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2019-04-23

八識説 第七識「末那識

私は、子供の時期に誰もが持つであろうそ身体から溢れんばかりのエネルギーの多くを、自分欲求を抑圧し我慢し諦めること、感情を封じること、自己否定することに使ったと思います。当時の私には、それが唯一自己を守る術でした。しかし、それで失ったものはとても大きく、守れたものは、私が生きているという事ぐらいだと思います。私は今頃になって当時の私がいかに辛く、苦しかたかを思い図る事ができるようになりましたが、当時の私は声をあげて助けを乞うことや、自分意思要求他人に伝える事がほとんどできませんでした。そもそも自分感情に対するアンテナがかなり麻痺していて、自分が何を欲しているのか分からなかったと思います。そして今でもその影響は尾を引いています。やりたい事は何なのか。嫌な事は何なのか。それらが分からないまま、大学に入って、大学生活を送って、気づいたら自分感情欲求とは全く別方向に進んできてしまっている。確かに心の奥深くで沢山の感情存在していましたが、それを私は蔑ろにしていました。これまでに膨大な死んでしまった感情がいたであろう事を思うと、やりきれない思いが込み上げてきます。虚しくて仕方がない。この頃は、生まれ感情の一つ一つを見逃さないように気をつけて、そしてすくい上げて、大事に向き合っていくように努めています。それでもやっぱり見逃してしまったり、手ですくった水のように、ポロポロとこぼれていってしまものはあります

また、生きている感覚が薄く、生きる事への執着心が薄いです。頻繁に自己破壊衝動絶望感に襲われます。積み上げたものを一瞬で壊してしまう。なのでその延長で人間関係にも困難を感じています。今やっている努力自分で水の泡にしてしまう。ああ、つらい。楽になりたい。一瞬で楽になれる方法はみなさんもお分かりの通りすぐそこにあるんです。ただ、でも、私なんかが楽になっちゃいけないと、自己否定感が私に訴えます死ぬのは怖いし。お前はつらくても生きる事を努めなくてはいけないと。でも、そうやってそれを我慢した分、別の方向にそのフラストレーションを向かわせる。本当に抑圧する事はできない。溢れ出てしまものがある。つまり生きながらにして、生きたくないという自分欲求を満たす。それは自分を傷つける。努力台無しにする。そして自己を憐れむ。

私が本当に自由自分肯定して体を動かせるようになったとき、全能感を得たとき、私は死ぬんじゃないか。その可能性を自分否定できない。

まあ結局のところ、私はこうやって自分の不幸話に酔いしれているだけなんだ。そして誰かに哀れんで貰いたいだけなんだ。そう言いながらあわよくばシンデレラストーリーのような幸せ自分に訪れないかと淡い期待をもったりしている。そんな救いようのない無価値人間。そう言いながらやっぱり自分に何の価値もないということを受け入れたくなく、価値のある立派な人間だと思いたい・思われたいという物凄い欲求を持っていて、そう言いながら自分価値という基準他人を優劣の視点で見てしまっていて、生物は無条件に生きる価値があるというような教説や誰もが救われるというような話は到底信じられないという救いようのない汚れた心を持っている。

私みたいになってない人が憎たらしい。無邪気に人生を楽しもうとしてる奴らが、希望を持とうとしてるやつらが、生きることに意味見出している奴らが、活き活きとして見えるアイツらが憎らしい。何故、私はこんな状態になっているのか。何故、悲しいはずなのに涙が出ないのか。何故、こんなになっている自分を受け入れてしま自分がいるのか。ああ、これが末那識か。どこまでいっても自分が可愛くて仕方がないという無意識。これがあると見出し仏教者はすごいな。ほんとその通りじゃないかな。

 
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