2019-09-04

聖性を帯びる京都アニメーション作品

9月1日さいたまスーパーアリーナでのアニメロサマーライブに、シークレットで登場したのは、放課後ティータイムだった。

他のアクトとは段違いに会場が揺れた。

もちろん、それまでのアクトも多いに盛り上がっていたが、やはり放課後ティータイムの生み出した「熱狂」はその持つ意味も含めて特別だった。

長い時を経ての、そして京都アニメーションのあの事件が起きた後での、放課後ティータイムとしてのライブ

キャスト達は壇上にそれについて言及することはない。ただ、全力で素晴らしいライブ披露しただけ。それでも観る側はそこに特別意味見出ししまう。

これからも、京都アニメーション作品作品に付随するものを観る時に、事件のことを100%脳裏から消して対峙することは難しいだろう。

京都アニメーション自体や関わる表現者の方は、それを好まないだろう。今後生み出される作品は、そんな記憶とは切り離して純粋に楽しんで欲しいという思いで作られるだろう。

ただ、かつて数々の宗教でその信仰を強めてきたのは(結果として)多くの「殉教」だったように、痛ましい事件によって京都アニメーション作品は、ある種の「聖性」を帯びることになってしまったように思う。

作り手が望まずとも、観客は勝手にその意味づけをしてしまう。

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京都アニメーション作品の1ファンとしては、時を巻き戻して事件を無かったことにできるなら、どれほど良いだろうと思う。ただ、それが不可能な以上、これから作品応援し続けるしかない。

失われた命は戻らないし、負傷者の方の傷が癒えること、スタジオが完全に立ち直ること、には長い時間必要だろう。その長い時間、ずっと応援し続け、願わくば「聖性」などと思うことなく、また純粋作品のみを楽しめる日がくることを。

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