はてなキーワード: イチローとは
結婚は出来たけど生産性の為に敢えて子供を作らない、なんて人はまず居ないわけで。。。
普通に結婚出来そうなのにしないような人は単に男色家か、と疑われるわけで。
スポーツ選手なんてみんな豪遊してるの知ってるじゃん。イチローがしてないならそりゃちょっと変人だからで。
政治家なんて遊びまくりだし、科学者なんて遊びの天才で趣味とかにすら才能発揮することもあるし。
「適度に遊んで」が甘っちょろいと思ってるのが、多分、甘っちょろいんだろ思う。。。
なんでもいいけど、こういうの見て、真の才能があるとこういう一般的におかしな点があるもんだ、みたいな、
そういうキモい発想やめようよ。
ホントにそれに気付きも出来ないようなレベルなら精神科医にどうこう言われたとこでこういう風に書けないし、
そもそも書かない。当たり前すぎて意味があることだとすら思わないから。
でさぁー、歴史上の、アインシュタインだとか、そういうのがアスペルガーだとかそう言って、
そういう人は特別なんだーってなって、そこから飛躍して、そういう特殊な人間はすごいんだーすごいことができるんだーって。
いやいや、お前、出来ないじゃん、何も出来ないじゃん。
でね、アインシュタインでも何でも、あそこまで実績残して有名になってるからこそ、ちょっとした行動が「おかしい」と称されるの。
その辺に居るあんちゃんが同じことヤッてもなーんとも思わないが、イチローほどの人間が、注目される中で何かやると、ずれてるんじゃない?
それを勝手に判断して食い物にする精神科医まで出てくるからキモイ。
もう全体的にキモイ。消えろ。
よくさ、勝手にちゃんと診断したわけでもないのに、
ゲイツだとか、イチローだとか、はたまたアインシュタインだとか、
てかさ、そんなの当たり前なんだよね。
彼らは別に人前で完璧に振る舞うプロでもないので、ふと自が出たりするだけで。
そういう診断してる医者だってさ、普段は自分勝手な行動が全くないわけじゃないだろ。
それがたまたまテレビで人前で移ったのを見て、あいつは周りが見えてない、自分勝手だ、アスペだ、って言う。
それに加えて彼らには、その有名度、能力からある程度の「横暴」が許される様な状況にあるから、
多少の我儘を通してしまった時に、さらにアスペだ、とか言われる。
いやいや、お医者さんさぁ、あんた、自分の病院で一回でも我儘通したこと無いのかい?家族や友だちの中でいっかいでもしたこと無いのかい?
というだけの話。
で、仮に彼らがアスペだったとしても、それはアスペだったから有能だったわけではなく、有能だったがたまたまアスペだった、というだけ。
横で別だけど、プロ野球はビジネスでやってる。厳密にはスポーツではなくスポーツを使ったショービジネス。
少なくともイチローがいるメジャーで言えば、人気コンテンツはホームラン争いを含めたパワー野球という側面は否定出来ないし
ちょっと前の日本でも、大量に点差が開いている状態で勝ってる方のピッチャーが打席に立った時に打つな馬鹿やろうと先輩に怒られたと嘆いていたピッチャーがいたけど、ようするにそれってショービジネスだからだよね。
ファールガンガン打たれると間延びしてショーにならない。根本から自分たちのビジネスを否定してるでしょ。
9回の裏一打逆転で、ファールガンガンというのは黙認されるけど、そうでもないなら言われる。ファール狙いを許容するなら草野球でやればいいとおもう。
それとは別の話。
打席に立つだけでもどれだけ大変か、って話。
あんたが余りに簡単にファールくらい打てるだろ、っていうから、
じゃああんたはどこまで出来るの?って話で。
例えば今季加入した一塁手ナポリ。ジョン・ファレル監督は言う。「彼は今季メジャーの打者で一番、投手に球数を投げさせているんだ」。1打席あたり平均4・58球。同様に新加入のドルーも4・12球と多い。地味な記録ながら、レッドソックスが今季投げさせた球数、2万4840球は両リーグ最多だ。
「こうしたアプローチは教えてできるものではない。オフはこの点を重視して打者を選んだ」と指揮官は胸を張った。地道かつチーム一丸の攻撃。この日の7回の逆転劇も四球からだった。
まあ、明らかなカット打法は高野連がだめだ、って後出しじゃんけんで決めたけども、
こういうのとの棲み分けはどうするつもりなんだろうね。
イチローが打ちに行って打てなそうだからカットしてわざとファールする、ってのとどう違うか?最初からの構えからなのか?
一体どうするつもりなんだろうな、高野連は。何も考えてないんだろうけど。
統計学で完璧に証明「私立は定員が多いので学閥の勢力を伸ばした」 大学は偏差値ではなく学閥で選ぶべきである
『プレジデント』誌では、社長輩出率、役員輩出率、年収1000万超企業入社率の各ランキングで一橋は第1位であった。
学生数の多い大学は、「人数」のランキングでは当然有利になる。
一橋大学 4,433人(2010.5.1)
京都大学 13,473人(2010.5.1)
早稲田大学 44,894人(2010.8.6)
役員輩出力の総合トップは、「一橋大学」である。輩出率でも、輩出指数でもトップであり、文句なしのトップと言えるであろう。
法科大学院合格者ランキング…合格者数は東大、合格率は一橋大 | リセマム
Business Media 誠:東大合格者ランキングは正しいのか?——常に分母は何かを考えよ
2位 灘(兵庫県) 72人
1位 開成(東京都) 118人 400人 29.5%(3位)
2位 灘(兵庫県) 72人 220人 32.7%(2位)
1位 慶應義塾 34人
2位 日比谷 13人
http://www.hs.keio.ac.jp/profile/number.html
総数, 2,162名
http://allabout.co.jp/gm/gc/22283/
生徒数762名。
チャドウィックが「四球は完全に投手のミスによる産物である」としたために、四球は含まれず安打のみで算出されるものとなった
【MLB】ジーター暴露! “死球”は演技だった…「俺の仕事は出塁することだから」
イチロー、死球は知らんふり - MLBニュース : nikkansports.com
一般には、プロ野球はアメリカではマイナー3Aに位置づけている。
なので、メジャーリーグの水準で公式記録であれば問題ないが、マイナー3Aレベルのプロ野球で為した1000本はあくまで参考記録に過ぎない。
それはアメリカではプロ野球がメジャーより下だと見ているからだと言われている。
事実、メジャー挑戦を表明するプロ野球選手はどの選手も1ランク上のフィールド(夢の舞台)と考えているからだ(イチロー、野茂、新庄、松井など)。
このような背景があり、プロ野球の水準をメジャーに宛がうのはむしろ失礼にあたる。
それほどメジャーリーグというのは世界中の野球ファンから神聖化された場所であり、小国のベースボールが大国の、様々な人種の集まる最高のベースボールに比較されるものではない。
これは恐らくイチローも理解していると思う。
実際、3999本安打を打った時のインタビューでは騒ぐことのものではないといった旨の発言をしており、プロ野球で打った1000本とは切り離した見方をしているのが分かる。
イチローですら疑問を感じている日米通算4000本安打の価値は、チームメイトジーターの“4000本ならリトルリーグの記録でもすごい”の発言でも分かる通り一部メディアを除いて多くの人は“日米通算記録”に拘ってる事が分かる。
昨日伊集院光が語る「ラジオの書き起こしサイトについて」 | 世界は数字で出来ているを読んで、
やっぱり、喋ってることを文章にすると、絶対に変わっちゃうんだよね。変わらないなんてことはありえなくて。そのために、『伊集院が言った一言一句を書いてます』ってやったところで、その限界なところまでやったところで、絶対に変わっちゃうっていう
というところでふむふむ確かに~と思って、
今日日米通算4000本安打達成のイチローが会見(全文掲載)/一問一答 (MLB.jp(GyaO!)) - Yahoo!ニュースを読んで改めて実感した。
やっぱりいくら精密に文字起こしをしてもそのときの表情なりニュアンスなり口調なりをすべて表現することはできないんだなあ。
奥歯に物がはさまったような言い方をイチローがしてる部分があったけど直接動画を見ればもう少しニュアンスが伝わるものなのかなとか思ったときに、そう考えた。
血のにじむような努力があってこその大偉業。
たしかにイチローは我々の想像を絶するほどの努力を長年積み重ねてきたことだろう。
だからこそあれほどの輝かしい結果を生み出せた。
でも、万一俺がイチローと同様のとてつもない努力ができていたとしても、イチローのようには決してなれなかっただろう。
日本って(日本に限ったことじゃないのかもしれないけれども)、才能を忌み嫌う代わりに努力を神格化しようとする傾向が強すぎるような気がする。
実際には、結果を出すための要素としての才能は、努力に勝るとも劣らないと思う。
教育上は「才能才能」とことさらに強調するよりも「努力努力」と努力を重んじて教えた方がいいのもわかるけど、せめて才能の重要性も教えてあげてほしい。
生まれ持った才能は、おのおの意外なところに隠れているもの。
才能の重要性を教える教育を施せば、早いうちに自分の限界を知ることができるだろうし、己の限界を知ることは、別の方面で自らの才能を探ろうとする原動力になるのではないか。
千葉くんの技術が賞賛されてるのを見ると、ものすごく違和感がある。
確かに千葉くんの技術は花巻東にとって必要なものだし、試合結果からみても彼はキーマンだった。
でも、どんなに結果を出したとしても、曲者は曲者だし、邪道は邪道だ。千葉くんは一流にはなれない。
千葉くんはカット打法だけじゃなく、様々な小技を持っている。サイン盗み、殺人タックル、
四球後の相手をいらだたせるためのガッツポーズ・・・。もちろん千葉くんは悪人じゃないので
ものすごく練習したんだと思う。練習の成果は抜群で、強いし有効だった。でも邪道。
花巻東の監督は大谷や菊池なんかの、超一流プレイヤーをものすごく大切に育てている一方で、
千葉くんみたいな伸びしろの少なそうな選手を、甲子園専用使い捨てプレイヤーとして育てているわけだ。
もちろん千葉くんは納得してると思う。そうじゃないならとっくに野球部やめてるだろう。
でも一方で、千葉くんの心のなかには、ホームランバッターとはいわないが、イチローのような一流のアベレージバッターとして
活躍したいという気持ちもあると思う。しかし、千葉くんはその夢を叶える選択肢を捨て、曲者としての道を選んだ。
でも、本当にすべて自分の判断だったんだろうか?監督による誘導はなかったか?「チームのため」という圧力は無かったか?
「何十年前の田舎の話だよ」的な反応あるけど、案外あるもんよ。少数派であっても極少数ってわけじゃない。今年で21になる俺も、ここまでひどくないけど似たようなこと経験したし。ただ、学歴というより環境の差だとは思う。
地方出身で上京した大学生は誰でも程度に差はあれど、成人式で同じような衝撃受けてるじゃないかな。
高校の同級生は元々同じような学力持ってたからみんな大学行ってるとして、久々に中学の同級生と会うと「住んでる世界違うな」ってなった。
当時と同じようなメンバーで当時と同じように遊んでる。悪い意味で刺激が少ない環境だと思う。元増田の言ってた「趣味が舞台鑑賞のヤツ」じゃないけど、田舎にいるだけじゃそういう刺激を受けることができないんだよ。だから、周りの人間と似たような生き方しか知らないままになる。
もちろん、早いうちから社会人始めたおかげで人間的にすごく魅力的になったやつもいたけど、それは野球少年の中のイチローみたいな存在で、レアケース。
「だから東京が良い」とは言わないけど、生まれも育ちも違う人間が一番出会えて、刺激を得られる機会が多い場所って意味で、上京して本当に良かったと思う(地方じゃ気軽に美術館行けないし)。
これから社会を渡り歩く上で、是非とも知っておきたいこととして、世の中始末に負えない乱痴気野郎は数有れど、正論人間ほどタチの悪い、人生の詰んでいる人間は居ない。これは知っておいても損はないだろう。
これから社会へ羽ばたき偉業を成し遂げんとする君たちも、薄々感づいてはいるはずだ。学級委員長や生徒会長のような正論マンの不甲斐なさ、そして冬の碧空にも似た慟哭に。
世の中に蔓延る正論をなんとかして駆逐せねばならぬ、とまで考える人もいるだろう。また、正論をどや顔で言うような族(やから)にだけは俺様はならん!と固く誓っている人もいるだろう。
しかしちょっと待ってほしい。ここで大切なのは感情論の排除である。何事も感情的になっては琴をし損じる。感情的と言ってもヤキモキしたキモチを適切な形でストレートに吐き出すのはむしろ良いことである。
そうではなく本当の感情は棚にあげて都合のいい別の感情を正当化しようと論をひねりだすのが駄目なのだ。結局それは言い訳であり捏造にすぎない。自分にも他人にも嘘をつき、感情的になればなるほどその嘘の対立構造がエスカレーションする。
だから冷静に思考しなければならないよ。学生時代にロクに人と向き合うことなく2chなどをやり過ぎてきた人は特に注意。面接で俺は友達いるしサークル入ってたしバイトもしてた、なんて人がよくいるけど、
そんなのも名札(title)にすぎないのだよ。中身が肝心。素直な気持ち・意見をどれだけ適応的にやりとり出来たかどうか。その意味で正論を文字通り「正しい」と思えるような人は危ないと言ってよい。
結局のところ正論というのも名札にすぎない。正しいと名札がついたことを言えば、一応は一定の力をもつ。絶対無敵とまではいかないが、たいていの場面で有利な形勢に持っていくことが可能であるという意味において。
ところがね、第1にそもそもにおいて「勝つ」必要などないのだよ。狡黠な人間になんてなる必要ないとも言い換えられる。ずるい人間って世の中いるよね。それは一種の適応とも言えるが。
よく考えてほしいのは、適応というのは常に不適応の可能性をはらんでいるのだよ。ある方向に適応したということは、他の方向に適応できなかったからかもしれない。ズルいってのはそういうことなんだ。
あらゆるファクターがありうるので一面的に決めつけることはできないけどな。けれどもそれがもし不適応からきた果実だとしたらそんなに哀しい色の果実はない、そう思わないかいということなんだ。
第2に正論はあくまで論の正しさに過ぎない。論とは前提たる命題に推論規則を用いて演繹していくプロセスなのだがな。ともかく論の正しさはあくまで推論の正しさであり前提の正しさではないという中学校から教わってきた当たり前のことなんだ。
当たり前だがみんなすぐ忘れてしまうから常に確認しながら進んでいかないと行けないんだ論者たちは。でないと、、中学生が見てもバカじゃんこの大人たちはって言うようなことが頻発するのだ。
人間は多くの人間自身が考えているよりもスキが多い、不注意が多い、手抜かりが多い生き物なんだ。だから当たり前のことを当たり前にやれる大人になること、これが何よりも大切で、難しいことなんだ。
岡目八目と言ってハタからみて批判するのは簡単だけど実際にそういう立場になったとき自分自身しっかりやることが肝胆だよ。だから正論を畳みかけるように言われてもジト目で疑うことを怠たらない誠実さを忘れてはならない。
そういったことを抜かりなく積み重ねていく先に成長がある。正論を疑うにあたっては、繰り返すが感情的になってはいけない。感情を包み隠さず適切な形で表現するのは良いことではあるが、感情に論がくっつくと
途端に一気にタチの悪い一揆を巻き起こして塗炭の苦しみに見舞われてしまう、と述べたね。ここで1つ感情的にならないコツを教えよう。こと人間関係になると多くの負の感情は恐れからやって来る。
怒りも恐れ、恥ずかしさも恐れ、不安も恐れ、いろんなことが恐れから来ている。そしてそのことをみんな自認したがらない。だからビビり先輩ちーっすwな煽りが万国共通に通用すると。
だから恐れを常に認めないといけない。認めるためには心の余裕が必要なの。心に空きスペースがないと駄目なの。ワーキングメモリが一杯になると他の事考えられなくなるでしょう。
実は人間は生きる心構え次第で必要な余裕が雲泥の差なんです。一般には精子いや生死をかけた闘いを日々繰り広げる人ほど沢山の余裕が必要と考えられている。しかし実際は彼らの95%は忙しいの字は心を亡くすと
書くとの格言どおり忙しさのあまり心が狭くなっていますから、それでもなんとかやっていけてるということは実は大して彼らのような生き方のためには別に特段余裕が必要なわけではないんですよ。
ただしそれは「毎日をなんとかやり過ごす上では」不必要ということであり、「日々をよりよく生きるためには」あるいは「今後の人生のためには」もっと余裕が必要ですよ。狭い心のままではいつかSAN値がピンチになります。
そう、「よりよく生きるためには」もっともっと余裕が必要なんだよそこの君。倫理(ethics)とは本来は儒教的な処世術ではなく日々をよりよく生きる方法を追求する学問であった。
自分のことばっかり考えてガンガン心を狭めていては結局のところ苦しい境遇に追い込まれていくようにうまく世の中はできている。天網恢々疎にして漏らさずとは至言なり。
『オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情』の紹介文を見てごらんなさい。「感情はなぜ存在するのか。感情がその場限りの自己利益を越えてより合理的に行動を方向づける働きがあることに着目し、
今まで十分に理解されていなかった利他行動など、一見非合理的にも見える行動のメカニズムを鮮やかに解き明かす」。この問題意識と解決の試みに非常に高い知性を感じざるを得ません。
実は感情は我ら人間の誇る高級な機構であったという発見が続々と為されている。そういった感情を捨象してロボットのように正論を言ったり感情を捏造して論理で塗り固めたりするのはもう今年で卒業しよう。
来年からはきっぱりケジメをつけて全く新しい人間に生まれ変わるつもりでいこう。ただしだイチローの「変わらなきゃも変わらなきゃ」の精神は忘れちゃならんぞ。必死に変わろうとする人間がよく陥る罠。
変わろうと歯を食いしばることは現状を強く否定することになるが、実は否定すればするほど暗に弥が上にも強く肯定してしまう結果になるのだから、決して無理に変わろうとしてはいけない。
これも人間関係と同じで根底には恐怖がある。忙しさを好む精神の奥底にはしばしば恐怖があるのだ。一般に強くコミットしようとする性向の背後には恐怖があるということ。
だから強くコミットしようとするのではなく、ソフトなアプローチ。これが大原則なのだが、そのためには実はたくさんの余裕が必要なんです。だから言ったとおりでしょう心構え次第で雲泥の差。
余裕といってもロマンティック・アイロニーのやうな嘲笑や放蕩ではなく、きちんと自分の行い、思考を決める規律を自分で定めないといけない。
クラピカも制約を自ら誓約して力を手にしたのだからこの支配から卒業して賜杯を手にするには規律を自らに課すことが必要不可欠といっても過言ではなかろう。
ぱっと見なめし革のような硬質な立派さを漂わせてはいるもののそれはあくまで虚構で、その内に秘めたる醜さは計り知れない。だから俺はブランドもののバッグが大嫌いなんだ。
ともあれ人の心にハリボテエレジーのような哀愁があり、それを我々は他者や社会との関係の中で再現しているに過ぎない。しあわせに小石をなげて。
その修正を試みるのがサイコドラマの主旨である。ともあれ正論という古い規律を捨てて感性的であろうとすると俺たちはいとも簡単に自己否定のワナにかかってしまう。だから新しいマイルールが必要なのだ。
マイルーラ見かけなくなったなと思ってたら2001年3月製造中止。 テレビCMや大学の文化祭で宣伝しだしてから、若者の間で非常に人気が出て世論の批判を浴びたことが原因とな。
コンプレックス、ってまずはある程度同じ土俵に立たない限り感じようも無いからな。
例えばイチロー見て、俺はプロ野球に入らなかったから何億も貰えるような大リーガーになれなかったんだ、
なんて感じる人はほとんどいないだろう。。。
学歴ってのは、ある意味で、東大ですら努力すれば入れるんだ、って所があるし、
実際大した差じゃない、って部分がある一方、
最初から高校卒業して働く、って決めてる人はそれ程学歴コンプレックス持ってる人は居ないと思う。
主に受験で失敗したり、ランクを下げざるを得なかった人達でしょう。
または、成金の、元々金持ちの家に生まれた人間に対するコンプレックスと同じで
自分が成功してる場合に、自分が昔受けられなかった恩恵の鬱憤を晴らすため、
逆に昔恩恵を受けてたけど今失敗しているヤツラを見て笑って見下すことで
自尊心を高揚させる。
この2種類があると思う。