人間がより快適に衣食住を確立するためには多少の犠牲が必要である。
先日、絶滅危惧種であるツキノワグマが放獣したにもかかわらずまた同じ場所に戻ってきたというニュースがあった。
あるいは、元々その場所がツキノワグマの住処だったのかもしれない。
もしも人間が熊の住処を奪っているからという憐みを見せる人がいれば、それは人間がこれまで行ってきた文明開化の否定になる。
しかしながら、元々熊の住処であった場所を蹂躙し山奥に放逐したのは誰か。
人間の勝手な思い込みで山奥に追いやられる熊が可哀想ではないか。
一方、熊が人間の住処に現れるのは場所を取られたという先祖の恨みを晴らすためでなく、山林山野の食糧が不足しているためである。
当然熊は怒るだろう。
だからと山奥に放逐するのだろうか。
あるいは、絶滅危惧種だから殺せないジレンマからそうさせているのか。
人間は熊に対してあたかも憐憫の心で以って熊を労わろうとするが、それは大きな間違いである。
根底には人間が熊の住処を奪ったという変えられようのない事実があり、それが妨げとなっているため、
道義的に助けるのが当然だとする人間自身に備わっている母性とか父性がそうさせているだけなのである。
本当に熊を助けたいならば、住処を奪ったなどと言い訳をせず、熊に十分な食糧を供給してやり、不自由なく暮らせるように図る事が大事なのではないか。
やたらと熊を殺すか否かで賛成派と否定派で争っているが、そもそも発想が弱いのである。
奪ったんだから返せとは必ずしも言えないのであり、それならば懐柔して彼らの言い分を認めるべきではないか。
あくまで人間こそが至上であるというならば、熊程度に恩恵を与えなくても良いが、少なくとも
古来の人は熊を神の使いとして崇拝してきた縁があった。
この事だけは決して忘れてはならないのである。