はてなキーワード: 感情移入とは
なんかとんでもなく鬱になるような気が滅入るような酷い映画だと風の噂に聞いていたので、超身構えてみたら普通だった。
こちとら一週間くらい何も手につかなくなったらどうしよう、くらいの心構えはしていたので、肩透かしだよ。
実際過去に読んだ小説では、あまりにもストーリーがショックすぎて一日中仕事が手につかなくなったことがあったので、あれを超えるものを想定しちゃったんだよなぁ
よくある悲しい男が、ムカつく奴をぶっ殺す話。そんだけ
あんまり殺人を正当化されないように、カタルシスを抑え目に作ったのだろうか、エンディングもああ、そんくらいだよねぇーっていう。想像の範疇を超えない、かといって見ていてスカッとするような感じでもなく、かといって心に傷がついたり汚泥を飲み込んだような不快感が湧き上がるでもなく、そう…って感じの終わり方
もしかしたらバットマン見るような気分で身構えずに見るとショック受けるかもしれんけど、いうて数人殺して暴動起きただけの話だし
特に見てショック受けるようなこともないし、ことさらにアーサーくんにも感情移入しすぎもせず、全くアーサーくんの心情をわからないってわけでもなく、いまいち物語に入り込めなかった感じはする。
身構えて見てしまったせいか、うまく感情を揺さぶられなかった感じする
誇張して描いているけど、世の中って実際これくらい糞だし。アーサー君みたいに目覚めていないだけで、誰だって感情が昂って皆殺しにしたくなる事はあるしな
うーん。いい映画だとは思うけど、パンチが弱いような気がする。
スーツ姿のシーンはカッコいいので、カッコよかったんだけど。
なんだろうな、イマイチ。鬼気迫るような迫真感というか、臨場感というかが足りないというか、なぜか物語に没入できなくて、ちょっとおいていかれている感じする
一番感動したシーンは元同僚を見逃したところだな。こいつちゃんと殺す相手を選んでるんだっていう人間性が垣間見えて感動しつつゾクゾクきたね。あそこはいいシーンだった。ストーリー進行上別に殺すこともできただろうけど、あそこに人間性を出したのは、ただの悪人じゃねーぞっていうメッセージなんだろうけど。まああのシーンはお気に入りだね
サイレント・トーキョーがNetflixに来ていたのでぼーっと眺めていた。
点数は甘め採点で、邦画では高めの2.5点くらいつけていいと思った。
ちなみに一個前に見た邦画は犬鳴村で高めにつけて1.5点くらいの作品だった。ゴミ。
エンタメとしての一番の見せ場である渋谷大爆破シーンは「日本のCG技術はハリウッドの30年前にすらまだ追いついてないのか」とがっかりさせられる出来ではあったが、それでも「渋谷でガチモンの爆破テロが起きてパリピのアホどもが吹き飛ぶ様を見せてやるぜ!」という意気込みは伝わった。
少々物足りなくはあるが「見どころ」がちゃんとある邦画はそれだけでえらい。
贅沢を言うなら、あそこだけディズニーのMCUのチームに金払って頼めんかったか。
ハチ公がレゴブロックみたいに粉砕したシーンは大爆笑してしまった。
原作を読んでいないのでそことの違いは比較できないが、脚本面では粗が目立った。
スポットライトが当たる登場人物が多く、それぞれの描写が不十分であるため誰にも感情移入ができない展開が続く。
特に、いちおうメインヒロインということにされている広瀬アリスが「友人がやめておこうと言っているのに爆破テロ予告現場に引っ張っていく」「離れようと何度言われても無視してどんどん近づいていく」「結果的に爆破テロに巻き込まれて友人が瀕死の重傷を負う」「病院ではぐれた友人をほっぽり出して容疑者に会いに行って激しく糾弾する」という、なんやこの女舐めてんのか死ねとしか言いようがない行動を取っていてホンマにヘタクソやなとため息が出た。
他にも邦画特有の回想シーンの使い方がヘタクソ問題も各所にちりばめられている。
が、そんなことがどうでもよくなるくらいウンコなシーンがある。
「意外な真犯人」が「実行犯」と二人で車で逃亡する。書いてある通り二人はグルで「意外な真犯人」が実はすべての絵を描いて裏で糸を引いていましたという展開になる。
そして、車で逃亡中に真犯人が実行犯に対して「今回の動機」を熱弁する。
その内容が「渋谷吹っ飛ばしてめちゃくちゃ死傷者出すほどのもんかなぁ」ってなるのは、まぁ、作品自体が渋谷を吹っ飛ばすというところからスタートしているからしょうがないのかなと1000歩譲って納得するとして。
ちょっと考えてほしい。
真犯人と実行犯はグルなのだ。当然、実行犯は真犯人の思想を理解したうえで犯行を行っているし、それがうかがえるシーンもちゃんとある。つまり、実行犯は真犯人の動機なんてとっくのとうに知っているし、共感もしているはずなのだ。
その実行犯に対して真犯人がさも「決意してお話しいたします」みたいな感じで動機を熱弁するのは明らかにおかしいのだが、脚本家はそれに気づかなかったのだろうか。
もちろん、その「熱弁された動機」こそが「この作品で最も伝えたかった事」であろうことは容易に推察できる。「作品で最も伝えたかった事」を登場人物にペラペラペラペラ熱弁させること自体がウンコオブウンコなのは言うまでもないが、それでも、もうちょっと自然にやれなかったのか。
こういう「ドラマとして一番大事なシーン」でこんなしょうもないヘマをやらかすからいつまで経っても「邦画はレベルが低い」と言われるんじゃないか。「作品のテーマペラペラお喋りウンコ」と「なんでそこで喋るねんウンコ」のダブルウンコでクラクラしてしまった。
リアルでもまあ好きではないんだけど、日常において関わる機会がないからそこまでの嫌悪感を抱いていないというか。
ハイローとかリベンジャーズとかそういう作品が好きな友人に連れられて見にいく、あるいは読む→合わなくて無感情になる。を何度も繰り返している。合わないのわかってんだから見に行くなよって思うと思うんだけど、友人からあらすじとかキャラクターの説明受けてる時は面白そうだなと思うんだなこれが。友人が話が上手いせいもあると思うんだけど、めっちゃ面白そう!これなら見れるかも!くらいの感情に毎回なっている。でも毎回ダメでその分自分にがっかりする。
ヤンキーキャラに感情移入ができないというか、山場のポイントでそこを山場だと感じられないのだ。よくある「お前ら、行くぞ!」ってトップが声かけたらみんな一斉に走り出して戦い出すみたいなシーンとか、ヤンキーだけど好きな女の子には優しいし命がけで守りますとか、そういう燃えるシーンで冷めてしまう。冷める理由は自分でもわからないし上手く言語化できないんだけどそこでテンションが全く上がらないので、話の本筋が面白くてもぼやけた印象というか本来話が盛り上がる場所で勝手に盛り下がってしまうのだ。
今日から俺はみたいなマイルドなヤンキーものもダメだったからもうシンプルに創作上のヤンキーって存在が苦手なんだと思うんだけど、張り切ってヤクザや殺し屋や殺人鬼まで行くと苦手指数が一気にゼロになるんだよな。普通に見られるようになる。現実で自分がヤンキーに迷惑かけられたりしたような経験もないので、この苦手感情がどこから湧いて何で苦手なのかがイマイチよくわからない。ちょっと前にTwitterで見た「創作上だと殺人より万引きの方が不快度数や悪いことやってる感が高い」って呟きが自分の感覚に近いというか原因なのかなと思ったがそれくらいだ。別に困ってないから克服したいとまではいかないのだけど、原因と基準が分からなくて月に一回くらい考えている。
「暴力によって悪を懲らしめる女児の集団」であることがプリキュアのテーマだぞ?
なんか勘違いしてるアホがいるけど、人間の99%はどうあっても肉体的には完全に男か女のどっちかに区分けできるし90%は精神的にも男か女のどっちかで区分けできんだよ。
プリキュアは人間全体の45%の女の中における未就学児童という年齢層に対して「暴力によって悪を懲らしめる同性のヒーローとして感情移入してほしい」ってコンセプトで作られてんだよ。
それはもう「犬好きの人のための犬映画」だとか「サメ映画好きのためのサメ映画」のようなものであって、そこに対して「犬映画は猫を差別してる」「サメは恐ろしいモンスターではなく本当は心の優しい生き物」とか茶々入れる奴らと変わらねえんだって。
まあ自分の思想が極めて過剰で創作物に置いてもそれに反する事がされるのが我慢ならねえっていうならそれは勝手だが、それを「女の世界に平等のために男をまぜこぜにするべきです」と主張する奴らはフェミニストからも敵視されるべき存在だと思っていい。
なろう漫画の広告を見て女性向けは王道やかわいい系のヒロインしかいけなくなってきた自分に驚いた。
昔なろう本体で読んでた時はそうでもなかったのもあるのに、聖女な美人系と糞なかわいい系というキャラ付けが、かわいい系へのマウントに見えた。
腐女子のヒロイン・女キャラアンチは割と慣れた。サブヒロイン好きによるメインヒロインへのそれも知ってる。
昔の少女漫画のヒロインのような顔面偏差値がものすごいわけではないけどふわふわで一生懸命に頑張るタイプのかわいい系の顔立ちや出立ちが好き。中身が性格悪くても良しとは思えるけど、腐女子以外にも自分の感情移入・自己投影先(=美人系)ヒロインは誠実で、自分の敵(男に媚び売ることしかしないかわいい系)は糞女な広告を引くことが多くなってどんどんダメになったようだ。
美人系=悪女じゃなきゃいけないわけじゃないけど、本来悪とされていた設定や前提があるとするなら、本来の主人公を糞やこけにするのは安直過ぎないか?かわいい系主人公の敵がブスなのも嫌いだけどさ。
全員糞か、全員悪くないか、同じくらい悪いか、改心して全員仲良しになるかと色々だけど、かわいい系が善良だって前提からみた上で美人系も善良とかの方が良くないか?強制力とか言うんだろうけど顔面偏差値やスペックで優ってる相手を踏み台にして気持ちいいか?そう思ってしまうんだろうか。
男性作者がやる女ざまぁは性癖を感じるけど、女性作者がやるのはなんか悪意を感じる。腐女子作者でたまにある男は幸福、善良で女は不幸、性格悪いのと同じ系譜なのかもしれないけど、そんなに踏み台や出しにするくらいなら出さなきゃいいのに。
私はゴールデンカムイって日本版ホワイトセイバー(White savior)だと思っているから
到底そんなポリコレ的に優れていると思えないんだよなー。
主人公二人が成人男性同士の『グリーンブック』でさえ、黒人が白人に一方的に守られている、従属していると批判した人達がいたが
その文脈で言うとゴールデンカムイのような成人男性と幼い少女なんてその設定の時点で駄目だろうと。
まあ個人的にはホワイトセイバーに分類される作品って単にマジョリティが感情移入しやすくするための舞台装置だと思っているから、それだけで否定しようとは思わない。
ゴールデンカムイもアイヌ側主人公の方が成人男性なら日本人主人公とは友情ないしブロマンス、成人女性だったら恋愛にするか敢えて恋愛にならない男女の友情を描くか
幼い少年だったりしたら成長してやがて日本人主人公を越えるとか色々対等に描く方法はあったと思うんだけど
少女っていうのは一番アウトな造形だったと思っている。
倒錯的な感じの自慰行為をすることが稀にある。5回に1回くらいか。ちなみに床オナ(布団)派だ。
まず、これを観てほしい。アダルトビデオのPVだ。
https://adult.contents.fc2.com/article/1273879/(AV注意!)
私は、最近この動画で自らを慰めた。どのようにしたのかといえば……。
一般的な男性は、AV男優の方に感情移入するだろう。まるで、自分がその男優になったかのように――あなたは、想像の中で女を好きなようにするわけだろう。私もそうだ。基本的には。
私の場合の、想像の中での相手というのは、新卒で入った今の会社の同期の女だったり、ちょっと気の強い先輩上司だったり、高校を出て入社したばかりの元気溌剌でショートカットの女の子だったり、
趣味のサークルで同士の小柄な介護士の子だったり、昔の高校の同級生(もちろん当時の制服姿を思い出して)だったり、近所のコンビニ店員(大学生)だったり、自分によくしてくれる飲み屋の店員(高校生)だったり、街角ですれ違ったゆるふわニットの胸が大きい女子だったり、
姉だったり、昔の妹だったり、まだ中学生の頃の嫁だったり、我が家のソファの上で私の会社の同僚と仲睦まじく性行為をしている嫁だったり(向かいの家の2階の窓から私が見ている)、男達に猿轡を嵌められて代わる代わる後ろから犯される嫁だったり、真白のワンピース(下着は着用)の嫁をフローリングに這いつくばらせてこの私の足の指を舐めさせる場面だったり、まだ見ぬ成長した我が子(20才くらいを想像する)だったり、はたまた、漫画や小説に出てくるキャラクターだったりする(恥ずかしいので書かない)。
しかし最近、床面を利用した自慰行為をする際、女子の側に感情移入をすることがある。想像の中で、私は女子になるのだ。
上の動画でいうと、さんざん弄られているその女性に自分がなったかのように想像する。もちろん相手は男だ。
私はまだ若い。30をちょっと過ぎたくらいだ。嫁がいる。可愛い年頃の娘もいる。だからこそ、頭がおかしいのではないかと思う。変態だと思う。
でも、それが気持ちいいのだ。この気持ちをどうすればいいのか、どこにぶつければよいのかわからず、学生時代からお世話になっている増田に投稿することにした。
童貞だった頃は、こんなことはなかった。
20代の後半で初めてセックスを経験する前までは、自慰行為という想像の中で、私が私以外でいることはなかった。ゼロだ。
でも、ある時だった。1年ほど前だったか。
同じ職場で、ちょっと気が強い女上司(上で出てきた人)がいたのだが、その人を想像の中で強姦している時(卑猥なボンテージを着せて、体中を鞭で叩きながら性行為をするシチュエーション。最終的には無理やりする)に、ふと、自分がその女上司に感情移入することがあった。その時だけは、自分が女上司になっていて、冷たい獣のような目をした私に犯されていた。
肌の感じもあった。滑るような肌触りで、互いに汗をかいていた。想像の中の出来事に過ぎないのに、この感覚が私の中で生々しくあった。時刻は深夜1時だった。ちょうど、夢から中途半端に醒めたところだったから、触覚が鋭くなっていたこともある。リアルな体験だった。
私は悩んでいる。
異常な側の人間だとは思うが、それでもはっきりさせたいのだ。
あなたはどうなのだろう。例えば、私みたいに心の中で性転換したような自慰をすることがあるのだろうか。気になって仕方がない。
はぁ~~めんどくせ
俺が本歌取りって安直な発想するのはまあしゃあないと思って大目に見てくれや。
実際、本歌取りの方がマシだったんじゃねえか?
創作が藤野を調子こかせ、京本の目を輝かせ、京本に絵を描かせ、藤野に絵を練習させ、
なんやかんやで引きこもりを部屋から出して美大に行かせるくらいになった、
京本を殺すやつは「絵から罵倒が聞こえたと宣うあたまのおかしい男」ってのはなんかこう、フェアじゃない。
それまでずっと「創作のちから」「表現のちから」が作用して人の人生変える様子を描いておいて、同じちからが作用した結果人を殺すに至る方、そっちは病的な言動に象徴させてブラックボックス化すべきじゃなかった。
そうしなくたって「理不尽な死」と「それは「創作のちから」がもたらした」って状況は描けるはずだ。
修正後はもちろん雑だが、そういう意味では修正前だって雑というかご都合主義だった。
要するに、