいかわかる?
シャチホコってさ、近くで見ると当然巨大じゃん。そうしたら、本当は
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0a/The_Great_Wave_off_Kanagawa.jpg
波をシャチホコに置き換えたら富士山はこのくらい小さくないと絵としておかしい。
この構図になるのは、望遠レンズでズームで覗いてるという設定の絵だっていうこと。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201011/22/10/b0111910_1061561.jpg
http://tenkijuku.com/qa/kisyoudai/hugoku.jpg
当然もう残っていないけど、百二十畳の巨大な紙に、高いところからみないとなんだかさっぱりわからん巨大な絵とか描いたっていうんだ。
そういう高いところからみないとなにを描いているんだか本人もわからない絵というものは、「この座標でこの角度で線を曲げて」っていう座標の概念がないとどうやっても描けないわけで。
北斎というと、80過ぎてるのに110歳くらいまでの人生設計(当然自分の画力について)を立てる貪欲さで、当時の平均寿命の倍くらい生きてるのに死ぬ間際に「まだまだ描きたりねぇ(意訳)」といって死んだというエピソードが有名なので、描いて描いて描きまくったというイメージが強い。
しかし、その実際は、それプラス、数学も物理も幾何学も絵に応用して、古今東西、みたこともないものだろうと文献調査だけで描き(中国くらいならまあ、古代インドとかどうやって描くんだよ!!見たことないはずの象を右からも左からも正面からも後ろからもかけるとか、どうかしてる。)、漫画の効果線やトーンのかなりを発明し、その後の絵画の歴史で発明された技法をその100年前に実験しつくし、鎖国の時代なのに西洋の銅版画や油絵の解説書をつくり、中国画の技法も日本画の技法も操り、いうなれば、異星人。
まあつまり、線遠近法は北斎より少し前の時代に入ってきたんだが、カンペキに理解をしたのが北斎。
自在に使いこなし、それを捨て去り、違う境地、もう前衛芸術の実験のようなレベルに高めたのが北斎。
その後は幕末、文明開化で西洋画が入ってきて、もう一回遠近法ブームが起きて、
みたいなムーブメント。
油絵が始まり、浮世絵(版画)の絵師たちもそれに近い木版画を作った。
初めてやったのは小林清親って人で、水彩画風の版画、ついには油絵風の版画まで辿り着くが、結局彼の画風はいわゆる浮世絵的な絵に戻る。
写実的(性格な遠近法、陰影表現)ってのは、いちどはそれに熱中する麻疹みたいなもの。
その後の時代だと、吉田博、川瀬巴水とかが水彩画のような木版画で有名だが、小林清親は浮世絵の構図、モチーフを水彩画の手法、油絵の手法で再構築した感じなのに対して、吉田博、川瀬巴水は洋画を木版画にしましたって感じだから、浮世絵や日本画の子孫じゃあないと思う。
吉田博
入れたりのか入れられたいのか?
僕はどんなホモも、基本は入れられたいと推測してるのだけど。
(愛の方法とは色々とかは置いといて)
さらに生物的に危険で、女子にやられるにしても信頼できる好きな女子にされたいのだけど、
ホモの人は入れるも入れられるもお互い様だから負い目がなくてチンコ結合が挨拶代わりのイメージなんだ。
いいよなー。先に入れなよ!って肛門開いてたら性欲は満たされっぱなしじゃん。
ノンケはチンコ入れさせてもらうんだから、そりゃ逆の立場だったら、先っぽだけとかありえんわ。
って納得したりして。でもホモは無いんだよね?
処女だからチンコ入れない恋愛を3年間したけど、やっぱり入れちゃってから3ヶ月後に29歳で自殺者ちゃった。
ミスチルの櫻井が「日本一になっても、そこには何もなかった」って言ってたけど、
僕はただ入れたくて彼女がそれなりに大事にしてたものを僕にくれたのだけど、何もなかった。
ひと昔前の話だけどいまでも彼女が好きだ。死に別れだからじゃないと思う。
生きているならいつか。なんて考えてると死んじゃうよ。チンコも勃つうちが華だし女は愛されてこそ。
ホモどうでも良くなっちゃった。17歳の女子が「お掃除お掃除はぁと」としてくれた時は頭が文明開化したけど、
ホモもするの?生でだよ?
ある種の復古文化に対して「古い」と批評するのがよく分からん。
「萌え」は新しい文化だと思われてるけど、望遠・輪郭強調や特徴を極端に描く傾向は浮世絵の時代から見られるし、用語自体が古典文学から拝借したもの。
あと、日本版メイドの前身である「ゴスロリ」の起源は萌えとは全く別で、V系のファンが文明開化期の西洋趣味を現代解釈しただけ。
ゴスロリの普及版が「メイド」だけどほとんど誤解の連鎖みたいなもん。
そのV系の起源の一つが日本の歌舞伎を真似したアメリカのバンドだったりする訳で、大きい流れの中では何が革新でオリジナルかというのは指摘し辛い。
人間がより快適に衣食住を確立するためには多少の犠牲が必要である。
先日、絶滅危惧種であるツキノワグマが放獣したにもかかわらずまた同じ場所に戻ってきたというニュースがあった。
あるいは、元々その場所がツキノワグマの住処だったのかもしれない。
もしも人間が熊の住処を奪っているからという憐みを見せる人がいれば、それは人間がこれまで行ってきた文明開化の否定になる。
しかしながら、元々熊の住処であった場所を蹂躙し山奥に放逐したのは誰か。
人間の勝手な思い込みで山奥に追いやられる熊が可哀想ではないか。
一方、熊が人間の住処に現れるのは場所を取られたという先祖の恨みを晴らすためでなく、山林山野の食糧が不足しているためである。
当然熊は怒るだろう。
だからと山奥に放逐するのだろうか。
あるいは、絶滅危惧種だから殺せないジレンマからそうさせているのか。
人間は熊に対してあたかも憐憫の心で以って熊を労わろうとするが、それは大きな間違いである。
根底には人間が熊の住処を奪ったという変えられようのない事実があり、それが妨げとなっているため、
道義的に助けるのが当然だとする人間自身に備わっている母性とか父性がそうさせているだけなのである。
本当に熊を助けたいならば、住処を奪ったなどと言い訳をせず、熊に十分な食糧を供給してやり、不自由なく暮らせるように図る事が大事なのではないか。
やたらと熊を殺すか否かで賛成派と否定派で争っているが、そもそも発想が弱いのである。
奪ったんだから返せとは必ずしも言えないのであり、それならば懐柔して彼らの言い分を認めるべきではないか。
あくまで人間こそが至上であるというならば、熊程度に恩恵を与えなくても良いが、少なくとも
古来の人は熊を神の使いとして崇拝してきた縁があった。
この事だけは決して忘れてはならないのである。
数はそれほど多くないのですが、賢哲とされる執政者もいました。
といっても英国は女性の先進国というべき、パイオニアが12世紀より存在していました。
彼女らによる為政がより多くの貧民を救い、また新しい文化を享受した事だと思います。
さるビクトリア女王時代には、数多くの植民地を平らげ、それに彼らの伝統的思想を蓄えさせた結果、
殆どの後進的国家では庶民が学を尊ぶといった文明開化が育まれていき、その政治の在り方に是非を考えるようになり、
また、わが国においても岩倉具視使節団などを経て富国強兵の手本としてきたのであります。
さらには東郷平八郎が英国留学中に学んだシチューを日本に持ち帰り、後日本の伝統的家庭料理となった"肉じゃが"を始め
女がパイオニアたる英国の文化が多く日本に根付いた事は今となっては感謝の言葉もありません。
その一方で、わが国は宗教を尊んでいました。
その一つが神道で八百万神を基本とするアミニズムや弥生期のシャマニズム(といっても元々は商王朝の請け売りですが)といった具合に
中でも神道においては女性を母なる産物を与える神の使いとして崇めていたことは当時の地誌であるとか神話体系であるとかに描写された事からもはっきりしています。
それだけわが国は古来より女性が先頭に立って政事を行う事が当たり前なのでした。
しかしながら、この試みは仏教伝来と共に立ち消えとなってしまうのです。
時は遡り明治維新に入ると吉田神道を軸とした復古神道から国家神道を尊ぶようになりましたが、これは女性神を崇める原始神道とは一線を課す仏教神道、すなわち神仏習合を軸とした新しい神道でありました。
その結果は、女性の人権を蔑ろにした男性による男性のための男性の政治であり、一時は富国強兵を成す事が叶いましたが、それも長くは続きませんでした。
つまり男性が政事を行って良かった事はあまりないという事なのですが、何故か女性が政治の場に立ち入らせなかった事が今日の我が国の社会形成に相成ったという主張がまかり通っているのですから不思議なものです。
反対に女性は平成時代に突入してもその権利義務は変わらず低いままなのです。
アメリカや英国などの先進国を見渡せば、女性が如何なる地位に昇っているかご存知の方も多いはずです。
しかしながら、わが国に限ってはこれまで女性がその社会の最高位に立ったことがありませんでした。
天皇家ですら明治以降男系天皇を本流してきましたので、女性がああだこうだというのは何等か齟齬が生じるかもしれません。
とにかくわが国の女性はそういう時代に生きて行かなくてはなりませんでした。
たかが性別が異なるというだけでわが国は不思議な事に女性を重要な地位に就く事を拒みました。あるいは恐れていたのかもしれません。
彼女は今日に至っては盗作や捏造疑惑で騒がれていましたが、それ以前からも彼女の人格や容姿をネタにマスコミは騒ぎ立てておりました。
これは彼女というよりも女性がそのような国を代表するような大事を成す事に苛立ったのかもしれません。
それが出る杭は打たれるが如しバッシングの嵐だったのでしょう。
とにかく今日の我が国というのはとにかく、女性が表舞台に立つ事を恐れているような節が見られます。
彼女は反日である、というのが今日の我が国の評価ではありますがそれ以前からマスコミは挙って親日家のパク・チョンヒ元大統領を褒めちぎりその娘であるパク・クネ大統領に対しては、
あくまで親の七光りといった評を下しました。
同じ様にこの間駐日大使になったケネディの末娘キャロライン氏に対してもそうでした。
彼女らは彼女ら自身の功績よりも父親の功績を以って評とされていました。
そういったマスコミや世論が女性に対して政治は男のモノで女は口出しするなといった風潮が垣間見えてくるというものです。
女は政治に向かないとどうして決め付けるのでしょうか?
まして2000年も以前より神道を尊んできたわが国ならば(他の先進国よりも長く女性を崇めてきたはずですが)、女性も表舞台で活躍するのが賢明であると判断しそうなものですが、やはり外来宗教がダメなんでしょうか。
本人が気にしているので私からは話題にしないし、帽子の下の秘密を事細かに知ろうと思ったこともない。
外出の際、背を向けてタオルから帽子にチェンジする時間は、こちらまで神妙な面持ちになる大事な儀式。
でもさそれにしてはさ。
寝ている時がノーガードすぎ。
タオル取れすぎ。
初めて見た時は、寝ぼけていたのか胡座かいたまま寝ていて、
処刑前の落ち武者みたいだった。
あの日わたしはチョンマゲが生まれた理由を知ってしまった。
天下分け目の戦いあっての現代ですよねとか
いろいろ気づきを得たけれども、彼の繊細な心にはなんの役にも立たない感想ばかり。
帽子が良く似合う人で顔も精悍だから、落ち武者状態とのギャップは激しい。
「ハゲていてもあなたが好き」と思うし、好きになった人がハゲていただけだし、一生一緒にいたいのだけど
でもやっぱり彼は私が何を言ってもそれなりに傷つくんだろう。
そして正直いうとそのツルッツルを心ゆくまで愛でたいし、ウフフッくらいは笑ってしまうと思う。
まるごと全部愛してるって伝えるのは、もう少し関係を深めてからかなぁ。
いつか気持ちの整理がついたら坊主にするみたいだけど、
彼は今日も寝こけてる。
中央集権の構造といっても南北朝や戦国時代見てもわかるように全然集権的じゃなかったはず。江戸時代だって藩ごとに統治されてたわけだし中央集権になったのってやはり明治からでは?それに北海道が松前藩の被支配地だから国外というなら天領以外はどこも各藩の被支配地なわけで国外といえてしまう。それにヨーロッパみてもわかるように陸続きだから同一意識を持つとも思えないし、実際歴史上日本列島内での戦争はしばしばおきてる。あと明治政府が義務教育で国語普及させるときに方言禁止とかやってるし文明開化でどんどん西洋の猿真似やってたわけで文化否定されたのはアイヌだけじゃなく日本列島全体じゃないかと。
http://anond.hatelabo.jp/20081209224326
将軍様が何十人もの妾相手に中出したり、農民から搾取して飢え死にさせまくってる間に欧米が産業革命・植民地主義政策で興隆して、黒船来て自分らが単なる極東の黄色土人だったことに気付いてビビッて欧米の猿真似で文明開化。日露戦争にイギリスの支援で勝ったが、それを自分らの実力だと勘違いして、調子こいてたらABCD包囲網で涙目、逆切れでアメリカに戦争ふっかけて本土空襲核爆弾でフルボッコされて敗戦。現人神天皇が命乞いして戦争責任取らずそのまま象徴として居座って、欧米の技術パクって、公害過労死で国民の命犠牲にしつつやっとこさ高度経済成長に突入するも、その経済発展をまたも自分らの実力と勘違いして、気付いたらバブル崩壊。それ以降は高度経済成長時に運良く築いた資産を食い潰すだけ。いまや労働生産性は先進国最下位、財政赤字貧困率トップクラスの落ちぶれ国家。
将軍様が何十人もの妾相手に中出したり、農民から搾取して飢え死にさせまくってる間に欧米が産業革命・植民地主義政策で興隆して、黒船来て自分らが単なる極東の黄色土人だったことに気付いてビビッて欧米の猿真似で文明開化。日露戦争にイギリスの支援で勝ったが、それを自分らの実力だと勘違いして、調子こいてたらABCD包囲網で涙目、逆切れでアメリカに戦争ふっかけて本土空襲核爆弾でフルボッコされて敗戦。現人神天皇が命乞いして戦争責任取らずそのまま象徴として居座って、欧米の技術パクって、公害過労死で国民の命犠牲にしつつやっとこさ高度経済成長に突入するも、その経済発展をまたも自分らの実力と勘違いして、気付いたらバブル崩壊。それ以降は高度経済成長時に運良く築いた資産を食い潰すだけ。いまや労働生産性は先進国最下位、財政赤字貧困率トップクラスの落ちぶれ国家。
まー、後半からの引用はやめるとして、ちょっと面白かった部分を引用しよう。
(太字は原文通り)
だいたい俺は顔がキモいわ。『電波男』で「俺の顔をキモがった女ども、ゆるさんぞっ」と
居直って叫んだら、とたんに「いやキモくないですよ」と言い出す女どもが現れたけど、
うるさい黙れ死ね黙れ。今までさんざんキモがっておいて、俺が被害者だ貴様らこそが悪だ
と告発したら今度は善人面かよ。どこまで都合が良いんだ!いいか貴様らは悪だ!もちろん
美少女や美人にしか興味がない俺も悪だ!ブスやオバハンに迫られてもキモいだけだ!そうだ、
人間の性、悪なりだ!しかし、自分が悪だという自覚がない奴ら、頑として己の悪を認めようと
しない人間こそが一番の悪なのだ!悔い改めない悪は、悪をやめることができず、悪を自覚
しないものは悪を積み重ね続けるのだ!そして良心の呵責すら感じないのだ!偽善者め!
で、悟空はフリーザ倒すんだけど、これってもともとは猿(アジア人)だった悟空が文明開化
の後に人種的にも進化して「白人」になれました、っていうお話なんだよね・・・・・・。白人至上主義
的な人種進化論なのだ。だからヨーロッパやアメリカで受けるのも当然なのだ。
もちろん、日本でも馬鹿ウケ。『AKIRA』は「日本人は超能力を持ってしてもアメリカには
かなわないよトホホ」というイヤな現実を描いてしまった。しかし『ドラゴンボール』はその先を
行った。
「だったら、オラが金髪碧眼のアーリア人に進化しちまえばいいんだ」
誠にその通り!ただし、マイケル・ジャクソンもそう考えてあんな大変な顔面になってしまった。
という感じで、面白かったのだけど。
まだ頭の中がまとまっていない感じで、整理された感想というのが思いつかないのだが、女性もなかなか大変だというか、なんらかのロールモデルを提示しないとまずいのでは?という感じがした(一応、この本は喪女もターゲットに入れているみたいだが)。「負け犬の遠吠え」はまだセレブ感があったと思うが、現実はもっと悲惨なのではないかと思うから。
オリンピックは失敗させるべきではない。
確かにチベットの問題や公害の問題。中国には酷いところが山ほどあり先進国からすれば看過できない。
だが、それでもオリンピックは失敗させるべきではない。
中国の国民は他国にどのような国があるのかも知らないし、そもそも自国で何がおきているのかも知らないのだ。
情報もないまま適切な判断などができるはずもない。
日本にいる我々や海外からすれば抗議行動がおきたそこに至るストーリーを知っている。
だが、中国人は知りえない。
まず我々がすべきなのは相手の国に文化をもって乗り込んでいって文明開化をおこさせることだ。
そのためには中国全土に放映されるオリンピックが報道されるのは大きなチャンスだ。
いままでの中国では日本でいえば柔道クラスのいつも金メダルを取れる競技しか国民は知りもしない。
だが、オリンピックが国内で開催されれば、そこで中国以外の国がどれだけ金メダルを取っているのかに触れる。
世界にどれだけの国があって競い合っているのかを知ることができる。
卓球が世界の中心競技ではないことをいくらいって聞かせたところで実感させることはできない。
世界から多くの観客が集まり列をなす様をみて初めて卓球ってそれほど注目されてないんじゃね?と感ずることができる。
中華思想に懐疑心をもたせる。
オリンピックをやるということは、これ以上ないチャンスだ。
そのためには無選択に情報に触れられる必要がある。
柳田零落した神モデルの。
そもそも芸能者は「あちら側」と「こちら側」の境に立つ異人なわけで。
それをヤクザ=神人が取り仕切ってた、っていうのは当たり前っちゃ当たり前っつーか撞着語法? 「あちら側」からほとばしり出る性を売るのも、ほとばしり出る芸を売るのも、構造的にはイコールですよ。芸者が高級娼婦? は? そこになんの意味が? 現代からの断罪になんの意味が?
そんなわけで芸能の世界は中流なんぞという常民ごときに立ち入れる世界じゃねー罠。せいぜい気張って米でも作ってろって。
で、その構造を暴き立て、パスティーシュすることに快感を覚える時代があったわけだ。秋本CXとかゴンとかお宝とか。文明開化あるいはニューアカ。
あらかた暴ききっちゃって、残ったのはなんとはなしのこっけい感、見下し感。依然信仰の対象ではあるんだけど、本気の宗教論争が起こるほどではなく、もし起こったとしてもそれはネタ化した百物語的な。そーゆー印象。
いつまで鹿鳴館式の文明開化政策やってるんだろね。
芸術なんてありとあらゆる快楽に飽いた金持ちが最後に行き着く場所に過ぎないのに。
そういうものに大金をはたく金持ちが居ないなら、ほっておけばいいのに。
とあるプロジェクトでとあるOSSのコードを2ヶ月ちかく改造している。
基本的には、お客さんの要望に応えるための、機能追加。
ときたま、バグがあるので、それを直して。そんなかんじで過ごしている。
仕事としては請け負いの、技術的に大きな魅力のあるものでもない。
だけれども、こういうことをやっていておもしろいなと感じるのは、
コードを読んで、改良してとやっているうちに、
相手の開発者のそのときどきの気持ちがわかってくるようになったときだ。
ここのコードは、あんまりやる気がなかったんだろうなあとか、
これは組んだとき「おれってカッコイイんじゃね?」と思っただろうなあとか。
そんなのが、長いこと付き合っていると少しだが、感じ取れるようになってくる。
本を読むという行為は、会ったことも話したこともない
作家との文章を通したコミュニケーション手段であり、文明開化、当初からある。
そして多くの人がそれを好み、書き、読んできた。
それと同じようにコードを読み、改造するというのも
プログラマが会ったことも話したこともない、相手とコミュニケーションをとる
ひとつの手段なのかもしれない。
そんなコミュニケーションがちょっととれたときは嬉しい。
彼女が日本人は、なぜ個々の意見を認め合わないのだろうと言ってきた。
携帯電話キャリアについてである。
携帯電話キャリア(会社)がどこが良いというのならまだしも、ドコモ信者やらau信者、Sofbank批判という言葉がネットでも目立つねと話していた。
別に誰がどのキャリアを使おうがどうだっていい事なのにとため息をつきながら話していた。
彼女は海外生活が長かったせいか何故、日本人がこんなにも携帯電話会社の選択だけで相手を否定するのかと不思議がっていた。
「ドコモが一番、ソフトバンクは糞」とかそういう短絡的で他人の意見を認めないのか・・と。
僕は黙って聞いていた。
日本人は優越感をどこかで持ちたがっているのではないだろうか?それと、他人と違う異端児である事は恥ずかしいという考えが根底ある限り治らないのだろうか。
「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」なんて言葉もあったように・・新しいモノや流行を持つことで他人より気持ち的に優位に立てるという事に風潮に慣れきってしまっているような気がする。
自分も今までテレメッセージ時代から全携帯電話・PHSを使い切ってきたが、今は自分の好きな端末があるキャリアと使っている。
他人がどれを選択するのかは勝手だが、どれを使ってるからといってそれを否定するというのはどうなんだろうか。