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はてなキーワード: 余地とは

2024-04-19

anond:20240418212609

孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。

サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身一人二役して会話していた。

それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまり一面的すぎる。

それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。

だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。

これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。

仮に合意形成の結果から相手心理状態類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。

復讐意図弱者男性が持ってるかは動機主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。

そして主観的には人間自己幸福を測り間違える。

これはデイヴィッド・ベネターが統計引用して例を挙げてるが人というのは身体障害知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。

どの立場であれ心理抑制環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。

隷属か破壊かはニーチェが扱っている議論だが、

ニーチェ正当防衛についてこう述べている。

━━正当防衛一般正当防衛道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義ほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまり人間的』

そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価正当防衛基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。

一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造寄与している。よって社会機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者価値付けの基礎となる社会進歩前進はありえない。

社会弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在搾取する主体である強者必要としてるからこそ残り続ける。

まり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマ流行規定するモード存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)

万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態規制しているのは社会報酬である。それが除かれた場合上記行為当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。

しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群智慧である

他人一方的愛情を向けることの気持ちよさと恐ろしさについて

一方的愛情を向ける」というのが何を指しているのかというと、まあ端的に「自分と今後一切関わりを持つことがないであろう有名人」とか「2次元キャラクター」だとか、そのあたりのことだ。

から愛情を向けられるというのはとにかく恐ろしい。私は、自分というものを正しく認識することができるのは他の誰でもない「自分自身のみである」と思っていて、そこにひとを介入させること、それどころか私を解釈する余地を人に与えること自体がとにかく末恐ろしい行為だと思っている。

近日、「蛙化現象」という言葉があたかミームのように流行った。流行ったそれ自体誤用ではあったが、いっとき社会現象にまでなった。

あるとき自分分析してみたら、単に自己肯定感がすこぶる低いだけという訳ではなく、その自己肯定感の低さの中に同じくらいの「自身の持つ気高さへの陶酔」を抱えていることに気づいた。

これが、適当意味で使われた時の「蛙化現象」を自身が引き起こすとき根底にあるんだろう。

己のことを、何よりも愚かでおぞましくて汚いゴミみたいな人間だと本気で思っていて、だけどそれと同時に「そんな自分のことを理解し寄り添ってくれるのは自分だけ」だとも思っている。改めて文章に起こしてみるととんでもない自慰行為である

から、「自分いちばん近くで自分理解し寄り添ってくれる」、所謂恋人のような存在を作ることが怖い。

ここまで話した上で怖い、という言い方を今更しても自己保身でしかないので、言い換えると 「嫌」 なのである。紛れもなく。

から、「私を瞳に映すことがない」「私の本性に介入することがない」「こちらもあなたを知ったような顔で語るつもりもなければ知るつもりもない」ような存在に陶酔することがいちばん心地よくなる。前述した「一方的愛情を向ける」ということを長々と噛み砕いてみると、恐らくこんな感じ。

本題。

私は、ひとりの人間のことがすごく好きだ。 仮にAと置く。

特定されることは意図していないので、この記事を書く上で必要な最低限の要素だけ取り出して、尚且つ暈しを加えながらAのことを説明すると、主に言葉を書いているアーティストである

ただ、私は自分のことをちゃんちゃら性善の擬人化のような人間であると思っていて、そうなるとここで既に矛盾が生じている。

自分がされて嫌なことを人にしてはいけない」、凡その人が義務教育中には会得するだろう一般論である。性善の擬人化なので、勿論日頃からこれを踏まえた行いを心がけている、のに。

私は、なんの関わりも無ければ何も知らない他人に、Aに、心底惚れている。

元々はAの紡ぐ言葉けが大好きだった。

世に出ているAの書いた言葉は辿れる限り辿った。特に好きなフレーズ自分の中に書き留めて、反芻してをひたすら繰り返していた。

そもそも私は頭のいい人が好きなのだが、それだとアバウトすぎるので最近は「素敵な言葉を紡げる人が好き」と形容している。

要は、私はAのことをきわめて頭のいい人間だと思っている。

から凄く辛い。

自身尺度他人の持つポテンシャル性格を測る」ことって、きっと凄く馬鹿馬鹿しいことなのに。

なのに、私はAの持つ性格上の性質や口調、趣味、その趣味を持つにあたっての根本の考え方、友達への接し方とファンへの接し方の違い、それを産んでいるであろう根底の考え方、その全てが好きで、そんな自分盲目さと当人への申し訳なさが、果てしなく苦しい。

Aが紡いでいる「言葉」というものをもう少し詳しく話すと、架空人物言葉の代弁だったり、まあカテゴライズするのであれば「詩」だろうな、というものが多数。

ただ、その中に、さながら自伝のようなものがチラホラと存在する。

自分特に好きなAの言葉は、主に後者だ。

とどのつまり、どうしてもその言葉を紡ぐに至った、その考え方に至った思考回路バックグラウンド空想してしまう。

まあ、ただ考察するくらいなら至って個人自由だとも思う。ただそれを「Aのことが好きな理由」として自分の中でつらつらと並べている自分自身が恥ずかしくて苦しいのだ。

どの角度から見ても考えすぎである。これを書きながら自分自身でも「素直に好きって言えばいいじゃん」と思っている、が、プライド自分性質がそれを許してくれない。

薄々感じている方も居るだろうけれど、これだって「厄介ファン」だ。紛れもなく。

私がAの言葉を好きなことは事実で、それを産んだA自身のことが好きなのも事実だ。

だけど、「自分と関わりのない人に心酔することで得られる心地良さと安心感」を求めている節が、間違いなく存在している。

私は、自分が仮に有名な活動者だとして、自分の全く知らない人が水面下で自分に対してこんな感情を膨らませてつらつらと文章を書き連ねていたら、そりゃまあめちゃくちゃに恐ろしいなと思う。

拗らせ具合に対してもだが、やっぱり「例えその考察事実であろうと、他人が私の秘めたる感情時間をかけて推察している事実」に不快感を抱く。

Aの言葉は、結構これに類するものが多い。

自分を測られることへの不満や知った口を聞かれる不快感、「特定の誰かに宛てた言葉では無い」ということを全面に押し出すような書き方。

そんな書き方をしているのに、分かり易く示してくれているのに、その言葉自分の中で大事大事仕舞っていることが極めて愚かであると感じる。

あくまでも自伝であるのに、その言葉共感したり感銘を受けている私が。

だけど、好きなのである。どうしても。

人に測られたくないから、きっと私と同じような考え方を持っているAの言葉性格に惹かれる。

けど、この「きっと」こそが人を測っているに他ならない。

から絶対にAに近寄りたくない。 答え合わせをしたくもない。 これはほんとうに仮の話だが、何かの縁でAと知り合いになり、友人になり、推察が上手いこといって、同じような考え方なんだね!なんてことになってしまったら。

私はこんなにも好きなAのことを好きなままでいられるのか、わからない。

乱雑でこんがらがったままだけれど、自分感情を推察する余地他人に与えられるようになるまで、きっと今後とも手の届くことの無い誰かにひたむきな好意を向け続けるのだろうなと思う。

最初の方に綴った通り、自身を高尚な人間だと奥底の方で謳っていることがこの現象の原因だと考えられるので、まずはその傲慢さを取り払わないことには私は一生ひとりぼっちである

他人一方的にひたむきな愛情を向ける」ことは、すごく明瞭だ。ただ、そろそろ成長したい。ひとから好意を受け入れたい。自身根本を推察されることを拒絶したくない。

とにかく、この半ば依存のような好意をとやかく向ける行いはそのうち卒業する予定だ。

このジレンマから抜け出せて、しがらみが解けきったときに、私が至って健全な「好き」をAに向けることが出来ていたらすごく嬉しいなあ、と思います

2024-04-18

雁林カンパ罪のおかげで文春売上罪が成立する余地ができたの面白い

松本報道で売上数億上げたなら名誉棄損の賠償額も引き上げていい

anond:20240418103958

一番マシなパターンとしては、検察官ちゃん勾留令状取った上で追加の裏付け捜査を指示したら嫌疑なしと分かったので急いで釈放したパターン

この場合検察官は、在庫確認未了のまま勾留請求しちゃって裁判官もそれを認めちゃった点は結果的には迂闊だったけど検察官裁判官判断違法とまではいえないだろう。

それ以外のパターンは同情の余地なく違法で、検察官はクビで済めばまだマシってレベル

誤認逮捕法律も0にならない前提でできてるけど、身体拘束の時間制限違反は、刑訴法違反はもちろんのこと憲法特に禁止してるやつなので、絶対に許しちゃダメで、問題レベルが違う。

anond:20240418114042

海外大卒普通にいるし外国人もいるし社会人Dもいるしで、受験偏差値的なものは考える余地がないね

銀行とか官僚とかは死ぬまで偏差値の話してそうだけど。

広告ブロッカーが問いかける、インターネット広告理想現実

インターネット広告を巡る議論は、常に賛否両論を呼んできた。広告情報流通に不可欠な存在である一方、ユーザー体験を損ねるものとしても認識されてきた。近年、広告ブロッカーの普及により、この議論に新たな火種が投じられている。

広告本来目的は、広告主の商品サービスについて、ユーザー有益情報提供することにある。それは、ユーザー広告主の間のコミュニケーションの一環であり、両者にとってWin-Win関係を築くことが理想とされる。しか現実には、多くの広告本来目的を見失い、ただ単に広告収入を得ることだけを目的としているように見受けられる。

特にブログアフィリエイトサイト上の広告は、質の低下が顕著だ。ユーザーを騙してクリックさせるような広告ばかりが目につき、ユーザー体験を大きく損ねている。これらは一時的には収入を得られるかもしれないが、長期的にはユーザーの信頼を失い、広告主のブランドイメージも傷つける。広告収入というシステムから利益を得ようとするあまり本末転倒な状況に陥っているのだ。

特に深刻なのが、SNS上でのAIを利用した詐欺的な広告蔓延だ。巧妙に作られたこれらの広告は、ユーザーを欺いて個人情報を盗み取ったり、偽のサービス誘導したりする。健全広告というよりは、もはやサイバー犯罪一種と言っても過言ではない。プラットフォーム信頼性根本から揺るがす由々しき事態と言えよう。

こうした状況下で、広告ブロッカー存在無視できない。ユーザー立場に立てば、質の低い広告ブロックするのは正当な権利だと言える。しかし、媒体運営者にとっては死活問題だ。広告収入依存するビジネスモデルは、存続の危機に直面している。だが、ユーザーによる広告ブロックを「不当」で「利己的」な行為と決めつけるのは短絡的だろう。問題本質は、広告収入のみに依存し、広告の質の向上よりも単価の上昇で対応してきた媒体運営者側にあるのではないか

さらに、広告主の視点から見ても、課題は山積している。詐欺的な広告主と正当な広告主の区別は容易ではない。ユーザーからすれば、どの広告が信頼できるのか判断しづらいという実情がある。そしてこの問題の背景には、広告業界全体の不透明構造がある。広告代理店やアドネットワークが介在することで、広告主とユーザー距離が離れ、悪質な広告主が紛れ込む余地が生まれしまう。広告主側も、自社広告配信状況を十分に把握できていない可能性がある。

結局のところ、問題本質利権問題に行き着く。質の低い広告詐欺的な広告を野放しにしているのは広告提供業者であり、その広告提供業者を公に許しているのは各種大型プラットフォーム(SNS及び動画サイト)や中小ウェブサイト経営者だ。そしてこの中で、詐欺広告や質の低い広告自主的制限可能なのは提供業者と大型プラットフォーム経営者のみ。特に大型プラットフォーム経営者は、広告主と消費者を結ぶ重要結節点であり、交渉力を持ち合わせる業界ルールメイカーとしての立場にある。

ここで問われるのは、消費者が大型プラットフォーム経営者に対して、質の低い広告詐欺的な広告を載せるなと要求する権利があるのかどうかだ。言い換えれば、消費者利益のために、プラットフォーム経営者の「しない自由」を制限する正当性があるのかという問題だ。

この問いに対しては、肯定的な答えが導き出せるだろう。今やインターネット公共の場であり、現実ビジネスの場となっている。プラットフォーム経営者には、その公共性を維持する責任がある。そして何より、消費者が実際に被害を受けているという現実がある。詐欺的な広告による経済的損失や、プライバシー侵害への懸念看過できない。にもかかわらず、プラットフォーム経営者がその要望真摯対応してこなかったのは問題だ。

この状況を打開するには、消費者広告主、プラットフォーム運営者の三者が協力し、具体的なアクションを起こしていく必要がある。

まず、プラットフォーム運営者は、消費者からフィードバック積極的活用し、広告審査体制を強化すべきだ。AI活用した自動検知と並行して、人間の目による確認を徹底することが求められる。また、広告主の身元確認厳格化し、広告内容の事前審査義務付けることも重要だ。広告ポリシーを明確に定め、違反広告には厳正に対処する姿勢を示さなければならない。

広告主側にも、自社広告配信状況を適切に管理し、質の高い広告提供する責任がある。業界団体などと連携し、自主規制ガイドライン作りを進めることも有効だろう。

そして消費者は、問題のある広告積極的通報し、健全広告環境作りに主体的に参加することが求められる。プラットフォームに対しても、改善を粘り強く要請していく必要がある。

プラットフォーム経営者には、「しない自由」よりも、「すべき責任」がある。業界リードする立場である以上、消費者の信頼に応える努力を怠ってはいけない。もちろん、行き過ぎた規制表現の自由市場健全な発展を阻害する恐れもある。だからこそ、消費者広告主、プラットフォーム経営者三者が対等な立場議論を重ね、バランスの取れたルール作りをしていくことが大切なのだ行政にも、この取り組みをサポートする役割が期待される。

ここで、インターネット本質的な位置づけについても考えてみたい。インターネットは、当初は「市場原理に任された自由な場」という性格が強かった。規制は最小限に留め、自由競争を促すことが重視されてきた。しかし、インターネット社会に不可欠の基盤となった現在、その公共性は著しく高まっている。フェイクニュースヘイトスピーチプライバシー侵害など、弊害への対策が急務となっている。

こうした認識の下、各国で法規制の動きが強まっているのは事実だ。だが、だからと言って行き過ぎた規制は避けなければならない。インターネットイノベーション表現の自由を阻害しないことが肝要だ。市場原理と公的規制バランスいかに取るかは、社会全体で知恵を出し合うべき課題である

今こそ、従来の広告依存ビジネスモデル見直し、新しい価値交換の形を模索すべき時だ。サブスクリプションモデルや有料記事など、ユーザーに直接的な価値提供し、対価を得るビジネスモデルへの転換も一つの選択肢となるだろう。情報に対する価値観も変化し、良質なコンテンツには対価を払うという意識が広がりつつある。

また、広告収入の一部を広告審査の強化に充てる仕組みを作ることも検討に値する。広告の質を高めることが、結果としてプラットフォーム収益向上につながるのだという認識を、業界全体で共有することが重要だ。

健全広告業界の発展は、ひいては健全インターネットの発展につながる。広告主、メディアユーザー三者が協力し合い、透明性と信頼を高めることで、より良い広告の在り方を模索していくことが求められる。広告ブロッカーの普及は、そのための重要な転換点となるはずだ。

インターネットは、「市場原理に委ねられた自由な場」から公共性を帯びた社会基盤」へと変貌を遂げつつある。そして、我々はその変化の只中にいる。だからこそ今、インターネット広告の在り方を問い直し、健全インターネット未来を築くために行動を起こす必要がある。広告ブロッカーが投げかける問いは、そのための重要な一歩なのだ私たち一人一人が、その問いを自分事として捉え、できるアクションを起こしていくこと。それが、より良いインターネット未来を切り拓く鍵となるだろう。

2024-04-17

anond:20240417184827

野党ブレーキというよりは別方向へのアクセルであって、与党野党の方向が一致することだって普通にある……。

理想論としてはそうであることは認めるけど、

ここまで与党のやることが全方位的に国民権利を損ねる以上、

与党のやること全部にブレーキをかけるのは仕方ないと思うよ

よく与党支持者は「対案なき批判」を批判するけど、

議論余地なく悪いことに対して対案もクソもないしね

   東京大学生活に使えないという理由で糞であるとの評価はしないが、残酷悪人で、何を言っているのか分からないし、遊べないしつまらないし、何が面白いのか

   分からないという理由付けで糞と言う結論を述べさせてもらう。特に法令であるが、法律自体技術的にどのように制定されているかからないし、制定された法律

   どのように解釈されているか全く分からないし、つまらないし、そこの内部に埋め込まれているものにしても、用いている技術にしても、魅力を認める余地はない。

       現代数学であると、複数関係する定理発見し、それらを組み合わせてより高次の定理証明し、次第に、最終的に目的とする定理証明に至るという構造をしているので、

    いわゆる高いところに登るのが好きな子供にとって魅力があるし、それをやって完成したときの感激はひとしおのものがある。これは、東京大学法学部の授業は一般に厳しいものとなる。

   しか・・・ 卒業したときの感激は何にも代えがたいものである、と、昔の学部長が述べていたのと同じである

     ところが一般法科大学院で習う法令技術は、三枝洋一先生が、しまった、ロースクールは止めたんだっけ、と言っているように、法科大学院で習うものは、上記のように、複数定理

  教科書に書き、次第に目的定理構成に至るような構造をしているかどうか分からない上、東京にある工場構造なども、それが哲学的にどのようなものであるか全く教えていないので

   人気を認める余地はない。


   体裁上は論理則に従って判断されているようにみえるが、ただの建前であり、その実質は極めて悪質な性質のものであって、理解共感される余地はないものと言わざるを得ない。

anond:20240417140529

からなに?

主権在民意味わかってる?

責任国民側にあるんだよ

手取り足取りやってみんなの目を覚まさなくても十分に利益が出るなら

少数で固まって利益を貪るだろ

だってそうする、俺だってそうする


打破するだけの力が国民にはあるんだぞ?

投票率見てみろ

いくらでも社会改革できる余地がある

社会はちやほやと甘やかしてくれないから誰もやらないがな

https://anond.hatelabo.jp/20240417114946

  ④の点について。  旭川市長はカンニングが得意な政治的大道香具師であり、鵺的な存在(極めて悪質で、得体の知れない存在)で、昼は蝶のように舞い、夜は赤レンガに棲みたい

          と嘆くその毒気は一般人を惑わせる、今こそこの化け物の正体を。 という表現したことで、名誉棄損罪に問われたものであるが、この事実については、民法判例百選

          の事案の概要掲載されているもので、インターネット上では刺激の強い情報であって、最近の情勢に反抗する表現であるため、検索できないようになっている。

             なお昭和56年4月の最高裁(団藤重光裁判長)の判決検索できるようになっているところであるが、そこの判決理由には全文は記載されていない。

        ②   昭和56年はコアな時代であり、佐藤美男にせよ、原ひとみにせよ、当時の状況を覚えている者は誰も存在しない。

        ③   ちなみに、団藤重雄(団藤重光の親戚)は、平成30年頃に、都内デリバリーヘルスで笑いを取っていたと解される余地があるが、現在ではどうなっているかからない。

  最後に、本件の判断者の、品田幸男は、 申立人に対して、本件決定書の理由欄に記載されている文章、すなわち、その難解なもの理解せよというがごとくであるが、

   現代法令現代数学のように専門的で技術的なものである可能性が高いところ、現代数学など誰も習っていないように、現代法の専門的技術的側面など誰も理解できないので、

  仮に、判例六法が読める状態にあったとしても、そこに記載されている技術的な体系について理解することは不可能であるばかりでなく、

   本件の法令に関する集団は、結局のところ、 一般世間と隔絶した論外な、残酷で美しいものしか価値がなく、その趣旨で、金が全てであると考えているような悪質な集団であって、近年になり

  以前はそれを燃やしていた人もいたが、そうでもないという状況に鑑みると、検討する余地はないものと言わざるを得ない。

   よって

       本件の、現代法の技術構造について、誰も知らず、なおかつ、主催者犯罪者集団であるという状況下では、本件の決定は認められないという他ない。

   従って、原決定を取り消す。

  本件の令和6年(行ク)第27号と呼ばれる書面は、その主催者が極めて残酷集団によってなされ、その集団およびそこに記載されている内容について、暗に多くの者によって

 燃やされているのが現実であり、美しくないものは死すべきと言う独善的な考えによって作成されており、一般人はおよそ記載されている内容を信じていないから、検討する価値を見出す余地はない

 ものと言うべきである

  付言するに一件記録によると、申立人が疎明資料を提出できなかった経緯は次のとおりである

    ①  申立人は、2月10日に、新幹線で、宮崎県延岡市に一時帰省し、郵便物を受け取ることができないような状態にした。

    ②  当裁判所は、2月15日、2月29日までの回答で、3月14日に再度、回答書を送付したが、申立人は、遠隔地にいるため、これらの郵便物は、配達されないか、もしくは

       申立人のアパート郵便受けの中に放置されていた。

    ③  当裁判所は、 3月25日付で、申し立て却下決定をしたが、申立人は、本件決定がなされた当時、延岡市の自宅におり、3月9日、3月16日に門川市で女性に会うなど

      し、3月25日は、同市方財町231の16番地の所在する、令和5年9月27日付で、佐藤まりんに貸していた3万円の取り立てに行っていた日と認められる。すなわち、

      申し立て人の3月25日における行動は、その夜間に、まりん母親に会い、これと話をした後に、懐中電灯付近海岸を照らしていただけという事実存在する。

    ④  上記において使用していた懐中電灯は、 申立人がした3月27日にした演説激怒した、 大貫町5丁目に住んでいる今井雅之が、28日午前2時に、窃取し、

        2時30分に臨場した警察官もなかったことにしている。

    ⑤  申立人は、3月30日に、上記女性と今一度会った後に、4月4日に電車東京に帰ることに決定し、4月4日、23時12分に東京駅に到着し、 5日、0時12分に、東京の住所に徒歩で到着した際に、当裁判所が送付した書類一式が郵便受けに入っているのを発見し、中身を確認したと解される。

    ⑥   当裁判所要請を求めた疎明資料の一部は、板橋区蓮根存在するセブンイレブンから裁判所に送付されている。今回、当裁判所特別送達郵便で送付したのは、

       4月3日までに板橋郵便局が保管し、裁判所に戻って来たものを、4月16日までに送付した。

訂正後(訂正前が意味不明なので訂正)

(hapzeさんの返答見た後なので影響受けてる可能性はある。すでに返答の体を成していない)

hapzeさんの主張(増田解釈)"キチ〇イ(クソフェミ)を揶揄しているのだから、細かいことグチグチいうな"→hapzeさんから返答あり。

ただ元増田の内容は、コンテキストを汲んだうえでポジティブ解釈すれば風刺的な内容でもあるため、

「そういう性質を持つのは”女性”だけではない」と正しい反論をしてしまうのは、

属性を雑に批判された故にミラーリング的に返してしま感情機微があったように感じられますし、

反射的で表層的だなっと自分は感じます自分はそれを言いたいだけです。

増田解釈正論パンチするだけでなく、元増田気持ちにもちょっとは寄り添ったれよ


増田の主張(hapzeさんへの返答だったもの

フェミに対して批判揶揄)したいなら正確に表現する方がよい。訂正前の増田で”その方が建設的だから”と書いたが、少しズレている。増田はその特性からしても発言の前提や、誰に対しての発言なのかを共用しずらい。(そもそも元増田も正確に理解してほしいと思ってるか不明

 増田他人増田勝手ブクマして勝手ブコメつけている。)増田のような、背景が読めない愚か者勝手なことを言いかねない。誤解されたくなければできるだけ解釈余地は少ない方が良い。

増田ブコメで”主語定義の選定も適切に行うべき”みたいなこと書いたが、増田自身もそこまで真剣に考えてコメントすることは少ない(増田ブコメなど。匿名な分、増田の方が適当になる)。これでは筋が通らない。

コメント不正確ならその反応が的を射ていなくてもある程度受け入れる。これで一応筋は通るか?

フェミヤバい奴はやばいがアンフェにもヤバいはいる。主張の内容だけを見るべきか?(例えば米山 隆一フェミ関連以外では割とまとも(と思う)(維新いたこともある))どこまで背景を考慮するべきか?また、その責任はだれが負うべきか?

→何が言いたいのかわからんし、程度の問題もある。これは人それぞれの考え方にも依存するような気もする。考察は保留。


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訂正前↓(hapzeさんから返答もらったのでそのまま残す)

id:hapze-23_45さん https://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240415124352 の件について。返答遅くなり申し訳ございません。もう日付変わってますが、お時間あるときにでもご覧いただけますと幸いです。

初めに謝罪しますが、増田酩酊状態でこの増田を書いているので非常に不明瞭だと思います。(hapze-23_45さんのブコメ見た時点でベロベロだった)あとで訂正します。



私も元増田の主張(自分流に解釈したうえで)自体には同意しますし、一部(割合はわかりませんが)のクソフェミ(以下KFとする)の男性差別的な思想は非常におぞましいと思います

私は基本的に(自分を棚に上げて)差別主義者が大嫌いなので。

それはそうなのですが、私はKFを揶揄する目的でも、批判するときは正確に表現する方が建設的ではないかと考えています(KFおよびその支持者に建設議論ができるという非現実的仮定!!)

以下その理由

1.「KFはカスなので、KFを揶揄するためならその表現は多少誇張してもいい(不正確でもいい)」という主張は、心理的にたいへん妥当に思えるのですが、要するに論者の意図を汲み取れということなので

  KFが論点のすり替え(KFはカスなのでしばしば行う)をしたとき、それを指摘しても 「お前は意図が読めてない」という言い訳される懸念があり、望ましくない(と増田は思う)

2.これは前提を無視しているのですが、KFには話が通じない(ときがある)と思います(この増田を書いてて思い付いたのですが、KFというのは一種陰謀論者ではないか?)。それゆえに普通の人は離れていき、KFはますます

  鋭化するのかもしれません。 話が逸れましたが、増田が言いたいことは、KFに関する批判揶揄はいわゆる普通の人も見るということです。表現過激になると普通の人にとっては両陣営ともにヤバいやつに見えるのではない    

  か?ということです。両陣営の主張が不明瞭になると泥仕合になると思うので。要するに”正確な表現を心掛けた方が(主張に筋が通っていれば)普通の人にとってもどっちがおかしいか判別やすい” のではないか増田は思

  います


すいません。全然まとまらないのであとで訂正します。

2024-04-16

anond:20240416000542

そもそも先行研究共同親権状態の方が子供に良いのは散々わかってるんだよ

から子供幸福権利を最大化することを考えれば議論余地なんか端からねーんだわ

子供のことを考えて反対している風のやつは自分共同親権が気に入らないだけなのを子供を盾に主張してるクズだけ

anond:20240416223113

かつて一斉を風靡したはるかぜちゃんって人いただろ

その人のYoutube見てみ

裁判で勝ったぜざまあって内容の動画1本だけは伸びてるけどその他は全然再生されてないか

はるかぜちゃんドール番組で共演してる多屋来夢っていう美人モデルがいるんだけどその人のyoutubeも見てみ

全然伸びてないか

ルックスはるかぜちゃんより遥かにいいけどそれでもyoutubeで食ってけてないか

そいつらはエロ系じゃないから」って思うかもしれないな

じゃあ茜さやyoutube見てみ

温泉行って薄い浴衣着て乳アピールしても再生数2000もいってないか

温泉女子」って検索してアップロード順に見てみるのもいいな

温泉露出すればエロで釣れる上に、メインは温泉からギリ健全扱いでBANもされない!」

って浅はかなこと考えてる女大量にいて、それでもうレッドオーシャンから再生数4桁もいかないのがわらわらいるか

風俗とかの一人あたりのこなせる数が限界リアル世界だったら「ただの女」でもまだ稼げる余地はあるだろう

どんな超絶美人でも1日に1000人の客とセックスはできない、ただの女でもおこぼれはもらえる

でも動画配信は「ただの女」じゃ全然ダメ

一斉を風靡したはるかぜちゃんも、non-no上がりの美女多屋来夢も、エロ系で売ってた茜さやでも埋もれてろくに見てもらえない

現実は厳しい

anond:20240416131128

これ→ - (半角ハイフン)を行頭に使うと箇条書き出来るよ。だからなんだ?という話でもないが

 

 

 

2024-04-15

anond:20240415092838

恋人を作る努力とは、一人前の人間であることを社会に示す努力だ。

女性を道具とみなすのではなく、同格の人であるパートナーとして受け入れる余地のある、準備のできた歳相応の大人なのだと。

anond:20240415093447

違う。何をしてほしいか明白にし、推測の余地を与えないことが必要

厨房電気がつけっぱなしになっていました。

厨房を出る時は、自分が最終退出であるかを必ず確認してください。

よろしくお願いします。」

ぐらい明確にしないと、バカ妄想して勝手に傷つく。

まあ俺は厨房やったことないしバイトも雇ったことないけど。

 (1)  科学の実質は、いわゆる偉いことにあるのではなく、 古典的制限的な生活の中における集中によって確実な真理を確定させ、それらの間に美しい関係精神活動によって

    発見し、成長していくという常識にすぎない上、人生の意義は、生きることにあって、生きた結果ではないことは、ゲーテがつとに言っていることであるから

 (2)  現在東京都民バクサイの労働者は、人生の意義は生きることにあって生きた結果ではない、というゲーテの言明について、真剣に信じているわけではなく、世間的対面上、他に

    拠り所がないから、それによっているだけで、真にやりたいことは犯罪であるから

  (3)  戦後30年の活況はとうの昔に終わっているし、昭和50年代にこの国がどのようにやっていたか不明である上、 加藤周一が、経済至上主義を主張したのは1996年の

     岩波ブックレットからであって、金は相当昔からまり信仰されていない上、金が最強であると言っているのは会社事務方だけで、平成の幼稚な文化に比べると魅力が劣っているから。

  (4)

      八千代台の嫁がいる総務課の原田は、科学技術と金知能指数が全てでそれに反する者は死刑であるという思想を持っているが、独りよがりの考えに基づくものであり、経緯や動機

     酌量の余地がないこと、無差別殺人連想させ、日本世間に与える不安や恐怖には甚大なものがあることからすると、刑事責任は軽視できないから。

2024-04-13

     板橋区にもソフト日向があって美帆ちゃんが出てきて風俗落ちした鬼束ちひろとHできるなら考えてもいいが延岡に帰らない限りソフトに行けない

  今井雅之が持って行った懐中電灯をのべけいが返還する気もないという現況の状況では、富美男と相容れる余地はない。付言するに私は、真夜中の運動会実施された日時を

  知りたいが、その手段がないため。お前が教えるなら考えないこともない。

anond:20240412215137

言いたいことがいくつかまとまりとしてあるので箇条書きの形式でまとめる。

・たとえば乙女ゲーにどっぷりだったりZEROSUM読んだりしてるような分かりやすオタク週刊女性とかワイドショーとか見てると思うだろうか?

しろ彼女らは世間に疎いと言われるぐらいにはそういう井戸端会議ネタになるような、市井の地に足のついた、言い換えれば「夢が微塵もない現実的情報」は積極的に拒絶してる感じするが。ピーターパン症候群も持ってそうだし。

(むしろそういう二次元系のオタクってピーターパン症候群的な童心が残ってることがそれになってしま必要条件で、レディコミの生々しい内容を好める成熟した大人とは対極の存在に思える)

琥珀の夢で酔いましょうが電子書籍サイトでレディコミに分類されているのがなんだうと思った。

「メシヌマ」よりはよほど男でも楽しめる余地ある青年マンガっぽい中身に感じるのだが、なにをもってレディコミなのか

(rentaやbookliveではレディースコミック女性漫画に括られていて、シーモアやめちゃコミでは少女漫画に括られているので、全会一致というわけでもないが)

・フィーヤンはレディコミといわないという主張があって気になったんだが文句なしのレディコミってどんな作品だろうね。グランマの憂鬱とか認知症になった魔法使いみたいな、おばあさんが主人公作品はほぼレディコミで確定かね。傘寿まりこは少女漫画出版社側が言ってるが。

・レディコミには「男が容姿に対して可愛いと思うようなキャラが出てこない」というのが最低条件としてあるんだろうか?

たとえば乙女ゲーで例はひと昔古くて申し訳ないが薄桜鬼やうたのプリンスさまにはヒロイン可愛いという理由で男がヒロインだけ目当てでそういう乙女ゲープレイしてる事例はあった。

しかしレディコミだとキャラが可愛くて男のファンがつく、みたいな魅力がキャラにある作品は(ほぼ)皆無じゃなかろうか。

性的嗜好を刺激するような不細工さというのでもなく、ほんとうにただだぱっとしない売れ残りの女おばさんという感じ。

それはレディコミの定義に関する必要条件みたいなものからだろうか?またこれにはは意図的男性ファンから排除しようとする目的もあるのだろうか?

(ほぼ、と書いたのは「アラサー独女シマちゃんベランダレシピ」)はレディコミならが可愛いヒロインだったから」

・レディコミには今流行りの画風からは外れたひと昔以上前の画風の作品が多い気がする(流行りの絵柄と一致しないのは、逆に画風が流行りにはいままでなかった未来に進んでいるからという場合も想定されるが、そういうわけではなさそう)

とするなら、レディコミを読むのは懐漫を読む感覚を、味わいたい、あるいは懐漫の雰囲気で新作の物語を読みたいからという人も多いのだろうか。

・レディコミや、コアブックス風刺漫画などが「漫画」という主語言及される資格を持っている違和感

たとえばカズオイシグロのようなノーベル賞作家小説を読む人と、フランス書院エロラノベ(だけを活字主体媒体としては)読む人がいたとして、

前者は当然「小説を読むのが好き」というだろうが、後者の人が「小説が好き」とは言わないと思う。

形式的な分類では純文学エロラノベも確かに小説なのだが、あまりにも書き手読み手双方が持つ文化の間では隔たりがある。

そして前者やSFでもミステリーでも大部分はそれを読んでいることに対して、「小説が好き」ということには違和感は感じられないが、エロラノベをもっぱら読んでる人が「小説を好き」といっては、単に媒体だけ共通項の文化圏が他の小説好きの文化圏を侵してるかのような感じになる。

からこの場合は「小説好き」というのは別に他の「小説らしい小説が好きなわけではない」ことから自己認識に遭わないから、「エロラノベが好き」というより狭い括りでの言及の仕方になるんじゃないかと思う。

同じことはレディコミ等と他の漫画あいだの関係にも言えそうで、レディコミはジャンプに比べれば「漫画らしい漫画」というところからかなり遠いところにあるものだと思う。

夢を見せる漫画不条理をみせるにしてもドラマティックな展開があるのが漫画多数派ななかで、レディコミは読者投稿に基づいたりするから淡々現実描写するだけになる。夢も希望もない。

作者がpixivもやっていてその作品が熱心なファン萌え語りの対象になるような漫画と、作者がインスタやっててネット記事のおまけコーナーで中年主婦リアルを描いてるような漫画では、それを取り巻く文化圏は全く相反して交差することもないと思う。

前者は漫画代表(求心力の中心)たりえるが、後者漫画コマ割りや吹き出し感情記号化という形式だけを倣っただけの内容面では全然別物を描いてるのにその分類に対して間借りしているだけに見える。

まさに、学習漫画進研ゼミ販促漫画を読むのが好きだった人が「漫画好き」にあてはまるのかなあ?と同じような感じ。それに対する態度も文化典型的漫画好きとは全然異なっていると思う。

あるいは「絵」とは形式抽象すれば「色の違いによって平面に表現する」ことで、この点で油絵風景画かラノベイラストレーター絵描きで、作られたものは絵なのだけども

そこで「絵が見るのが好き」というとき、前者と後者を両方同時に内包し得るのかなあと。両者はその供給需要もひっくるめて生い立ちの時点で全く異なる文化圏にいるもの同士だろう(もちろん美大出の漫画家レーターもいるっちゃいて前者の文化にもなじんでる人もいるだろうがむしろ例外的)。

そういう意味で、レディコミを読んでる人に向けての「漫画好き」と、少女漫画を読む人に向けての「漫画好き」(あえてレディコミを漫画という総称用語言及してよいのならだが)は、言葉が同じというだけで実質別物の意味合いと捉えた方が自然じゃなかろうかと。

こういうふうに思う固定観念による認知の歪みなのだろうか。

大人にとっては「向け」などないようなものなのに、漫画に対して出版社がいちいち手間かけて性別の年齢で分類するのはなぜか考えたが、まさに子供のためなのだろうと思った。

まり少女漫画」は子供の女から読めるが、男の子にはわない。「ヤンレディース」は高校生とか大学生じゃないと楽しめない確率が割とあるし、これまた男の子やその高校生大学生は楽しめない。

そして「レディコミ」は大人になってからじゃないと楽しめないが、逆に大人からみれば少年漫画青年マンガルポ漫画も楽しめるという具合。

からこそ大人視点でみるとこういう分類ってなんの意味があるんだろうと思えてしまうことがあるが、視点を切り替えればいいのだった。

子供にとって自分に合うものを探すには便利な目安」なのだと思った。ラノベという分類の定義はほんとうにあってないようなものだが。

・ちなみにレディコミなら今は天使腐臭という漫画なら面白そうで読んでみたく思ってる

反政府活動中毒

共同親権と言った元々リベラル寄りの女性が敏感になる問題に対して、感情的意見活動が目立って議論が成り立たないのはまぁそんなものかなと思う。いつもの女性仕草からね。

しかし、何かにつけて理性に基づいた議論妥協点を探るべきと主張しがちなオタクネトウヨ寄りの男性が、こと生成AIの話になると、クソみたいなお気持ちパブコメを連投したり、生成AIのみ著作権非親告罪化とかのぶっ飛んだ話を持ち出して来たりして、それに対して少しでも異を唱える人は議論余地がない敵認定をして叩きのめしているのを見ると、主義主張一貫性ーーーーーーーーーーーーーーーーってなる。

政府を敵と設定し、力を合わせて悪政に立ち向かおうって言う反政府活動は、中毒性の高い薬物のようなものなのかなと最近思う。一度、その快楽を覚えてしまったらもうやめられないんだろうね。そこには性別や常日頃の主義主張による差なんてのはないのかも知れない。

でも議席を持ってる政権与党積極的に推進する事案に対して、絶対反対、議論拒否議論に参加する奴も敵って態度を取ってれば与党案がそのまま通るサポートしかならないことはもうちょっと考えようよ。

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