はてなキーワード: 男性差別とは
↑を書いた後、予想以上の量のコメントを貰ってびっくりした。量も驚いたが、内容も、人によって結構違う内容や態度だったりで、何故か、その事に少し救われた(妙な話だが、敵対的な態度の人も居る事が、むしろ嬉しかった)
で、増田でたまに見るブコメ等への返事の追記をやるべきかどうか悩んでいる内に日が過ぎてしまった、ひとまずここに書いておこうと思う。
まず、「SNSをやめたほうがいい」「フェミニズムから一旦離れた方が良い」という意見が有ったが、離れるつもりは無い。
何故なのか?と言うのは自分でも良く分からない。単純に意地になって居るのかもしれない。
ただ、一つ思うのは、「終わったものボックス」に入れられるのは嫌だな、という事だ。
私が例えばSNSから離れたり、カウンセリングを受けたりしたら、私の懊悩は「じゃあ解決したね、よかったよかった」になってしまう、そうはなりたくない。(そもそも、カウンセリングはそんなに万能ではないとも思う。どちらかと言うと、他人の問題を「お終い」にしてしまう為の道具として、便利に使われている印象がある)
それに、基本的に私はリベラルもフェミニズムも正しいと思っている。
いくつか疑問に思う部分が有ったとしても、やはり離れる訳にはいかない。
また、離れても無駄だとも思う。既に私はフェミニズム的な視点や捉え方や規範を他者から学び、内面化している。
SNSから離れようが、既にそのコピーのフェミニストは自分の中にいて、その声からは逃れることは出来ないし、すべきでも無い。
「人をカテゴリで捉えるな」というコメントも多かった。それから、「リベラル派じゃなくてリベラリズムに従えよ」という文章を書いてくれた増田もあった。
正しいとは思う。ただ、実際に遣るとなると、難しい、というか、無理な気がしている。
社会問題を扱う限り、会った事も無い人の被害や加害を考えなければならない(そうでなければ、それは「社会」に対する思考ではない)、会った事の無い人について考える時に、「女性」や「男性」や「フェミニスト」や「リベラル」のようなカテゴリは非常に有用だし、それ無しで考えるのは不可能じゃないかと思う。
また、現実の話もある。例えばある女性やフェミニストの方の主張に疑問を感じたり、リベラリズムに反すると思った場合、それを男性の私が指摘したり疑問を言葉にするのは、正直言って、難しい。
この雰囲気をどう伝えれば良いのか分からない、兎に角、難しい。それによって私がセクシストであり、差別主義者だと言われてしまうのでは無いかという恐れが常に有る。
これは私に限った事ではなく、私の周囲の人も、女性に限らず、社会的弱者や当事者の方の言う事に疑問を呈す場合は、かなり慎重に行う。社会の非対称性を考えれば当然の事だとも思う。例え多少おかしな部分があったとしても、それを強者である男性が、当事者の口を塞ぐというのは、有ってはならない、と思う。
それから、リベラリズムについては、説明がし辛い。昔は自分も所謂「自由を貴ぶ」という意味でのリベラリストのつもりだったが、今は、(大雑把な表現だが)「弱者を守る」という意味でのリベラルである。今の日本でリベラルと名乗る人の大半は後者だと思う。
ただ、彼の言う事は本質を突いている気がする。恐らく、自分は今後者のつもりだが、後者に成り切れておらず、前者の部分が残ってしまっているのだ。
前者の意味でのリベラルは、現在の日本ではむしろ所謂「ネトウヨ」や「ミソジニー男性」(と、後者のリベラルが見做している人達)と相性が良い。
気付いた人は多分居ると思うが、前回の増田で私が書いたフェミニズムへの疑問(ゾーニングの公の範囲や、BL等の免罪等)は、上記の様な、リベラル、フェミニズムの敵対者が良く主張している事に非常に似ている。そのもののものもある。
恐らく、つまり、私はリベラルを自認しているが、私の中にはネトウヨ的な部分や、ミソジニーも有るのだと思う。
だから私は、恐らく正確には、前者と後者、両方のリベラルであり、だから、その矛盾に引き裂かれているんだと思う。
「ネトウヨ」や「ミソジニー男性」といった言葉の選択には怒る人も居るかもしれない、ただ、これは便宜的な呼称だと思って欲しい。
少なくとも現在の日本では、後者の意味でのリベラルやフェミニズムの問題点を指摘できるのは、彼らだけだろう、といより、問題点を指摘すれば「ネトウヨ」「ミソジニー」と呼ばれる事に成る。
だから、私のフェミニズムへの疑問は、「ネトウヨ」「ミソジニー」という事に成らざるを得ない。
ここでまた、「またカテゴリで考えている」と言われるだろう、でも、現実にそうなのだ。そりゃ、リベラル自身がリベラルの問題点に言及できるようになればいい、それが理想だ、でも現実は違う、そんな事は出来ない、そんな事をすれば利敵行為すなわち「ネトウヨ」と言う事に成るからだ。
リベラルやフェミニズムへの疑問や矛盾に悩む私に「SNSから離れた方が良い」と言葉を掛けてくれる人は一杯居た。けれども、「そのような矛盾をこれから解消しよう」と言ってくれる人は一人も居なかった。
(いや、こう言う言い方は不当かもしれない。そもそも、リベラル側の人は、そのような矛盾が有るとは思っていないのだろう。だからその解消を求める事自体がお門違いなのだ)
これまで書いた事について、正直な所、後ろめたさというか、これでいいのだろうか、という迷いが有る。
リベラルやフェミニズムに矛盾や問題点がある、なんて事を書いて、いいのか・・・分からない、それ自体間違っている気もするし、「間違っている」と言われる気もする。
ただ、まぁいい、もうこうなったらいっそ、(滅茶苦茶長くなるだろうが)思った事全部書いてしまおう。
「リベラルならラディカルフェミニズムじゃなくリベラルフェミニズムの方に向くべきでは?」というコメントに対する返答も先程とほぼ同様、
リベラルフェミニズムは前者のリベラル(つまり自由を優先する方)と相性が良く、後者のリベラル(弱者を優先する方)はラディカルフェミニズムと相性が良い(相性がと言うより、仲が良い、と言った方が正確かもしれない)
自分は後者が主軸なので、ラディカルフェミニズムと協調する事に成る、そうすると必然的に表現の自由等より、弱者を守る事を優先する事に成り、女性を消費するようなコンテンツを肯定できない→オタクである自分自身と不調をきたす、という事に成る。
まぁ、日本ではラディカルフェミニズムが支配的で、リベラルフェミニズムはあまり広まっていないという事情も有るとは思う。(アカデミズムでリベラルフェミニストの有名な人って例えば誰が居るんだろうか)
訂正と謝罪をするべき事が有る。
増田で↓のように書いた。
学生時代の苦しみは、一体何だったんだろうか?あの時の加害者の中には女性もいる。彼女は弱者で、自分は強者である。
キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人がフェミニストとして、男性を糾弾する。
俺は一体何なんだろうか?
これについて、「キラキラしてない、パッとしない女性もいると思い出してほしい」「美人の苦しみを矮小化している」という批判があった。宇野ゆうか氏の下記のページもそれに当たるだろう。
https://yuhka-uno.hatenablog.com/entry/2020/06/28/134939
これについては謝罪すべきだと思うのだが、うまく出来る自信が無い、何故かと言うと、↑の部分は指摘された様な意図で書いた訳ではないのだが、
「そういうつもりでは無かった」「誤解を与えてしまった」という謝罪は、正しい謝罪では無い、と言うのは常識になっている。では、他のどのような謝り方が正しいのか、考えてみたが、上手く答えが出なかった。
ただ、それも難しい。この部分は、正直に言うと、自分でも何が言いたいのか分からない、「俺は一体何なんだろうか?」という漠然とした疑問が主題だからだ。
ただ、いくつか明言できることは有る。まず一つは、「キラキラしてない、パッとしない女性もいる」という事は、自分も勿論分かっている。この文は「女性やフェミニストはみんな、キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人である」という意味では無いし、そう意図しても居ない(ただ、そう読み取れる余地を残してしまった事はやはり自分の落ち度だと思う)
女性の中に、「キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人」が居る、と言う事を念頭に置いて書いていた。(「女性はみんな~である」と「女性の中に~な人も居る」の違い)
また、「キラキラした人、美しい女性はみんな、充実した人生を送っている」という意味でも書いていない。キラキラした、美しい人にもそれぞれ固有の苦しみは有るし、そもそも女性差別は制度的な差別を含むから、社会的な美醜に関わらず多くの場合被害は受ける。外見からその人の人生を推し量ることはできない(だから、宇野ゆうか氏の書いた事は正しいと思う(正しいとか、何目線で言ってるんだという話だけど・・・・))
従って、「キラキラした、美しい、充実した人生を送る人が男性を糾弾するのは間違っている」と言いたい訳でも無い。そういった人も女性差別には遭うのだから、糾弾するのは正当な権利だ。
ただ、分からない、この感じをどう表現すれば良いのか、この「何なんだろうか?」と言う、分からない感じ、分からないと言う事を、どういう言葉で表現すれば伝わるのか。
ミクロに、カテゴリに頼らず個人個人で幸福度を比べれば、私より幸福な人生を送っている女性は居る、それは確かだと思う、けれど、それで女性差別の糾弾をしなくていい事には当然ならないし、私は糾弾を続ける。ただ・・・ダメだ、分からない、どう言えば良いのか、つまり、名前が無い、と言えば良いのだろうか、女性が人生で被る苦しみの一部は女性差別に起因する、では、私の苦しみは?男性差別?それも違う、分からない、どう言えば良いのか、言葉にできない・・・・・
ただ、そんな私の言語化能力の拙さとは関係無く、訂正と謝罪はするべきだろう。
件の文章は「キラキラしていない、パッとしない女性は居ない」と言う意味や、「キラキラした人、美しい女性は苦しみを抱えていない」という意味では無く、書いた時の事を思い出す限り、「キラキラした、美しい女性」の中でも特に幸せな人を念頭に置いて書いた(だから、美人であり、かつ苦しんでいる人はここでは対象に含めて居ないので、安心して欲しい(安心して欲しい、というのも変か・・・・・))、しかし、にも拘らず、そのような解釈の余地を残してしまう拙い書き方でした。申し訳ございません。
これで上手く出来ているのか、分からない。もっと適切な謝り方が有るんだと思う。
色々書いたけど、(まだ、思っている事は全然書き切れて居ない気がするけど)改めて言っておく、疑問を感じることはあるけど、それでも、自分は「リベラル男性」を続ける。
リベラルやフェミニズムに疑問を感じた事を表に出すことは出来ないし、だから、なるべく考えない様にする。納得してなくても、納得してるふりをする、でも、リベラルである事は続ける。
自由を何より優先するという意味では無く、弱者を守る事を優先するという意味で、リベラルである事を続ける。
それに開き直るつもりは無い、「弱者を守る事を優先する」という事は、他の何かと衝突した時、そちらの優先度を下げるという事に成る。それは時には不当な加害になる事も、暴力性を持つ事も、自由の制限に繋がる事も、他者を抑圧する事も傷付ける事も、どれもあり得る。それに、そもそも自分の中の「弱者」の基準が正しい保証は無い。「弱者を守っている」つもりで、別の弱者を気付かずに足蹴にしている事も当然あり得る。
だから、私は、正しいとはとても言えない。むしろ、客観的に見れば悪である可能性も有る。
でも、兎も角、自分の見える範囲を見て、考えられる範囲を考えた結果、やっぱり自分はリベラルである事を選ぶ。ただ、それが正しいと盲信する事だけは絶対にしない様にしたい。
長く書いた。流石にこれは読まれないと思うけど、まぁ、構わない、謝罪部分だけは然るべき人に届けばと思うが、それも望む事しか出来ない。
最後に、この文章を前回の増田と分けた理由は、単純に馬鹿な程長くなってしまったと言うのも有るけど、それだけじゃなく、「本当に元の増田が書いたか分からない」ようにするのも良いのではないか、と思ったからだ。
この文章はもしかしたら、元の増田とは別人が、彼を装って書いただけかもしれない、そうだった場合、読んだ人の感想は変わるだろうか?
まぁ、そもそも、こんな長い文章読む人は居ないと思うけど、もし居たら、なるべくどちらとも決め付けずに読んで欲しい。本物か、偽物か、平等に考えてどちらか判断できる根拠をあなたは持っていないはずだ、だから本物でも、偽物でも、どちらでもあり得るように読み、考えて欲しい。
(最後に、前回の増田の様に沢山のコメントを貰えたのは初めてだったので、痛々しいと思いつつ、ブコメを見るだけじゃなく、ツイッターでも検索してしまった。
そしたら(もしかしたら検索の仕方とか過去ログの有効期限のせいかもしれないけど)最初にこの増田の事をツイートしたのが、おねロリキメセク天皇で笑った。ちょっと、嬉しかった)
ここで肉体的な違いを差別ではなく区分として考えるのなら、それは差別じゃない
そして男性と女性とで肉体的な区分があるのなら、男性が乳母を勤められないように双方が違う扱いを受けるのは当然だ
だからフェミニストの主張における根幹的な間違いは、差別と区分の違いについてわかってないことにある
つまりそういうことだ
「トランス女性と女のフリした変態を区別できないと言ってトランス女性を犯罪者予備軍のように扱い憎悪を煽る」というのがterfの常套手段だと言われてるのはひととおり調べて分かったんだけど、じゃあ実際に「生まれつきの性」なんかないということになって、いま社会に存在する女性専用スペースを「心が女性であると主張する人」みんなに明け渡したとして、身体女性の安全を現実的にどうやって確保するの?
・・・という問題提起まで「トランスファビアが滲み出ている」とか言われて蹴飛ばされるのはさすがにおかしくないか。どうしてこの世に女性専用スペースなどというものが必要になってしまったかという文脈と、実際に身体女性の安全を侵害する奴らの存在をなかったことにしてないか?それちょっと「女性専用車両は男性差別」みたいな話では?自認女性を差別するためや男性を性犯罪者呼ばわりするために女湯や女子トイレや女子更衣室が生まれたわけじゃないだろ。なんでそれで「身体女が特権を手放さない」みたいな話になるのか。
(そんな事は無いと思った皆さん、でも、日本ではシスヘテロ女性はトランスジェンダー女性より自分達は弱者だと言う事に成っているのです)
ではアメリカではどうなのだろうか?アメリカでは、例えば、白人女性と黒人男性、どちらが弱者なんだろうか?
という事をふと考えてみた。が、考えてわかる事ではない、アメリカに行ったことが無い自分には知り様が無い事なので、知って居る方が居たら教えて欲しい
しかし興味深い疑問ではある、日本では、「男性」にどんな属性を追加しても、女性より弱者になるかどうかは疑わしい。
例えば障碍者男性は健常者女性より弱者だ、と公の場で言える人がどのくらい居るだろうか?そしてその発言はどれほどの非難を浴びる事になるだろうか?
先日もADHDを自称する人の増田に女性差別であると揶揄する(もっとも、それは単なる誤読であったようだが)コメントがはてブで多くの支持を集めていた。
その後そのコメントへの非難にも多くの支持が集まったが、実の所そうした非難にも「ADHD男性は健常者女性より弱者である」といった観点のコメントはほぼ無かったように思える。
多くは「(女性や他民族を)差別するべきでないなら、容姿差別もするべきではない」という趣旨であり、「女性が弱者とは言え、更なる弱者であるADHDを差別するとは」という主張では無かったのだ。
実に自然に、我々は「ADHD男性より健常者女性の方が弱者である」という共通意識を疑いも無く受け入れている事が分かる。リベラル・左翼的傾向に批判的である人でさえ、そうなのだ。
例えばとあるポスターが女性差別的であると問題にされたとして、そのイラストの書き手がADHDであると分かったとしても、ポスターへの批判が失速することは無いだろう(そういえば、岡村隆史の発言が問題になった際、彼の鬱病を心配する傾向は少数ながら見受けられたが、だからと言って彼の弱者性を女性より高く見積もる人は居なかった様に思える)
では、アメリカでは?
「非対称性」「権力勾配」という言葉はどのような場面で使われるか、それは論理のみでは解決できない・するべきでない問題に倫理的条件を追加する為に用いられる。
例えば男性が女性を性的に消費する事と、女性が男性を性的に消費する事は、特別な条件が無い限り論理的には等価だ。
しかし現実社会での男性と女性の立場の非対称性や、権力勾配を考慮すれば、それを等価だと見做すこと自体が差別的だという事になる。
従って、現実社会での非対称性を測定したいなら、「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」を観察するのが一番であろう。
アメリカでの白人女性と黒人男性の間の非対称性は最初に書いた通り私には分からない。「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」自体、経験から抽出される物に他ならないからだ。
では日本での生活経験から「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」を挙げることは可能だろう、、、、と考えたその時、
これは非常に良くない思い付きだ。まず、ここまで来て漸く思い至るのも可笑しな話だが、「どちらが弱者か」などと弱者と弱者を対立させるべきではない。
けれども、ということは、弱者と弱者の連帯は、こうした弱者同士の間の非対称性を”見ない事にする”事で漸く可能になっている、とも言えるだろう。
折しも昨日、高須克弥氏が「日本人は黒人を差別したことは無い」とツイートして炎上した。右翼でさえこの発言の誤りには気付くだろうが、しかし、
「日本では黒人男性は日本人女性ほど差別されてはいない」という発言だったらどうだろう、いわゆるはてサの人達でさえ、これに答えるに少しばかりたじろぐのではなかろうか。
当たり前の事だが、日本にも人種差別はある。しかし、日本における「女性」の弱者性と比べて、どうか、という事は、実の所かなり判断が難しい。
あるポスターが女性差別的であると問題にされたとして、その作者が誰であろうと、論理的にはポスターの是非と何も関係が無い。
けれど、現実の非対称性は「論理的には等価だが、そうは判定されない事象」に差を与える。では、
「女性」より弱者である属性がもし存在するなら、ポスターの作者がそこに該当すれば、その女性差別性は非対称性によりキャンセルされるのではないか、
何故なら、そもそも男性差別的な表現より女性差別的な表現の方がより問題であるのは、現実の非対称性があるから、なのだから。
(いわゆる腐女子達の表現が、フェミニズムの批判の対象になりにくいのもこのためである。腐女子達は女性であり、従って弱者であるので、その表現の加害性はある程度免除される(尤も、保守側の表現規制はこのような論理を共有しないため、実際にはBL表現はその対象になってしまう、と言う現実がある))
例えば、ポスターの作者が黒人男性だったら?・・・・恐らく女性差別であるとの批判は弱まらないだろう。腐女子達の様に免除されることは無いだろう。
恐らく日本において、「男性」にどんな属性を追加しても、女性より弱者になる事は無いのではなかろうか。
ここからは蛇足だが(これまでの文も全て蛇足の様なものだが)、一連の考察は女性にとって不愉快な物ではないか、と心配している。
フェミニストや女性が女性差別に言及すると、必ずと言っていい程「男性だって差別されている」「男もつらい」等と聞いても居ないのに因縁を付けてくる輩が寄ってくる。
何故そうなるかと言えば、多くの男性は(何故か)誰か自分とは異なる属性の者が自分が弱者だと主張すると不愉快になり、何でもいいから因縁を付けてやろうという気になってしまうからなのだが、
多くの人間は、他人が弱者だと主張すると、不愉快になり、「自分の方が弱者だ」と言いたくなってしまうのだ。
けれど、例え女性がそう思ったとしても、全然悪い事ではない、という事をここに書いておきたい。
そもそも女性は実際に弱者であり、差別を受けている。誰かが(特に男性が)「自分は弱者だ」と言っていれば不愉快になることもあろうが、それは仕方の無い事なのだ。
誰かが「自分は弱者だ」と言い募ることに不愉快を覚えるのが男性であれ女性であれ、論理的には変わらないが、「非対称性」を考えれば、両者は異なる。
そして上に示した通り「女性」があらゆる弱者よりも弱者である以上、どのような「自分は弱者だ」に不愉快を覚えたとしても、非対称性から正当化されると言えるだろう。
だから「差別をなくしたい」なんてのはちゃんちゃらおかしい、ただ正義ぶりたいだけの阿呆どもばっか。
「差別をなくしたい」って言ってる奴は、全員差別主義者だと思って聞いてる。
もちろん、自分が具体的な実害を負う差別についてはなくしたいと思うだろう。
病気なら、障害者なら、セクシャルマイノリティなら、低学歴なら、ブサイクなら、オタクなら、特定の地域出身なら……
挙げたらキリがないが、何かしら自分たちに関する差別をなくしたいだろう。
世の中にあるすべてのあらゆる差別をなくしたい、みたいなことを言う人だ。
まず人間は相手をいじめたり見下したりすることに快楽を得る生き物だから、現実的に無理。
次に、こういう奴は当事者ではない事柄に簡単に首を突っ込む危うさがある。
例えば「腐女子がセクマイへ配慮しようとして、本人たちからかえって困惑されてしまう」などの事例がある。
競合する差別同士が対立してしまうことがあるという視点をよく見落とす。
例えば「男性差別を訴えようとして、カウンターで女性差別を訴えられてしまう」ということがある。
どちらか一方の差別を解消すればいいという問題ではないことに気付けない。
あるいは「女性蔑視を訴えようとして、ラブドールの規制を願う」というのもある。
個人的に、ラブドールが好きな人というのは一種のセクシャルマイノリティだと解釈している。
(性犯罪というがそんなに生身の人間が好きならラブドールなんか気持ちが悪くて手を出さないだろう)
結果としてある派閥への差別を強め、さらに強く糾弾することになるのだから。