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2020-06-05



これは刑事局長との協働プレイだけどな

安倍ちゃんに干されるんじゃねーか

きついジョーク海外政治家飛ばしあえる麻生大臣凄い!っだって

anond:20200602211706

うるせー耳舐めVTuberが耳舐めを辞めた時、TwitterではBOOTHCi-enでR18作品販売し始めましたとTweetされることになるだろうってヨハネの黙示録にも書いてあるだろうが



金額計算の誤差なら、浮動小数演算を知らんのかとか、あるいはDecimal機能使えとかでいいけど

いからお客さんが求めてるモノを作れと。

これを言うマネージャーは嫌だわ

ブラウザ画面と同じフォント、改行、改ページで印刷できるようにしろPDFはだめだ」みたいなのが来るから

2020-06-04

これは絶句するわ

通訳の人も大変や

anond:20200604100044

これはミラーリングなんですが、セックス実践主義者のみなさんも真面目な小児性愛者の方々を見習って、実在他者との性的接触はやめるべきだと思う。性というのは他の誰でもなく自分だけのものなのに、それを誰かと共有しなければ気が済まないなんて野蛮ですよね。「合意があれば」と言い訳する人も多いけど、真に客観的合意なんて存在しないし、それを許すことで異常な犯罪者は「如何にして合意捏造するか」に精を出すようになるだけ。そういうことは実際に起こってる。

まともな価値観を持った人ならラブドールで満足できるはずなんですよ。生きた人間身体を擦り合わせなければ性的に満足できないなんて、野蛮な風習過去のものとすべき。それをやめることで、少しでも性犯罪が減るなら、直ちにやめるのが社会構成員としての責任だと思う。

2020-06-03

欲しい!

売り切れ!

残念!

勝海麻衣さん復活してた。

自殺するんじゃないか心配してたが、ちょっと安心した。

anond:20200603160857


この人が一番かわいそうだと思った・・・

2020-06-02

なるほど

anond:20200602145827

暴動黒幕アンチファの黒幕白人至上主義

感情エキサイトしてる人を見ると逆に落ち着くよね

わかってしまうのが辛い。だからこそ小児性愛者に味方したいとは思うけど、一方で、LGBT系の人々が「小児性愛者と一緒にされたくない」と言ってしまうことも責められないだろうとも思うんだよな。まあ歴史を見ると名誉白人とかカポーとか、そういう分断統治虐待悪化させた事例は少なくないが、LGBT系の人々が「他のマジョリティ以上に」小児性愛者を差別しているような実態は少なくとも今のところ見たことはない。マイノリティ同士で争ってる場合じゃないだろう。異性愛批判しよう。成人性愛批判しよう。

2020-06-01

安全日本から煽りまくってる冷笑系陰キャの皆さん・・・

anond:20190928103413

と言われて、大和田省三をもじって大澤省次にしたのか。

みんな、コピペぐらいはする。

TweetしろBlogしろ若いおばちゃんが、うまくできずに、

上手な人のとおなじのをつぶやいてみる。ちょいと反響がある。

安堂ロイドがね、って言ったときに。わざわざテレビ局とか、番組名でXXより引用と書かなきゃいけないか?というと

は?

いいんだよ。そこはお互い様

2020-05-31

次亜塩素酸水が蔓延する業界

声優音楽家などの喉や機材が壊れるまで、あと???日

ネトフリ「沈黙共犯と同じ。我々は黒人のため発言する義務がある」


一方、

株式会社はてな「………………」

あのさぁ、はてな君さぁ、、

anond:20200531144144

鳥取ってたしか感染者0言われたとき

あとで、どっと砂丘にひとが押し寄せていたような。

鳥取の人が嘆いてtweetしていたよ。


岩手はマジすごいね

おいおいおいおいおいおいおいおい。

歴史修正も大概にしろよ。

わざとか?

https://twitter.com/Jeremy_L_Mercy3/status/1265605108164816896

元垢は鍵つけたが↑を見ればわかる通りその画像5月26日投稿

https://twitter.com/kazuuuuuuuus/status/1262321710990348288

「発端」と呼ぶべきは↑の5月18日投稿

2020-05-30

小児性愛カジュアル化」とは何か?それは問題なのか?

概要

小児性愛カジュアル化」に問題があると考えるのは、対人性愛優位を自明視した認知の歪みでしかない。問題があるとしたら、「性愛カジュアル化」にある。セクシャルマジョリティが主導して守ってきた性の規範を、マイノリティが拒絶することにより、「性愛カジュアル化」が現象として起こっているという事実はあると思う。しかしそれ自体セクシャルマイノリティの「政治活動」としての側面があり、一方的断罪することはマジョリティ傲慢である。「批判するな」とは言わないが、慎重になるべきだし、そうした政治性に注目することなく「批判」に終始するなら「ただのポジショントークだ」との誹りは免れないだろう。

小児性愛カジュアル化」は問題か?

批判者が「小児性愛カジュアル化」と呼ぶものの一つに次の事例がある。

しかし、これは所謂「キャットコール」と呼ばれるセクハラ一種であり、「対象児童から問題なわけではない。批判者も、「対象がもし成人ならば何も問題はない」とは言わないだろう。このような事例は「性愛カジュアル化」によって支えられる悪しき文化であり、批判すべきは「性愛」であり「小児性愛」ではない。これを以って小児性愛批判するのは無理があるし、「小児性愛は悪だから悪なのである」というトートロジーに陥ってるようにも見える。では、なぜ彼らは小児性愛を殊更に敵視するのか? 以下は既存議論焼き回しである

小児性愛と成人性愛本質的な違いはただ一つ、「児童との合意は(少なくとも現代倫理規定では)成立することがあり得ない」という点である児童との間に「合意のようなもの」がいくら存在したとしても、それらは全て「合意」とは見なされないし、見なすべきでない。(「合意」の定義児童保護について慎重に議論を重ねた未来では何らかの変化があるかもしれないが、それについて議論するにはあまりにも論点がずれているし、ここでは触れない。)しかし、「故に小児性愛は許されない」と主張するには論理の飛躍がある。ここまでの前提の下で自明と言えるのは、「児童との性的接触は許されない」という一点である

児童との性的接触は許されない」と「小児性愛は許されない」はもちろん同値命題ではない。彼らがこれを同値と見なすのは何故か?それは彼らが、「性的欲望とは常に性的接触によってのみ満足するものであり、それ以外の性的行為は全てその為の準備に過ぎない」という偏見を抱えているからであろう。今回、多くの人形性愛者、フィクトセクシャルさらにはアセクシャルを自認する人々から批判殺到した理由はそこにある。

「(実在児童対象としない、無機物対象とした)児童ポルノは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」と主張する人々は、「成人と性的接触を行うことは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」とは言わない。なぜなら、彼らにとって「性的接触」はそのまま「性的満足」とイコールであり、それが「ゴール」であると無根拠にも信じているかである

性愛カジュアル化」に問題はある。しかし、

前節では、問題本質は「小児性愛カジュアル化」ではなく、「性愛カジュアル化」であると言った。では「性愛カジュアル化」は本当に問題なのか? 結論としては、確かに問題であると私は思う。うぐいすリボン荻野さんも以下のように言っている。

その理由としては例えば、①性的プライバシー問題、②依存性の問題、などが挙げられる。あるいは、「そのような問題内包する言動」こそを「性愛カジュアル化」と呼ぶべきである、という定義づけも可能だろう。

①を語る言葉として「性的自己決定権」「私の身体は私のもの」などがある。余談だが、これは、ラブドールのような性的表象、および自慰を愛好する人々にとっても重要概念である。実際、他人自慰制限しようという試み自体が「性的自己決定権」の侵害であり、セクハラだという批判もあり得る。(参考↓)

話を戻そう。性とはそれ自体が深くプライベートものである。故に、他人性的領域に、物理的にも精神的にも安易踏み込むことは許されない。「性愛カジュアル化」には、その越えてはいけないハードルを下げてしま効果があるのではないか。自らのプライバシーを切り売りしている限りは「下ネタ」であっても、他人プライバシーを暴いたり、そこに土足で踏み入るような言動は「セクハラ」になる。(「下ネタ」を話題にすること自体話題への参加を強要し得る文脈において、それらの区別曖昧だが、それを語り尽くす労力は私には残っていない。)お互いのパーソナルスペース尊重する文化を守るためには、適切なゾーニングを守り、強行的な「性愛カジュアル化」を防ぐことも大切だと私は思う。

②の問題は意外にも語られることが少ない。これは、「ポルノにはなぜ年齢制限が設けられるか?」の問いに対する答えでもある。逆に言えば、「未成年ポルノを見せるべきでない」理由として、「正しい性教育」的なものを挙げるのは、性のスティグマ化に資するのみで未成年に良い影響を与えはしないだろう。

ここまで、「性愛カジュアル化」は問題であることを述べた。一方で、それらを安易断罪することもできない事情もある。それは次節で述べよう。

政治表現としての性表現

荻野さんは次のようなことも言っている。

ここで、各国のゲイ・パレードプライドパレード(LGBTパレード)の様子を見てみよう。

https://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/taiwan-lgbt_b_8448268.html

https://lifevancouver.jp/pride_parade_vancouver

https://rocketnews24.com/2012/06/30/224561/

https://www.youtube.com/watch?v=MWiZwUFWs5E

やはり、非常に過激セクシーファッションに身を包む参加者のことが目に留まるだろう。しかしだからと言って、彼らに向かって「ゾーニングを守れ!」と叫ぶことがどれだけ暴力的か、理解していただけるだろうか?

彼らがこのような「性」を明け透けに表現しているのは、それ自体政治意味合いを持っているのである。それ自体政治表現なのである。そして我々の「性」の表現にもまた、そのような側面があることは決して無視できない。対人性愛的なものに背を向け、「オタク」的な性表現をオシャレなものとして、隠語的なコミュニケーションのために消費する文化がウケた理由は、人々がそのような政治性を間違いなく見出したかである。それは単なる「ポルノ」ではなく、「我々の性のあり方」をありのまま表現した、アイデンティティのものなのだ

とはいえ、我々の消費する全てがそのような政治性を帯びているわけでもないし、また全てがポルノ的でないわけでもない。実際のところ、単なるポルノが悪ふざけで表に出てくることもあるだろう。しかし、それらの区別は決して容易ではない。物理的には全く同じインク配列であるものが、文脈や作者の意図次第で、時にポルノであったり、時に政治的であったりする。それらは私やあなた独善的基準で決めつけていいものではない。「法的規制に反対する」という言葉は、私刑を推奨する標語であってはいけない。表現の正しい用法用量というのは、表現者と受け取り手一人一人の良心に委ねられるべきなのである

さらに言えば、政治性とポルノであることが、多くの場合両立してしまっているところにこそ問題の複雑さがある。その区別について「語るべきでない」とは言わないが、本質的に「区別不可能である」ことを前提に、慎重に語る必要がある。そのような必要な慎重さを欠いた言説こそが、「差別だ」と糾弾される所以なのである

誤謬見出し批判することは容易であるしかし、否定することが目的化した人々で集まって、こちらの政治性を矮小化するような言説ばかりぶつけられては、議論にならない。「我々が言いたいこと」は、この文章を通しても伝わるはずであると信じている。

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