はてなキーワード: 京都アニメーションとは
総合テレビの朝の8時15分からという早い時間に放送するのは、この作品が子ども向けに放たれた京都アニメーションの作品だからだと思う。
内容は優しく可愛く、確かに幼児に向けてのものなのだが、そこはやはり京アニらしさがあり、オタク心がくすぐられる部分も多く存在する。
まず第一にOVD、京アニファン向けに発売されたものであるということ。
今見るとショックを受けるだろう。今後も作品と事件を切り離して見ろということは何度も言いたい。
しかしこの作品をこれから初見で鑑賞する人にとっては気軽に見れるものではない。
それを汲んだうえで、もう一度言う。作品と事件を切り離して見てほしい。
二回、三回と見ていけば京都アニメーションが何を目指しているのか段々見えてくるはずだから。
どうしても見てほしい。なんとしても見てほしい。お願いします。
植松聖被告が京アニ事件を「恐ろしい事件ですね」と語ったのは月間「創」の編集長である篠田氏という方が、接見に行った時の事です。
その日の植松被告との接見では、そのほか京都アニメーションの悲惨な事件などについて話が及んだ。
「恐ろしい事件ですよね。ああいう犯人を世に出しておいてはいけない」
植松被告はそう言った。京アニ事件直後の手紙でも彼は同じ感想を書いていた。
相模原事件も相当凄惨な事件だったと思うが、彼は他の凄惨な事件、例えば外国で起こる大量殺傷事件などについても「恐ろしい事件だと思います」と感想を述べる。他の事件についてはごく常識的な感想で、それと自分自身の事件がどういう違いとして彼の頭の中で整理されているのか。本人に聞くと自分の事件は全く違う、というのだが、世間はそう考えていないわけで、私はいつも不思議に思っている。
9月1日、さいたまスーパーアリーナでのアニメロサマーライブに、シークレットで登場したのは、放課後ティータイムだった。
他のアクトとは段違いに会場が揺れた。
もちろん、それまでのアクトも多いに盛り上がっていたが、やはり放課後ティータイムの生み出した「熱狂」はその持つ意味も含めて特別だった。
長い時を経ての、そして京都アニメーションのあの事件が起きた後での、放課後ティータイムとしてのライブ。
キャスト達は壇上にそれについて言及することはない。ただ、全力で素晴らしいライブを披露しただけ。それでも観る側はそこに特別な意味を見出してしまう。
これからも、京都アニメーション作品、作品に付随するものを観る時に、事件のことを100%脳裏から消して対峙することは難しいだろう。
京都アニメーション自体や関わる表現者の方は、それを好まないだろう。今後生み出される作品は、そんな記憶とは切り離して純粋に楽しんで欲しいという思いで作られるだろう。
ただ、かつて数々の宗教でその信仰を強めてきたのは(結果として)多くの「殉教」だったように、痛ましい事件によって京都アニメーションの作品は、ある種の「聖性」を帯びることになってしまったように思う。
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京都アニメーション作品の1ファンとしては、時を巻き戻して事件を無かったことにできるなら、どれほど良いだろうと思う。ただ、それが不可能な以上、これからも作品を応援し続けるしかない。
失われた命は戻らないし、負傷者の方の傷が癒えること、スタジオが完全に立ち直ること、には長い時間が必要だろう。その長い時間、ずっと応援し続け、願わくば「聖性」などと思うことなく、また純粋に作品のみを楽しめる日がくることを。
弊社の度重なる要請及び一部ご遺族の意向に関わらず、本日被害者の実名が公表、一部報道されたことは大変遺憾です。弊社は、京都府警及び関連報道機関に対し、改めて故人及びご家族のプライバシーとご意向の尊重につき、お願い申し上げます。
2019年8月27日 京都アニメーション代理人弁護士 桶田大介— 桶田大介 (@DaisukeP) August 27, 2019
(これを書いている時点で、情報が公開された。自分としては、マスコミのゲスさにうんざりしている)
先に結論を書くと、実名と年齢を聞かされる事での親近感を覚える心理マジックというか錯覚に、「売れれば正義」なマスコミも、他人の不幸を「感動ポルノ」として消費するのが好きな視聴者らも囚われ過ぎてるからだ。
「なんでも鑑定団」という番組があるよね。言うまでもないが、テレ東の看板番組のひとつであり、身の回りにある「お宝」がとんでもない高値のものな事が判明したり、逆にお宝とされていたものが「真っ赤なニセモノ」でタダ同然な事がわかり、出品者が赤っ恥をかくのも番組名物である。
その際、出品物の由来が古美術商から説明されるが、我々が一番見たいものといえばそう、「評価額」だ。つまり、「それはお金にすると、幾らになるのか」だ。だから、発表された高値に驚いたり、逆に二束三文と分かった時のトホホ感覚を楽しめるのだ。
さて、京都アニメーションでの死傷者名が公表された。検視作業も困難を極めたであろう警察関係者には、感謝しかない。
ただしマスコミ、てめーらの関心は前述したように「名前(ここから性別も推測)と年齢」から感じる親近感マジックで、お涙頂戴の悲劇として実際の放火死傷事件をいかに「感動ポルノ」として消費するか、しかねーだろ。
それを、さも報道の使命とやらでごまかし、その後に発生するであろう遺族へのメディアスクラムには知らん顔、というゲスな根性を巧妙に隠している姿勢が、気に入らねーんだよ。
「事件が忘れ去られるのを防ぐ」とやらで御託を並べるなら、アンタらマスコミは自局で「事件追悼企画」とやらで、京アニ過去作の放送くらいやってみたらどうかね。そういう動きに結びつけてない時点で、しょせんアンタらの関心は「死者のプライバシー暴き」とそれを感動ポルノとして消費することにしか無いんだ。
これは単に自分の金が惜しかったからだ。誰しもが持っている感覚。自分が稼いだ金を誰かに渡すなんてとんでもない。
そういった気持があるが故に、人生で寄付をしたことが無かった。
神社へ御賽銭を投げることはあった。それもせいぜい10円だ。でも、それでも10円でさえも自分には惜しいように思えた。
なにかのタイミングで人に奢ることはあった。でもまぁ、それも人が食べた食べ物を自分が払ったまでである。
「人間関係を買っている」とも言えるかもしれない。寄付や喜捨の類ではない。
それくらいの感情しか持ち合わせていないので、寄付はしたことがなかった。
さて、京都アニメーションである。京アニの事件はとんでもなく衝撃的だった。
詳細は省くが、アニヲタの心を打ち崩すには十分だった。
自分はアニヲタなので、京アニの事件でメンタルの調子を崩された。
かろうじて人格は保てたものの、自分の中にあったアニヲタとしての成分は破壊されたのである。
そんなこんなで1ヶ月近くアニメを視聴することができずに、今日に至った。
この1ヶ月の調子は最悪だった。
「アニメを視聴することとは一体なんなのか?」
「なぜ俺はアニメを視聴しなければならないのか?」
「アニメを見ていて壊れる人間が居るというのに、俺はアニメを見ていて壊れない保証はあるのか?」
といったような、良く分からない疑念に苛まれていた。無駄に悩んでいたのだ。
アニメなんて見たければ見れば良いし、見たくなければ見なければ良いのだ。
そこに損得勘定なんて必要ない。見たいか、見たくないかで考えれば良いのだ。
にもかかわらず、アニメを視聴できなかったのは何故だろうか?
自分もこれは申し訳ないと思っている。学生の頃は許されていた気がした。
ところが、今は社会人である。金を稼いでいる。そんな人間が違法視聴するってどういうことなんだろう?
でも、視聴するアニメによってプラットフォームを分けるとか、本当に面倒臭い。そんなことを自分が管理できるとは思えない。
そんな怠惰もあって、違法視聴することが人生の習慣に組み込まれていた。
「1銭も業界収入に益していない人間が、このような事件を経験した後に、何もできないままに、何もしないままに、どうしてその恩恵に預かることができようか?」
と思うのだ。
例えば、あなたが「見知らぬ子供に奴隷労働をさせます。その利益であなたは毎日遊んで暮らせます。どうしますか?」と聞かれたときに、
はっきりとは「見知らぬ子供を奴隷労働させる代わりに、毎日遊んで暮らしたい!」と答えられない時に感じる罪悪感と似ている。
アニメを視聴する度に、この罪悪感に付きまとわれていたのだ。
正直に言って自分は限界だった。日々すり減っていく精神。しかし、アニメを視聴できないことにはメンタルも回復できない。
薄々はこの気持ちに気付いていた。しかし、目を逸らしてきたのは、その解決方法が京アニへの寄付であると初めから知っていたからだ。
寄付すると金を払わなくてはならない。しかも、それなりの金額でないとあまりにも情けない。
大きめの金額は正直言って払いたくないのだ。それでも、心の中にある罪悪感は消したい。
けれど、ようやく決心が着いたのだ。
あまりにも不調で、不調なのがとても辛かったので、それを治したい意味でも寄付をした。
1万円である。
1万円か、という気がする。1万円はちょっと少ないのでは? という気が凄くする。
正直自分も3万円くらいは寄付したかった。どうせなら5万円払いたいし、10万も払いたい。
100万円は想像ができない。なぜなら手元に100万円も無いので。
自分の手取りは21万である。このうちの1万円を払うことには、果たしてどれほどの価値があるだろうか?
自分は十分に義務を果たせているだろうか? 3万円はいくべきだろうか?
アニメを違法視聴しても大丈夫だろうか? そもそも違法視聴しなければいいのでは?
なぜ違法視聴をしてしまうのか? 学生時代ならいざしらず、社会人の今になっても違法視聴しているのは何故か?
警察が来そうな法は侵さなくても、これくらいならバレないだろと違法視聴している人間も、かなり意地汚くないだろうか?
と、なんやかんや思って、京アニに1万円を寄付した後は、アニメを2話ニコニコで視聴した後、違法視聴するのを止めた。
止めた。止めたったら止めた。止めた。
これだけ言ったのだから、止めた。
どんなにまともに頑張ろうとしても、違法視聴しているという自己認識が頑張りを阻んで来るので止めた。
すると京アニ事件以来、全く見れずにいたアニメが視聴できるようになった。
京アニの事件が起こり、寄付をして、違法視聴を止めて様々な配信サービスに課金し、それと引き換えにアニメを視聴できるようになった。
感想は最高である。俺は「アニメを視聴する権利」を買っている。俺のアニメ視聴を咎める人間はこの世界のどこにも居ないはずである。
これまでは悪かった。違法視聴をしていた。この世界には俺がアニメを視聴していることに対して怒る人間ばかりだったと思う。
でも、今は違う。京都アニメーションへは寄付をしているし、普通に配信サービスへ正当な金を払っている。
1万円寄付をしたが、これは過去への贖罪である。1万円が???
1万円は安くないか?
……
いま追加で2万円を追加で寄付をした。合計3万円だ。
再来月には昔の友だちが結婚式を挙げるらしいのだ。
そこで3万円を包む。これによっても許されるだろうか????
いま、金を払って視聴しているけども、とても楽しい。コンテンツに金を出すのを躊躇うようになったらダメだ。
どこまでも意地汚くなってしまう。清廉に生きたい。業なく死にたい。
もう大丈夫だ。アニメを視聴できる。これからは漫画も買って読む。違法には見ない。
多分読む量は減るだろうけど、違法には読まない。
アニメは課金して視聴するし、漫画はKindleで買って読む。
そうすることにします。
「ニュースに載るのはニュースバリューがあるもの」というのは当たり前すぎる大前提。
そんなところから話を始めるほうが「結論ありきの理由付け」に見える。
「被害者が総理大臣」と「被害者が平凡なサラリーマン」とでニュースバリューは明らかに異なる。
「世界に冠たる京都アニメーションのアニメーター」のニュースバリューはいかほどか。
大筋ではデマだったんだろうが。
痛くない腹を探られたくないと保身が出たのか、
火災現場の近く居合わせたNHKのディレクターが、容疑者とみられる男を複数の警察官が取り囲んでいる様子を映像におさめていました。
撮影したのは、NHKの首都圏放送センターに勤務する吉田達裕ディレクターの取材チームで、京都駅から火災が起きた京都アニメーションの本社に向かっている途中でした。
現場付近に到着した際の様子について吉田ディレクターは、「進行方向に黒い煙が上がっていて近づいていくにつれ周りに消防車やパトカー、救急車が増えていきました。煙もどんどん大きくなり、窓から火が出ているのが見えました。サイレンが鳴り響き、警察官など多くの人がいて現場は混乱していました」と話していました。
そして、現場にほど近い場所で吉田ディレクターたちは、路上に倒れている男を目撃し、映像におさめていました。
撮影された映像には、路上に男があおむけに倒れていて複数の警察官が取り囲んでいる様子が映し出されています。
吉田ディレクターは、「倒れている男がいて、周りに警察官が3人ほど集まり、男に話しかけている様子でした。男の服は右足膝の下からやぶれ落ちていて、靴をはいていない状態でした」と話していました。
吉田ディレクターは、本社での打ち合わせのあと、午前11時ごろから火災が起きた第1スタジオで番組の撮影を行う予定だったということです。