はてなキーワード: 座禅とは
村は異常なほど暑く、ところどころ燃えさかる炎によって体感温度は一段と高く感じられた。村の中心部に向かうとサンクチュアリのような空間があり、そこに近づくと鬼たちの妖気が漂ってきた。鬼たちは村中に響き渡る声で叫んでいた。
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周囲を見渡すと、狂犬がヨダレを垂らしながら弱った獲物を探していた。此処では誰もが次の獲物を探している。高台には鬼のなりそこないを貪り食っているシロクマがいた。若い鬼を仕留めたばかりの老練した鬼が、巨体を持て余しながら小銭を拾っている。増田のような、うらびれた寒村で育った増田にとっては、衝撃的な弱肉強食の世界だった。
空には大量のイナゴが飛び交っていた。何百匹ものイナゴが一斉に鬼に群がると、体中にブックマークを突き刺す。そのたびに鬼は「あぁン」とか「うぅン」といった歓喜にも苦痛にもとれる喘ぎ声を漏らした。嬌声が村中に響き渡ると、狂気に満ちた饗宴は一層輝いて見えた。
ヲチ「殺しあうもよち、歌って踊るのもよちわのね。」
そう言うと、ヲチは大きなあくびをして丸くなって寝てしまった。
増田「何も見ない・・・何も聞こえない・・・怖くない・・・近づかなければ何の問題もない・・・よく知らない・・・気持ち悪い・・・・・」
結局、増田一だった増田は一匹の鬼も倒すことなく消えてしまった。風の噂によると暫くして昇給したそうだ。
丸くなって寝ていたヲチも何処かへと消えた。闇に紛れて生きてきた者は、闇に紛れてしか生きられない運命にある。
犬に喰われた鯖は脱糞されて土に還り川を下って海へ戻りプランクトンになり悠久の時を経て鯖に戻ったが、途中で不純物が混ざってしまい鯖っぽいものになった。
一説によると、この村はまだネットのどこかに存在するらしい。紫青赤緑スターの金銀財宝が眠っているというが、目先の利益に捕らわれると取り返しの付かないことになる。何も知らないことにして、近づかないことが肝要だ。さもなくば果てし無い饗宴のなかで、永遠に踊り続けることになるだろう。
俺も何もかも上手くいかなくて、いろんなのに手をだした。
自己啓発本を読んだり、上手くいってるやつの真似したり、育ち方に問題があったんじゃないかと退行催眠に座禅までやった。
社会や会社が悪いと思い、手当たりしだい面接も受けたが、やっぱり何も変わらなかった。
そのきっかけは人によって違うから、それすらも自力で見つけないといけない茨の道。
でもゲロぶちまけながらでも何かを続ければ、10年先、パッとしないが、ささやかな物か自分の中の自信として宿る。
通りいっぺんですまんが、まだ職が決まってないなら、まずは働き口を探し続けよう。
同じような業種で気乗りしないところを、落ちるつもりで沢山うけて、その業種のポイントや聞かれる事を持ち帰るんだ。
面接がおわったら近くのカフェで、覚えてる事をメモれ。とことん会社を利用しろ。
次はメモを調べて、前よりマシな返しができように、何回も繰り返して場に慣れろ。
面接では、今の自分を語るな。なりたい自分を描いて、それが出来るとうそをつけ。
そして入れたら、うそを一つずつホントにしていくこと。出来ないかも?なんて考えるな。
苦しい事だが、これが凡人であるおれ達が、今から抜け出す一つの方法。
今は滅入ってるかもしれないが、少し落ちつたら背筋を伸ばして飛び出していこうぜ。
おなかを痛めて苦労して生むことこそが出産の尊さ。
とかあるじゃん。
自分の場合は普通分娩だったけど、高齢初産だったにもかかわらず超絶安産だったんだよね。
病院に行ってから5時間で生まれたんだけど、叫んだり取り乱したりするようなことはなかった。
もちろん痛くないわけじゃないんだけど。案外楽だった。
これって無痛分娩はダメって理論的には、子への愛情が足りなくなるんかね?
(それとも無痛という選択をすること自体愛情がないって話だろうか…)
月満ちて健康で生まれてくれて、母乳が出るというだけで新生児期の悩みは半分になるとはいえ、その半分でもつらかった。
(3時間に1回の授乳、授乳後すぐ置くといわゆる背中スイッチで泣いてしまい部屋をだっこ歩き修行の刑になるため、授乳後1時間近く同じ体勢で抱えて確実に熟睡するのを待つ)
してたからさ…
1日10回前後のうんちおむつ替えの前と後に石けんで手を洗いに行くことさえ身体に響いた。
それにしてもiPhoneのkindleがあって本当によかった、紙をめくる音で起こす心配ないし、暗い部屋でも読めるし。
氷と炎の歌最高。
最初は何とか家の誰それって長いカタカナ名前が大量に出てきてわけわからんかもしれないけど、読み出したらマジでハマるから。
ヨーロッパ系FTの気取った奴と違ってエンタメに徹したアメリカFTの最高峰やね。
つかティリオンとデナーリス周り進まなすぎ、あくなんとかしろ。
結跏趺坐は座禅の時に禅僧が組む坐法の一つですが実はこの坐法には、ショートカットがあるのですね。私の場合は長くこの結跏趺坐を練習していたのですがなかなか長時間組めるものではありませんね。とにかく痛い。足がじんじん。すぐ痺れるし、またが裂けるってーの。この座り方の体系的でわかりやすい説明は今までお目にかかったことはなかったのですが。今回初ですね。感動しました。これで暗夜行路から一縷の光が私の目前に差し掛かったと言った実感です今は。結跏趺坐についてこれでもう何も要らないでしょう。とっても嬉しい楽しい、ワクワクするんですよねー。これから毎日ストレスだらけの生活かもしれません。それはもちろん皆さんもそう。会社勤め。嫌ですねそういうの。それを座禅でストレス解消できるかもしれませんね。結跏趺坐を速攻で身につけて見まーす。
just doingは和訳すると「ひたすらそれをやりなさい」。という意味だ。つべこべ言わず、ごたくわ並べずにとにかくやりなさいという古くからの聖人が繰り言のようにつぶやいてきた言葉だ。
日本でも古くは只管打坐(しかんだざ)という言葉がある。只管というのは「ひたすら」という意味。打坐は、坐を打つ、つまり「座禅に打ち込む」なんだな。
今日こんな記事があったけど、日本もやっとこさアホみたいな努力厨が減ってきていい世の中に向かいつつあるのかなとホッとしたと同時に、
会社で「艦これ」プレイする人々 専用ウィジェットで「最小化」、テザリングで「ログ残さず」 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1104289
古くからの日本の心が失われているようで寂しさもひとしおだったんだよね。変に真面目で凝り固まった部分がある一方で、やたらと無気力でマニュアル化された考え方しかできない指示待ち人間が増えていて複雑な気持ち。
人生生きているとそういう複雑な気持ちになることがあって多大な時間とお金を浪費していることに気づいたほうがよい。
偉い人の伝記とか読むと決まって苦しみを打ち消すように研究に没頭したと書いてあるでしょ?板挟みの中間管理職でも酒に逃げたりしない。打ち消すようにjust doing。
あれは脚色なんだろなと思ってたけどこの歳になって本当にその通りだなと思うわ。とにかくやるしかない。
我らがdankogaiも5年も前に「やる気を出すな。手足出せ」という名エントリを上梓しているが誠に先見の明と言うべきだろう。
分かってるとは思うが「俺はやってるんだぜ」とひけらかして自慢する人は全然just doingじゃないんだよ。当たり前のことをやってるという感覚じゃないとjust doingにはならない。別に偉いことでもなんでもなくて普通。
だからってやってない人が普通以下というわけでもない。比べちゃだめ。比べた途端にjustじゃなくて条件付き確率になるのよ。こういう時はこれくらいの確率で仕事できるけど、
そうじゃなくなったらがんばれるの君?って話になるわけだ。それがベイズ確率論。
結局のところしょーもない努力厨も無気力人間もどっちも条件付きという点でjustじゃない。ということが分かってもらえるかと思うんだけど、ここでつい我々現代人の悪いくせは、
どうしたらいいの?と考えてしまう。justはjustでもjustなシステムズはなーんだ?を見つけようとする。小学校のときに先生が理科の授業で「なぜ?を繰り返しましょうね~」と言ってたけど、
だいたい専門知識のない奴が「なぜ?」を連呼してもロクなことにはならないだろと子供心に思ったし大人になってその考えはいっそう強まるばかりだ。
我々現代人は西洋のデカルト的世界観を知らず知らずのうちになんだかんだ引きずっているから、つい社会面や政治面のニュースを見て「なぜ?」「どうしたら?」という形でどうしても方法序説を考えてしまうのが
悪いところで、そんなくだらないこと考える暇あったら自分のことやればいいのにと老婆心ながら指摘してしまう。
未来検索ブラジルのグニャラくんこと末永匡34歳会社員も社会のことなんて考える必要はありませんと明言している。ネットで声の大きなスポークスマンがそのように言ってくれるのは実に心強いことである。
この「まず自分」の精神はまさにjust doingそのものと言って良い。世の中エゴは悪いこととされていて、周りに気を遣うべきというマナーや、周りに合わせるよう押し寄せてくる同調圧力があるけど、
よく考えてほしいのは周りと自分を対置させて相容れないもののように扱っていること自体がデカルティズムの陥穽にドハマリしているということだ。
無意識に利他と利己は反対で、利他は大事だから、じゃけん利己はやめましょうね~とみんな当たり前のように思っているのがおかしいんだよね。
あのな
人が嫌って思うことなんていくらでもあるんだよ
虫が嫌いとかきゅうりがきらいとか前髪が目にかかるのが嫌いとかよ
”この世の法則に定義されている以外の、何かの存在がある可能性がありますよね?”
って言い出すのがウザいんだよ
それをな、生理学的なものとして分類するなら当然かもしんねえよ
なんでいきなり限定的に「宗教」という共同共有観念体系にするんだよ
”おまえがたまねぎ嫌いなのは前世で罪を犯したからで現世でしっかりお布施をしなければ”
ここまでの思考造形は宗教って商売の範疇に入れてもいいだろうよ
”しなければ恐怖を体験します”
って付けるのは作為的に利益誘導をして平等性も欠いて倫理的にも人道的にも社会的にも反するもんだろ
現実的に発生することを予測してコンサルタントするならそれはそういう商売があるから人間の法に則った根拠を商品正当性として認められれば営業ができるだろうけどよ
天国にいけますって投資を募るのは期待値または元本の保障をしない契約として契約書なんかに記載があれば
常識的に死んだらどうなるの範疇が人間にはない、法的に取扱がないところから問題ないだろうよ
しかし現実問題として発生する事象を危惧させ利用して現世で法的に対応範囲な事柄を誘導するのは宗教関係ないだろ
あの人があの世にいったら待遇よくしてくれるって言ったんです とか本気でいってたらそれはそれでいいだろうしだれも責めねえよ
けどな、呪いを解いて災厄を解決するために現金いくらはらったとかになったら「宗教なんで非課税です」とか言わねえよ
つまりな、この世に無いものいくら語ってもそりゃぜんぶ宗教でいいと思うよ
みんな神様のおかげだよな
けどな、宗教がこの世の何かを動かすってなったら、そりゃこの世の法則に縛られるべきなんだよ
人間は座禅くんだまま宙にも浮かないし 祈願で病気は治らないんだよ
人間の裁量の範疇外、コントロールできない運がめぐってくるチャンスを獲得する方法なんて人間にはないんだよ
だから運任せや神頼みって 存在するかしないかわからないしアプローチのしかたも無いものについて
「自分なりにアプローチ」するのはありだとおもうよ みんながやってることだったら安心感も増すだろうよ
なにか良くわかんないけど祈りますってよりは祈りを受け取る相手を具体的にしたほうがそれっぽいだろ
とりあえず「おねがいします」と祈って神やらなにやら対象を特定しない日本人ですら一応「八百万」って
祈っとけばどこかに受け取り先がいるって事にしてるんだぜ
いままで存在する祈りの方法で祈った人数と達成できた人数は たぶん宝くじの当選確率よりも低いんじゃねえの?
宝くじに当たったのが「神様のおかげなので寄付しなさい」っていきなり来るのと「宝くじがあたりますように」って無神論者が祈るのは
「同じ」か?
人間の気持ちはどこからきたかわかんねえから法律上定義もないから、「神の国からきたもの」とか魂とかいうものとして非常時の投資材としてあるってのもまあいいだろ
その気持ちが神の世界と繋がってるからかどうかはしらんが、現実のものをどうにかするなら一旦神の国にもってってからしろって話だ
治外法権うったえるなら、大使館に連れ込んでからにしろって話だよ
神の国との引き渡し条例とか組んでるならどっちかの法則が相手のエリアに介入してこないと意味ないんだよ
宗教会館みたいなテーマパークとかで神秘体験したとかそれは大事にしとけばいいよ
もういっかい言うが
おまえがキモデブオッサンで引きこもりなのは前世で悪さをしたからだ
とかあるかないかわからんがあってもなくても真実かもしれないし嘘でも空想でもかまわんよ
アニメDVDの再生中なら30分間だけ異次元世界で夢をかなえても問題ねえよ
メイド喫茶にいったら女子が心から愛してくれるとかそういうのでもいいよ
ってのはただの嫌がらせなんだよ ただ嫌って気持ちをおこさせるだけなんだよ
メイド喫茶の会員券を切りなさい でも アニメDVDを切りなさい でもいいんだよ
ただ 嫌な気分になるだけなんだよ
その嫌な結果を 天罰 と称する方法を宗教だとかいうのはただの自分ルールじゃねえか
メイド喫茶にいきたければ宗教に入りなさい とか言うならそれは宗教だろうよ
宗教ってのは 嫌って感覚をまとめて共同体として回避解決しようという集まり 組合みたいなもんだろ
なんか関係あんの?
改行するかどうかは俺の人生の問題であり増田が読むぶんには改行する必要はないので読みやすいように好きにすれば良いと思うのだがBGMに関して言えば俺はあの女と音信不通になってから作家の滝本竜彦が言うところの「脳がワーとなる状態」になってしまいSSRIの魔法の力もだんだんと効かなくなってきたので考えた結果やはり薬はダメだスピリチュアルだという結論に達し鎌倉の建長寺に座禅をしに通ったのだがそこで坊主が禅の公案の解説をしたうちのひとつに「両手を打つと音がするがでは片手にするとどんな音がするか?」みたいなものがあってああこれがジョンケージがインスパイヤーされた話かと思ったがたしかに考えてみれば俺はぐるぐると自分の記憶に苦しめられているので今現在のまわりの音だけに集中するのはとてもよいことかもしれないし試してみる価値はあるかもしれないと思って部屋にいるときは飛行機が上空を横切っている音に耳をそばだて外にいるときはお姉さんがカツカツ歩くのを感じとり寝るときは自分の呼吸で鼻笛がスピスピなるのを聞いている。
復帰してから心に誓うのに
毎年いつも同じ過ちをする。
やる気がない。何もしたくない。
寝ようと思っても眠たくない。
漫画を読んでもおもしろくない。というか、読み飽きた本ばかり。
お風呂に入っても、熱いシャワーをあびてもさっぱりしない。
部屋の掃除なんて、もってのほか。
でも、じっとしていられない。
仕事だからやらなくてはいけないという責任?必要感?みたいなのが生まれる。
自由な時間は、それがない。
何かをしなければならないという必要性はない。
いつも誰かから「これをやりなさい」と言われて、
素直に、まじめにやってきたから
休みの日も「これをやりなさい」と言われないとできないのかもしれない。
ぼーっと過ごすのがもったいないと感じる。
でも何もやることがないし、やることがあっても、やる気がない。
私は、なんて面倒な性格なんだろう。
気が向いたらスニーカーを履いて、Tシャツ短パンの軽装で玄関を出る
あとは走るだけだ
嫌になったら バスにでも乗って帰ってくればいい
ここ5000年くらいの話
ぼくらは毎日12時間くらい草原を駆けまわったり 毎日12時間くらい畑耕す生活をつづけてきたのだ
一日12時間光る板を凝視するようにはできていないし、一日300歩しか歩かない生活なんてなかった
それは20万のアーロンチェアに座ったって、JinsPCをかけてブルーライト防いだって
エスカレーターを階段に変えたってなんの足しにもならないくらい
「人体の構造と根本的にかけ離れた生活」を送っているんだ いまのきみみたいに
それが ここ100年も経たないくらいのおはなし
原始的な生活にもどりたいっていう話じゃないよ
でもそんなんじゃパフォーマンスが下がる一方だ
お金があるなら整体でもジムでもご自由にどうぞ行ってらっしゃい
でも解決策はそこにはないんだよ
0円でいまからはじめよう
安いスニーカーと Yシャツの下に着るようなペラペラなシャツを着て
これを読み終えたら外に出てみるといい
走るくらいしかやることがないし
走って走って 嫌になったらバスにでも乗って帰ってくればいい
辛くなったらやめるのがコツ
限界まで追い込まないのがコツさ
なぜかみんな続かないよね
それは 体を痛めつけるのはただ辛いだけだから
ランナーズハイじゃないけれど いちど走りはじめたら辛いことなんてないし
むしろ日々のつらい仕事を忘れて 頭からっぽで無重力みたいな開放感が得られるんだ
だからみんな 疑ってもいいけれど
ランニングが解決してくれるんだ
ほんとうだよ
走る衝撃で イヤホンが踊り 風がおこり タッチノイズにまみれた128kbpsの音楽は
きみの集中力によってどのオーディオルームよりも音がクリアに 今までにないほど綺麗に聞き取れる
はじめての感覚におちいるんだ
湿度や温度をきにしながら 座布団の感覚すら余計だったきみのオーディオルームを一回でひっくり返す
これは 本当にくせになる
もしかして ぼくが感じているような集中や開放感は
ほかの何かでも得られるものかもしれないけれど
あえて何故ランニングなのか
ただ ジムに7000円と入会費を払ってやるのもしゃくだとおもっただけだ
たとえばきみが ジムで筋肉質なオトコ(コウチとかいうヤツ)にマゾヒスティックになじられるのもよし
たとえばきみが 座禅組んでハゲアタマのオトコにはたかれるもよし
たとえばきみが ヨガでアロマでロハスするもよし(ただ新興宗教に気をつけて)
たとえばきみが 早朝から皇居を周回して意識高いひとたちと共に陛下の気を高めるもよし
やり方はきみしだいだ
でもね
おつかれさま きみはよくがんばった
走り終わったら、水分をとって日陰か家かでゆっくりすること
さっきまでとは違った充足感がきみを包んでいるはずだ
頭の中にこびりついていた仕事の悩みや 人間関係のドロドロしたやつは
コースにポロっとおきわすれていて 心臓が全身にここちよいリズムで血流を遊ばせているはず
どれだけたくさんライフハックを齧っても手に入らなかった自己変革感が
得られましたよね
つまり
そういうことです
中間走者として自分がいる。
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秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ、土下座するような形でそのまま動けなくなった。
両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人の常識的な感覚であろう。
かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家の加地伸行・大阪大学名誉教授は、こう書いている。
・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]
殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。
加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚や意識」だとする。
こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。
日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。
たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人の普通の感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。
欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間の契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。
また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフは日本人では思いつかないな、と感じたことがある。
当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。
実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代の日本も同じであり、現代日本人の家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。
古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。
「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。
また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。
先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。
キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国か地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。
よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。
魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国や日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。
インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。
日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間が死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。
これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。
これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航機よど号をハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループのリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。
共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人の死生観が根づいている証左である。
輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。
そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。
わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。
それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。
しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀や先祖供養を行っている。
今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀、先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。
仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。
日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]
仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。
そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。
今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分も家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。
核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。
もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。
しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。
そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子は在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家の女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。
前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。
オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。
「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。
しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。
さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の利益しか考えない利己主義者になってしまう。
西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。
わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。
しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。
こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。
それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。
先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命のリレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。
その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。
これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
(文責:伊勢雅臣)
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