はてなキーワード: 低俗とは
こんばんは、貯金箱です。正確には前世で怪獣の形をした貯金箱でした。お金を食べる生物として寓話的にも唯物的にも適任かと思いましたので、食にまつわる思い出を、少し。
この業界では「喉元すぎれば半人前、口からこぼして一人前」といわれています。持ち主の三日坊主や途中解約などにより、お金に満たされて天寿を全うする例は多くないぞ、という戒めです。常に飢えた私たちは体内の空白に敏感で、あと何円でそれを埋められるか計算ばかりしていました。お互いを見張り、その食事内容に一喜一憂し、とても健やかとは言えなかったと思います。
稀に、高額紙幣を口にする機会もありました。あのゴワついた紙が口に押し込まれるとき、他の仲間を出し抜いた心地良さで口の端が歪み、秘めやかな興奮が心に渦を巻いたものです。一度その味を覚えると、少額の硬貨を口にすることは砂を噛むような苦行となりました。
実は私、あと数百円で完全に満ち足りるまでお金を食べた経験もあるのです。最後の時を待つ私の態度は高慢そのものだったでしょう。周囲の貯金箱が等しく低俗な存在として映り、それと比べて自らの体には高貴な甘い蜜が流れているようでした。ところが、いよいよというところでフト持ち上げられてお尻を外され、衆人環視の中で全てのお金を抜きとられたのです。ジャラジャラと続く思いやりのない音が頭から離れず、心細さと恥ずかしさに我を忘れて泣きました。
その暗い空白に灯りをともしたのは小さな5円玉でした。数日後、再び最初の一枚が私に施され、カラン!と無邪気に舞い降りたのです。それは明るい音でした。恐る恐る体を揺らすとカラコロと鳴りました。5円玉は縦横無尽に転がりまわり、私は初めて空白の輪郭を知りました。やがて空白は香ばしい稲の香りでいっぱいになり、一層愉快になった私は体を揺らし続けました。不器用に揺れる茶色の怪獣はことさら不気味であったでしょうが、かすかに響くカラコロという音を聞けば、それが私と五円玉によるウエディングワルツのようだと気づいた人もいたでしょう。お金は、無いことに焦れるより有ることを喜ぶほうが楽しい、そう思いました。
「野菜350g」が「健やかになるための食事」のことであれば、私にとってのそれはあの時の5円玉1枚です。以来、私は1円玉も1万円札も等しく消化することができました。ですので、真に満足する食事とは、何を食べるかよりどう食べるかではないかと、今ではそう思うのです。
違いは何なんだろうか。
自分の会社は全社員が、自己啓発系の勉強に会社から行けといわれて行くことになってる。
そこを「I塾」とする。
そこでは、人間としてどうあるべきかとか、この塾を受講してよくなったって人の話が月1ペースである。
自分としては、まぁ会社の命令だからと、話半分、自分にとって都合の良いことを抜き出して毎回報告してる。
今日、新人君がその勉強会について社長に「宗教じゃないですか」と言っていた。
すると社長は「宗教じゃない。人間として当たり前の道徳の勉強だ。」と反論していた。
自分にとって、「宗教」と「勉強」は同じなんじゃないかと思う。って話をすると長くなりそうなので控えるとして、
と、いうより、オウム真理教の話題が最近尽きることがないので再確認したのだけど、「宗教」って「ネガティブな言葉」になってるんだと思う。
具体的にいうと、「宗教」はマインドコントロールや洗脳による教育というニュアンスが含まれている。
つまり、日本神教や、仏教、キリスト教などは宗教とは一線を画する崇高ななにかで、低俗な教えがはびこってるものは「宗教」というような空気がある。
でも、I塾は間違いなく宗教なのだ。なぜなら、塾長と呼ばれる人が仏教に精通していて、「お釈迦様は」とか「崇高な僧の○○がこう残した」とかいうテキストが多分にでてくる。xevraでは無いが、瞑想の素晴らしさを説いていらっしゃるし、悟りはなんたるかと言っている。
つまり、ほとんど仏教を塾長なりに噛み砕いて経営に持ってきたものが「I塾」の勉強テキストだと自分は思っている。
なので、自分のとってI塾とは、仕事をする上ではあまり役に立たないんだろうなという高度な数学や、漢文などと同じなのだ。
なので、宗教って言われても「宗教だ」と自分はポジティブに言うと思うのだが、どうやら社長は「宗教」と言われることについて物凄く怒っていて、今もその新人を社長室で説教している。昼ぐらいは解放してあげないとマズイだろ…。
元増田が感銘を受けたらしいmaicouさんのコメントは、実は修正前後のもの。
詳しくは昨日の増田に書いたが。
https://anond.hatelabo.jp/20180705170629
修正前:こういう雑魚の発言をわざわざ拾ってくる行為こそ、低能先生そのものじゃないのか?自ら低俗はてなを証明してどうする
修正後:こういう雑魚の発言をわざわざ拾って晒す行為こそ、低能先生が叩いてた行為そのものじゃないのか?自ら低俗はてなを証明してどうする。
こういうコメントを拾う行為が低能先生そのものなのか、低能先生が叩いてた行為そのものなのか、ほぼ180度反対の意味のことを書いていた。
意味内容的に書き間違いとは考えづらいので、貴方の様なギャラリーたちの反応を見て多少の手直しでまるっと別の意味になるように書き換えたのかなと想像するが、どうかな。
基本的には某先生の擁護というか犯行の尻馬に乗ってはてなーを叩くスタイルのブックマーカーのようだが、ちょいちょい内心某先生をバカにしているところが漏れ出ているようで興味深い。
例えば以下のブクマコメントだが、実は短時間に内容を書き換えられていた。
(スクショまでは撮っていなかったが、何度かリロードしていたら以下の修正を確認できた)
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/suzushizuchan/status/1014403476766380032
修正前:こういう雑魚の発言をわざわざ拾ってくる行為こそ、低能先生そのものじゃないのか?自ら低俗はてなを証明してどうする
修正後:こういう雑魚の発言をわざわざ拾って晒す行為こそ、低能先生が叩いてた行為そのものじゃないのか?自ら低俗はてなを証明してどうする。
雑魚の発言をわざわざ拾う行為は低能先生そのものなのか、低能先生が叩いてた行為そのものなのか。180度近く文意の違いがあるのでは?
まず前提として、「客観的」にどれが優れていてどれが劣っているかを「論理的」に「科学的」に論証することがほぼ不可能だということは認める。
問題はそういうことではなく、個人の主観的な評価の中で本当に優劣はないと言い張っていいのだろうかということ。
ゲームが好きなオタクは自分の大好きなゲームが本当にペタンクや現代芸術と同じ価値だと思っているんだろうか。
ゲームオタクは当然のようにペタンクや現代芸術を下に見ているだろう。それが個人の中での優劣ってものだ。大好きなゲームがペタンクや現代芸術なんかと同じわけがない。同じなのであればゲームだけやってるのではなく、いろいろな趣味を探すだろう。あらゆるものに無意識のうちに順位をつけているからゲームを最優先する人生を送っているわけだ。
「娯楽や芸術に優劣はない」と言いながら、自分では明らかに順位をつけている。なぜこういう発言が出てくるのか。これは結局劣等感から来ているのではないだろうか。
たとえば世間で高尚とされる趣味を持っている人はいちいち「娯楽や芸術に優劣はない」などとは言わない。こういう発言をしているのは大体オタクだ。
オタクは「娯楽や芸術に優劣はない」と発言することによって、低俗と見られがちな自分の趣味と世間で高尚とみなされている趣味が同じ価値だと主張しているわけである。つまり、相手の価値を毀損することによって相手を自分と同じところまで引き摺り下ろすということをしている。
「どれも娯楽だろ」「娯楽に優劣なんかあるかよ」ともっともらしいことを言って、すべてを自分のレベルに落として均質化しようとする。
オタクは教養がないのでこういう理屈で満足なんだろう。それに芸術に親しんでいる人たちもいちいち世の中の娯楽を批判して敵を作るようなことは積極的にはしない。
芸術に親しんでいる人たちは理論も勉強しているから芸術もわかり、かつもちろん娯楽もわかるが、一方でオタクは娯楽しかわからない。オタクは娯楽しかわからないのに、その価値観で芸術を酷評して「優劣はない」などと言っている。
要するに自分たちの理解できないものを理解する気もなく批判している。
こういうオタクが自分は賢いと思っているのを見るたびにとても滑稽だと思う。
「娯楽や芸術に優劣はない」などと言いながら多様性や理論を理解する気もない。主張の意図としては相手を理解せずに理解する気もなく自分と同レベルと言い張るという自爆行為である。自爆行為でありながらプライドだけは高く、むしろ自分の趣味こそ至高だと信じている。
「娯楽や芸術に優劣はない」という言葉はオタクが他人と同等になれる魔法なのだ。「お前らも俺と同じだろ」というわけだ。
オタクは競争のない世界が好きらしい。ネトウヨでありながらも、徒競走でみんなで一緒にゴールという価値観をあわせ持っている。自分に都合の悪いところは競争しない。
何気なくポチポチと巡回していたら、みずほのトラブル記事に対するトップブコメがこんなので本当にゾっとしたよ。
他人をコケにすることで下卑た笑いを浮かべる連中が集まった卑劣で醜悪なサービスになりつつある。
銀行がトラブルなくてがっかりしてた視聴者にみずほらしさをアピールする抜け目なさ。足りないのは謝罪担当にヅラ管理職がいなかったことか。
この機会に一度自分たちのネット人格が取り返しのつかない所まで歪んできている可能性を考慮し直すべきでしょ。
「リアルであってみたら以外にいい人だった」なんて言われるのをいい意味で受け取ってる人が多いけどそれって、「ネット人格から逆算したリアル人格は救いようもないゲスを極めし鬼畜低俗卑劣漢でしたよ」と言われているようなもんだからね。
むしろそうやってとんでもない畜生だと思われるのを「おっと俺様キャラ立ってる~~」とか喜びそうな連中が多いけど、ただ単にクズなだけのやつなんてリアルには掃いて捨てるほどにいるから微塵もキャラはたってないし、傍から観てる分には面白いだけで同じ空気を吸いたい相手では全く無いからね。
私は19卒の学生だ。
私は家族や友人から、とりあえず就職先を決めろよという事を言われ続けている。
少し前までは就活をしていたが、冷めてしまった。やりたい仕事がない。
そもそも働く意味がないと考えているタイプの人間だ。じゃあ、どうやって生活するつもりなんだ!?と聞かれることはある。
でも、週5で8時間以上も働いている未来が見えない。週3くらいのバイト実家暮らしで楽に生きたいと考えている。当然、正社員にはなれない。
会社説明会には周囲と比べて多く行った方だと思う。
でも、結局は行きたい会社は存在しない。結局は自分にとってメリットの一番大きな会社はどこか?という視点でしか見れない。当たり前のことかもしれない。
いままで学んだことを生かせる職種を中心に見たが、魅力がないわけではない。
しかし、それに週5日捧げることができる気力がない。今なら内定を貰っても入社5分で退職届を出す気がする。
もとより低俗な事が好きだ。
アニメ、ライトノベル、ゲームなど家ではずっとそればかり。この辺が趣味であるから社会人に向いてないとも思う。
それを仕事にするスキルもなければ、周囲に人もバカにするだろう。これで自分のプライドを保てるのだろうか。就職活動をしていないという時点でプライドもないのかもしれない。
昔はやりたいことがないから学歴を手に入れようと思い勉強をした。学歴を手に入れておけば、やりたいことが見つかった時に困らないだろうと思った。
そこそこアクティブな学生生活を送っていた。しかし、どうやっても金にならない事しかしていなかった。
結局のところやりたいことをやったもん勝ち という事を知っただけ。
「昔は小説(夏目漱石など)も低俗と言われていた」などと言って、まるで現代では低俗と言われてないなどと主張しているが、現代でも小説なんてのは低俗なんだよ。教養のない人たちが「本読んでる。すごい!」とか言ってるだけで、小説なんてのは子供の読み物だってのは今も昔も変わってない。
ラノベオタクは昔低俗と言われていた小説が現代では高尚なものと言われているのだから、現代で低俗と言われているラノベも将来は高尚なものと言われるだろうと主張している。
ほんとにそうなのか。現代で高尚なものとされているというその主張が謎である。まともな大人は文学なんて読まない。
あるいは漫画やアニメも昔はこんなもの読んでる(見てる)と馬鹿になるなどと批判されていた、とか、テレビばかり見ていると馬鹿になると批判されていた、とか。まるで現代では批判されていないかのような主張である。が、実際に漫画やアニメばかり摂取してきた人間はやはり馬鹿になっているし、テレビばかり見てる人間もやはり馬鹿になっている。
主張としてはラノベもやがてこれらと同じく世間に受け入れられるだろうということだが、漫画やアニメは別に今でもそれほど世間に受け入れられてはいない。実際漫画の売り上げは下がっているし、アニメが受け入れられていると言ってもそれはジブリなどの映画アニメであって、オタクが好きな深夜アニメが受け入れられているわけではまったくない。テレビに関してはたしかに受け入れられてはいるが、若者のテレビ離れも言われていて、もはや時代はテレビではないことは明らか。
さらに言えば、ラノベは何も新しい表現ではなくただの小説であるという問題がある。漫画やアニメは初めの頃は確実に新しい表現だった。しかしラノベはただの小説である。どこにも新しい要素はない。19世紀で完成した大衆文学を現代オタク流にアレンジしているだけの作品群である。
そして小説はラノベ以外にもたくさんあるということ。なぜラノベだけ特別視しているのかが謎である。大量にあるくだらない小説の一部にラノベというラベルを貼っているだけ。何も特別なものはない。大量にあるくだらない小説からラノベだけが生き残るなんてことがあるんだろうか。
たしかにくだらない大衆文学は残るかもしれない。未来においてそういったものが教養のない人たちから高尚な読み物と言われるかもしれない。しかし教養ある人たちはそんなもの相手にしないし、くだらないと思っている。ただ、わざわざそう主張しないだけだ。敵を増やすだけだから。