学習データとなる絵がないと描けないイラスト生成AIは寄生と似ている。一方的に栄養を吸い取っていく様はまさに寄生だ。
一部、寄生側が宿主を攻撃する活動も見られる。そうなれば悪質なウイルスと同じになってしまい、そのうちワクチンもできてしまうかもしれない。
中には捕食寄生のごとく利益を食らい、宿主に「寄生しています!」と宣言する輩も現れた。捕食寄生が宿主に知られればどうなるか、その結果がFANBOXのAI禁止だ。
寄生ではなく相利共生が望ましいが、それには寄生側から宿主に何かメリットを提供する必要がある。イラスト生成AIの出始めは絵師の助けにもなるとの見方もあったが、現状はデメリットが大きく上回ってしまった。
宿主を傷つける悪質なウイルスが多数AI絵師になってしまったので、pixivのように当面規制するしかないだろう。ファンティアも宿主を守る方向に動いた。還元の仕組みができればいいのだが。
寄生は二次創作のように目立たなければ見逃されるが、悪質なウイルスのせいで悪目立ちしてしまったがためにAI絵師規制は過熱するのかもしれない。
AI絵師反発をラッダイト運動と例える人もいるが、ラッダイト運動の織物機械は手工業者に寄生していたわけではないので、似て非なるものだと思う。
他人の絵を見て吸収して描くのは人間の絵師も同じではあるが、人は絵以外のもの(例えば目に入る自然のものなど)からも影響を受けるため、他人の絵だけを吸収して絵を描いているわけではない。
食べ放題は様々な種類の料理があるし、量も自分の好きなだけ食べられるから満足感は限りなく大きくなるはずだ。
しかし実際に食べ放題に行ってみるとこれは必ずしも正しくない。むしろラーメンや定食1種類のほうが満足度が大きくなる場合もある。
人間は本能的に食べ物を求め、自己の生存を維持するために食物獲得の戦いを繰り広げてきた。その本能は、現代においても無意識のうちに行動や感情に影響を与えている。食べ放題のスタイルは、飽くまで食べ物がたくさんあることの象徴であっても、その提供形式には人間の根源的な欲望が絡み合っているのである。
大きな塊の料理から自分で取り分けるという行為は、人間の深層心理に強く訴えるものである。狩猟社会では、獲物を狩るという行為が生存そのものを意味していた。獲物を仕留め、大きな塊から自分の分を切り取ることは、その人が優れた狩猟者であることの証しであり、それがそのまま社会的なステータスに結びついていた。そのため、大きな塊の料理から取り分ける行為は、狩猟者としての成功体験、すなわち勝者としての記憶を呼び覚ましているのである。
一方、小分けにされた料理を食べるという行為は、その獲物を分け与えられた者、つまり弱者の記憶を呼び起こす。狩猟社会では、最も大きな肉塊を得ることができたのは強者だけで、それ以外の者はその残りを分け与えられる形で食べ物を得ていた。そのため、小分けにされた料理を食べるという行為は、狩猟の結果として分け与えられたものを受け取る、すなわち弱者としての記憶を呼び起こすのだ。
現代社会においても、この勝者と弱者の記憶は、食事の形式を通じて無意識に表現されている。「食べ放題で満足できない」と感じるのは、その提供形式が我々の深層心理と連動していないからである。つまり、食べ放題という形式が提供する「量」の豊富さという約束にもかかわらず、料理が小分けされているという事実が、我々の根源的な欲求、勝者としての記憶を満たすことができず、結果として満足感を得られないのだ。
しかし、この考察はあくまで一つの視点であり、全ての人が大きな塊から取ることを好むわけではないかもしれない。個々の食事スタイルは、その人の文化的背景や個人的な好み、そして環境によって大きく影響を受ける。それでも、食事の形式が我々の深層心理に及ぼす影響を理解することは、我々がどのように食事を楽しむか、どのように満足感を得るかを理解する上で有益であろう。
食事は単なる栄養摂取以上の意義を持つ行為であり、その選択や形式が我々の心理状態に影響を与えることは間違いない。食べ放題のスタイルも、その一つの表現形式として見ることができる。そして、私たちはその中で、自分自身の欲求を満たすための最善の方法を見つけることが求められるのだ。
あれは恥ずかしかった。
社会人になって3年目の休日、母を車に乗せて祖父母と父が作った米やら野菜やらをお裾分けするため近所を回っていた。その中で行った一軒の家の娘さんに一目惚れしてしまった。大学4年生で来年から社会人だという話を母同士がしていた。それからしばらくはその子のことばかり考えていた。ある日は祖父と父の手伝い中にぼーっとして畦道から軽トラを落とし案山子と稲を轢いたせいで親父に殴られた。ある日は仕事帰りに犬の散歩しながらその子のことを考えていたので誘蛾灯にぶつかり洗剤と蛾の死体塗れになった。
1年近く経った頃、両親から「あんたこのままずっと独身のままいるつもり?」と聞かれた。社会人1年目に学生時代からの彼女と別れて以来彼女はいなかった。その場では妹が結婚するだろうから大丈夫だよと適当に返答したが、夜親父が寝た後に意を決して母に言った。「去年行った〇〇さんの家の娘さんに一目惚れしたから紹介して欲しい」と。母は驚いており、俺は恥ずかしくなって返事を聞かないで自室に行った。
翌朝以降母も俺もその話には触れずに過ごした。
それから数日経って、小学校の時に登校班の班長だった近所の先輩がやって来て、同じ仕事(栄養士)をしていて彼女と付き合いがあるから今度紹介できると言われた。母がどのように動いてくれたのかは聞いたことがないためわからない。紹介を経てその子と付き合い初め、間もなく結婚した。妻は今でも共通の先輩が紹介してくれたと思っているため、あの恥ずかしい過去は知られずに済んでいる。
いくつかの県でそういった取り組みを行おうとしたところはあるが、
これは理解できる。
賞味期限が切れているということは品質を保証できないということだ。
もし寄付した廃棄食品で食中毒が起きたりした場合の責任の所在が難しすぎる。
※ワイは食品メーカー勤務で賞味期限は社内で確認した品質保証期限よりも1か月くらい短くつけているが「賞味期限ちょっと切れちゃったんだけど食べられる?」等の問い合わせがあった際には「推奨はしておりませんので自己責任でお願いいたします」と答えることになっている。
2.「子供が売れ残りを食べさせられることでプライドが傷つくかも」「いじめにあったりするかも」「栄養価が十分でないコンビニ弁当を子供に与えるのは害悪」という苦情が少なくなかった。
馬鹿か。
ネグレクトや片親、孤児などで食うに困ってるような子供が「俺は売れ残りで飢えをしのいでいる哀れなゴミムシなんだ」とか思うかボケ。コンビニ弁当うめーくらいにしか思わねーよ。
寄付された売れ残り食ってやんのーつっていじめるような奴はもっと前の段階でいじめはじめとるわ。
そもそも金がね―から食うもんがねーんだよ。栄養価が十分じゃなくても毒じゃないなら何でも食いて―んだよ。
家庭の食環境によってはさ、
食べてこなかった野菜とかあると思うんだけど、
うちの場合は
そう言う野菜があるって事も知ったのもつい最近で食べ出してから美味しいな!って
まあ水菜はお鍋のお供に欠かせない春菊の方が好きだけどってレヴェルだけど
そんでね、
私豆苗って食べる文化が無かったので安いしモヤシよりはなんか緑で栄養ありそう!って思って初めて買ってみた山脈に向かってヤッホー!って叫んでみたのよ。
根のところから切って美味しくサラダで食べたところまでは胃袋に収まって良かったんだけど、
なんか1回で捨ててしまうにはなんか種に栄養が詰まっている密度のぎっしりしていてもしかしてこれ本当に私でも二毛作できるのかしら?って
一番最初に買った豆苗は捨ててしまったことをもはや今は後悔するけれど、
2回目買ってきて今育ててる中なのよ。
これ切ってどっからまた芽が出てくんの?って思ったら、
なんかまるでジブリ映画の世界って感じのその豆苗の部分をクローズアップで見たらって感じなんだけど。
まだ1週間は経たないけど、
緑が増えてきて、
私はもうケロッグコーンフロストのコンボのようにもうガマンできない!って
ちょっとだけキッチンハサミで切ってその場でむしゃむしゃ若い生えてきた豆苗をいただいたわけなのよ。
へーこう言うことかーって豆苗を育ててみると意外と芽吹きが可愛くて癒やしになるわ。
私はケロッグコーンフロストのコンボ級にもうガマンできなくて食べちゃった卑しさはあるけどね。
緑の可愛いさと美味しさも兼ねつつ、
あと一つの要素があって揃えば
なにか豆苗の可愛さと美味しさと、
になにか足せる要素がないかな?って思ったら
あれよあれ!
安さ!残すパの良さを取り入れなくちゃ!って思ったら
可愛さと美味しさと安さ!って言うともうこれは篠原涼子さんや平松愛理さんの歌に並ぶような歌を誰か作って!って思うけど、
その3要素が揃っているから、
先に育てている豆苗があるうちは次の豆苗を買って来れない問題、
いや買ってきても、
その豆苗を育てなければなにかもったいないような気がする感じがして
これどんどん部屋の中に豆苗の水耕栽培が増えるのも困ったものじゃない。
なので、
今回の絶賛育て中の豆苗を育って食べきったら
次の豆苗を買うことにするわ。
さすがにこれに関しては
ケロッグコーンフロストのコンボ級にもうガマンできない!って新しい豆苗を買ってくるほど私は豆苗には餓えてないから、
大人しく今の豆苗のターンが終わってから次を買うことにするわ。
にしても
なんかちょっとお部屋に緑があるとちょっといいわね!って思いのほか食べるメリット意外にも癒やしを与えてくれるのには誤算だったわ。
育ってくると可愛いのよ。
まあ私は育ってきたそばからハサミでちょきちょき切って食べちゃうんだけどね!
豆苗楽しめるわよ。
うふふ。
心が貧しくなってくるような気がしないでもないのよね。
考え思い込みすぎかしら?
ピンクグレープフルーツを1つ買ってきたので果汁を搾って
マジ搾りのグレープフルーツ果汁レモン炭酸ウォーラーってところね。
まだ寒暖の差には油断出来ないわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
https://togetter.com/li/2142288
ピーマンの肉詰め作って「こんなの」呼ばわりされたら、そりゃ作った側は辛い。
これは確実に言える事だけど、食べ物の好き嫌いは少ない方が絶対に良い。
単に栄養バランスがどうのという話だけではなく、人間関係の構築にも大きく影響するからだ。
冠婚葬祭に加え、なんらかの交渉を行う立場になれば会食の機会なんて腐るほどある。
食事を共にするという行為は、例え言葉が通じない相手であっても一定の信頼関係の構築に繋がるからだ。
「時代遅れだ」「価値観のアップデートが足りない」と言ったところで、会食というコミュニケーション手段の効果はそうそう変わらない。
もてなしとして出された食事に、特別な理由も無しに一切手を付けないという事はどう繕っても相手に失礼な行いだ。
友人関係の構築でも好き嫌いが少なく食事の選択肢に困らない人と、好き嫌いが多く「あれはダメ、これも嫌」と注文の多い人とではどちらが付き合いやすいか自明だろう。
もちろん好き嫌いがあっても我慢して食べられるなら、その場その場はなんとかなる。
とはいえ好き嫌いが多い人にとっての会食は、例えるなら慣れてないのに虫やら蛇やらモルモットの丸焼きやらを食べさせられる様なものだろうから、どうしたってストレスを感じる機会が増えてしまうだろう。
好き嫌いが少なく楽しめる食事の選択肢が多い人ほど、人生楽に過ごしやすいと思う。
だから親心として子供の好き嫌いを少なくしたいってのは分かるんだよね。
ただ子供の頃の味覚と大人になってからの味覚ってかなり変わる。
おれだって昔は全然ダメだった、「ふき」や「つわ」を食べられるようになってきたもん。
ピーマンにしたって子供の頃は全然ダメだったのに、大人になったら普通に美味いって人も結構いるしね。
子供の事だからって親が全部コントロールしなきゃいけないって訳じゃないし、むしろ子供を制御下に置こうとし過ぎる事が虐待に繋がったりする。
子供の味の好みも千差万別で、一概にこれが正しいと言える訳でもない。
ピーマンの肉詰めが苦手なのに、生のピーマンに鶏つくねをねじ込んだやつはバクバク食べる子もいるくらいだ(長く加熱して食感がふにゃふにゃになったピーマンが苦手らしい)。
食育だのと言われる様になって久しいが、子供自身が栄養バランスとか考えられるくらいの年齢になるまではあんまり気にしなくてもいいんじゃないかと思う。
それからブコメで虐待だなんだって言ってる人が居るけど、この程度の愚痴で虐待認定するのは流石にどうかと思う。
吐き気止めは薬不足で処方されなかった。
気持ち悪さもあって白米やこってりしたものが食べれなくなった。
代わりに酸味のあるさっぱりとした物を欲しがるようになった。
梅干しはなんか違った。吐いた。甘みが必要なのかもしれない。自分の体なのに調整が難しすぎる。
おかげで2週間で5キロ痩せた。ひーん。
この話を姉にしたらようやく悪阻の辛さを理解出来たなと背中をさすられた。
悪阻ってこんなに辛いのか…。
世の中の妊婦さん見かけたら席を譲ろうと心に決めた。
変なクセがついてたら、いじめと無縁で発信慣れしている健康な学生のような脳内物質バランスになって良いと思って社交的にコンフォートゾーンから抜けて活動し質の良い睡眠や運動や栄養摂取をして認知行動療法でもしたらいい
夢の共演やシチュエーション、うちの子からしか得られない栄養を摂取したいんだ。それを盛り付けるには、アーティスティックな手捻りより、量産品のどんぶりの方がいい。垣根も、サービスごとの癖も邪魔だし取り払いたい。
原作再現にも興味がないわけじゃないけど、それはどこまで行ってもファンアートで、原作でも取れる栄養だし原作こそ至高。それを手間暇かけて高く付く自炊にしたいわけじゃない。見てるものが違いすぎる。
今週は麻婆豆腐たくさん食べた!
いつもは丸美屋の麻婆豆腐しか食べないんだけど、ちょっといろいろ(コストダウン目当てで)試してみた。
いくつか食べてみた結果、お安いなりに…というか自分の口がもう丸美屋に染まっているせいかこれじゃないなぁと空振りするばかりだった。どれもまずくはないが、いや嘘。ひとつだけこれは麻婆豆腐じゃないだろという商品があった。キムチの素が入っていてチゲ鍋の豆腐を食べているのでは?と一口ごとに疑問が渦巻く品があった。それを除き、丸美屋から乗り換えれるほどの妥協点に達しない感じだった。
そして一通り安い品を試し終えた昨日、最後に手作りしてみようかと思い立った。
中華料理なんてご家庭で手作りするには調味料が特殊すぎるでしょうとレシピも調べてなかったのだけれど
https://www.kurashiru.com/recipes/d928b358-e7ab-4ab6-9ad8-409f1d4c21e9
しょうゆ
概ねこの三つで作れることがわかった。
え!?豆板醤だけでいいの!?他は和食?自炊に使ういつメンだけど!?
他のレシピでは甜麺醤を使ったりもするそうだけど、とりあえずこれだけであの味が出るという。
半信半疑ながら、豆板醤を買うだけで試せるのなら試してみるかと本日作ってみました。
そしてレシピを再確認したら、二人前で豆板醤が小さじ1しか要らないらしい!半信半疑から8割不信で眉唾ながら作ってみることに。
酒
で作ってみた。しょっぱなからアレンジするのは料理下手の基本!かまへんかまへん。
黒いフライパンに各種調味料を落とす…。分量で言えば醤油と酒が支配的だ…。
醤油色の黒い水にまだ溶けきってない味覇がふわふわと浮遊する。多少豆板醤のトウガラシ?の赤みが見え隠れするが、怪しい…。
豆腐を投入し、火にかける。ひと煮立ちし、水溶き片栗粉を入れる。
うーん、たったこれだけで麻婆豆腐なのか?やはり怪しい。全然麻婆豆腐の気分にならない。
黒い水と思っていた液体が、気付けばあの麻婆豆腐の黄金色になっているではないか。ゴールデン!豆腐の白と片栗粉のとろみが合わさりテラテラと輝いている。
こ、これは…!麻婆豆腐ッ…!
たかだか小さじ1の豆板醤!一皿分だとさらに半分の分量!それがなければ醤油と酒とみりんの和煮物ではないか!
……イタダキャス……
……
……
……
麻婆豆腐だコレー!!
予防線としてちょっと多めにいれた味覇か豆板醤の辛みのせいか、ちょっとしょっぱい気もするけれど既製品の塩分量も相当だったので全然OK。
様々な添加物もないせいでごくシンプルな味だけどそれはとても自分好みな方向性だから許せる!
まあひき肉を入れたら豆腐以外で100円トントンぐらいになるのかな?それでも大豆タンパクの鳥そぼろに比べれば同じ値段で随分リッチになりそう~。
自炊の何が楽しいって自分が納得した味と栄養がこの値段で!って食べるたびにかみ締めることができること。
麻婆豆腐はいままで豆腐を使うこともあってそこの納得感が足りなかったんだけどそこが解消された気分よ。
他の麻婆豆腐の素を試したのは遠回りだったかもしれないけれど、でも逆にもう味がわかったから。未練なく自炊の道に走れるわー。