はてなキーワード: 書道とは
タイトルはこうつけてみたものの、もちろんいろんな長女・長男の形があると思う。
けれど、今回は最近急速に空しくなってきたので、「こんな思いをする長男・長女」を増やしてはいけないと思って書く。
上の子はあなたたちの試作品ではない。それ以降の子どもたちに失敗から学ぶ工夫を反映させるための道具ではない。
let it goとか言ってしばらく流行ったけど、現実はそんなにすぐレリゴーできないので、その辺りは親の側から留意してほしい。
以下、私情も交えながらもう少し細かな「やめてほしいこと」を書いてみる。
私の妹は年が少し離れているので、同じ学校に在籍するのは小学生の時しかない。
親は親で、「お姉ちゃん・お兄ちゃんがいるから助かるわ」と私に細かな配慮を丸投げしてきた。
たとえば、家庭科のキットを買うとき、書道の筆の手入れの仕方、アルバイトの選び方、果ては大学の学部選び、ゼミ選びまで。
「お姉ちゃん・お兄ちゃんにアドバイスしてもらいなさい」と責任を子どもに丸投げするのは間違っている。
下の子も下の子で調べたり考えたりする手間を自分で経験するのが必要。
上の子のメソッドをかすみとるだけが彼らの人生ではないし、彼らの人生のためにはならない。
はじめての子だから右も左もわからなくて、を言い訳にする人がいるが、それは間違っている。
「はじめてだから」と予備校の面談についてくる親。その面談の相手大学生アルバイトですよ。
その大学生アルバイトの言うことを鵜呑みにし、「さすがたくさんのものを見ているチューターさん!」という感じ。
しかし実際はそのアルバイトはプロでもなんでもない。なので当然ベストの形の出願はできない。
当時の私はいろいろと自分で調べて、いろいろ提案したが「金を出すのは親!」の暴論をかざされてはどうにもならない。
その当時の反省を活かし、妹の入試はとてもうまくいった。正直殺意しかわかない。
③上の子に許されたことは同タイミングで下の子にも解禁してはいけない。
たとえば外泊なんかがわかりやすいだろう。
大抵上の子は外泊を全く許されず、それを周囲にも責められたりするのだが、
下の子は上の子の外泊解禁のタイミングで同じように解禁されたりもする。なぜだ。
大学の時に時間があるからたくさん旅行したり思い出作りをしたいのに、自分は禁止された。
それなのに、下の子は大学生の時からうきうき外泊。もう正直殺意しかわかない。
上の子の青春を世間体とかそういう言葉で握りつぶすなら、下の子にも解禁するべき。
ちなみにこの疑問を親にぶつけたところ、見当違いも甚だしい反論をされ、何の解決にもならない解決法を示される。
だまされてはいけない。
確かに下の子は頼りなさそうだし、小さいし、心配なのもわかる。
けれど、いつもいつも下の子に構っていると、上の子は我慢せざるをえない。
本当は具合が悪いし、正直かまってもらいたい日もあるのに、「お姉ちゃん・お兄ちゃんだから」という理由で放置される。
下の子が小さいうちならまだしも、ひどいのはこれが子どもがいい年になっても続くことである。
上の子が死にそうなくらい疲れていても、下の子にちょっと何かがあれば親はすっ飛んでってしまうのである。
ちなみにこれを親にぶつけると、またわけのわからない理論で返されるだけなので、もうやめよう。
勘違いしないでほしいのは、私達は何も下の子が憎いわけではない。
でも、自分だって子どもなので、親に見守られてる、愛されているという実感がほしいだけなのだ。
それなのに、いつもいつも下の子ばかり構われる、自分が我慢すればすまされる、そういうことを小さいうちからすりこまれると、
親の求める良い子であろうとして無理をし続けてしまうことになる。
でも、その無理ができてこそ自分は親に認められるので、限度いっぱいでもう無理ということをいつまでも言い出せないまま、
なんでこんなことを言い出したかと言うと、今私がこの状態だから。
我慢しないと見捨てられるし自分が我慢をすれば世の中のことはうまく回ると思っていた結果、
具合が悪くなって時々夜中に涙が止まらなくなったり、家の中にいると常に吐き気に襲われたりしています。
でも、これを誰にも言えないので、とりあえずここに投下してみたのです。
これを書いている間はちょっとすっとしています。でも、家庭にも社会にも私を私として受け入れてくれる人はどこにもいません。
こういう思いをしている人が他にいないか、あるいは下の子目線から「上の子が辛いとか言うのは傲慢だ」とか、
誰かが何かを言ってくれないと押しつぶされそうなので、とりあえず書いてみました。
その子の両親は世間的に「先生」と呼ばれるタイプの職業に就いており、
生活レベルはおそらく田舎にしてはいい方だったかと思うけど、それらを鼻にかけること、
事あるごとに自分age他人sageしてきたり、とにかく「お高くとまっている」という表現がぴったりの奴。
自分のセンスを疑いもしない所も嫌だったし、そのくせ私が買った漫画雑誌の付録を盗みやがったから嫌いだ。
あとは共通の友達を取り合うよう状況になった際、友達を物で釣るような真似をした所も嫌だったし、
書道でも体育でも学芸会の練習ですらスカートで来るのも鼻についた。
そんな腐れ縁は義務教育終了まで続いたが、奴は自分で言うほどには、外見も内面も追いついてはいなかった。
「歳をとってババアになりたくないから、50歳くらいになったら自殺したい」
などと学校の帰り道に嘯いていたムカツク姿を思い出す。お前は織田信長か。やっぱり嫌いだ。
けどお前、その50の半分にも満たないうちに予定を前倒ししてんじゃねーよ。
あとは名前は知らないけど首都圏郊外とかの私大に行ってたわけじゃん。浪人だか留年までしてさ。
そういえば成人式から1、2年後にあった同窓会に珍しく奴も来ていたけど、
奴の着ていた服は、小学校6年生頃に着ていた服と同じもののようだった。
うまく言えないけど、その服がこの女と自分が会うことのなかった数年間での、この女の人生経験すべてを
表しているかのようで。内心愕然とした。
お前の孤独を慰める気はさらさらないし、ムカツク奴だったから風の噂で近況でもきけば鼻で嗤う位はしたと思う。
いろいろと考えさせられる部分が多くてすごい面白かった。
薬とか車の部品とか飛行機の部品とか、そんなものがコピーなのかって驚きだった。
需要があるから供給があるだけとか、中国が模倣が尊敬される文化(書道とか)だとか。
サプライチェーンが複雑になると、末端で模倣品が紛れ込んでもわからず、完成品の車や飛行機が生産されることとか…
薬のコピー以外は何が存在してもまあ当たり前なのかな、って思える。
薬は人命に関わるはずなんだけど、コピーがあるのは何でなのだろう。この疑問は「なぜ武器を作るのか」と一緒なんだろうか。
自分がコピーした薬で苦しむ人を知ることがない、っていうのが大きいのかな。出所を突き止められて訴えられるとかもないのだろうし。
世界の反対側で苦しんでる人がいくらいようと知ったこっちゃないのだと思う。それはまあコピーに限らなければ、アメリカとかヨーロッパの国々もそうなのかもしれない。
若い子がそういうのに憧れた場合、高確率で“音楽”になっちゃうのがおじさんは悲しいよ。
音楽好き! って人は多いけど、主体的に音楽好きな人はどれだけいるんだろうって思ってしまう。
日本において音楽ほど受動的な文化というか、芸術というか、エンターテイメントってないと思うし。
音楽じゃなくても、料理で、とか、小説で、映画で、お笑いで、舞台で、絵で、研究で、頭の良さで、スポーツで、書道で、とかさ、
いくらでもあるじゃないか。
そういうのは趣味程度で嗜む人はそこそこいても、自己顕示欲のはけ口に選ばれるのがなんで音楽だけなんだろう、と、おじさんは疑問ですわ。
音楽とかもそうなんだけど、技能教科って基礎からしっかり教えるためのものじゃなくて、世の中にはこういうものがあるんですよって体験させるためだけのものなんだよね。
基礎からやりたければクラブチームとか絵画教室とか書道教室とかスイミングスクールとかに行けっていう事なんだと思う。
で、俺の意見としては、体験させるだけにしては授業時間が多すぎ。あと「体験」と「評価」はそれほど相容れるものでもないので通知表に載せる必要なし。
運動の習慣ですらそのやり方を教えないからね。学校は。筋トレならこういう種目をこういう器具を使ってどういうタイミングでどのくらいやっていくのか、とか。基本的に教えない。
ちょっとだけ、酒に酔っているのでそのつもりで聞いてくれたらいいと思う。
最初は、じいちゃんに手を引かれて保育園に連れて行かれる俺が、その道すがら毎日毎日泣きじゃくって嫌がって嫌がって、そんな嫌がってる俺をじいちゃんが毎日毎日俺のペースで立ち止まったり、急に走り出したりする俺を必死で追っかけたり、行ったり来たり、なんとかして、必死でなだめすかしながら連れて行くところから始まったのだった。
園についても一向に泣き止まない俺にじいちゃんはいつも申し訳なさそうにずっと手を振り続けながら帰っていったのを憶えている。そこでの俺は誰ともしゃべらないし、一切の遊戯に無気力を貫いていたし、飯時になってもほとんどのものを口につけず、何か悟り顔の年配の保母や園長などが俺を優しく諭すようなことをしようとしたならば即座に園中に聞こえ渡るように泣き叫び、同時に渾身の力で暴れまわったりしていた。
当然のように俺は、追い出される。母が頭を下げ、じいちゃんも頭を下げる。俺は何も言わない。
何故だろうか。それが何故だったのだと今問われても俺は答えられない。理由は無いのだった。そう思う。おれはずっとそう思っている。何故なのか。わからない。それがわからないことに俺自身がずっと苛立っていたのだとしかいえない。
時間はしかし確実に流れるから、俺も小学校に上がる年齢になる。初日から俺は渾身の力で登校を拒否した。入学式当日の朝の俺は完全に悪魔だったと思う。泣きじゃくり、暴れ周り、叫び続けた。すでに近所でも俺のイカレっぷりは周知のことで近所のババア連中の昼間の話題をさらっていたが、この日からはもはや誰も俺の話題を口に出す者もなくなった。俺が俺の家だけの問題ではなくその集落の汚物となった日だった。冗談にならないからだ。イカレているし、その理由が誰にもわからないのだ。
しかし俺は突如学校に通いだす。俺は何故か一切の抵抗をやめた。有る日急に俺は無になった。やっぱり誰にも何故か判らないけど、俺は無になり学校に通いだす。
学校に行く、机に座る、無になる。家に帰る。無になる。学校に行く。無になる。家に帰る。無になる。無になる。無になる。無。大人しくなった俺は地元の少年サッカーに入れられる。無になる。書道教室に通わされる。無になる。ピアノを習いだす。無になる。2年生になる。無。3年生。無。4年生。無。ずっと無。
でも、突然また俺が壊れる。有る日学校で壊れる。授業中に急に立ち上がってイスを振り上げて、教室の後ろのメダカの水槽をぶち破る。ガラスが割れて水がドバっと溢れ出す。え?ってなってる水槽の近くの子を睨みつける。俺はガラスの破片を掴みそいつの眼球に突っ込む。グムニュ。ってなる。そのままグリってする。誰かが甲高い声で叫ぶ。俺は割れたガラスの水槽を両手で持って教室の真ん中の方に放り投げる。グシャリ。ドンくさい誰かの頭にグササー、グシャリって刺さりはまる。傷口にメダカが跳ねる。ピチピチ、ピチピチッっつって。うへへって俺は笑う。
小学校3年くらいの時いじめられていて、死んでいじめた奴らを殺人者にしてやろうかとか鬱々と思ってたりもしました(逆も思いましたが、殺人者になるのは嫌だった)が、そんなことはしなかった。
自分の親兄弟はもちろん悲しむだろうし、いじめてる奴には恨みはあれど、その親には別に恨みはないし(いじめてた人を殺す場合)、近所の友達とは仲よかったし、通っていた書道の先生とかも仲よかったし、週末は剣道もしてたり、地域のコミュニティなどに関わっていて、学校以外ではそういういじめのようなものは全くなかったので、生きられたのだろうなと思う。また、幸いその頃は成績も良かったし、いじめてた奴は頭悪かった。しょうもない事だが、いじめられてる方からすると結構重要な要素でした。
まぁ、大したいじめじゃなかったような気もする。忘れっぽいので、だいたい忘れた。怪我したら警察に行こうと常々思ってたので、血が出るような怪我はしなかったわけだし。
ただ、これが、学校と家しか居場所がない状態だったら、どうだったろうか。思うに、関わるコミュニティが少なければ、少ないほど死ぬ確率は高まるんだろうな。ただ、関わったコミュニティで軒並みいじめられたら、それはそれで死ぬ確率は高まるんだろうけど。同年代しかいないようなコミュニティでなければ、そういう事はあまり無いと思う。でも、学校が一番長時間居るので、厳しいですね。
学校に行かないっていう選択肢は僕の中に無かったのだけど、原因は親に言う気が0だったからというのがあると思う。所謂いい子で、親に心配はかけたくなかったので。まぁ、それ以外でもそれまで毎日やっていた習慣を変えるのは難しいよね。近所の子と一緒に登校してたけど、その子たちとは仲がいいわけだし、なんでって思われるだろうし。
小3と小4は入れ替えは全くなかったのだけど、小4では全くいじめられなかった。女の先生だったが「いじめは嫌いです。そんなことがあったら絶対許しません」といったことを始業式後のクラスで一番最初に言ったのが原因だと思います。
いじめの原因とかはよくわからないけど、僕は、落ち着きないし、独り言も多いし、休み時間遊ばずに本読んだりしてたし、いじめられたんじゃないかな。いじめていた子とそれまで話したことや、遊んだこととか記憶にない。まぁ、こんなものには、大した原因なんてものはないだろう。だから、たった一言でいじめなんて止んでしまった。
海外でもいじめはあるし、自殺もあるようだ。アメリカで10代の死亡原因で自殺は3位(http://www.teensuicide.us/articles1.html)とのこと。teens suicide teasing/bullyingなどで調べれば色々出てくる。
いじめは、ないほうが良いけど、基本あるものだと思っていれば良いと思う。毎学期ごとに、いじめられたら学校に来なくていい、すぐに先生と親に言えってのを教えればいいんじゃないのかと思う。親にももちろんそのように言う。それは全然悪いことじゃないと。いじめる側の抑止にもなるし、いじめられた際の逃げ道を予め示すことにもなる。
独断と偏見による「本職巫女として神社で働くのに向いている人の特徴」をリストアップしてみました。
自分の経験と某神社の巫女さんの話、およびネット上の情報を基にしています。
なお、この記事では「そこそこの規模があって、本職の巫女さんが数名常駐している神社」を職場として想定しています。
巫女さんが一人しかいない神社や、いわゆるアルバイト巫女についての適性は論じておりませんので、ご注意ください。
・年齢が20代前半以下。
・着る服のサイズに困る程には太っていない。
・もし姑にあら探しをされても、心身のバランスを崩さないぐらいの精神力がある。
・職場での服装や言動には制限があって当たり前だと思う。
・人並みの筋力はある。
・最長で2週間くらいは無休で働けるだけの体力がある。
・パソコンが人並みに使える。
・接客は嫌いじゃない。
・簡単な作業をテキパキと要領よくこなせる。
・単調な作業を延々と続けることができる。
・少々のセクハラは笑って済ませるか、事前に回避できるだけのスルースキルがある。
・定年(20代半ば~30歳)後は結婚か、転職できるアテがある。
・黒髪ロング。
・新しいやり方を試すより、慣れた方法でやる方が好き。
・体育会系。
・日本文化に興味がある。
・きちんとした言葉遣いができる。
・外国語が話せる。
・口が堅い。
いままで色んな趣味に手をだしてきたが、ドクターストップか人間関係の不和で破綻している。
スポーツ系のドクターストップならとにかくとして、およそ怪我のしようがないインドアな趣味でさえドクターストップがかかるまで熱中する危ない人だ。
飲まず食わずではないにしろ、一旦没頭しはじめると水分とカロリー補給の時間以外は止まらない。
当然、家事は手につかなくなる。
家族から文句は出るが、
母の趣味友は
「あなたが頑張ってる姿をみて、みんな勇気付けられるんだから」
そんな母の友人たちも母の激しすぎる性格を嫌って、遅かれ早かれ去っていくわけだが。
今度きたブームは海外旅行だ。
苦行のようなスケジュールで出かけては疲れ果てて帰ってくることを繰り返していた。
車の運転が出来なくなって帰れなくなったりもした。
車の運転が出来ないってのは、故障とか、眠気とかじゃなくて、俺には理解できないんだけど頭の中が沸騰しすぎて運転出来なくなるらしい。
そして、今度は海外旅行の熱が高まってきている。
ヨーロッパをさらっと巡る旅をした。
得意気に添乗員に説明された文化遺産にまつわるエピソードなんかを家族にしたものの、たまたま母以外にとっては常識だった。
なんか悔しくなったらしい。
久々に帰省したら、教科書の最初の数章の余白にはびっしりとメモ書きがされ、付箋が挟まれ。ページは擦り切れかかるほどだった。
エジプト文明、インダス文明ときたら、メソポタミア文明のイラクは渡航できないだろうし次は中国あたりかな?っと思ったが甘かった。
せめて英語が通じる国とか、せめて先進国とかいう発想はないらしい。
もちろん、どの旅行も友達も家族も連れ立たず、一人でツアー参加だ。
「夫の稼ぎで暮らしてる専業主婦なんだからもう少し大人しくしとけ」
っと誰かいうべきなんだろう。
あるいは言ったのかもしれない。
しかし、言ってどうなるというのだ。
言って聞くような、理性的な人間じゃないことは誰よりも知ってる。
そして、母がいない家は母がいるときよりもずっと平和なのである。
欧米人ってさ、たまに極端な人がいるじゃん。
毎食ずっとビッグマックしか食わないアメリカ人とか、ヒョウに憧れて裸で暮らすフランス人とか。
そして、少なからず自分と弟にもその病的な凝り性の血は流れてる。
「バーベルを上げ下げするときに叫ばないで下さい」
と注意されたことがある。
反動をつけずにゆっくりとストレッチをしていただけなのに、肉離れするまで伸ばしてしまったことがある。
弟は考え事があると左右を確認せずに道路を渡る。
気付いてないだけで自分もそうなのかもしれない。
なんか怖い。
早いもんで日本中を揺るがした旧石器捏造問題から10年がたちます。
なんと今度は新石器捏造疑惑が持ち上がっているのです!しかも朝日新聞VS読売新聞という面白い対決になっています。
「歴史界のスクープ合戦」として、なぜか「さおだけ屋はなぜつぶれないのか」の公認会計士の山田真哉先生がこの事件の概要を説明していて知りました。
http://plaza.rakuten.co.jp/kaikeishi/diary/201009060000/
おおまかな流れは上のブログにあるとおりですが、なんだか面白そうなので、ネットに載っていない記事をさがしに図書館で新聞めくってきたところ、以下のようなタイムラインでした。
と、慈覚大師円仁(えんにん)が中国で残した石板をはけーーんと歴史的スクープ!?
http://www.asahi.com/culture/update/0709/TKY201007090344.html
7月10日には朝日新聞の文化面で、どうやって石板が見つかったかを渡辺延志記者が詳しく説明しているんですが、捏造疑惑が出た今よんでみると、この時点でかなり怪しいです。「上、上、中国人のお坊さんがタライを頭に落とそうとしている!」「後ろ!後ろ!円仁のふりしたお坊さんの幽霊が!」ってドリフを見ているような気分になりますよ。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201007100161.html
例えばですね、
法王寺の僧が訪ねてきたのは今年1月。住職の林慶仁さんに石板の写真を示し、「調べても中国には該当者が見あたらない」と、そこに刻まれている「円仁」についての説明を求めた。驚いた林住職が、酒寄雅志国学院大栃木短大教授に相談し、研究が始まった。
おいおい。「円仁WHO?ゴゾンジデスカ?」って、とりあえず日本に来る前にググれかす!あっ、グーグルは中国から撤退したんだっけ。
「あの~、もしかしてオタクのお寺さんに円仁さんいませんか?」とかいきなり門を叩いたのだろうか。円仁さんは天台宗のお坊さんでしたので、普通は比叡山延暦寺に行きそうなものですが、専門の僧侶の多い比叡山を避けて、なぜか生誕の地の栃木にわざわざいくという怪しさ。
もうひとつ例えば
巡礼行記に、法王寺に立ち寄ったとの記載はないが、鄭州を出た日に「仏教は東へと伝わる」と記していた。石板の冒頭の一節とよく似た認識だ。
これも今だから、ではありますが。「そりゃ、ぱくったから、よく似ていて当たり前だろ」と突っ込みたくなりますね。
一番興味深いのは、
書道史の見地からは「唐代の楷書(かいしょ)として疑問はない」(書家の飯島太千雄氏)、文体には「日本人が書いた漢文特有の雰囲気がある」(気賀沢保規明治大教授)などの評価を得た。 <<
と、専門家が御墨付きのコメントを寄せているのですが、最初にでてる「疑問はない」としていた飯島さんというのが、なんと今回の捏造疑惑を暴いてしまったのです!朝日新聞にしてみれば青天の霹靂といったところでしょうか。
ちなみに9月6日の読売新聞紙上によりますと、飯島さんは最初から疑いを持っていたそうで、「2枚目があろうとなかろうととても本物とは認められない」としていますし、「発掘以外で見つかったものはかなりの確率で偽物と疑うのは常識」とおっしゃっていますから、むしろ、飯島さんが最初の記事で自分の話が「疑問はない」となって青天の霹靂だったのかもしれませんが
ともかく、
朝日新聞のスクープをうけて、7月10日には読売新聞が夕刊で、7月18日に持ち込まれたお寺さんの地元の下野新聞がニュースにしています。
こうして歴史の新たな1ページが書き込まれた、と思いきや、忘れたころに衝撃的なスクープがでました。
「円仁の石板」偽物か、寺出版の拓本と別物
とやったのです。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100827-OYT1T00018.htm
(リンク切れです)
中国の法王寺が「この世に一つしかない」といっている石板の拓本(墨をつけて写した紙)が2種類も見つかったのです。見つけたのはさきにでてきた飯島さんでした。
続いて、9月3日には、「ゴミの中に第二の石板、円仁の石板さらに疑問も」という第二弾の記事が出ました。後日掲載された写真では段ボールのゴミの下に埋もれていたのか、隠されていたかのようでした。しかも、痛いことに、まわりの模様がちょうど1センチ間隔で、現代のメートル法が使われていたのです。冒頭の山田先生のブログでも、メートル法のところが強調されていて噴きました。
下野新聞は同じ日に「本物?偽者?広がる論争 文言同じ2種類存在 中国で確認「円仁の石板」と、「危ないな、でも地元だし、信じてあげたいなあ」という感じでフォローしています。
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20100903/376063
そして、面白いのは、同じ日の朝日新聞にもひっそりと、「2枚目の石板見つかる」と書いていたのです。しかし、偽物説には触れず、これだけを読む限りでは「円仁さんは1枚目を作ってみたけど、ちょっと構図が気に入らないからもう1枚作ったみたい。むしろ本物度が高まるんじゃない?」というトーンでした。ネットには載ってませんでした。
メートル法がなければ、「へえ、そういうこともありなのかな」と感じて、とりわけおかしいと思わなかったかもしれません。
このまま、逃げ切れるかと思ったら、9月6日には読売新聞がだめ押しの詳細な記事を文化面にアップしてしまいました。この記事であげられたいくつもの問題点をクリアして、本物の円仁の石板とするには、偶然に偶然を重ねるようなアクロバティックな理論を展開しないとならないでしょう。なにより最大にして、一番目に乗り越えないといけないハードルはやっぱりメートル法の存在ですよね。
果たして朝日新聞は反論できるのか、それともほっかむりするのか。そして、毎日新聞は、いつ、どちら側に参戦するのか。ところで私が家でとっている日経新聞に出ることはあるのか。楽しみですね~。
つまり、言いたいことは、中国にはこれからも日本人はガンガンだまされるよ、ってことではなく、捏造問題も10年がたち、旧石器から新石器(石板ですが・・・)に進化した、ということです。
さいなら~