はてなキーワード: 大元とは
想像力のある方々なら、内容はタイトルからおおよそ察せられるものと思う。この手の話はテレビ、新聞、ラジオ、SNSその他媒体で散々語り尽くされてきたものだからだ。
はじめに少々長い前置きをさせてもらおう。
私は人との比較の上では少なくとも「苦しんではいない」。というのは、コロナ禍が始まってからも特段生活には困っていないからだ。家庭の収入が少なからず減ったりはしているし、出かけられる機会も減ったりしている。けれども、出費を切り詰めないといけないほどに家計が逼迫しているわけではないし、人間関係が修復不可能なほどに壊れて絶望的に孤独なわけでもない。ましてや、留学生の方々のように故郷へ帰るための道を断たれたわけでもない。私は、コロナで失業した人も知っているし、帰国できなくなった留学生の方も知っている。元々生活の困窮していた人が、更に困窮して居場所を追われる状況になっていることも知っている。彼らの心中を察するに、私の苦しみなど所詮は道端の糞ほどにも意味をなさないだろう。反対に、私とは違って全く苦しんでいない人も或いはあるかもしれない。
ともあれ、ここで敢えて一つ言わせて頂きたいことがある。この記事の目的は「私の苦しみが他者のそれを上回る」ことを主張することにはないし、その認識を持つつもりは少なくともない。仮に「私より苦しんでいない人」を想定したとして、その人に牙をむくことはこの記事の目的にはない。考えは未だまとまっていないし、書きながら自己矛盾を感じているところもある(矛盾を見つけても指摘するだけ無駄かも知れません)。しかしながら、先に述べたような悪意があるわけではないことを、頭の片隅に置いて読んでいただきたい。
ニュースや新聞、SNSなどを通じて、皆が苦しんでいる状況にあることは知っているつもりだ。身の回りの家族、友人、知り合いが苦しんでいることも知っている。身の回りの他者に自分の苦しみという重荷を更に背負わせないためにも今まで沈黙してきた。皆が苦しむ中で、自分の苦しみが苦しみとして認めてもらえないんじゃないか、そういう思いも大きかった。もしかしたら、自分の苦しみを認めたくない自分がいたことが一番大きかったのかもしれない。
他者との比較を求めるものでないことは先述した。ここに記すのはあくまで「私の苦しみ」であって、世間一般の大学生に通用する苦しみではないかもしれない。繰り返し、「私の苦しみ」であって、他者のを上回るものでもないし、反対に他者が否定できうるものでもないことを述べておく。
長くなったが、前置きはここまで。
[人間関係などに関して]
2020年の春に現役で無事第一志望の大学に入学した。しかしながら、周知の通り、そこで待っていたのは世間一般の思い描くキャンパスライフではなく、完全オンラインの「大学生活」だった。終日自室にこもって講義を受け、レポートを書き、深夜帯までデータベース上の論文を読み漁り、ひたすら思索に耽る(後ろ2つについては、本気の学問をできる環境の整った大学なので、対面だったとしても似通ったものだったとは思う)。特に堪えたのは、初年次のクラスメイトとの顔合わせすらもオンラインだったことだ。知らない人達と急に向き合わされる上に、他の人の画面に常に自分の顔が映っているという状況、楽しむことが強いられているように感じて終始作り笑いをしながら耐えていた。酷く疲弊した。かなりの労力を費やしたが、教室のそれとは違って個々人で話す機会もなく、仲良くなれた人はいなかった。他の少人数講義も似たような状況であった。唯一、ゼミ形式の過酷な講義でグループワークをする中で多少仲良くなった人はいるが、会えない中で関係を維持することはできなかった。
感染者の減った夏から秋ごろにかけて、少しだけ対面のサークル活動(運動系)ができた。回数は減らされ、条件付きで練習も認められた。複数受けた少人数講義も、合計でたった20回程度ではあるが対面で実施された。少々語らうことはあったが、教室で話すなとのお達しもあり、あまり話すこともできなかった。キャンパスが自宅から遠いこともあり、あまり会うこともできず、サークルでも少人数講義でもそれほど仲良くなった人はいない。
臆せずに会いに行けばいいという人もあるかも知れないが、それができないから困っているのだ。昼夜問わず会食はできないし、気軽に家に上がることもできない。自分が出歩いて感染したくないというのも勿論あるが、問題はその先だ。例えば、感染したことでサークル活動が長期間停止されるかも知れない。或いは、他の人が楽しみにしていた対面授業の機会を奪うことになるかも知れない(言わずもがな医療にも負担を強いることになる)。自分一人が自由に出歩くことが他人の首を絞めることになりうる。反対に他者が好き勝手に動き回った結果として自分の首が絞められることもあるかも知れない。出かけたとして咎められはしないだろうが、それができない。手足を縛られて動けない。そんな状況にある。これは何も人間関係に限った話ではなく、以前はアウトドアが趣味だったのだがそちらにも足が向かなくなった。理由は同じだ。
入学以来たびたび言われるのが、「せっかく入学したのに大学に行けなくて可哀想だ」「対面授業少なくて残念だね」「せっかくサークルに入ったのに活動少なくて残念だね」「新しい人間関係ができなくて可哀想」…(以下略)といった内容のものだ。要するに世に言うところの「キャンパスライフ」がないことを憐んでくれるわけだ。正直言ってこの言葉には腹が立って仕方がない。憐んでくれたところで、その言葉によって大元の原因が霧消してくれるわけではないし、状況は少しも動かない。医療という、か細い一本の柱に寄りかかって生きている今日現在にあって、ワクチンが普及したり、治療薬が完成したりしない限りにおいて、「キャンパスライフ」の実現可能性はほぼゼロである。この状況にあって、憐れみを述べる言葉は意味を少しも意味をなさない。ましてや「小中高や会社が(条件つきながら)通常営業できている中で、大学生だけ社会的に抑圧されているのはおかしい」と擁護の論陣を張ってくれたところで、待っているのは徒労だけである。
この手の話は、旱魃や凶作、飢えや渇きに苦しむ人に対して、殊更に強調して水や食料の美味しさを説くことに等しい。私の下の代やその下の代の頃には「キャンパスライフ」は可能かも知れない。しかしながら、既に4分の1が消し飛んだ今、私の卒業まで三年弱という状況にあって、その望みは薄いように感じる。自分が何をどうしようが手に入らなそうなものの美徳を説かれたところで気分が悪くなるだけだ。憐憫を垂れてくれる必要はないし、そういうことはしてほしくない。今、私が手に入れることができるのは、大学生活の亜種だけであって「キャンパスライフ」ではない。今できることに取り組もうとする人間に対して、今後できそうにもないことを押し付けるのは是非ともやめていただきたい。
オンライン中心での大学生活における大きな悩みの一つとして、「無為」な生活になってしまうことが挙げられる。「モラトリアムなのだからそれでいいのでは?」と言う人もいるかも知れない。しかし、これは何も自堕落な生活を送ることを指すのではなくて、「大学4年間で頑張ったこと」が何もない状況に陥りそうだと言っているのだ。自室に籠る生活を続ける中で読みたい本、読む必要のある本、多くの文字資料を読んできた。資料をたどりながら、学問的な問題や社会問題についても自分なりに考えを深めてきた。内的には少しだけ豊かになったかも知れない。けれども外的なものが何一つない。活動が制限される今、これを自分は頑張ったんだと言い切れるようなもの(サークル、バイト、インターン、学業面での功績等々)はまだ何もない(学業はこれからではあるが……。バイトも最近始めたが見つけるのにかなり苦労した)。頑張ったこと、熱心に打ち込んだことが欲しいと言うのは単に自分の気持ちの問題であって、就職のために必要としているわけではないけれども、面接官に「大学生活で何を頑張りましたか」と訊かれた時には、「大学生活などというものは無いに等しかった」と答えて離席するかも知れない。或いは面接官を殴らずにはいられないかも知れない。
この生活の中では、目標も失ってしまったし、舵取りも上手にはできない。と言うのも、目標となるような存在に出会う機会に乏しく、手に入る情報もとにかく少ないからだ。小中高の教室、或いは大学の研究室でもいいから、とにかくそこを思い浮かべてほしい。手本になるような人物、或いは反対に悪例となるような人物はいなかっただろうか?恩師、友人、同期、後輩、先輩、誰であれ少なからず自分の生き方の参考になるような人がいたはずだ。オンライン化されたことの一番手痛い問題として、そうした道標が失われてしまったこともあるのかも知れない。兎にも角にも、抜け出そうとあがきながらも、未だ無為に生活している。(これを努力不足と言おうとすることがあらば、それは見当違いというものである。)
一年が経過して大学2年になった。もう後輩が入学してくる時期となってしまった。諸用でキャンパスに行くと手続きに臨む新入生の列を見かける。SNS上では眩しいほどに希望に満ち溢れた姿を見たりもする。羨望を通り越して嫉妬してしまいそうなほどである。一方で「対面授業が少ないではないか」という声を聞いたりもする。「こんな世情にあって贅沢言ってるんじゃないよ」と言おうとして、すんでのところで踏みとどまる。対面形式の講義を沢山受けてきた諸先輩方や、コロナ禍にあっても高校で対面授業があった新入生にとっては理解し難いことかも知れない。比較しないように努めていながらも、どこかで強烈な被害者意識が渦巻いている。他者に自分の苦しみを味わせたいわけでは無いけれども、どこかでそれを求めているように感じてしまう。パワハラ上司はこうやって再生産されるのかも知れないなと思いながら、なんとか発言を飲み込んで止まっている。
ざっとこんな感じだろうか。筆をとる中で少々整理されたような気もしなくもない。繰り返し、他者に牙をむくことや、他者の苦しみと比較して変な優越感に浸ることはこの記事の本意ではない。もしそう感じられる内容があるのだとすれば、私の言語能力の限界ゆえ、或いは私の未熟さゆえであると思っていただきたい。
バカみたいな話だが、特にゴキに関してCM等で怖がり不快に思うよう洗脳されている気がしてどうしても恐怖を克服したいと思い学生時代駆除業者でアルバイトをしたことがある。
一般家庭ではなく外食や商業施設テナントの害虫調査と駆除、主にネズミとゴキがターゲットだ。
最初はトリモチについた数多のネズミが身体は千切れボロボロになっても必死に生きようとする無残な姿とそれを躊躇なくふたつに畳んでブスブス足で潰しながら歩いていく先輩の姿に何度も目を背けたくなった。
私達が担当するような商業テナントのゴキは小型のチャバネが多く一般家庭で見られる大型のクロゴキは屋内で大繁殖していることはほとんどない。
それでもとあるスポーツクラブの屋外練習場でクロゴキが大量繁殖しナイター営業している時に床を縦横無尽にクロゴキが行き交う様は凄まじかったし、見えているのか見えていないのか無造作に練習道具やタオルの入ったバッグを置いてナイターのスポーツに汗を流す利用者の姿は不思議だった。
(この時は従来の毒エサに加え、大元になっていた屋外の空調室外機器類への徹底的な殺虫が行われた)
基本的には小さなゴキホイホイみたいな調査キットで生息地を絞り込み毒エサで駆除をする。
ゴキというのは本当に頭が良くて、同じところで仲間が駆除されたら基本的にはもうそこには近づかないし住処を変える。
同じ毒エサも何度も繰り返し使用し続けると目に見えて効果が下がる。
このいたちごっこのサイクルを緩やかに間延びさせ生息数をできるだけ少数で抑え続けるのがプロの業者の真髄である。
最初は恐怖を克服するつもりではじめたアルバイトだったが、何度もネズミやゴキを駆除しているうちに芽生えたのは彼らへのある種の畏敬の念だった。
ネズミもゴキも今この瞬間を生きるために本当に一生懸命考え抜いて生きている。
例えば彼らがひと刺しで人を死に至らしめる毒針や毒牙を持っていたら現代文明の中で生きながらえただろうか。
彼らはヒトが作り上げた文明の中でそのおこぼれをもらうことに適応する形に進化した。
動物園の動物にヒトの残飯をあげたら腹を壊すが、小型化し群衆を形成し悪食で生き延びる事ができる野生の強さはまさに生きることそのものである。
私はあの数年間のアルバイトで一般人の何千倍、もしかしたらそれ以上ネズミとゴキを殺した。
父や祖母祖父のお墓参りに行く時など、ふと「私はきっと天国には行けないだろうな」と思ったりもする。
子供達もいっちょ前にゴキを怖がるのだが、スパーンと新聞で引っ叩き(出来るだけ潰れないように加減する)そのまま触覚を掴んでポイと窓の外に放り投げる私。
という息子の声を聞くと、こういう事で母の威厳を保つのはちょっと想定外だったんだけどなぁと苦笑いしてしまう。
ちなみにゴキと対峙した時に一番大切な心構えはむやみに恐れないことだ。
恐怖が伝わった時、ゴキは決死の覚悟であなたに向かったり、飛んで逃げようとする。
「殺る時はできるだけ素早く静かにな」
バイト帰りに洗面所で髪を解くとパラパラと死んだチャバネが落ちてきて血の気が引いた事は忘れられないが、ゴキとネズミのおかげで少しだけ強くなった母ちゃんがここにいる。
法律レイヤー上の私権の制限という意味ではなく、倫理のレイヤーで… 大元増田の言うような「許されない」ときに大勢から批判の表現を突きつけられることに関して。
はてなブックマーカーは、許されないときは集団リンチしていい、と思っているようにみえる。
マイノリティへの攻撃はたとえそれが各個撃破だったとしても、被害者のマイノリティ本人は同様の攻撃を日々受けているので実質的に集団リンチにあっているのと同じ。————こういう考え自体は筋が通って聞こえるが、差別主義者も現代ではある意味マイノリティだよな?
でも大元増田自身がむしろ文字通りの意味でマイノリティだって判った後も「それがどうした?」つって攻撃の手を緩めなかったよね。あなたたちは“マイノリティを総攻撃してはいけない”ってことを主張してたはずでは?
結局、総攻撃はしていいのか悪いのか。
誰かを抑圧して黙らせてる人は無制限に総攻撃していいのなら、あなた達も総攻撃されうる。攻撃に加わる俺も総攻撃されうる、俺もまた別の正義執行者から総攻撃されて… 総攻撃が許されるバトルフィールドから逃げて観客席に入る唯一の手段は、見て見ぬフリをすることのみ。