はてなキーワード: 奇人とは
たしかに、ある程度歳いっても独身の人たちって、さすがに一人で生き抜いてるだけのスキル持ってる感の人もいる。
でもそれこそが奇人であり変人であるが故だとは露とも思わない。むしろ誇らしいって思ってる。
大多数の人は自分だけではできないこともあるって気づいて、自分にできないことできる人を尊敬して、そんな他者と繋がろうと努力をする。
ところが件の人たちは、それをしないんだよな。
なぜか。
周りの40歳以上で独身の人たちみるとさ、間違いなく"何かヘン”な人たちばっかり。
結婚にメリットを感じないだの、下方婚なんてもってのほかだの言ったところで、そもそもこういう人たちは他人と繋がれないし、他人と繋がる努力"だけは”しないんだよな。それ以外のことには何でも一生懸命になるくせに。
年々増え続ける生涯独身率。
俺たちはもうマイノリティではない、マジョリティだ、とか思っちゃってるかも知れないけど、
なんとなくエレカシの宮本浩次のWikipediaを見てたんだけど
”髪を掻き揚げてぐしゃぐしゃにする癖は男っぽい仕草として高校生の頃から意識してする様になったと雑誌のインタビューで語っている。大学生時、レコードショップのアルバイトでは「お客さんが来る度に髪をぐしゃぐしゃする」という理由で3日で辞めさせられた”
”火鉢を収集していたことがある。10個の火鉢に囲まれて読書をしたときには、一酸化炭素中毒になった。”
”130年前の骨董急須を含め、所有数は100個程である(2009年2月現在)。本場、中国宜興の急須を手に入れるべく、中国語講座で1年間学習し過去5回程中国へ渡航した。使い込むほどに飴色に輝き風合いを増す急須の光沢を得るため烏龍茶(鉄観音)を多飲する。多い日は1日100杯。常にお湯を沸かし茶壷にお湯を注ぐという作業を繰り返すので、生活導線を短縮しキッチンのみで寝食生活を行っていたこともある。”
変な人過ぎて笑ってしまった
こういう変なエピソードばっかり持ってる人のWikipediaの記事が読みたい、純粋に奇人として有名になった人ではなく何かしらの分野で名を上げたけど、なんか変な人がいい
増田と同世代だけど、親のエゴを押し付けられてた子はやっぱ徐々に歪んでいってた。
対象のおもちゃが欲しすぎるあまり盗癖に発展して、ボコスカにいじめられてたりさ。
高学年になってもテレビはNHK教育のみ、映画は児童向け古典のみ(戦前ディズニー,オズの魔法使いetc)、
本は古典児童文学のみ、ゲーム原則禁止の子居たけど、普段からディズニー映画やミュージカルか
何かを模したような妙に明朗な喋り方で、大人が喜ぶような美辞麗句しか発言しないので本当に異様な感じだった。
そのまま年を重ねるごとにどんどん歪み続けて、最後は地域一帯で知らぬ者がいない位の奇人に育ってしまったな。
郅都(?) -?) 前漢時代の河東郡楊県(現在の山西省宏道県東南部)の出身である。 漢の文帝の時代には、漢の役人を務めた。 警部補時代、法律を厳格に執行し、権力者を寄せ付けなかったため、「鷲」と呼ばれるようになった。
内容
1 バイオグラフィー
1.3 強者に挑む
1.4 皇太子妃の不興を買う
1.6 イーグルの死
2 評価
3 関連項目
4 参考文献
漢の文帝の時代、志杜は文官となり、次いで文帝の家来となった。 景帝の時代になってから、将軍に昇進した。 その勇気ある助言によって、大臣たちを説得することができたのだ。
ある時、景帝に随行して上林宮に行った時、随行していた賈詡がトイレを使っていると、突然イノシシがトイレに突入してきたことがあった。 皇帝は志杜に、その目で嘉吉を救うように指示したが、武器を持った志杜は皇帝の体を守るだけで、行動を起こさない。 景帝が自ら武器を取って助けようとすると、子都は景帝の前にひざまずいて、「一人の妾を失えば、また一人が宮入りする、世に嘉吉のような女が不足するだろうか」と言いました。 陛下がご自身の安全を軽視されるのであれば、国や皇太后をどこに置くというのですか?" 漢の景帝は、志杜の言葉を聞いて、賈賈をおいて、結局、イノシシは誰も傷つけずに、便所から逃げ出したのです。 この出来事を聞いた皇太后は大喜びで、志都に金百枚を褒美として与え、漢の景帝はそれ以降、志都を重用するようになった[1]。
前漢の初め、宮廷は黄蓋の術によって国を治め、何もせずに治めるという方針をとった。 済南県には300余りの謝氏一族がいたが、彼らは強大で狡猾なため、済南の将軍は何もできなかったので、景帝は志都を済南の将軍に任命し、地方の有力者を治めるように命じた。 彼が済南県に到着すると、謝氏一族の悪党の長をすべて処刑させ、他の謝氏一族は恐怖に震え、二度と法を犯すことを恐れなくなった。 済南県に赴任して1年後、県内には一切の残骸がなく、周辺の十数県の知事たちは皆、彼を上官のように尊敬していた[2]。
その後、中尉に昇進し、北軍と都の警備を担当することになった。 有力者の顔色をうかがうことはしなかった。 宰相の周亜夫(しゅうあふ)は傲慢(ごうまん)で横柄(おうへい)だったが、彼に会うと頭を下げるだけで、ひざまずかないのだ。 文帝と景帝の時代には、民衆の搾取が減り、平和で満足な暮らしができ、法を犯す人もほとんどいなかった。 法律は王族の親族や貴族が執行し、法律を破った者は官吏や人に関係なく、法律に従って厳しく罰せられました。 王室からは嫌われ、恐れられ、横目で見られ、陰では「鷲」と呼ばれ、その激しい法執行の比喩とされた[3]。
紀元前153年、漢の景帝の長男である劉栄が皇太子に任命された。 紀元前150年、劉協の母・王耀が密かに大臣を唆して景帝に李自成を皇后にするよう依頼し、景帝は激怒して劉協を臨江王として退位させた[4]。
紀元前148年、劉栄が勅令に違反して菩提寺の土地を流用して宮殿を建てたため、景帝は劉栄を呼び寄せて謁見させることにした。 劉栄は江陵(現在の湖北省江陵県)の北門から出発し、乗り込んだ馬車が壊れてしまったのだ。 江陵の人々は皆、目に涙を浮かべながら、「私の王は帰れない」と内心で言っていた[5]。
都に入った劉栄は、裁判のために尉官室に呼び出された。 劉栄は恐れをなして、景帝に礼状を書こうと筆と剣を求めたが、景帝はそれを許さなかった。 魏斉の侯爵、斗英は人を遣わして劉栄に静かにナイフとペンを渡した。 長男の死を知った皇太后は激怒し、法律を厳格に執行して甘受しようとしない財津を憎んだ。 景帝は彼を故郷に罷免したが、その後、使者を送って延門県知事に任命し、近道で直接赴任させ、県の事務を処理する特権を与えた[6]。
漢の景帝の時代、匈奴の鉄騎兵が長年国境を侵し、国境の県は長い間未開拓のままであった。 彼の清廉潔白の名声を慕っていた匈奴は、彼が燕門の総督に任命されたことを知り、恐れおののいた。 匈奴の騎馬隊は退却し、燕門から遠ざかった。 死ぬまで延門に近づく勇気はなかったという。
匈奴はザイドゥの形をした人形を彫り、匈奴の騎兵が馬上から撃つための標的として設置したのです。 ザイドゥを恐れて、匈奴の騎兵は誰も目標を達成することができませんでした[7]。
景行が再び財津を利用したことを知った道太后は激怒し、直ちに逮捕を命じた。 景帝は「宰子は忠臣である」と宰子を擁護し、釈放の準備をした。 孫の劉栄の死も忘れず、斗太后は「臨江王は忠臣ではなかったか」と言った。 彼女の仲介で、ついに志杜は殺された。 彼の死後まもなく、匈奴の騎兵隊が燕門に再侵攻した[8]。
彼は忠誠心が強く、公正で正直な官吏で、内部では権力者や有力者に立ち向かい、外部では外国の侵略から身を守り、匈奴の神経をすり減らすほどの勇気を持った人物であった。 親族を倍加して仕えれば、政府の下で死んでも妻にはこだわらない」という有名な言葉があるが、これはまさに彼の官僚としての生き様を表している。 後世の人たちは、財津を高く評価していた。
司馬遷は『大史記』-巻122-「涼官伝説」の中で、「彼は素直な人であり、天下を争うほどの人であった」と賞賛している。
漢の成帝の時代、大臣の顧雍はメモで志都を論じ、「趙に連波と馬遂がいて、強い秦は井戸を覗く勇気がなく、近漢に志都と魏商がいて、匈奴は砂幕に南下する勇気がない」と述べている。
唐の古書』巻194には、唐の中宗皇帝の時代に、右補奇人の陸遜が「漢が宰子を祀ると匈奴は国境を避け、趙が李牧を任命すると臨湖は遠くに逃げた」と発言したことが記されている。
上記の名前から、志都は戦国時代の趙の連波、趙奢、李牧など、「戦国の武将、国家の手先」とされた名将と肩を並べることになる[10][11]。
寺が無断転載で炎上しているようですが、鰤小説や江部でも無断転載はずーっと横行しています。
「多すぎてご連絡いただいても対処できないので、見つけたら以下同文」
仰ることはわかるのですが『無断転載禁止』と明言されていても、まずその文言(証拠)がどこに書いてあるのかがわからないと、通報しても各運営は
って、なっちゃって動いてくれない。
Twitterのbio欄や個人ホームページに『無断転載禁止』と書いてあり、そのURLを書き添えて通報しても各運営は
ってな感じで削除に踏み切ってくれない場合もある。
そこで絵師の皆さんにお聞きしたいのですが、許可を求められた場合、許可をお出しになる可能性ってあるんですか?
もしも余程のことがない限り許可は出さないというのであれば『無断転載禁止』ではなく『転載禁止』『使用禁止』と、Twitterのbio欄やホームページ、あるいはアップした作品にハッシュタグをつけるなどしていただけると通報民は非常に助かります。
実際に通報しても運営からしたら、それがフリーイラストでない証拠、転載許可をだしていない証拠がなければ、それを無断転載だとは決定付けられないわけで(運営擁護ではありません)。
なぜかといえば『無断転載禁止』と書いてある以上『許可があれば転載OK』と捉えられるからです。だから『無断』の文字をなくし『転載禁止・転載不可・使用禁止・ここに掲載されている以外のものは全部無断転載』とハッキリわかりやすく証拠となる文言さえあれば、第三者からの通報でも削除される可能性がぐんと高くなりますので、是非高らかにご自身の権利を主張していただけないでしょうか。
ぶっちゃけ本元を探すのにも非常に時間がかかるのです。なぜなら画像検索をして出てくる同じ画像のほとんどが『Pinterest』『鰤小説』の『無断転載』ページばかりで。そこからやっとご本人様を探しだしても、どこにも権利の主張となる文言がなかったら、通報ができなくなります。
無論、そんなものがなくても本来当たり前の権利であり、許可をとって転載しているならば転載側が許可をとっている旨と作者様のお名前を明記すべきです。
無断転載をしている輩の中にはPinterestにアップされているものはフリーだと思っているおバカさんが一定数存在しますし、ネットにあるものはなんでも拾って使っていいと思っている乞食も一定数いるのが現実です。キッズに至っては、みんなやってるじゃんで済ませてしまいます。
これが現状なのですから被害者が声を大にして権利を主張すべきだとわたしは思います。
わたしは絵が描けません。ですが、小説を書いています。自分の作品は自分で守るべきものだと思っていますし、作品に誇りも持っています。もし、どこぞのクズがわたしの作品に手をかけようものなら、相手が誰であれ徹底的に叩き潰す心積もりでいます。死んでも許さないし、むしろ相手に死んでいただきます。
それこそペンを片手に地の底まで追い回し、法で裁けないなら社会的に抹殺してやろうとも思っています。
絵師の皆様は、そう思わないのですか?
今回の寺の件に関しても声を挙げているのは絵師ではなく、第三者です。おかしくないですか? 被害者ではなく被害者サイドの第三者が戦うって不自然じゃないですか。
無断転載が多すぎてもういちいち相手にしていられない、見つけたんなら勝手に通報しといてよと、そんな態度でいたら作品を守れなくなってしまいます。そもそも被害者が筆を折るとか馬鹿げています。筆ではなく相手の首をへし折るべきではないですか?
どこの誰とも知れない輩のアイコンに使われたり、どこの誰が書いたとも知れないくっそつまらない小説の表紙を飾らせられたり……もうわたしだったら速攻そいつの胸ぐら掴みにいきますけど。
とにかく絵師の皆様におかれましては、ご自身の作品に対する権利の主張を大声でアナウンスしていただきたいです。
あと余談ではありますが、なぜキッズがこんなにも増殖したかといえば、学校で貸し出される端末の影響が大きいかと思います。自分のスマホやタブレットを持っていない子供が学校から支給されている端末を使って、寺や鰤小説、江部に登録しているのです。どのサイトもメールアドレスだけの簡単登録で年齢は自己申請。小説サイトだから端末に規制もかかっていない。
本来ならTwitterやInstagramをやりたいんでしょうけど、それはできないんでしょうね。だから先に挙げたみっつの小説サイトや、ラジオ配信のできる匙などにキッズが蔓延るわけです。キッズはバカみたいに個人情報をお漏らしするので、住んでいる県がわかっているなら各都道府県の教育委員会へと報告するのもひとつの手かと思います。