はてなキーワード: 憲法違反とは
ぶっちゃけ現行憲法は同性婚を想定していないので、「同性婚を認めなければ憲法違反になるか?」という点ではどちらともとれる玉虫色の表現であると言わざるを得ないが、「同性婚を認めてしまうと憲法違反になる」とかいうのはバカの妄言でしかない。
少なくとも「改憲する必要はない」んだよ。法律っていうのは必要も無いのに思い付きでガチャガチャ弄るものじゃない。
「反対勢力がいるから同性婚が実現できない」って話をしてるのに、「改憲すれば文句言えなくなるじゃん」とかいうバカもいるけど、マジで脳がついてるのか?なんで同性婚に反対する勢力が「同性婚に反対できなくなる」ことを求める改憲に賛成すると思うんだよ。改憲は国会で議論するんだよ?知らなかった?「IHで沸かしたお湯でタービン回して発電すれば電気代節約できるじゃん!」とか言い出すバカか?
ネオ同和
平 裕介 Yusuke TAIRA
@YusukeTaira
憲法学者個人のアカウントのツイートのついて、当該研究者の所属大学の採る見解と同一であるわけもないのに、インフルエンサーらが当該学名を晒した上で、それは大学の見解か?とか、そんな研究者を雇っているのか?とか、処分すべき旨述べ、炎上させキャンセルを煽る行為のどこが「リベラル」なのか?
平 裕介 Yusuke TAIRA
@YusukeTaira
2時間
返信先:
@YusukeTaira
さん
キャンセルの標的とされた教授の見解は、私自身は反対だし、誤解を招く表現もあると思うので問題はあると考えるが、法律時報2022年6月号の建石真公子「同性婚と憲法―フランスの同性婚法をめぐる『婚姻の自由』と『平等』」等を読めば問題のツイートの意味は一応把握可能だろう
https://nippyo.co.jp/blogjihou/jihou-backnumber/jihou2022/2022-06/
平 裕介 Yusuke TAIRA
@YusukeTaira
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2時間
なお、私自身は、同性婚の論点について、2021年3月の札幌地裁判決(違憲判断)の立場に概ね賛成する立場を採っています
札幌地判令和3年3月17日の感想(憲法・行政法の観点から)――「国民感情」vs「国民感情」の調整と、司法の本質 - 平 裕介(弁護士・公法研究者)のブログ
yusuketaira.hatenablog.com
札幌地判令和3年3月17日の感想(憲法・行政法の観点から)――「国民感情」vs「国民感情」の調整と、司法の本質 - 平 裕介(弁護士・公法研究者)のブログ
平 裕介 Yusuke TAIRA
@YusukeTaira
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2時間
以下は1つ前のブログのスクショですが、リベラルといえる札幌地裁でさえ、憲法24条違反は認めておらず(勿論この点には異論があるわけですが)、24条2項に広い立法裁量を認めているわけです(そのうえで14条1項違反と判示)。自称「リベラル」の方々も、こういった知見を踏まえて議論すべきでしょうね
平 裕介 Yusuke TAIRA
@YusukeTaira
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1時間
ちなみに、日本学術会議問題の政府の対応に対して憲法違反だとか学問の自由・大学の自治の危機だとか声高に主張する人たちが、他方で、研究者個人のツイートについて、キャンセル炎上を仕掛け、所属大学へのお問い合わせという名の抗議連発を容認するか態度を採ることには一貫性がないなと感じます
めちゃくちゃだがアメリカがこれだ。
同じことをやるのはアウト。
まったくもってこの増田のいうとおり。同性婚がこれまで認められてなかった最大の理由は憲法の「両性の合意のみに基づいて」という一節の解釈にある。近親婚はこの両性という部分の解釈でつまづくことはないのだから禁止する理由がない。父が娘を脅して婚姻を結ぼうなんていう「合意がないのに合意を装ってる事例」がありうることには注意する必要があるけれど、それは個別のケースごとに判断すべき話であって、一括して禁止する理由にはならない。
さらに、両性の解釈も合意の解釈も問題ないことが明らかな重婚についても禁止する理由がない。当然、一夫多妻や多夫一妻だけでなく、多夫多妻も認める必要がある。
こうして考えていくと、行きつく先は婚姻という制度そのものの形骸化である。ということで自分の意見としては、同性婚や近親婚を認めるのではなく、そもそも婚姻制度そのものを廃止すべきである、ということになる(法的に保護された結婚をなくすだけで、民間の風習として結婚することを妨げるものではない)。
自明のことだと思って言及しなかったんだけどいろんな人のコメントを見ると自明じゃなかったみたいなので追記しておくよ。
これをまず常識として認識しておいてください。近親婚で産まれてくる子供の遺伝的疾患が〜などというのが正当化されるならば、近親間にかぎらず遺伝病を患っている人すべての結婚が制限されるべき。かつて政策としてそういった病気の人の避妊手術をしていたことが憲法違反とされたけど、しかしそういった非常識な政策ですら、避妊はしても結婚の禁止はしていない。また、子供を産み育てるのが結婚したカップルだけの特権とするならば結婚していないカップルの子供は存在自体が違法ということになる。しかし、婚外子はいろいろ権利が制限され差別されてはいるものの、違法な存在とまではされていない(婚姻制度自体がなくなれば婚外子という概念そのものがなくなるので、そういった差別も解消されるはず)。そして、子供を産み育てるための制度ではないから、子供を産むことのできない病気の人や閉経した高齢女性であっても結婚が認められており、子育てが終わった高齢者夫婦に離婚の義務があるわけでもない。産まれてくる子供に障害が出るから、あるいは子供が産まれないから、というのは結婚の可否を論じる上で考慮する必要はないことであり、それを持ち出すのは差別以外の何者でもない。
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逮捕者が出て、「萌え絵禁止法は憲法違反」と主張する人が出たら最高裁まで争う
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最高裁で「萌え絵禁止法は憲法違反」という判決が出たら、次に『萌え絵を見たくない人の権利を最大限に尊重する法律』を制定する
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逮捕者が出て、「萌え絵を見たくない人の権利を最大限に尊重する法律は憲法違反」と主張する人が出たら最高裁まで争う
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「萌え絵を見たくない人の権利を最大限に尊重する法律は憲法違反」という判決が出たら、次に『萌え絵を人通りの多い公共の場所に掲示してはならない法律』を制定する
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逮捕者が出て、「萌え絵を人通りの多い公共の場所に掲示してはならない法律は憲法違反」と主張する人が出たら最高裁まで争う
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皆が『萌え絵を描くと面倒なことになる』と思うようになれば誰も描かなくなる
例えば、変な連中が「共産主義のような暴力思想を学校で教えるな!」と騒いだとして、共産党員が「教育の自由の侵害だ!」などと騒いでしまうと、「つまり、教員個人の信念で政治思想を教えようとしているってこと?それって教育基本法第14条2項に反しない?」という反論が成立してしまう。そうなってしまうと、「憲法違反の法律は無効!」のような再反論も流石に厳しい。
ここで共産党員の立場から本当に言いたいことは「少なくとも共産主義は暴力思想ではない」という話なわけで、「共産主義の教育を、教育の自由として認めるべきか否か?」というところに論点がズレ込んでしまうと議論はどんどん間違った方向に進んで行くよね。
とは言え、そうした誤謬の責任が全て「共産党員の反論が雑だから」という点にあるとしてしまうのは非対称なわけで。そもそもが「共産主義は暴力思想」というレッテルを貼った連中こそが諸悪の根源であることも共有されなければいけないわけで。
社会的な性規範の内在化されたものを心の性と呼ぶのは大きな誤りを孕んでいる気がしてならない。人間の心がまずあると仮定してもそこに性別があるなんてどう考えてもおかしな話である。これはLGBTの方々への権利の制限に賛成する話ではない。むしろあらゆる権利はあらゆる個人とあらゆる形式の集団に付与されるべきである。
婚姻制度なんてものはあらゆる人間のあらゆる組み合わせに対応すべきであり現在の状況がおかしい。そもそも法の下の平等概念からして法に男女という概念を持ち込んだやつの頭がどうかしている。同性婚を禁止している現民法はどう考えても憲法違反である。そして重婚を禁止するのも、複数人による婚姻を禁止するのも憲法違反である。というのが私の個人的な意見だ。また恋愛感情などという定義不可能なものを前提としない純粋な資本の接続制度に作り変えるべきだと信じている。これはただの意見だ。もちろん国家や宗教のいくつかのレゾンデートルの一つとして性規範の固定化があるのは言うまでもないことであるが、そもそも国家も性規範も大嫌いな私にそんなものを持ち出しても意味などないし届かない。
しかしそれはそれとして、心の性などというものは私には看過できない概念だ。そんなものは存在しない。血液型性格分類と変わらない無価値で有害な幻想だ。
近年、ある程度は心の性がない人という概念も広く知られはじめてはいるがそれはあくまで特別な人とされている。多くの人にはどちらかの心の性があると考えられている。これがおかしい。そんなものはある訳がない。常識的に物事を考えろ。心の性なんてものは元々人には備わっていない。これは事実であり現実だ。
心の性概念などというものはくだらぬ性規範が内在化されたものにすぎない。自由主義においては規範の内在化に反抗すべきであり、あらゆる性規範の破棄を求めるべきだ。社会的性などというものは当たり前だが許されない。そして性を前提とされない社会においては心の性なんてものはある意味がない。よって存在しない。そこにあるのはどういった生殖器が付いているかによる機械的分類だけだ。我々は人間である。まともな社会においてはそれより先にはなにも要らない。
女に生まれたが心の性が男である、というのは現在の性規範に縛られた糞のような観念だとあり得る。確かにあり得るがそれは性規範を内在化してしまっている、という意味では従前のゴミのような性別概念とほとんど差異はない。結局のところ自由度が2から4に増えるだけだ。そんなちっぽけな自由など自由ではない。無限のバリエーションのある心を二分法で分類する心の性と呼ばれるものなど許される訳がない。性規範を信じる人間と性差別者に本質的な差異などない。心の性なんてものはその実際として現在の性規範に照らし合わせて自身の価値観をどう縛り付けるかを考えより良いものを選択した結果にすぎない。二者択一のジェンダーのうちより自身にとって有利なものを意識的にもしくは無意識的に選択した結果に過ぎない。
心の性など存在しない。そもそも性別などは付いている生殖器の違いに過ぎない。付いている生殖器によって何かしらの束縛を受ける謂れなど我々にはない。自由主義において我々はこう言い切るべきではないのか。
そしてそもそも人は自らを知り得るのか。
恋愛は性欲の詩的表現を受けたものであると言う。恋愛感情という自己認識としてのその主観事実を否定するべきではないし、当人の自己認識は自由権のもとで尊重されるべきだ。しかし性欲について言及した今もう一度考えてみたい。人は独りでに心の性を持ち得るか?
持たない。上述のとおりである。
人はあくまでも社会的に心の性を与えられるだけである。もちろん心の性というものは確かに存在し得るがそれは生得的なものではなく獲得的なものである。身体機能としての性に一対一対応した心の性なんてものはない。ある訳がない。あるのは社会的性の役割であり、ジェンダーと呼ばれるものだ。
スカートを履き、可愛いものを好み、ピンク色が好きで、私立文系に進み、事務職をする、男に恋愛感情を抱く実存。のようなそういう唾棄すべきステレオタイプの集合を心の性と言っているにすぎない。
人が持つのは極めて純粋な身体機能としての性と、社会的な役割としての性の二つだけだ。そして後者は破壊すべき対象である。心の性などというものはそもそも存在すべきではない。
無意味で不合理。
デートで男が車道側を歩くとか、診察で聴診器を当てても分かる事はほとんど無い事とかと同じく、無意味で不合理。
米粒をこそぎ取ろうとすると糊化して、よけいに洗いにくくなる。
数粒の食べ残した米を集めても、地球全体のフードロスと比べれば微々たる量にすぎない。
農家も収穫の時に米粒を落とすし、大豊作の時にキャベツを潰す。
パセリや、刺身のツマや、キャベツの千切りの1本や、麻婆豆腐の肉片1粒や、うどんの切りネギ1輪を、残しても怒られないのと比べて不合理。
人が食べている姿や、食べ終わった後の食膳を観察して、文句を言うのは不作法。(大きな音や飛沫などの迷惑行為に文句を言う事は除く)
教育・文化・宗教の違いであって、育ちの良さや人間性は関係ないし、善悪の問題ではない。この程度の事で目くじらを立てる人は多様性を認めない狭量な人であり、罵倒する人は下品。
自分の意思で不快だと思うなら良いが、親が言ったからとか神や天罰が理由なら、それは文化という名のマインド・コントロールで米粒だけは残すのが汚いと思い込まされているにすぎない。つまり、自縄自縛で不快な思いをしているだけ。
相容れないだけ。
残す派は、米粒お残し許さぬ教の人と仲良くしたかったら、食事は綺麗に食べましょうというだけ。