はてなキーワード: 衒学とは
「これはポップに見せかけた衒学趣味だ」と早々に“見切った”人たちが、
実はそうではないことに気付かないまま、
「早く本題(=衒学)に入れ!」と言っているみたいに見えるんだよ。
「演出の技が必要」というのは同意するけど、
いまピンドラに文句をつけている人たちは、
むしろ「演出過剰で中身についての説明が無い」と言っているように思う。
大阪駅の一風堂当りで演説してる人からただでもらったので読んでみた。
ひとことで言うと「大人のためのセカイ系中二病のススメ」という感じ。
誤解がないよう、本の内容の前にwikipediaを引用しておく。
設立当初は霊言集の刊行などによる「霊知識」の普及を中心とした啓蒙活動が展開され、信仰に関することが説かれることはあまりなかった。後に、教団内で組織ができるようになるが、多くの会員は入会する前に持っていた信仰に従い、会を指導(支援)しているとされた「高級霊」(例:日蓮宗系の人は日蓮、浄土真宗系の人は親鸞)を信仰していた。1989年からは、「三宝帰依」など信仰心について説かれるようになり、1990年「信仰と伝道」の法話が説かれ、1990年からは組織的な伝道活動が開始されるようになった。また、宗教法人となった1991年には、『月刊Asahi』4月号で幸福の科学の紹介記事が掲載されたほか、東京大学での野外講演「黎明の時代」(5月)、東京ドームでの「御生誕祭」(7月)、講談社フライデーへの抗議行動(9月)などで世間の耳目を引いた。1992年12月には、会員でも代理本尊の一つである「家庭御本尊」を安置することが可能となった。1994年4月10日には、主宰により「方便の時代は終わった」と宣言され、根本経典や基本書の『太陽の法』が改訂され、教団の運営体制の整備が進むとともに、三宝帰依を中心とする信仰へと移行し、1994年6月からは三帰誓願式が始まっている。
現状は、仏教の中でもとくに浄土真宗をベースとした教義を説いている印象を受けた。
他力信仰、来世での救済をベースとした互助組織のようなカタチをとっている。
言ってみれば戦国時代における石山本願寺から、武力的要素を引いたようなものである。ってそれ引いたらもう別物か?
今までの宗教は、仏教しかりイスラムしかり、発祥した地域の束縛を受けているとし、
それゆえに争いが絶えない。特に旧いものを新しいものが倒そうとしてしまう傾向があるとして諫め、
そういったものを、より広い視野から、至高存在「エル・カンターレ」によって調和・調停させる。
これによって未来の最終戦争を防ぎ、地球平和を実現しようというのが最上の目的。
要するにセカイ系。
ただし、普通のラノベと違って、そこそこ現実感覚があるため主人公一人だけというのは無理があると理解している。
また、大人は若者と違って基本的に殺し合いや戦争といったものに憧れよりも嫌悪を抱く。
そのために補足が行われている。
・その一は「一人で戦わない」こと
「大勢の人間が一つに集まって、セカイ系の主人公の役割を一緒に果たそう。みんなでセカイの敵と戦おう」と促す。
・そのニは「武力を持って戦わない」こと。
平和を目的とし、手段にしても「争いの調停者」という形を取る。武力介入しないソレスタル・ビーイング?・・・うーん。
・その三は「支配するのではなく模範となる」ことを目的とする。
世界宗教によって世界を統合し、争いをなくすことが目的なのだが、自らが世界に広がろうとはしない。
あくまで日本に理想の宗教国家をたて、モデルケースとして運営することで、世界がソレに倣うように仕向ける。
なぜ日本にモデル国家を建国するかというと、日本は未熟ながら、最も理想を実現するのに適した下地だから、だそうです。
こうやって中途半端に自分のコトを賢いと思っている大人の心をくすぐるのが上手だな、と感じた。
何事も斜めに構えてケチを付けるけれど、ちょっと合理的な説明を返されるところっと信じてしまうタイプの人ははまっちゃうんだろうな。
成り立ちからして明確な教義を持ってスタートしたわけではないことから、信仰によって他者を排斥するということはあまりない。
唯一のルールは教祖である大川隆法を信仰することであり、ソレ以外を強要されることはない。かなり自由。
(逆に言えば、他の「個人崇拝」型の宗教や論理的に厳密な人間を極端に嫌う)
「幸福の科学」という言葉にあるように科学についても寛容、というより手段や戒律に厳格な要素は少ない
あくまでも幸福を実現することが目的であり、その目的にかなうのであればそれは全てエル・カンターレの意に沿うものである。
それは他者への愛(作中では「慈悲」)と大いなる存在への感謝(作中では「信仰」)によって成し遂げられる。
要するに目的が正しいならなんでもありってこと。
大事なのは「信仰心=大いなる存在を信じ、その愛に感謝すること」をもって生きることだけであり、
その基礎さえできていれば他の宗教についても非常に寛容。
社会全体の幸福を増大させる限りにおいて自由を尊重し、格差社会も肯定する。
彼らは「みんなで不幸になりましょう」という教義を持った異端なんだそうです。詳しい説明はなし。
セカイ系の文脈で見れば、明確に戦うべき敵が存在する。それは「世界の幸福量を減らす存在」である。
非常に漠然としているが、それだけ個人によって想像力を働かせる余地があるということでもある。
幸福実現党の人たちが、実にいろんなバラエティに富む政策提言をしているのはこのあたりのユルさがポイントか。
人間を霊的な存在と捉え、より高次な視点から世界全体を把握する
あくまで天上界から見ての善悪を重視する。一番大事なのは信仰を持つことであるとする。
ちなみに、人間が霊的な存在であるということを認識し、ソレを極めると過去の偉大な霊との交信なども可能になるらしいです。
世間一般では「幸福の科学=大川隆法が○○の霊との対話をしてなんかテキトウなこと言ってる」というイメージがあると思うが
あの対話はこの「人間は霊的な存在」=「霊的な存在には制約がない」=「現世と来世の境界も超えられる」という教義によるらしい。
現代の日本や世界情勢の分析について、中途半端に現実的で、そこからはじまる怒涛のオカルト臭い説明がなんとも言えない。
いやいや、ほんと諦めの悪い奴だなw揚げ足取りになっているかどうかさえ怪しいのだがw
ほんと年齢いくつのおじさんだよ、、、知識レベルがバブル手前だろ、、、
権威主義バリバリなのはどう考えてもおっさんだから、権威ある辞書を引っ張り出してきたというのに。
よく職場にいるよなあこういう人。変なのに絡まれたかもしれん。
耳ふさぐのはやめよう。
大先生っていうのはなにかの世界のよほどの大家でないと本来の意味では使われない。
もしくは、親子二代でやってる師匠や医師などが「大先生」「若先生」と区別されたりするぐらい。
そういうとこを感じ取る国語のセンスも知識もまるでないわけだ。
本来の、本来の、本来の。原典厨か。
はいはいそういうことでいいんじゃないでしょうかー。どうですかー嬉しいですかー(^^)
と思ったら
これだもんなあ。これ書かなかったら一泡吹かせられたかもしれないのにw
「間違いなく」
びっくりですね。世の中ここまでおめでたい脳みそしてたら生きるの苦労しないよマジ。
「間違いなく」
本題でピリッとしたことを書こう。
どの口がそれを言うんだか。
もうさ、おじさんはっきり言ってみなよ。ことばのひとつひとつに認識のすり合わせをしてるほど互いに暇じゃないだろ?
あ、権威云々にこだわったのは上にも書いたとおりおじさんのためを思ってのことだからね。
馬鹿なのに浅学菲才とか衒学なんて言葉ばっかり知ってるのがまさに衒学趣味って言うもんだ。
だから知識披露するつもりのとこで浅学「非」才なんて書いたりする。
お願いです。齢を。齢を教えてください。いや、どこの時代からタイムスリップしてきましたか?
私と同時代を生きる人間の発言とは思えません。ホントお願いしますw
これらは言葉の元の意味と変化の工夫をしってなければ理解できない。
これが原始人だよ。
言葉遊びなんて全部わからないならもうその世界で生きればいいじゃないか。
なんで暴れてるのかな。
やっぱり認識、前提、何から何まで違うんだなあ。ここのすり合わせをしないことにはたぶん話は一生平行線だなあ。
でもこのおじさん狂ってるしなあ、、、。キチガイが伝染るよう。
これ以上やり取りしても平行線だからおじさんが目覚まさないとレスポンスしないからね。
で、おじさんのことをまとめると
「おおおおお、俺は間違えてないし恥もかいてないんだああああ!うぎゃああああ!原始!原始人!げんしじんん~~~~~!!!!」
ってことでいいんだよね^^
がんばって~w
だ~か~らあ
耳ふさぐのはやめよう。
大先生っていうのはなにかの世界のよほどの大家でないと本来の意味では使われない。
もしくは、親子二代でやってる師匠や医師などが「大先生」「若先生」と区別されたりするぐらい。
そういうとこを感じ取る国語のセンスも知識もまるでないわけだ。
前はじめからありむーを見下してるだろ。本筋とは無関係なところでアホな性根を漏らすな。ダダ漏れを食い止めるには他があるだろうw
パブリックidの中からわかりやすいものとして使ってるだけだよ。
別にフロムダ大先生でもよかったけど、年配者より若輩の方がより揶揄の用例としてわかりやすい。
30そこそこの人間が大先生と呼ばれてたら間違いなく冗談やからかいです。
本題でピリッとしたことを書こう。
だから馬鹿はお前で、お前の知識と解釈が全体的に間違ってるの。
馬鹿なのに浅学菲才とか衒学なんて言葉ばっかり知ってるのがまさに衒学趣味って言うもんだ。
だから知識披露するつもりのとこで浅学「非」才なんて書いたりする。
これらは言葉の元の意味と変化の工夫をしってなければ理解できない。
これが原始人だよ。
言葉遊びなんて全部わからないならもうその世界で生きればいいじゃないか。
なんで暴れてるのかな。
オーケーオーケー、いいんだねwできれば大辞泉を相手取って抗争した結果を、まあ僕が忘れた頃までにはトラバにくっつけてくれないかw
なんかなっがいのをまとめると
「おおおおお、俺は間違えてないし恥もかいてないんだああああ!うぎゃああああ!辞泉!大辞泉!じぃせええんん~~~~~!!!!」
ね。
お疲れ原始人。
穴に帰ってチンコ噛んで枕濡らして寝なちゃい。
尊敬語。
いやーごめんごめん、ソース間違ってたよ
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/171978/m0u/宣ふ/
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/17468514439000/
◆現代語では、尊敬語としてではなく、からかい半分のふざけた言い方として、「いかにも、もっともらしく言う」「大きな態度で言う」などの意に用いることがある。「そんなわかりきったことはのたまうな」「おそく帰宅して、食事はないかなどとのたまう」
大辞泉を相手取って戦う匿名さんが現れたみたいです、ということは小学館を相手取るんですね!
がんばって~w
ね?
いや、ね?じゃないでしょ。おじさんがからかいだと説明しなかったらそうは思わなかったぞ。
お前はじめからありむーを見下してるだろ。本筋とは無関係なところでアホな性根を漏らすな。ダダ漏れを食い止めるには他があるだろうw
おい頼むよ、
これぐらいのレベルにはついてきてくれ。
え、なに?
追われてるかと思ったら実は追いかけてた、みたいなボケですか。
相手を上に押し上げてからかう、というのが尊敬語の揶揄用法の中味。
上に押し上げる、尊敬する、という意味を認めなかったらからかいとしても機能しなくなるの。
(ちなみにこんなもん別に現代に発明されたものでもなんでもない。)
そう、じゃあ大辞泉にクレームつけないとね。編者一人ひとりにも投書かな?
こういう馬鹿なことを言い出すのは要するに
君がからかいの意図で使われてるのしか見たことない&自分で辞書で調べなかったからで、
「これは目下に見る言葉だ」「乱暴な言葉だ」という勘違いを今日まで信じ込んできたというだけ。
まず前提から違うw私が浅学非才なのは間違いないがこの文脈における馬鹿ではないからなあw
おじさんが衒学趣味に走って足元を掬われたのはあちゃーとは思ったけど
かしこまった場面で使うべき道具をバールとして用いる面白みであって、
最初からバールとして使われてるのしか見たことない原始人が「これはバールだ」と信じ込んで振り回しだしたら
もうな~~~んにも面白くないわけ。勿論間違ってるし。
おじさんは敬語に面白みなんて概念まで持ち出すのか。わけがわからないよ。
ことばについての認識自体がこちらとズレがあることは納得したが、それは本筋ではないwそれと比喩があまり適切ではないw少なくともこちらからは受け取れたものではないwお返ししたいw
むしろ絶対に削除するなよ、というのがお願いだ。
たまに消す奴居るけど卑怯だよあれは。
オーケーオーケー、いいんだねwできれば大辞泉を相手取って抗争した結果を、まあ僕が忘れた頃までにはトラバにくっつけてくれないかw
・興奮しすぎて二人いる君の相手が混ざってる。
いやいや、そこに突っかかってきてもムダだよw
君が誰だろうと実際のところはどうでもいいwそんな瑣末なところが大事ならブログで書くさw
そんなに立腹するようなことかなあ?思ったより面白くて申し訳ないんだけどもw
「楽しんでもらえたら、自分の存在が許されるんではないかっていう、
無用なものではなくてというふうな抑圧が自分の中にあるから。」
「自分の好きなものを描いてるわけじゃない」
「"ありそうでなかった" 物、
実現してしまえば "なんだ普通じゃん" というものを創るのが極めて大切。」
「なまじ特技があるとそれを活かそうとするから、世間が狭くなる。
時代にあったことをいつもしていなさい。」
「僕らは"作品"ではなく"商品"を作っている」
「エヴァは哲学じゃなく衒学(げんがく)的、(知ったかぶり)なんです。」
「僕にとっては、それ(現実に引き戻すこと)も"サービス"なんですよ。
お客さんにとっては良い事だと思うんで。」
イノベーションとは
分からないんならしょうがないけど、
仮に自分が言い出したことでも
具体的には答えられないことだってあるでしょ?
ねえよw
極度に寝ぼけてたりすりゃあるかもしれないけど
基本的にそれは醜態。
顕名でそんなことやってりゃ
「ああ、自分でも意味がわからんことを他人に滔々と述べてるんだなこのアホは」
それを十把一絡げに口篭って逃げてると非難することはできないって。
それぞれ事情は違うだろうし、その多様性は認められるべき。
馬鹿であるにせよ
知ったかぶりであるにせよ
衒学であったにせよ
自分が言ったことについて説明できないことを「恥」だとも思わず居直るようなのは
「多様性」などではない。それはただの馬鹿、低能、としか言いようがない。
はてブ漁ったりtwitter見たりするようになってから、自分って頭が悪い方の人間なんだなって度々感じるようになった。同年代の人であっても何らかの対象について深い考察をして文章書いてたり、俺ならやりとりを理解するだけで時間がかかるような難しい議論を交わしてる人がいる。どうすればあんな風になれるんだろう。
必ずしも話題それ自体が難しいってわけじゃなくて、例えばアニメについてなんか難しい言葉使ってうんぬんかんぬん語ってる人とかいるじゃん。togetterとかでもくだらない話題で何故かすごい議論になってたりするのをみかけるじゃん。多分衒学的なだけで内容的にはそんなに高度ではないのも多いのだろうけど、そういうものでも自分が書けるかって考えてみると答えはNOだ。
そういった劣等感から、浅薄さを晒すのが怖くて議論したり長い文章書いたりするのを回避するようになってしまった。何かを語って、そのおかしさを指摘されるのが怖い。そんなだからいつまでたっても進歩しないんだろうけど。あまり本読まない方だったからバカなのかと思ってちょっとずつ本も読むようにしたけど、知識を詰めればいいってわけでもないんだろうな。社会人になるのも近いんだけど、こんなんでやっていけるんだろうか……
それが誠実さってことだと思う。
だけどそれがbullshitの引き金になったりして。
最初はこの文章、さよならディスコミュニケーション、さよならフランクファート
そして、こんにちわ「人それぞれ」
そう書きだしてみるつもりだった。
だけどちょっと気が変わった。フランクファート読んだことなかったから読んでみることにした。
いくら衒学趣味でもちょっとくらいは真面目なところを見せたのだ。
フランクファートはアメリカの道徳哲学やってる人なんだけど、日本語訳されてるのは、on bullshitって本だけ。
邦訳は、ウンコな議論。
これは僕の独断。本文中では、おためごかしって言葉が使われてたりするけど、これはちょっと一般的じゃないだろう。
翻訳者の山形浩生は、ウンコな議論の具体例として、小泉元首相の、「人生いろいろ」という発言を例にあげている。
ウンコな議論は嘘を言っているわけじゃない。
ここで最初に戻るんだけど、「人それぞれ」もそうなんだ。
嘘を言っているわけじゃない。確かに人それぞれだ。
だけどそれは解答の放棄だ。
正解が何種類あるかはわからないにしても、全ての人が正しいってことはないだろう。
相対主義(つまり、人それぞれってこと)は何も生み出さない。
衝突も、議論も、止揚も、向上も、疑問さえも。
勿論それは日常生活をスムーズに送る上では必要なことなんだけど。
だけどその考えがウンコな議論を必要としない場にも入り込んでくるんだ。それはよくない。
言語は思考を規定する。それがビッグ・ブラザーがニュースピークを作った理由だ。
つまり、自由と言う概念が存在しなければ、人は自由について考えることをしない。
もし仮に誰かが自由について話したとしても、他の人はそれを理解できない。
ウンコな議論だってそうなんだ。ウンコな議論と真の議論を見分けられなければ、ある出来事に対して適切な理解をすることが難しくなるんだ。
ウンコな議論に慣れ過ぎていると、真の議論は乱暴で粗野なものに見えてしまうんだ。
大事なことは二つ。ウンコな議論かどうかを見分けること。
確かに怠惰を奨励するような言説が世に跋扈していて、それに惑わされる若者がいることは認めよう。そういう人たちを批判すること自体は構わないと思う。しかし森毅をそこで非難するのは誤爆と言わざるを得ない。
そんなときに、森が著書の中で
「ええかげんでいいんや。大学では勉強なんてしなくていい。エリートは勝手に育つもんだ」
と主張していたのに、救われた気がした。
いったい森毅がどこでそんなことを言っていたのだろうか。
「こうあるべきだ、という型に囚われる必要はないし、『エリートたるものかくあるべき』という型に学生をはめるのも馬鹿らしい」
「人に言われたことやイデオロギーを何でもかんでも真に受けて生きるのは痛々しいし危ない」
というそれだけのことに尽きる。ただ、これらの命題は自家撞着と紙一重(「俺の言うことを聞くな」というのはパラドックスである)だから、あんな持って回ったような言い方になっている、それだけのことだ。
私はそれを当時理解できずに痛い学生生活を送ったからこそ、その言葉の正しさを今になって身に沁みて実感していると確信している。
私が大学生になるかならないかの頃には、「怠惰の奨励」とはちょうど逆の言説が流れていた。「分数ができない大学生」だの「東大生はバカになったか」だのその手の本だ。その手の本を読めば、
「日本の大学生は勉強しない、教養がない、東大生でも厳密な学問を理解できない、旧帝大生といえども外国の大学生に比べて圧倒的に劣っている」
というようなことばかりが書かれていた。
それを真に受けた私は、「教養」とやらを身につけ、「あるべき大学生の姿」に自分を近づけるために随分つまらないことをやってしまった。興味も何もないのに哲学書だの文学書だのを紐解いてみたり、あるいは勉強の過程において、興味の範囲をはるかに超えて厳密さのために厳密さを追究してみたり。全く無駄であったとは言わないが、著しく非効率だったことは間違いない。そんな衒学的な「教養」だの、必要最低限を越えた完璧主義的な「厳密さ」だの(ε-δ論法というレベルではなく、物理数学を勉強するためにまず数理論理学を勉強するような類、あるいは読み始めた本は最後まで一行たりとも漏らさず理解しなければ許さないとする類の)を、自分の興味から逸脱してまで追い求めても、苦痛なだけで身に付くことは乏しかった。今だから分かるが、私はもっと自分を信用して、自分の興味に忠実になるべきだったのだと思う。そうすれば、「教養」だの「厳密さ」だのは、必要になった時点でいくらでも身につけることができただろうからだ。「青春」をエンジョイすることを放棄して人よりも多くの勉強時間を使っていたのに、人より飛び抜けて優秀でもない自分に嫌気がさしつつ、どうしてよいか全然わからなかった。修士論文のための研究をやっていて最後の数ヶ月でようやく自分の過ちに気づいたとき、余りに自分が時間を無駄にしていたことに気づいて絶望的な気分になったものだった。
敢えて長く自分語りを続けてみたが、あなたと対極的な私の失敗談を読んであなたはどう思っただろうか。「お前の下らん失敗など知るか、そんなどうでもいい本を真に受けたお前が悪いんだろうが」。その通りである。私が馬鹿だったのである。人に馬鹿と言われたくないがために、「教養がない大学生」「学力低下の大学生」と言われたくないがために、自分を無意味にガチガチに縛ったために自分の学生生活を楽しくなくしてしまった私の単なる自爆である。しかし私の失敗とあなたの失敗の一体なにが違うのか。どこかで見聞きしたことから勝手に自分で組み上げてしまった自己規範に従った結果、自分の人生をスポイルしたという点で、あなたと私のやったことは全く同じだ。そして森毅が言っていたことの真意を全く読み取れていなかったのも全く同じだ。
「他山の石」という言葉をご存じと思う。私の自分語りが痛いと思われるならば、あなたの自分語りも同じぐらい痛いことを思い知るべきだ。そして人を恨むのではなく、逆に過度に自分を責めるのでもなく、ただ自分が失敗したという事実を受け入れるべきだ。運が悪かったのか、環境が悪かったのか、そういったことが原因であなたや私は正しい道が見えなかったのかもしれない。だが、そのことに不満を言っても誰も助けてくれないし、失われた時間は返ってこないのだ。ならばせめて、今後の時間を無駄にしないようにお互い努力しようではないか。
まぁ増田が基本的に庶民蔑視に傾きすぎだったんで、まぁお前もそれの一部に過ぎぬのだよって感じでちっとからかいすぎたきらいはあります。すいません。
たしかに公務員講座ってのは手軽なわりには有効な対策だとは思います。明治や立教ぐらいを出てる知り合いのやつでも、地上合格者はなんだかんだ賢いやつが多い。少し専門的な話をしてみても、「関心をいだける」程度の知的水準は身につくんですよね。逆に言えばなんだかんだ短期間でも広く浅くかじれば誰でもそれぐらいにはなれるわけで、もうちょっとは日本の民主主義もまともに機能するようになるかと。
さきほどの私のエントリだけだと誤解されるでしょうが、教養とはそもそも考えるためのベースであり、衒学を目的としているようじゃ本来おかしいです。教養主義者としてはもうちょっとうるさく「深くやれ」だの言うかもですが、みなに教えるべき素養としてはそれぐらいがちょうどいいかと思われます。
幸い、日本は「試験」が絡んだ参考書の充実ぶりは、群を抜いていますしね。法律でいえばシケタイとか、素人やそれ+αの層にとっては十分すぎるほどよくできた書籍だと思います。
俺はたぶん頭が悪い。
人間の脳にはスーパーコンピューター並みの処理能力があるらしいが、俺の頭脳はその説に異を唱えたくなるような代物だ。
そんな俺が頭の良さってやつを論じてみるわけだ。
こんなものを誰が読みたがるのか、その意味からして真っ向から否定されても当然な行為ではあるが。
本題に入る。
つい先日夜遅くまで増田で議論を戦わせていたのだがその間、頭が悪いと罵倒をされること数回。
いや困った。傷ついたとかそういうことももちろんあるのだが、それ以上に困ったのは、
俺が俺自身のことを多少なりとも賢明だと思っているからなのだ。
冒頭と言ってることが違うのは承知しているが、仕方ない。
客観的に頭が悪そうなやつの主観が、現実と大きく食い違ってるなんてことはありがちなことだ。
恐らくこれからも繰り返していくのだろう。「俺って頭いい!」→「すいません馬鹿ですみません」なんて出来損ないの喜劇を。
まあ人間だからそういうこともあるわな、とかそういう話で終わっても良いんだけど、何度となく人から馬鹿馬鹿と言われ続け、
それじゃ「頭が良い」ってどういうことなのか言ってみろよ! と行き場のない怒りを覚えてしまった俺を誰が責めよう。
その条件をひとつあげるならば、それは他人を納得させることができる、ということなのだろう。
すみませんプロタゴラスって言いたかっただけなんです最近古典倫理学の講義でちらと耳にしたのを思い出しただけなんです衒学者ですみません。その点についてはもう貴方の仰る通りで。
あと本題に入るっていう前置きも、正直文章の流れを断つ以上の意図はないままに書きこみました。
回りくどくない物言いをする者が「頭が良い」のか。
リズミカルな文章を書く者が「頭が良い」のか。
文章上のミスの少ない者が「頭が良い」のか。
そのどれもが「頭が良い」ことに対する必要十分な条件とは成りえない。
いいとこ十分条件といったところである。
とりあえず本来の論点を踏まえた返答を期待しているよ増田くん。
(要約:うっせー誰が校正して下さいなんざお願いしたよすっこんでろ)
元増田の文章は機械的に「訳」と「いや」と「まあ」を省いて、調整をかけると面白くなりそうだよ。
そこはかとなく衒学的な感じならもうちょい思い切って欲しかった。俺は受ける。
増田の文章を読んで、ちょっと頭悪そうだなと思った。
細かい言い回しで、ミスとも言えないような微妙なミスが目立つ。
>必要性としては皆無といっても差支えのない提言ではある。
わざとらしい文語体にしてるのはわかるけど、この言い回しは不自然だ。
>つい先日夜遅くまで増田で論議をしていたわけだが
普通は「議論をしていた」か「論議を戦わせていた」じゃないかな。
あえて論議をしていた、にした意図が不明。
>俺が俺自身のことを多少なりに賢明だと思っているからなのだ。
「多少なりとも」ね。
正直、文法なんてのは言葉のリズムが良ければ、どうでもいいと思ってる。
残念なことに、増田の文章には、リズムも知性も欠けているんだ。
他にも「まあ」が多いとか、口調が回りくどいとか、そこはかとなく衒学的な感じとか、
色々「ちょっと頭が悪そう」な要素が揃ってるんだよね。
なんつうか、中途半端です。がんばりましょう。
小学から人生の大半を左翼の為に費やしたけれど左派系ブログを見てもネット叩きが多くて嫌になる
諸事情で廃人化していたけれどネットで意思疎通に慣れたお陰で社会復帰出来た。ネットは心の故郷
ネットが無ければ誰とも話せないままだったし首を吊っていたかも知れな
ネットで馴れ合うことで得たコミュ力は余りにも大きい。活動場所などは身元がバレるので書けないが
ネトウヨは社会的地位のある奴、脳筋、逆に衒学的すぎる奴はどうしようもないが、
若い人に一番多いコピペを信じてるだけの奴や量産型ネトウヨは絶対に治る
一番の薬は論破や暴力でもなければ子供扱いして馬鹿にする事であるはずがなく
少しずつ諭すことだ。彼・彼女の気持ちを労り決して厳しい言葉を何一つ使わず相手を何一つ否定せずに。
ネトウヨどころか生長の家の信者だって一人治した。彼女は以前公然と人権を否定していたが今回は民主党の女性候補に投票した
かなりの人数をうまく心変わりさせた。ネトウヨや、左派同志の内ゲバやネトウヨの人格否定しか出来ない「左派」と違って
政治の話は、能動にはしない、会話の中で自然に政治の話題が出たり相手が差別用語やデマを口走ったときのみ、その方が彼らの心には響く。
だが、心の故郷を徹底的に否定されるのが結末だった。十数年頑張って来たんだが。
ネトウヨを馬鹿にしたりネットを否定する「左派」には精神的弱者の心がわからない
ネットでしか会話できない人間を馬鹿にするのがリベラルですかそうですか
引きこもりでニートで二次元の住人で何が悪いんだ・・・。ペドフィリアでもいいじゃないか
心を開いた彼らは、まっとうな社会人様(笑)より余程人間らしくて優しい。オタク文化の性質上、LGBTへの理解は特に。
既に仲好しになった後ならばたとえネトウヨでもこちらを売国奴だとか朝鮮人めとか言って来ることもないのだ
民主党をこき下ろす書き込みをしてきた相手でも、こちらが民主党擁護を書いたら、
再反論はしてきたが民主党への言葉遣いはとても穏やかになった。仲間の好きなものを全否定するのは心苦しいからだろう
全否定もレッテルハリも出来ない状態でこそ初めて会話の余地が生まれる
「キモオタニートウヨわらわら」なんて書き込んでくる相手ならば、たとえ正しいと思う事でも反論して論破したくなるというもの
仲良くなってやってから時間かけて諭してあげればいいじゃないか
人格否定でネトウヨの気持ちを踏みにじる「左派」は多様な存在や変わり者を認めない時点でリベラルかどうか疑わしいが戦略面でも失敗している
最近は「元から「左派」」の人間のブログを読んでも全く楽しくない、左派には社会不適合者がいないからだ。
民主党政権になったら、日本人の精神性が根本から変わり、少しは楽しい国になるかと思った
現実にはネット叩きが増えただけであり政策はマシになっても精神性は悪化したようだ
左派といるよりネトウヨと仲良くしながら少しずつリベラルに引き込む方がずっと楽しい
ネトウヨの気持ちはよくわかる、こちらもネトウヨと同じか以上に引きこもりでニートで虹でペドだから。
もっとも、ネトウヨにもそんなテンプレな人間は少なくそうした属性を一つも持たない人間も結構いたが
そうした属性が少なすぎても多すぎてもそれぞれ違った政治的右派の側面が残り抜けきらないことが多いようだ
ずっと左翼として生きているから本能的に日の丸が嫌いだし、赤旗が好きだ。
こう書いてみるとますます釣りくさいが、本当にそうなのだから仕方ない
個人を特定されない為内容に非常に注意している為書きたい事がまとまらず申し訳ない
しかしどうしても、ネット叩きに我慢がならなかった
ちょっとひどすぎるよ、もう。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090914/p2#c
しかし彼は「ポル・ポト」ってことばが使われても「不愉快」とは感じないんですよ。この反応の違いにはもちろん理由があるわけで、彼が(そして彼を擁護しているパチもんが)徹底して目を背けているのはその部分であるわけです。
どこまで印象誘導すれば気が済むわけ?
その反応に違いがあるのは、理由は一つ。そもそもHALTANは左翼に親和的で、猿みたいな衒学的な議論にのっていた。だけども、小難しいことをいって、さもご立派なことを言って他人を煽っておきながら、その実態は単に自分のことしか考えてない連中ばかりだったという失望があった。それでHALTANは左翼を信用しなくなったんで、彼のブログはそれしか言ってないといっても過言でない。
簡単に言うと、そういう言辞に素朴にのってしまった自己嫌悪がすごいんだよ、HALTANの場合は。そこを踏まえておかないと、あのブログは何にも分らないよ。
自己嫌悪も加わるから、だから左翼に対してより厳しくなるわけで、では右翼の渡辺昇一の肩を持つのか、そもそもHALTANは右翼かというと、ブログを読む限りでは全然そんなことがないわけだ。もともと右翼に親和性がないから「あっそ」で終わる。それだけのこと。
それだけのことなのに、よくもまー、これだけ印象誘導するもんですな。
むしろ、左翼に反感を覚えているというだけで、ここまで印象誘導する猿によっぽど「心の闇」を感じるね。何様のつもりだよ、いったい。ものを知ってるのがそんなに偉いのか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/HALTAN/20090916/p1
Apeman なんぼあがこうが、「場違い」だの「飛躍」だの「恐ろしい」だのと「偉そう」に書いた挙げ句、新書一冊読めばわかることをふまえてないことを指摘されて逆上した・・・という事実は消えない
新書一冊読めば、トリアージとホロコーストを絡めた議論に納得できるっての?できないよ。それができるのは、猿の仲間だけじゃないか。
それより、「所得の再配分」とはどういう意味なんだ。「逆さに振っても鼻血も出ない」とは思われない金持ちから分捕るというのが本音でしょう? しつっこく「所得の再配分」といいかえてるところを見ると、なんとか印象操作してごまかしたいというところだろうが、そうはいかないよ。
つまり、コアな左翼っていつもこれ。人のいい振りして、他人を釣って、でも実態は違う。本音は「脳の失敗」なんぞというタグを見たって屁とも思わん人間の集まりじゃないか。
ホロコーストでも南京事件でもなんでもいいが、他人の血や涙と、お勉強で得た知識でこけおどして、まずくなったら印象操作して他人を悪者にして、それで人のいい読者を釣るなっての。そういうことをやっている限り、猿の戦争犯罪に対する問題意識はカスになる、ブログの記事も全部ガラクタと化すんだ。いい加減にしろよ、もう。