「ポリティカル・コレクトネス」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ポリティカル・コレクトネスとは

2022-12-05

ちゃんちゃら可笑しいわ

フェミニズムだろうがフェミニストだろうがポリティカル・コレクトネスだろうが、阿保か馬鹿か。

絶対不変の正義なんかねーよ、そんときそんときで、一定数の多数が適当熱狂する雰囲気があるだけだよ。

いろんな恥ずかしくて汚ないことばっかりして他人を蹴落として生き延びてきた人間過去集大成として今のオレらはここにいるんやで。

誰にでも当てはまる正しい判断基準なんてない、端から端までグラデーション好き嫌いが並んどるだけやぞ?

2022-12-04

何事においても話し合いでいつまでたっても解決しないか

まず戦うためのリングを用意し、相撲ボクシングみたいな格闘技で殴り合いをして、最後に立ってた方が全て正義って感じにしたらいいんじゃないかと

決闘罪」、これがダメだ、国が決闘殺人にならないレベル許可して、殴り合う為の場をちゃんと用意してくれたらいいのに

言葉での解決は最早不可能なら、だからお互いの拳に怒りと自分正義を乗せて殴り合い、最後に立っていた者が勝者として正義になる

これでいろんな対立解決するよ、男女間だの自民民主だの、新興宗教正義か悪かだの、LGBTポリティカル・コレクトネス配慮だの、国家間のいがみ合いだの

そして生放送しろ、「赤コーナー!フェミニスト連合代表、○○山○○子!チャンピオン防衛戦です!」「対して青コーナー!ネット論客、○○川○○太郎レスバトルではなく己の拳でのバトルを望み、ついに顔出し参戦!」ってアツいコールもつけろ

論戦から発展した拳のぶつけ合いでお互いを出しあい、思いを拳に乗せてクロスカウンター、勝者にベルトではなく国が認めた「正義権利」を与える事で丸く収まる

2022-11-29

多様性LGBT規制ポリティカル・コレクトネスクソ喰らえ

忖度して顔色窺うからテレビ漫画ゲームアニメ小説面白くなくなる

全力で中指立てていけ

キャラは極端なほどイケメンにしてしまえばいい

キャラはとっても可愛い顔でエロい萌え萌えな見た目にしてエロい目にあえばいい

同性愛者をキモいと笑い物にしていい

極端なチビやノッポを出していい

障害のある人間差別される描写を出してもいい

黒人黄色人種人間扱いされなくていいし白人けが主人公でいい

作者がキャラを代弁して政治や国を批判していい

モザイク無しでちんこまんこにブチ込む描写を描いていい

未成年とのセックスを描いたっていい

歴史的大罪人やカルトネタにしてもいい

ありとあらゆる王族を貶してもいい

やりたいように創作すりゃいいんだよ、今まで忌避されたり批判された描写すべてを描き出せ

批判なぞ無視しろ、それで作家役者生命が絶たれるわけじゃねえ

2022-10-08

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20221007/k10013847801000.html

性別にもとづいて男性ばかり職質するのは、男女の圧倒的な犯罪率の差を見れば仕方ない面もあると思う。

実際、ポリティカル・コレクトネスでも男性潜在的犯罪者予備軍と見なす制度男性対象外○○)は支持される。

でも、性別ならまだしも、人種の見た目だけで職質対象を選ぶのは完全に差別だと思う。

同じ人種の男女で比べて男性が多めに職質されるのは仕方ないだろうけど、違う人種男性同士で比べても職質の回数が違うなら明らかな差別

一般的黄色人種の見た目の男性20回、アフリカ系の男性が50回、一般的黄色人種の見た目の女性が0回、アフリカ系の女性10回職質されていたら、アフリカ系の男性は30回余計に職質される部分は怒っていいし、アフリカ系の女性だって10回分に怒っていい。

国際問題にもなりかねない。

2022-10-05

百合×フェミを併発した者の末路

百合」は好きだけど「同性愛」「ポリコレ」は嫌いなオタク百合ファンから普通に嫌われてると思う。少なくとも私はヘドが5リットルは出るくらい嫌い。

https://twitter.com/7tsubaki3/status/1576625104070774785

 

いまから当たり前のことを言うけど、百合同性愛や(男性主体作品では軽視されがちな)女性同士の関係性を描いたジャンルなので、ポリティカル・コレクトネスひとつです。

ポリコレをやりながら百合モグモグするのはダブスタやぞ。

https://twitter.com/7tsubaki3/status/1577213777682239488

2022-10-02

オタクに期待してもオタク流の消費や描き方しかできないから謎の期待はせずに諦めるべきという話

ポリティカル・コレクトネスは悪じゃないし

ポリコレ棒とか言ってぎゃあぎゃあ喚いてるオタクキモいのは前提として

それはそれとしてそういうオタクに「美少女を描くな~」とか「もっと表現を~」とか言っても無駄なんじゃないか

仮にオタクが無理に頑張った所で「盲目で強い人」の域を出ない

なのでそういうのをクリエイターだと認識する事をやめればいいオタクオタクしかない

2022-10-01

anond:20220930214949

裸の王様とか、自民党のオジサン政治とか、そういうターゲット違和感無垢立場で率直に突いてくれるのが子どもの強み。

一方の弱みは、児童操縦型なので、大人が期待したターゲット以外まで突いてしまうこと。

特にマズイのは、ポリティカル・コレクトネスで守らなければならないマイノリティーをターゲットにして、その脆弱性を突いてしまった時。

2022-09-18

ポリコレガーはポリティカル・コレクトネス説明ができない

説明してよ。ねえ、早く

2022-09-16

anond:20220916034901

ポリティカル・コレクトネスという考え方は、社会構成するあらゆる属性の人々が、その属性によって不愉快に感じたり不利益を被らないようにしようという理念である

違います政治的に正しいかどうかです。今のポリコレはどこの政治かというとアメリカ極左政治です。昔はそれぞれの国でポリコレがあってユダヤ迫害ポリコレとされた。

ポリコレ」より「ポリコレ嫌い」が苦手

私は「ポリコレ嫌い」が苦手だ。

私と似た観測範囲を持つ人はこの一文で過不足なく伝わるであろうが、もう少しだけこの背景を共有したい。

ポリティカル・コレクトネスという考え方は、社会構成するあらゆる属性の人々が、その属性によって不愉快に感じたり不利益を被らないようにしようという理念である

なるべく多様な人を包摂するような視野表現しようということだ。

どういうわけかこの「ポリコレはいわゆる「オタク」と呼ばれる人たちにおよそ蛇蝎のごとく嫌われている。

何のオタクか?と問われると明瞭な回答を与えることができないのが歯がゆいが、おそらくアニメゲーム映画等に関心を持っていて、積極的ソーシャルメディアで語り合う人たちと言ってもいいかもしれない。

そして、私はこの「オタク」による「ポリコレ」の嫌いかたが苦手なのだ

その嫌いようといったらまるで「ポリコレは倒すべき外敵、屈してはいけない」というような具合なのである

西洋的な風貌アートスタイルは「ポリコレに屈している」。

マイノリティ属性を持つキャラクターが登場すると「出たよポリコレ」。

ポリティカル・コレクトネス無謬理念であるとは言わないし、理念実装にあたってプラクティカル問題が起こり得ないとも言わない。

極端な話ではあるが、例えば「日本田舎中学校」を描く作品アフリカ日本人と中国系日本人とヨーロッパ日本人とアイヌ民族琉球民族大和民族の全てを出演させなければポリティカルインコレクトであるとするような言説は、私の感覚では受け入れがたい(し、皆さんもそう感じるのではないかと思う)。

けれども、私の目に映る「ポリコレ嫌い」の批判はそういうことではないようなのだ

私には「マイノリティ描写されること自体からポリコレ連想して、それに敵愾心を燃やしている」ように見えてならない。

先ほど挙げた「マイノリティを描かなければならない」という理念とは対象的に、「マイノリティを描いてはならない」という理念にすら映る。

おそらく私は、「ポリコレ」という「倒すべき外敵」に抱かれる敵愾心と、それに対する無自覚が苦手なのだと思う。

無邪気に使われる「ポリコレに屈した」という表現にも「負けてはいけない外敵に負け折れてしまった」という含意があり、屈折した被害者意識を感じてしまう。

ポリティカル・コレクトネスと向き合うことを避け、漠然とした怒りの感情を「ポリコレ」に仮託していると感じてしまう。

とにかく、鬱屈としているのだ。

改めて明言したいが、ポリティカル・コレクトネスというのは上でも述べた通り無謬理念ではないと思う。

しかし、誰もがその属性によって必要以上に傷付けられない表現を目指すという素朴な理念自体は間違ったものではないだろう。

実装にあたって様々な問題が起こってしま理念自体陶冶していくためにも、我々はポリティカル・コレクトネスから顔を背けず向き合うべきなのではないだろうか。

安易冷笑するな。社会構成員として一緒に考えていこう。

2022-09-04

ポリティカル・コレクトネスなんざ文化破壊するクソみたいな害悪

ロード・オブ・ザ・リングも歪められた

アカデミー賞基準もめちゃくちゃにされた

どいつもこいつもLGBT出張ってポリティカル・コレクトネスなるクソみたいな害悪が出しゃばったせいだ

第一、なんで性愛対象バグった精神障害者共に気を遣う必要があるんだ?

昔のように差別して迫害して表舞台から追い出せよ

文化侵略されてるんだよ

2022-08-09

清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう

前置きの前置き

この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ

前置き

清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口Twitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので

代わりにそれっぽいものを書いてみる練習

具体的には江口先生

うまい人びとは、前に書いた辞書定義約定定義明確化定義理論定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます

と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。

続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセルカルチャーってなんだろう」を書くかは未定。

まり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが

最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。

とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ


前提

を先に見ていることが前提。

特に江口先生ブログに書かれている5つの定義

説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。



学問の自由辞書定義

まず、清水先生スライド提示するのが

1998年 国際大学協会(IAU)声明学問の自由大学自治社会的責任」による定義です。

学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者教員学生が、倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由

これは明らかに 辞書定義 ですね。

人びとがその言葉をどう使っているか国語辞典の載っているような形で説明している。

そして次に清水先生は、

一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」

「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」

自分言葉でも「学問の自由」を定義します。

世間一般用法という文脈なわけですから、当然、スライド引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、

同じく 辞書定義 が与えられようとしているもの解釈されます

実際に与えられた定義を見てみましょう。

ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります

IAU声明では「外部から圧力」となっているところが、

と非常に具体的な形になっています

世間一般用法として紹介される割には、議論のあり得るところで

「こういうのは多数派も少数派もない、学問独立って話なんですが、多数派から圧力特に抵抗しにくいので」

というふうに説明するほうが世間認識とあっているように思える。

とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部から圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書定義のままだと受け取ることもできる。

学問の自由」の濫用としての「学問の自由侵害」への説得的定義

次に清水先生は「学問の自由」の濫用の話を始めます

ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います

今は、とりあえず定義の話をしましょう。

現代の誰かが主張している「学問の自由侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生定義していると読める箇所を、少し文言修正の上、抜き出します。

見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生ブログで挙がっている

中絶とは、罪のない子供の容赦ない殺人である

中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全外科処置である

などと同じ形式となっている。

ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、

中絶の例ならば、中絶辞書定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、

清水先生は、この文脈での「学問の自由侵害」とは 辞書定義 学問の自由侵害とは全く異なるものだと論じていることです。


(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリック解説なので

批判の要点が掴みたいだけの忙しい人は飛ばしても良い。

どう辛いのかについては、「批判対象曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)


辞書定義明確化定義として使用することを目的とした約定定義へのすり替え

最初の節辞書定義から

これらは学問の自由侵害定義として読むことができるものであり、

先に導入された説得的定義社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。

ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書定義)」学問の自由ではない、という論証。

しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。

先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書定義と認めました。

逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生独自見解です。

すなわち、この時点で辞書定義として導入された学問の自由という概念

学問の自由を〜と私は定義します!」という約定定義へとすり替えられているのです。

一旦まとめると、

「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、

「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的定義の中に紛れこませる(定義すり替え)」

これが清水先生レトリックです。

定義を縦横に駆使するレトリック

付け加えていえば、ここですり替えられた約定定義根拠

学問の自由とは

「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの

という説得的定義の導入も行っています

まさに、

うまい人びとは、前に書いた辞書定義約定定義明確化定義理論定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます

のものですね。

じゃあ、5つの分類の最後理論定義はどうか、

憲法23条保障する学問の自由

この一節は憲法学理論を援用しているため、少し強引ですが理論定義を示したものとも言えるでしょう。

実際、この定義根拠に「学問の自由侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し

これは日本国憲法保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。

否定しています

なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、

要は憲法学理論憲法原則としては国家権力監督するものであり、私人間効力の議論私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。

権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、

そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。

批判対象曖昧さ、具体性の欠如

ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、

正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で

直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります

ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。


清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、

書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、

Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。

ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセルカルチャー」の事例が話されているのですが

これも抽象的な定義操作時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。

詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、

これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセルカルチャーってなんだろう」に譲り、

記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります

議論余地はない」ほど明らかなものだけ議論される

清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、

とりあえずここは論点にせず、清水先生解説をそのまま採用します。

ABORの主張は、

ナチス政治哲学擁護であるとか、あるいは進化論否定であるとか、 そういうもの学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」

「実際にそういうような授業になっているかどうかを、 授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべき」

学問の自由とはそういった環境で成立する。

ぶっとんでますよね。これ肯定する自由主義者いるんですか?

ナチス肯定論文を学問の自由擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?

しろ、何が相手だろうと自由である肯定する、過激自由論者ほど否定する内容です。

大学ナチス擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか

まとめると、

最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論余地のないことしか言っていません。

じゃあなんで議論になるのか。

清水先生立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が

ある意味辞書定義のように暗黙に共有されているからです。

千田有紀と呉座勇一

清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります

このちょうどいい2人については講演では全く触れない。

特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、

ちょっとからない」「詳しくない」「法律専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」

との返事。

「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。

訴訟原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば

この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。


たこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。

理論物理学者の性暴力学問の自由擁護することはできない」

何を当たり前の話をしているのでしょうか。関係ありますか?

せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラパワハラを長年犯してきた超一流哲学者大学から追放されたことを、学問の自由擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。

まとめ

文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しかさない。

それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書定義には触れないで、

何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。

暗黙の辞書定義説得的定義の関連は、聴衆が勝手勘違いしてくれることに任せる。

これが、学問の自由についての、清水先生の講演の構造です。

2022-08-05

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part6 〜質疑応答

前置き

音声の品質が悪く、ところどころうまく聞き取れなかったところがあった。その箇所は●●●と表記した。

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー 」Part6 〜質疑応答

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=9613s

2:40:13~2:45:40


私いくつか頂いていて割とまとまらないというか散発的な感じなので、すごく短くお答えしたいと思います

最初に「日本政府ジェンダーバッシングの背景に宗教団体ロビー活動がありますか」ということなんですけど、

これはあります。詳しいことは、っていうかご存知の方はご存知だと思いますけど、

先週末かな、にモンタナ山口さんと富山斉藤さんが、これ出していいのかな、

どっかで、延々と何か全部で見ると4時間か何かの番組お話になっているので、そちらを見ていただければいいと思うんですが、

ジェンダーバッシングの背景に宗教団体は確実にあります統一教会ちょっと新しくって、

もともとあったのは、どちらかというと日本会議系だったりとか、そっちにいたんですけれども、

仏教団体とか神道団体ですが、あるということですね。


それと関係して「今日出てきたABORの背後に●●●主義がありますか」ということですが、

ちょっとそこはわからないです、ぱっと見はないですが、

ただ問題はいろんな議論が直接、原理主義とか宗教から出てきているかどうかではなくて、

そういうところと結びつくようになってきている、ていうところのほうがジェンダー系では大きな問題だ、

ということはお伝えしておきたいなと思います


次ですが、

フェミ科研裁判と同じく京都地裁係争中の呉座勇一さんも学問の自由●●●を求める裁判をされています」ということなんですが、

ちょっとよくわからないんですが、これ詳しくないんですが、

私は呉座さんの裁判労働争議だと思っているので、学問の自由ではないんじゃないかなぁと思います

ちょっとわかんないんですけど私も、きちんと法律専門家じゃないので、

他の●●●の裁判をはっきりきちんと見ているわけではないんですが、労働争議ということではないかなというふうに思ってはいます

学問の自由っていうのは、研究者だったら何を言っても大丈夫ということではなくて、例えばある人が、

この場合は「女性蔑視問題になっていますが、学問の自由は守られるべきだと思われますか」っていうのがあるんですが、

ここすごく大事なところなんですけど、

ある研究者女性蔑視発言をしたから、その発言

あるいは非常に女性蔑視的であったりとか、

あるいはそれを超えて性暴力に至るようなことがあったりとかていうときに、

それは当然、性暴力って考えたらわかると思うんですけど、学問の自由では守られないです。

学問の自由っていうのは、保障するのはあるその研究者が、

今言ったような、今おっしゃていただけたような、あるコミュニティの中の、学問コミュニティの中の手続きであるとか、

そこで積み重ねられてきた知見に則って、どういうような議論するか何を考えるか、

ということに関してはそれは自由だということなんですね。

それの外には学問の自由というのは別に適用されないので、

例えばすごく離れた領域っていうのを考えてみると、何でもいいんですけど、理論物理学研究者がいて、

その研究者が非常に女性差別的なあるいは人種差別的なことを言ってそれが問題になった。

「いや学問の自由だよ」と言われたら学問の自由じゃないんですよ。

その人が女性差別的なことに言ったりとか人種差別的なことを言ったりとかっていうのは、

それは学問とは全く関係ないということなので、それは学問の自由では守られない。

そこら辺ちょっと、この件がそうだということではないんですが、

学問の自由っていうのが適用されるのは、そういう意味では結構狭いことになるので、

こはちょっと注意したほうがいいんじゃないかなというふうには思いました。


次なんですが、「キャンセルカルチャーという言葉を初めて聞いたんですが」、

何か今回のフェミ科研裁判とどう関係があるのかというご質問かなと思ったんですが、

一つは●●●さんもおっしゃってくださったように基本的には、その今●●●さんがおっしゃったこととも関係するんですが、

学問の自由ということ自体がそんなに、

今回はすごく大事なんですね、この文脈では学問の自由は非常に大事なんですが、

学問の自由っていうのをとりあえず出しておけばいいということではなくて、

一体学問の自由っていうのが何を守ろうとしているのかとか、どういうふうに使われようとしているのかとかていうのを、

1回1回読み解いていく必要がある。

それを忘れて学問の自由なんだよという話をしていると結構足を掬われるって話を、

から実際に英語圏ではそれで足を掬われてきている。

日本語圏はそもそもさっき「学問と見られていない」とおっしゃっていたのは、ほんとそのとおりだと思うんですけど、

そもそも日本語圏では学問の自由以前に、例えばジェンダーとかセクシュアリティとかそういう問題に関しては、

気にしようとも思っていない人たちが圧倒的に多いんですけど、でもその人たちが「気にしたほうがいいよ」って言われた瞬間に、

学問の自由」って言い出す可能性は逆に言うとめちゃくちゃ高いと私は思っていて、すでに言い出している人たちはいっぱいいます

なのでそこはやっぱり気を付けた方がいいよね、っていうふうに私は思いますし、

そのことっていうのは、例えば今回この学問の自由大事だっていうのと、

それからある特定の別の学問の自由の使われ方に問題があるっていうのを、

同じ地平の上で、だけど、こっちは大事でこっちはまずいということを言えるような、

私たちが言説上の力をつけておかないと、ふらふらと引っ張られる可能性があって、それは非常に危険だってふうに思ってます

編集後記

つの講演に対し、知る限りこの増田を含め三つの文字起こしが乱立している。

先行文字起こしが二つがあるなか、あえてもう一つを公開したのは以下の理由のためである

なお、作業自体は滝本の文字起こしの公開前、Togetterまとめの文字起こしが中途で止まっている時から始めていた。

8/7追記

石畑隆氏版文字起こしhttps://note.com/philo_radi/n/ne2da785c938c)が加わって乱立四つとなった。

質疑応答部がなく、またここではカットしたフィラーや言い誤りの訂正等も比較再現されている。

小見出しを適宜挟んでいるところはここと近い。

公開先のnote組版の方がはてな匿名ダイアリーより読みやすい人はいるかもしれない。

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3920s

1:05:20~1:10:25

Sara Ahmed, "You Are Opressing Us!"

「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うためのプラットフォームを与えられ続けたり、あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時、そこにはいつもパフォーマティブ矛盾がある。しかしそれだけではない。そこであなたが目にするのは、権力メカニズムなのだ。」

自分がすでに抱いている信念を裏付け証拠を求める欲望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。

侮辱的な言語行為が次々と述べられるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだという証拠を望んでいるから、である。」

この枠組みを非常に早い時期に的確に指摘したのが、イギリスフェミニストとして知られるSara Ahmedです。

2015年のブログ記事でAhmedは、ガーディアン紙に掲載された、これ別の書簡なんですがこれも公開書簡です、

個人に対する検閲や口封じを許すことはできない」というタイトルの公開書簡を取り上げます

この公開書簡英国でのいくつかの例を取り上げつつ、

トランスジェンダーについてあるいはセックスワークについて特定批判見解を持つフェミニストたちが、

大学沈黙させられているというふうに主張するものでした。ちょっとここ分かりにくいんですけど、

2015年の英国のこの文脈では、沈黙させられているというふうに主張しているフェミニストたちというのは、

階級的にもそれからジェンダーモダリティという点でも、いわば多数派の側になります

Ahmedは、公開書簡で取り上げられている例というのが実際には、特定見解理由にした検閲だったりノー・プラットフォーミング、

ノー・プラットフォーミングっていうのはイギリス運動なんですけど、

イギリス学生運動の中で採用されてきた戦略で、非常に危険で受け入れ難いと見なされた見解とか信念、それこそネオナチとかです、

そういうものを公開する機会そのもの提供しない、そういうのがノー・プラットフォーミングといわれるんですが、

ただAhmedは、この公開書簡で取り上げられている例が実際には、

そういう検閲とかノー・プラットフォーミングには当たっていなかったということを、事実確認した上で、

にもかかわらずこれをあえて、キャンセル検閲、口封じ、ノー・プラットフォーミングという形で主張することで、

どういう効果が目指されているのか、ってふうに問います

これAhmedの引用なんですが、

「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うために

そういう発言をするためのプラットフォームというのを実際には与えられ続けていたり、

あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時に、そこにはいつもパフォーマティブ矛盾がある。

しかしそれだけではない。そこであなたが目にしているのは、権力メカニズムなのだ。」。

まり検閲された、口を封じられたという主張それ自体が、

検閲され口を封じられたはずの側がより力を獲得する、そういう目的のためにされていると。

からこそ、検閲され口を封じられること、言い換えればキャンセルされることというのは、ここではむしろ求められている。

キャンセルされたいんですね、どっちかっていうと。

次の引用ですが、

自分がすでに抱いている信念を裏付け証拠を求める希望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。

侮辱的な」、これoffensiveですね、「侮辱的な言語行為が次々となされるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、

他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだというそ証拠を望んでいるから、なのである。」。

からキャンセルされると、そのキャンセルされた人ということでどんどん力が集まって、むしろキャンセルされたい。

キャンセルされるために、より侮辱的な、よりoffensiveな言葉が発せられるという、そういう仕組みができてるというのが、

Ahmedの見立てなんですね。

「この書簡は、フェミニスト発言自由になされるべきで、健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話可能にするものだ、と考えている。しかし、トランフォビアや反トランス発言を、ハッピーダイバーシティ食卓自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消するべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、対話などしようがない。あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議や対話」をするとしたら、「討議や対話」はそれ自体が抹消のテクニックになる。特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである

学問あるいは言論の自由というもの支点とした、抑圧側と被抑圧側の逆転の構図、

表現を変えるのであれば、抑圧されて周縁化されてきた側からの異議申し立てを封じるための口実、

あるいは道具としての、学問とか言論の自由の利用っていう、

今日の報告では、90年代からこの図式が少しずつ洗練されつつ引き継がれた様子っていうのをざくっと見てきたわけですが、

その図式が現時点で到達しているのが、自由侵害された口を封じられたという主張が、

実は封じられることもなく自由に繰り返され拡散されることで、力をさらに獲得している、

クリックアルゴリズム時代キャンセルカルチャーというパワーメカニズムだ、ということになります

からこそ私たちは、国家や強力な組織経済あるいは社会規範要請などから学問の自由というものを守ると同時に、

現代の今2022年時点の学問の自由というのが、もろ刃の剣であること、学問の自由特定の利用には警戒すべきであるということを、

忘れてはならないと思います

最後にこういう自由濫用というものサバイブするためにAhmedが提唱した戦略引用して、私の報告を終わりにしたいと思います

「この書簡は」、先ほどの公開書簡ですね、

「この書簡は、フェミニスト発言自由になされるべきで、

健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話可能にするものだ、というふうに考えている。

しかし、トランスフォビアや反トランス発言を、

ハッピーダイバーシティ食卓自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。

食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消すべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、そこに対話など存在しようがない。

あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議あるいは対話」をするとしたら、

「討議や対話」はそれ自体が抹消のテクニックになる。

特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」。

ありがとうございました。

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part4 〜キャンセルカルチャー批判

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part4 〜キャンセルカルチャー批判

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s

57:08~1:05:19

抑圧側と被抑圧側との逆転の構図

抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派

あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンライン男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます

もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、

その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力正当化していくっていう、

その形というのはもちろんその以前から

例えば排外主義において、あるいはモラルパニックにおいて広く見られてきたものではあります

9.11同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビア暴力っていうのはこういうものだったわけですし、

あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイバイセクシャル男性というのを、

当時は性的捕食者、セクシャルプレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルス拡散元として、

非常に激しくバッシングしたのが英米モラルパニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。

じゃあそのオルト・ライト勢力オンラインミソジニーアカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、

これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、

マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由侵害されている」という形で、

はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。

そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、

今のところ最新の形がいわゆる「キャンセルカルチャー批判」というものになります

キャンセルカルチャーとは

CAMBRIDGE DICTIONARY

社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱する (offend) ようなことを言った人を完全に拒絶したり、その人の支持をやめたりする振る舞い方

MERRIAM-WEBSTER

不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団キャンセル行為(公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること)をするような実践

ピュー・リサーチセンター(2020)

リベラル寄りの人々は「ある人に自分の行動に対する責任を取らせるためのアクション」と捉える

保守派よりの人ほど「検閲」と捉える

キャンセルカルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、

2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、

キャンセルカルチャー意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります

実際、例えば辞書定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、

社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、

自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、

あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。

それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、

不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団キャンセル行為」、

このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、

集団キャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。

またピュー・リサーチセンターによる2020年時点の調査では、

リベラル寄りの人々は、

キャンセルカルチャーというのは、ある人に自分言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。

それに対して保守派に寄っていく人ほど、

同じキャンセルカルチャー検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます

まりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的問題があると思われる言動を、

放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、

より保守的な別の人々にとっては、これがつまりキャンセルカルチャー批判」の文脈になるわけですけど、

そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。

言い換えれば、「キャンセルカルチャー批判」という形でのキャンセルカルチャーってのは、そもそも最初から

しばしば多数派である括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、

私たち」の言動検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。

から先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセルカルチャーだと言えると思います

正義と開かれた議論についての書簡」(通称ハーパーズ・レター」2020)

153の署名: ノーム・チョムスキーサルマン・ラシュディマーガレット・アトウッドなど

若い左派から批判キャンセルカルチャーキャンセル

人種的社会正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育報道慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等包摂を求める声」というような「必要過去清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」

保守派による「キャンセルカルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからほとんど枚挙にいとまがない。

毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、

ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います

何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。

一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、

この公開書簡は、当時のトランプ大統領代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、

同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、

より開かれた議論必要性を説くんですね。

ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアポリコレ評価と、

用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、

とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、

この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディマーガレット・アトウッドなど、

非常に有名な人たちを含む153名の研究者作家ジャーナリスト署名しているんですけども、

この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、

公開されるとすぐに「キャンセルカルチャー自体キャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、

人種的性的マイノリティを中心とする若い左派から大きな批判を受けることになります

実際のところただこの公開書簡自体を見ると、

キャンセルカルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。

じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、

人種的社会正義を求める強力な抗議運動」や

「とりわけ高等教育報道慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等包摂を求める声」というような

必要過去清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、

だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、

一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、

この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、

Racial Reckoningって人種的過去清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、

人種主義への批判のもの不寛容だと見なすキャンセルカルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。

同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネス批判者として知られていた、

言語学者スティーブン・ピンカーであるとか、

ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバードロースクール学部長職を退くことになった、

法学者のロナルド・S・サリヴァンであるとか、

この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動批判が集まっていた、

作家J・K・ローリングとか、

そういう人たちが名前を連ねていたということももちろん、

この公開書簡が「キャンセルカルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います

この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派代表知識人と見られてきたチョムスキー署名をしている。

同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。

まり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。

にもかかわらず先ほどから申し上げているように、

実際には、より若手のマイノリティライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。

恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、

学問の自由とか言論の自由擁護というのが、

近年では力のある地位にある人々が、自分たち差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、

その批判糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、

フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、

その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3186s

53:06~57:07

David Horowitz, Academic Bill of Rights (ABOR)

学問はあらゆる問題について政治的中立であるべき

学問の自由は常に複数観点提供される環境において成立する

特定問題について異なる見解があるなら議論の双方の側を教えるべきで、授業内容を調査する仕組みが必要

ポリティカル・コレクトネスを巡って提示されたこの図式、

すなわち既存差別や抑圧への批判を、それこそが自由侵害であるとして批判し返すというこの図式は、

この後現在に至るまで、とりわけ大学を中心に学問の場において着々と展開されてきています

例えばDavid Horowitzによる、学問権利法案ABORというんですが、

これは、学問はあらゆる問題について政治的中立立場を採るべきであり、

学問の自由とはそのようにして常に複数観点提供される環境において成立する、というふうに主張します。

これだけ見れば、これだけ見れば、リベラル多文化主義的な主張かなっていうふうに思いかねないんですが、

Horowitzの主張は、これが先ほどの庵逧先生のご発表ともちょっとつながるんですけど、

それが当代の学術領域において、どれほど学問的に反駁され否定されているものであろうと、

特定問題について異なる見解があるならば議論の双方の側を教えるべきであると、

実際にそういうような授業になっているかどうかを、

授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべきだ、いうふうにHorowitzは主張する。

このABORの問題を、アメリカ大学教授連合AAUPというところが問題点を指摘する声明を出しているんですが、

そこで述べられているように、これは学術的知見の蓄積に裏付けられた主張であるか否かにかかわらず、

例えばナチス政治哲学擁護であるとか、あるいは進化論否定であるとか、

そういうもの学術的に正当な主張の一つとして教えるべきだと、そういう議論なんですね。

から何が学術的な裏付けのある議論であるかについて、学術コミュニティで蓄積されてきた知見を認めないという点において、

ABORは「学問の自由」を唱えつつ実態としては学問の自由侵害している、いうふうに言うことができる。

Turning Point USAによるProfessor Watch List (2016)

リベラル左派の横暴に支配された大学において、差別されている保守派学生を守る」

差別や抑圧をめぐる逆転の構造

差別や抑圧への批判や対抗の言説が、その言説に同意しない(差別的、抑圧的な)主張をする自由を抑圧し、そのような考えを持つ人々を差別している」

抑圧側と被抑圧側を逆転させる支点としての「学問の自由

ABORは、リベラルあるいはレフトの価値観大学が乗っ取られていると、だといいなと思うんですが、

でも大学は乗っ取られてる、それと異なる、つまり保守派主義主張学生研究者の「学問の自由」が侵害されているから、

それを守らなくてはいけないという構えを取っています。ただこの構えが実はただの口実でしかない。

学問の自由」というのがここでただの口実でしかないことは、例えばもっと2016年にTurning Point USAという、

これ、学校とか大学保守派価値観擁護・推進することを目指すアメリカNPOなんですが、

そのTurning Point USAというのがProfessor Watch Listというのを作ってまして、これを見るとよく分かる。

Professor Watch Listは、

教室において保守派学生差別左派プロパガンダを推進する教員を暴き記録するということを目的としています

このリストは、リストに加えられた教員とか研究者あるいは大学へのメールなどでの攻撃というものも当然誘発することになって、

先ほども出てきましたアメリカ大学教授連合AAUPは、このリスト自体学問の自由への脅威だというふうに批判している。

ABORから10年以上が経って出てくるProfessor Watch Listというのは、

ABORとは異なって、最初から学問の自由」というのを活動根拠として打ち出してないんですね。

にもかかわらずそれ以外の点つまりリベラル左派の横暴に支配された大学において、

差別されている保守派学生を守らなくてはいけない、これが「学問の自由」の擁護であると、

そういうふうにABORはなるんですけど、でもその構えというのはそのままABORから踏襲されてる。

ブッシュ・シニアミシガン演説を思い出していただけるといいんですけれども、

差別や抑圧を巡るこういう逆転の構図っていうのが、ここでは非常に重要な働きをしている。

ポリティカル・コレクトネス論争からProfessor Watch Listまで、30年近くあるわけですけど、

学問の自由」というのがどう使われてきているのかというと、差別とか抑圧への批判あるいは対抗の言説が、

その言説に同意しない、つまり差別的あるいは抑圧的な主張をする自由というものを抑圧するんだと、

そういう考えを持つ人々を差別するのだという形で抑圧側と被抑圧側を逆転する、ある種支点の働きを担ってきたわけなんですね。

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2904s

48:24~53:05

ポリティカル・コレクトネス

伝統的な大学制度における性差別人種主義同性愛嫌悪などに挑戦する改革側を、自由を抑圧する権力者として描き出す

アラン・ブルームアメリカンマインド終焉』(1987)

ニューヨーク・タイムズコラム政治的正しさという覇権の高まり」(1990)

ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時) ミシガン大学におけるスピーチ(1991 (自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さとしてのポリティカル・コレクトネス

報告タイトルにもなってるキャンセルカルチャーというのは、まさにこの文脈で作り出され拡散されてきた用語です。

これは学問の自由だけに関わるものではなく、幅広く文化活動一般に関して使われていますが、

学問の自由がその射程に含まれることもまた間違いはない。

ただ2010年代、後半ですね特にから急激に広まってきた「キャンセルカルチャー批判」についてお話をする前に、

その文脈ていうかその前身とも言える、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」っていうものについて少し確認をしていきましょう。

ポリティカル・コレクトネスという語自体は、

元来共産党が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動を指す、ある左派の間の内輪の自嘲的な用語として使われていたものです。

ところがこれアメリカ文脈ですが、古典学者であるアラン・ブルームによる1987年の『アメリカンマインド終焉』、

1990年ニューヨーク・タイムズコラム政治的正しさという覇権の高まり」、っていうここら辺を契機として、

各種メディアなどにおいて、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論というのが沸き起こる。

1991年5月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領ブッシュ・シニアミシガン大学におけるスピーチで、

ポリティカル・コレクトネスというのは自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さだ」というふうに言及するに至ると。

現在日本ポリティカル・コレクトネスというと、

専らポップカルチャーでの表現みたいな、映画とか漫画とかそういうことをイメージされるかもしれませんが、

そもそもポリティカル・コレクトネスについての議論というのは、大学という場をその主要な舞台の一つとしていました。

1980年代アメリカ大学では、女性学アフリカ研究など新しい学部プログラム設立

それからアファーマティブ・アクション採用それから大学におけるセクシャルハラスメントへの対応の開始、

それからコースとかカリキュラム見直しなどが一気に進んでいくことになります

これらは全部具体的な制度的変更なんですけれども、それと同時に大学における教育研究というものが暗黙の前提としてきた、

性差別人種主義ホモフォビアなどの検討修正とを迫るものでもありました。

こういう変革への抵抗や反感というものを、単に大学という限られた場所における制度上の闘争という形で提示したら、

それはあんまりアメリカの広い一般大衆の興味を引くことはなかったかもしれない。

けれどもこれをアメリカ価値の根幹に関わる、思想言論の自由危機として提示することで、

保守派側は一般の注目と関心を引きつつ、

伝統的な大学制度覇権に挑戦する改革側のほうをこそ、逆に自由を抑圧する権力者なのだというふうに描き出すことに成功します。

合衆国全土で言論の自由攻撃されている」

「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、私たちはみな警戒心をもつべきだ」。

実際に当時、先ほど申し上げたブッシュ・シニアミシガン大学演説ではこういう言い方がされている。

合衆国全土で言論の自由攻撃されている」と。

「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、

私たちはみな警戒心をもつべきだ」と。

1980年代から続く共和党政権なんですが、ブッシュ・シニア共和党政権は、

例えば女性の性と再生産に関わる健康権利の獲得に向けた運動というのを、はっきり言って足踏みさせた政権です。

またHIV/AIDS流行に対して同性愛嫌悪に満ちた対応で、LGBTコミュニティに深刻な打撃を与えてきた政権でもある。

人種主義に関して言えば、国内人種差別問題というのも当然温存されていて、

このミシガン大学演説の翌年92年には、ロサンゼルスでの人種暴動というものが起きてる。

にもかかわらずこの演説では、政府共和党によるそういう長年に関わる差別や抑圧が一切問題にされないんですね。

この演説暴力的な抑圧者だとして名指すのは、そういう差別とか抑圧を指摘して批判してきた側のその差別に対する不寛容

その差別に対する不寛容暴力だと抑圧だというふうに名指していく。

ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

大学という特定組織における性差別人種主義同性愛嫌悪などに対抗することを目的とした取り組みを、思想言論への検閲であるかのように見せる

ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧から思想言論の自由を守って闘う被抑圧者としての多数派

まり右派が持ち出した「ポリティカル・コレクトネス」というのは、

大学という特定組織におけるセクシズムやレイシズムホモフォビアなどに、対抗することを目的とした取り組みというのを、

逆にあたかマッカーシー旋風の再来を思わせるかのような、思想言論への検閲であるかのように見せる、

非常に巧妙な言説戦略だったというふうに言うことができます

この枠組みは既存体制に内在する差別や抑圧から人々の目をそらす、

しろ多数派こそが「ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧というものから

思想言論の自由を守って闘う被抑圧者なのだというふうに主張することに成功したわけなんですね。

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part1 〜学問の自由とその濫用

前置き

2022.7.24 一般公開シンポジウムフェミ科研と学問の自由

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI

より、清水晶子氏発言部の文字起こしである

長いため講演部Part1~Part5+質疑応答の6部に分割する。

分割の境界スライドにある番号に従うが、副題は増田判断である

スライドはすべて図表のない文字ベースのものであったため、引用記法を用いて本文に組み込んだ。

講演部については、「女性スペースを守る会」が公開している文字起こしベースに、

増田が誤字の修正や、句読点の変更、改行の追加などの編集を行った。

質疑応答部、スライド部の文字起こしはすべて増田が行った。


批判記事の紹介

まず、江口先生による、8/9のブログ記事は必読だと考える。

加えて、講演に対する批判として書かれたものではないが、一般論として「キャンセルカルチャー批判」的な立場で書かれたベンジャミン・クリッツァー先生記事

なども参考になる。これら2記事は、江口先生も講演に欠いている「ミルタイプ言論の自由擁護」として紹介されている。

また、あまり整理がされていないが、この講演に対するTwitter上の批判的な反応を一覧できるものとして、

他、法学専門家による分析という点で他になく注目に値するものとして、

(あと、この書き起こしを編集している私自身も手前味噌ながら批判記事を書いている。「清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう」anond:20220809001101 )

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part1 〜学問の自由とその濫用

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2457s

40:57~48:23

2022/7/24

学問の自由キャンセルカルチャー

清水晶子(東京大学

菅野優香

はい、お二人目は清水晶子さんです。

清水さんは東京大学大学院総合文化研究科で教鞭を執られています

フェミニズム・クィア理論をご専門とされ、

研究関心としては非規範的な身体と性の政治、とりわけ身体他者性、自己表象生存戦略可視性を巡る問題などがあります

最近英語圏フェミニズムおよびクィア理論史を改めて辿ることにも興味があるとのことです。

主な著作に、

Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision英語の本です、2008年

「埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィアポリティクスのために」、2019年

フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治」、2020年

フェミニズムってなんですか?』、2020年、などがあります

清水さん、どうぞよろしくお願いいたします。



清水晶子:

はい、ご紹介ありがとうございます清水晶子です。もうそのまま入っていきますが、

本日は「学問の自由キャンセルカルチャー」というタイトルで報告をしたいと思います

少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。

学問の自由とは

学問の自由という原則は、学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者、教員学生が、倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由定義できる」

1998年 国際大学協会声明学問の自由大学自治社会的責任

学問の自由というところからいきたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。

一般的には、大学だったり研究機関とかっていうものが、

政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり経済的権力だったりというところから圧力を受けることなく、

さらに言えば個々の研究者が、大学当局だったりとか大学経営陣あるいは多数派社会的通念・経済的要請などから

不当な干渉や抑圧を受けることなく、学問良心手続きとに従って真理を探究する自由、というふうに考えることができる。

例えば、1998年国際大学協会声明学問の自由大学自治社会的責任」という文書があるんですが、これによると

学問の自由という原則は、学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者・教員学生が、

倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、

そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由定義できる」というふうにされています

学問の自由というものの基本がここにあるというふうに考えると、フェミ科研裁判文脈における学問の自由の主張というのは、

ある意味まさにここに相当するもの王道の部分というふうに言うことができるというふうに思います

2000年代前半:ジェンダーバックラッシュ

過激性教育ジェンダーフリー教育調査プロジェクトチーム

2014年広島大学でのいわゆる「従軍慰安婦」に関する講義

産経新聞による吊し上げ↑ 日本科学者会議広島支部幹事会による抗議

2020年日本学術会議会員任命拒否

日本学術会議会員任命拒否違法状態是正を求める意見書」提出(日弁連

残念ながら、日本フェミニズムとかマイノリティ政治に関わる研究者にとって、

今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保障されてきたものではない。

からこそ、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました。

今世紀に入ってから過去20年に限定しても、

2000年代前半のフェミニズム女性運動へのいわゆる「バックラッシュ」いうのがありまして、

ここでは与党自民党プロジェクトチームにおいて、ジェンダーという語それ自体使用疑義提示されたりしている。

2014年には、いわゆる「従軍慰安婦」問題を取り上げた広島大学研究者の授業というのが、

先ほども産経新聞出てきましたけど、ここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、

批判や抗議が大学殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由侵害であるというふうにして、

産経新聞に抗議をする、声明を出すという事態になったりもする。

もちろんさら記憶に新しいのは、2020年日本学術会議の会員任命拒否ですね。つまり当時の菅内閣総理大臣が、

日本学術会議が会員候補者として推薦した内の6名の任命を拒否した、というかしなかった件ですよね。

この任命拒否については、憲法23条保障する学問の自由を脅かすものであるというふうにして、

2011年11月に、日弁連が「日本学術会議会員任命拒否違法状態是正を求める意見書」というもの総理大臣に提出をしていると。

これらの事例での学問の自由というのは、この重要性、

この意味での学問の自由重要性というのは、本日シンポジウムのいわば前提になっているものだというふうに考えます

学問の自由」の濫用

差別的・抑圧的な言説に対して政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを「学問の自由侵害」とする言説

その前提をご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、

もう少し強く言うと、どう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います

今申し上げたように、従来はそして一般的には、学問の自由というのは、

国家とか、強力な宗教団体、経済団体多数派社会通念や経済的要請、などなどの圧力を受けることなく、

研究者の社会的通念と研究手続きに則って真理を探究する自由を指す、というふうに理解されています

その意味では学問の自由という枠組みは、

力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、

研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。

ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。

すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、

これは「学問の自由侵害であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。

これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。

けれども法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。

二面での闘い

国家による学問の自由の明白な侵害

②現状を追認し被抑圧側の異議申し立てを封じるための口実としての学問の自由の動員

結果として、フェミニストとして学問の自由を考えるにあたって、

私たちは一方では、フェミ科研裁判のように国家による学問の自由の明白な侵害というものと闘わなくてはいけない。

けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、

抑圧されてきた側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して警戒をしなくてはならない。

学問の自由を巡っては、フェミニストには現在ういういわば両面での闘いというもの要請されている。

この現状は忘れるべきではないと思います

実は今日、私からお伝えすべき論点はそこに尽いているので、ここで報告終わってもあんまり問題ないっていう感じなんですが、

ちょっとさすがにそれでは簡便過ぎるので、この後の時間を使って、

こういうタイプの、マイノリティ権利主張を抑圧する目的で動員される「学問の自由侵害」という枠組み、

この言説というのが具体的にどう現れてきたのか、

これが非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

2022-08-04

ポリコレの真の意味

ポリコレポリティカル・コレクトネスの略で日本語だと「政治的な正しさ」と訳される。ここで注目するべきなのは政治的な」という部分だ。そうだ。政治的なんだ。どこまでいっても政治的倫理的に正しいわけでも絶対的に正しいわけでも世間的に正しいわけでもない。あくま政治的。どういう為政者権力の側にいるか。それでポリコレ時代によって変わる。例えば日本戦時中敵性言語排除なんかもポリコレだ。ストライクボール!と言うと攻撃されるのは完全にポリコレであるそもそもポリコレというのはナチスヒトラー旧ソ連スターリンが好んで悪用していた概念である。気に入らない言説を全てポリコレに反するとして幾千もの書物を焼いたし人間を焼いた。君たちが普段軽々しくバカにしているポリコレは実は非常に怖いものだ。ポリコレは全力で排除しなければならない。

2022-07-19

ネトフリドラマバイオハザードが超絶ウンコだった

マジでキレそう

 

1.主人公バカ

ストーリー主人公の幼少期と現在を同時並行で描くんだけど

どっちのストーリーの変換点も全部主人公の「やらかし」が原因で起きる

 

めっちゃ冒頭でゾンビ半年以上観察していた主人公

がれきで腕を切って血が出てゾンビに追いかけられるシーンがあるんだけど

半年ゾンビの生態を観察してるような奴がそんなポカするか?

以降も、こんな感じでしょうもないポカをする→それを解決しようと奔走する

連続で話が進む

主人公永久選択肢を間違い続ける

さっさと死ねとずっと思いながら見ていた

 

2.ポリティカル・コレクトネス

マジでクソ

傲慢白人クソサングラスことウェスカー黒人になっている

いやいやいや、別に世界はいろんな人種がいるんだから白人ばっかりなのは逆に異常なのはわかるよ

からって原作白人だったやつを黒人にするのは違うでしょ

 

そしてアンブレラ最高責任者レズ同性婚をしているという設定

いるか? これ

主人公アフリカ黒人大人になってからパートナーイスラム系

主人公双子の妹が東南アジアハワイ人のヴィーガン

ポリコレ欲張りセットか?

 

3.超絶途中で終わる

 

シーズン1完結!

死ね

 

 

ネットフリックスオリジナルの平均点が低すぎる

いい加減にしろ

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