はてなキーワード: 強者とは
『日本でいちばん「幸せ」なのはどんな人たちなのか 1万人に聞いてわかった日本人の意外なリアル』
https://news.yahoo.co.jp/articles/89585c5ad714a734ca05827f67446d398e89bec8
https://toyokeizai.net/articles/-/615492
「最も高いのは、30~40代の子育て期の女性で、その中でも仕事をしている子育て女性で高い。
特にフルタイム勤務をしながら子育てをしている女性では、生活満足度・幸福度・生活充実感の
すべてが顕著に高く、家族、仕事や人との関わり、経済状況などすべてが充足されているようだ。」
つまり、現代の日本において女は少なくとも主観的には、女性は結婚した方が、子供を産んだ方が、幸せだと感じている事が分かる
一部のフェミニストが子持ち女性を優遇すべき根拠として盛んに出していた、独身で子供のいない女性が一番幸せ!というデータは嘘だった事が分かる
Twitterではやたらとワーママの愚痴がバズるが、あれは幸せで満ち足りた人生を歩んでいる女性の、ほんのたまーに出てくる些細な愚痴にすぎない事が分かる
勿論これも嘘である事が分かる。
https://www.mosumiharuto.com/men-should-not-get-married
「逆に最も低いのが「ミドルエイジクライシス」にある50代男性だ。女性でも50代になるとやや幸福度スコアは下がってくるが、
男性は特に50代を超えると生活の充実感が低くなりがちである。ややジェンダー論に寄ってしまうが、女性では家庭、趣味、
人づきあいなど、仕事以外に充実感を感じる「拠り所」を複数持っている人が多いのに対して、男性ではそうでない人が多い。
知命(50歳)を超えた男性にとって、いかに仕事以外の「拠り所」を見つけるかが、幸せ実感回復のカギになる。なお、
仕事以外に拠り所のない男性の幸福度は低く、家庭という拠り所のある男性は独身の男性に比べて幸福度が高いと出ている。
結局さー、男女どっちにしろ、少なくとも現代日本における結婚や出産が100%自分の意思でするものである以上は
「しないよりはした方が幸せ」に決まってるんだよ
だから既婚女性という強者を弱者扱いする一部フェミニストの主張には、弱者女性であるフェミニストの私としては大いに反対するし
普段は男という社会的強者として女性にあれこれ指図して抑圧している立場のくせに、ちょっと気分転換で女装☆という女のつまみ食い感に苛つく。あんなに偉そうに女の容姿を品評しているくせに自分が女の装いをしたらそんなにクオリティが低いんですね…という呆れでもある。
先ほど見た増田で「クオリティの低い女装を叩くのは、女性は美しくあるべきという抑圧と同じこと」みたいな主張を見た。
「いやいや!それとこれとはまた別だろ」と思ったのでしばらく考えてみた。
まずはこれ。レディースのファッションが純粋に好きというよりは女装で性的興奮をしているのが透けて見えて気持ち悪いのだ。
レディースファッションが好きなら服選びもメイクも勉強しているはずだし、スネ毛ボーボーでメイド服やらロリータやら現実の女が着ていないような服を着ている女装男を見ると性癖を見せつけられてるみたいで心底不快だ。
あとこれ。普段は男という社会的強者として女性にあれこれ指図して抑圧している立場のくせに、ちょっと気分転換で女装☆という女のつまみ食い感に苛つく。あんなに偉そうに女の容姿を品評しているくせに自分が女の装いをしたらそんなにクオリティが低いんですね…という呆れでもある。少しは女性たちが普段受けている社会的抑圧や性的視線を味わってみろという気持ちになるのは分かると思う。
そもそもブスな女性よりも女装男はよっぽど醜いのだ。ブスな女性には何も言わない人でも女装には思わずおえーってなる。骨格からして男って分かるしそのくせ無駄にブリブリした格好をしているからまじでキモい。ブスな女性は身の程を弁えて地味な格好をしていることが多いのに、男は無駄に自己評価が高いのだ。こんな醜い女装をしている男も自分のことを可愛いと思っているんだろうなと思うとゾッとする。
学年の大多数が早慶以上当たり前の学校出身で、自立していない女子の同級生を本当にほとんど見た事がない。同級生たちはフェミニズムに対する意識も非常に高い。
フェミニズムとは元々そういう選ばれた一握りの強い女性たちが言い始めた強者女性のための思想や運動であって、それに一般的なスペックの女性が思想にだけ賛同しようがないと思う。太い実家によって育まれた深い教養、良い学歴、やりがいがあり素晴らしい仕事。フェミニズムはそれらがない女性のためのものではない。
フェミニズム批判している人は、そういう「本当にフェミニズムを必要としている人」を目の当たりにしたことがないんだろうなと思う。生まれてこの方すべてのテストで男子よりも良い点を取り続けてきた、仕事の成績もいい、重要なポストに就いて然るべきだと誰もが評価する女性だ。フェミニズムはそういう人たちが実際の能力を発揮するためにあるわけで、よく引き合いに出される弱者男性とはそもそも人生において公立の小中学校とかそこら辺以外での接点がない。
で、他の人はどうだったかなと調べたら設定ふわふわでストーリーガバガバと微妙な評価だった
言われてみれば、と思ったので思ったことを書き出してみる
犯罪を隠蔽するといった機能を考えると、そもそもこの大前提から無理がある
ここに違和感を抱いた人はまずこの作品を見ないであろう、てか見てないよね?
なので、この組織に関しては真面目に考えずにファンタジーであるという認識を持った方がいい
最終回前に、銃を持って犯罪者を粛清するリコリスの存在が全国ネット(暫定)で公開され、その誤魔化し方にアニメの視聴者かギョッとした
最もその後、全ての人々がガバガバ工作を信用しているわけではないという描写が成されたが、DAという組織が隠れて治安を維持するという設定そのものがミラクルであることを考えると、そういう世界なんだろうな、という理解に落ち着くのが無難かもしれない
要するにつっこんだら負け、なのだが、どんでん返しを期待する視聴者側としては肩透かしを食らったのも同然なので、もうすこしなにかいい案はなかったのですかと思わなくもない
ミシュランの星つけるみたいに、才能ある人にペンダントを送る、ある種の慈善活動をしているような印象がある
才能に対して支援するアラン機関は犯罪組織とイコールではないが、現在テロリストとして活動する真島を支援している背景もあるので何がしたいのか謎
……ではあるが、それはそれとして、組織全体としては犯罪組織ではないと思われる
今回の延空木の1件は、エージェントである吉松によるもので、そこだけを見れば彼は立派な犯罪者である
じゃあ彼は何をしたかったの?という疑問の答えは「自分が才能を見出した少女が思い通りに成長しなかったから解らせに来た」だろう
殺人の才能を生かすことでどんなメリットが得られるかなどについても言及はない模様
舞台装置として認識してるので、理由はさておき、ばやっとした理念を理解出来ればいいかと認識している
あるいは今後の話の展開のために敢えて何も語っていないのかもしれないが、そもそもメインとなる話はリコリスであるから、続編があったとしてもアラン機関が登場する理由はないだろう
・真島
ぽっと出じゃなかった髪がすごい人
弱者の味方と語るが、強者を蹂躙することで弱者の味方になるという認識なのだろうか
所謂ラスボスのポジションで、尽く千束に絡んでくるある意味人間味のあるテロリスト
バランスを取るためにテロを起こすのは割高ではないかと思われるが、広く世間の弱者ににアピールするために事を大きくしている……のかもしれない
自分なりの美学があるらしく、破壊の限りを尽くすと言うより、何かしらの爪痕を残すことを目指している?
で、結局最終的には千束と命のやり取りがしたいと語るあたり、バランスとは何だったのか
およそ美学に基づいてテロを起こすという点においてはヒールとして興味深い
とはいえ、結局何がしたかったのこの人V2であることには変わらない
大衆にリコリスの存在を認知させることで、日本の闇を暴いたのだとして、それがどうバランスを取ることに繋がるのか不明
「美学のもとに世間をさわがすテロリスト」くらいの認識に落ち着けば特に何も思わない
・たきな
結果、DAの支部にて感情豊かになり、命令を無視するような狂犬と化した
しばしば話の展開が早いと語られるが、千束の心臓の件もそうだろう
個人的にはたきなが千束に情を抱き始めているのはよく分かったので、戸惑うところまでは理解出来る
がしかし、いくら感情豊かになったとはいえ、理性を失うほど突っ走るキャラだったのだろうかという疑問は残る
命のやり取りしてるんだから必死になって当然!とは思うけれど、突然好感度が50が5000くらいにぶち上がった印象で、ちょっとびっくりしてしまった
吊り橋効果かもしれない
あと単純に疑問なのですが、命令無視しまくった結果左遷続行ということなのですよね?
左遷先の方が伸び伸び過ごせそうなあたり、楠木さんどうなんですか?
とまあ主に後半戦の疑問をまとめた
カッチリしたバトルものというより、女子メインの日常ガンアクションもの、という認識だったので、ふわふわした設定はさほど気にならなかった
キャラの掛け合いというか、場面の切り取り方がアニメというよりドラマというか、そっちを彷彿とさせたので会話劇が気に入った結果かもしれない
当然キャラが合わない人は合わないだろうし、ストーリーおもんなって人は何度見てもおもんな、って思うだろう
色んな設定が他作品を模したコピーアニメって評価も見たが、この令和のご時世、見たことも無いオリジナリティ溢れる作品の方が珍しい気もするんだがなあ
1990年以前の右派左派の右派はケインズでしょ。新自由主義がなくてマルクス主義がいた時代の話だよ?
だから経世済民としての経済の主軸である議論と右派左派と経済理論が一致していた。けど、今の右派左派は強者より、弱者寄りぐらいの意味でしかないじゃない。
まあわかってるといえばわかってる。しかし右翼左翼の陣取り合戦自体が滅んでほしいのでね。
ケインズ主義(右翼)VSマルクス主義(左翼)で、マルクス主義が滅んで、ケインズ主義より強者よりの新自由主義が復活した時点で、右翼左翼なんてもはや何を指すのか無意味な存在。
逆じゃね?
・男は既婚より未婚の方が幸福度がガクッと下がる
つまり女は一人でも楽しくやってける(もしくは既婚女と同じくらい苦労する)が
年収格差だけ見てカホーコンだのジョーホーコンだの言ってるけど女の方が結婚で割を食ってて、男の方が結婚で得るものが多いんだよな(出産、キャリア、家事育児介護の負担)
そういう社会的な風潮がいつまで経っても変わらないから、強者男性と結婚できないならペイしないってんで弱者男性を見捨ててお一人様で気楽にやるわってのが現状
あ、もちろん恋愛に見切りをつけて「お一人様の人生を楽しむモード」になるのはいいことだと思う
異性に恨みを募らせて生きるよりずっといい
「可愛らしい」という言葉、自分は普通に「可愛い」の同義語くらいにしか思ってなかったんだけど(しいて言うなら「可愛らしい」は「可愛い」よりももっと幼いイメージ)
世間での「可愛らしい」という言葉の実体を知ってショックを受けた
世間一般では「可愛らしい」は自分が今まで思っていたのと違って、「可愛い」とはお世辞にも言えない相手、つまりはブスに対して使う言葉らしい
何とそこまで違ったのか…
ていうか自分は相手の外見に一切関係なく、可愛いと思えば「可愛い」って言ってたけど…世間じゃ違うものなのか…
さらに「いい子」はもっと酷くて、「可愛らしい」すら出て来ないくらいに超絶ブスにしか使われない言葉らしい
いや自分はイケメンであろうとも優しそうだったら優しそうだというが…?いちいち他人の顔に言及する方が失礼じゃん
なんで他人の容姿にいちいち言及しなきゃいけないんだろうね…もうほんと疲れすぎて引きこもりたいし、ブスはどんなにメイクしようが無駄なのを思い知らされて、容姿強者のフェミニスト達が唱える脱コル理論にも殺意を覚える
1.相模原障害者殺傷事件の犯人は「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させれば世界平和につながる」という思想のもと犯行に及んだ。
ここで犯人が訴えているのは、意思疎通のできない重度障害者はその存在が不幸で、かつ、社会的に何も生み出さないわりにそのお世話に多額の税金と労力が費やされていて、単なる社会のお荷物だから安楽死させればよい、ということだ。
なかなか先鋭的な意見で、絶対に賛成はしたくないと直感的には思う。しかし、理屈でどうやって対抗すればよいのか。この主張に反論するのは結構難問なのではないかと思うに至った。
2.意思疎通のできない重度障害者が社会のお荷物なのは事実だろう。彼・彼女らが社会に何か貢献できるかと言われれば、今の高度に複雑化した社会では極めて困難だろう。そして、いるだけで税金がかかってしまうし、介護・医療などで人手も取られる。もし彼・彼女がいなければそこに投入されていた税金や労力を別に回すことができる。
実利的、合理的、功利主義的に考えれば、彼・彼女らはいない方が社会全体にとってよいという考えに至る人はそれなりにいるのではないか。相模原障害者殺傷事件の犯人のように実行に移すかどうかは別として。
こういう実利的、合理的、功利主義的な観点から犯人の優生思想に反論しようとすると、なかなか難しい。
3.実利的、合理的、功利主義的な観点からの反論として「今回のコロナ禍で引きこもり属性が強者となり、自宅でじっとしていられない陽キャは弱者となった。このように今の社会では確かにお荷物かもしれないが、社会の変化があったときにその属性が強者となることはありうる。多様性に富むことが種の強みなのだ」的な言説に触れることが増えた。これも一つの反論としてはありうるだろう。
しかし、私は意思疎通のできない重度障害者が適者となる社会を想像できない。それはどんな社会なんだろうか。また人類史においてそんな時代はかつてあったのか?
上記の「コロナ禍で〜」という反論も、ある特定のタイプの障害や特性の持ち主を殺処分してはならない理由とはなり得ても、意思疎通のできない重度障害者を安楽死させよという主張に対する反論としては成功しているとは言い難い。
「「生きるに値しない生命」などない。人間の生命に対して人間がそのような問いを持ち出すことは許されない。私たちは,あらゆる人間の生命に対する線引きを頑なに拒否しなければならない。人間がこの世に存在するための特別な条件などどこにもない。
私たちの意識のなかにそのような考え方が深く根を張らない限り,真の共生社会の実現などありえない。」
という説明がなされている。
しかし結局のところ、これとて実利的、合理的、功利主義的観点からは反論できてなくて、「我々の住む日本は全ての人に人権があり、それを恣意的に選別したりすることを許さない社会なのだ。」という以上の意味を持たない。
言ってしまえば今の日本国憲法の「理念」に合わないから駄目という理念的な話だ。なんとも脆弱な見解に思えてしまう。相模原障害者殺傷事件の犯人はこの反論を受けても考えを変えることは絶対にないだろう。
5.犯人の思想に実利的、合理的、功利主義的な観点から反論を加えることはなかなか難しい。
この辺について専門家はどういう回答を持っているのだろうか。
それとも我々には「命の選別は許さない」という理念的で倫理的で道徳的なお題目を念仏のように唱え続け、実利的で合理的で功利主義的な思想に蓋をし続けるしか道は用意されていないのか。