はてなキーワード: 座禅とは
否。
思考を伴わない選択も存在するし、思考を伴わない予約行動も可能、逆に思考を伴わない自動的な行動を主導的な行動に変更することも可能。
無論、できない場合もあるが例外なく思考によって選択は行われるわけではない。
この辺りは格闘技経験やスポーツ経験があれば直感的に理解できる。
辛いものを食べて吐き出す、鼻に胡椒が入りくしゃみをする、熱いヤカンを触って咄嗟に手を引く。
防衛本能が破壊されている人間はこれが上手く機能していないので選択できず行動できない。
選択できないという状態は行動して結果を招くことができないというのがその状態。
よって思考しない自動的な行動であっても選択自体は行われている。
・思考を伴わない予約行動
格闘技のコンビネーションや、スポーツにおけるポイント獲得のために必要な行動、安全確認のための習慣的行動、タイピング。
これらは思考を伴わずにできるようにあらかじめ練習され自動化できるようにした選択行動の結果。
辛い物を吐き出さずに食べる、苦い物を吐き出さずに食べる、注射が痛くても逃げずに我慢する、眩しいライトを見ても診断してもらう。
これらは反射的な自動行動を全部自意識で抑えて主導的な行動に変更している。
ご存じの通り子どもは心が育っていないので自意識による変更ができずにこれらの選択ができない。
正。
座禅やヨガ、催眠術、集中行動のように意図的に思考を排除したり限定的にする方法がある時点で、
否。
思考をする、思考をしないという選択についても先ほど述べたようにあらかじめ自動行動を設定しておけばその場で思考せずとも選択可能。
思考は、本能>無意識>意識>心・思考・自我という段階を踏んで発現されるものであり、自然発生するものではない。
本能に性的欲求があるからといって路上で人を襲うというわけでもないように、
本能に元づく欲求を最終的にどう行動へと落とし込むかはその人間個人の思想・思考・自我・自意識・心・人格に全て委ねられる。
同じ食材でも料理の仕方やシェフが違うだけでまるで別の料理になるように、
根源的欲求が同じでも、思考が違えば、食べるものの選択が違い、性的趣味も違い、好き嫌いも違い、一卵性双生児の双子でさえ趣味も違ってくる、
例えきっかけが環境や世界の気まぐれだったとしてもそれを内在した以上は個性であり自我であり己の判断そのもの。
否。
どう組み立てるかは自我に委ねられる。
いや、思考しないという方法も座禅とかヨガとか心理トレーニングで獲得可能なので自由だぞ
タイピングだってそれは訓練によって習得した予約行動の一貫で、
では訓練したのは誰の意志かと言えばお前自身がタイピングできるようになりたいと願った結果であり自由選択そのものだろ
タイピングを練習する自由があったかというと、無かったように思える…ってそんな馬鹿な()
自分の好き嫌いを基準に物事を決めるのも、それに逆らうのも自由選択でしょ、他人に弱みを握られて脅されてるわけでもないんだから
お前は親に逆らって箸の使い方を覚えるのを拒否する自由があったのに、一生使えるようになる自由も選択してる
全ての行動の自由性についてイチイチ認識する必要がそもそも無い
自由に感じてないのは認識をしなければ自由だと見なせないと思っているからであって
https://twitter.com/children_ymlaw/status/912569377605656576が話題のようだけど、
思春期女子の性的逸脱を防ぐにはどうしたらいいんだろうね。何を制するればいいの?
ムラムラしちゃって間違いを犯すってよりは、ムラムラされることにより自己肯定感を得ようとしてしまうって方が比重がデカいと思うんだけど。
ムラムラしちゃうなら抜いちゃいなさい。抜くのは何にも悪くないよ。ってのは凄く有用だと思うんだけど、
ムラムラされることにより自己肯定感を得ようとしないで○○しちゃいなさい。って思いつかない。
いや、どこかに議論されてるフィールドがあって、自分が全然知らないだけなのだと思うけど、マジご存知の方教えてほしい。
なんかこう「もっと自分を大事にしなさい」的なお題目しか耳に入ってこなくて、マジでそういうのに悩んでる子はどうしたらいいんだろうね。
勝手なイメージだと女性学とかで名前を聞く諸先生方より、西原とか叶姉妹とかのが実践的なアドバイスを言ってそう(偏見)
あとはアドラー心理学?とか?
ソープへ行けじゃなくて座禅を組め的な?とか?それもお題目か…
教えてエロい人
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いやそもそもソープへ行けとか抜けとかも倫理観みたいなもんがまともに機能してればっていう前提があってのもので、
紅茶の動画https://www.youtube.com/watch?v=oQbei5JGiT8的な倫理観の評価軸を学習するのも大事だし、そもそもそこ理解できる奴は相当「魔が差した状況」にならない限り間違いを犯さなそうとも思うけどさ。この「何が良くて何が悪いかを知っておいたうえで抜いとく」って凄くお守りとして機能すると思うんだよね。
話ずれるけど日本人は自分が儒教を信じてることをもう少し客観的に見つめ直した方がいい
宗教がないとか寛容とか、真っ赤な嘘もいいところ
年上には無条件で敬語使わないと駄目とか思いっきり儒教の影響受けてるけど普通とか自然で済まされるのは立派な洗脳だよ
合理的に考えればまるで必要がないどころか余計な語彙と無駄な情報が増えるだけ
ここら辺を守らない外国人を、おもてでは「外人だからしゃーなしw」みたいに平気なふうにするけど、
実際は心の中で見下してるのがほとんどでしょ
決まった方向と時刻に拝むのを馬鹿にするくせに
目の色が攻撃色になってんぞ
誤解ないようにいっとくと宗教・儒教としてこれら非合理性を認めて自覚してる上での行動はいいんだよ
日本に平等・自由の考え方が根付かないのも、元はと言えば儒教のせいでしょ
仏教というのは釈迦の思想を勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。
釈迦そのものが荒行を否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である。
ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。
仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。
痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に、人類普遍の発想でもある。
泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的な偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである。
禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたしは道元(曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである。
道元は禅問答を批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである。
寸陰を惜しんで生きている現代人には時間の無駄に思えるかもしれないが、挙動がおかしなパソコンは再起動したほうがいい。
なぜ仏教で坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽や苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである。
坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である。
目を開いて、明晰な意識で身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。
達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。
われわれは生まれてから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。
中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分をコントロールするしかない。
ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである。
多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。
仏教というのは釈迦の思想を勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。
釈迦そのものが荒行を否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である。
ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。
仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。
痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に、人類普遍の発想でもある。
泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的な偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである。
禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたしは道元(曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである。
道元は禅問答を批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである。
寸陰を惜しんで生きている現代人には時間の無駄に思えるかもしれないが、挙動がおかしなパソコンは再起動したほうがいい。
なぜ仏教で坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽や苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである。
坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である。
目を開いて、明晰な意識で身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。
達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。
われわれは生まれてから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。
中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分をコントロールするしかない。
ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである。
多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。
満たされなくて、死にたくて、不安で押しつぶされそうになりながら毎日を生きている。
最近は医師が書いたカウンセリング本を読みながら自己分析をして、なんとか社会人をやっている。
カウンセリング本には、大抵「あなたの父母(特に母)の愛情の与え方が悪く、子供であるあなたは生き辛さを感じている」と書いてあるものがほとんどだ。
でも、自分のように、アルコール依存症やDVなんて無縁のごくごく普通の子に少し無関心な父と怒る母がいる家庭から出てきた人間の場合も、親に責任があるのか?
「一切生き辛さを感じない、毎日生きてて楽しい、やりたいことたくさんある」人間って僅かしかいないと感じるが、だとしたら日本全国欠損家庭だらけなのか?
経営者としてや技術者として優秀でも人文的な見識がない人の方が、むしろ日本のビジネス界では多数派。増田の父はごく普通の「有能なジャパニーズ・ビジネスマン」ってだけだと思う。
だから日本会議みたいなトンデモに引っかかっても平然としていられる。見抜くための知識がないから、平然としてられるんだよ。
技術劣化を見抜く力があって、かつトンデモカルトを見抜く力がない人なんて、大企業の管理職や経営者クラスにはそんなのごろごろしとる。もちろんそうじゃない面白いオッサンもいるけどね、多数派は増田父と似たような感じだ
日本人の経営者は、人文的な知識がなさからくるバランス感覚の欠如の方がむしろ、技術力や経営力のなさよりもアキレスの踵になっているケースが少なくない
ヨーロッパだと経営層は殆どの場合上流階級のものに占められていて、彼らの多くはキリスト教に基づく(偏ってはいるが)人文的な智恵を有していたりするが、日本にはそれがない。
昭和の時代だと三国志や戦国武将のエピソードを引いて一家言ぶてて一人前、みたいな風潮があったり、管理職研修でやたらと座禅をさせたがる経営者がいたりしたが、理念が地に足付いてないからついついそういう発露になるんだろう
大学者がリベラルアーツをついうっかり叫びたくなるのもその辺かもしれない。ただし高等教育の姿=その社会の縮図なので、形だけリベラルアーツ方式を取り入れても意味がないけど
VRで高所恐怖症を緩和したりPTSDの帰還軍人をVRで治療するドキュメントを見たが一定の効果があるらしい
脳に対してかなり直接的に食い込んできそうなデバイスだ。VRを使ったダイエットが流行ると予想
仮想の大きなお菓子をVRで見ながら小さな実物を齧ると脳が騙され満腹感が増幅するらしい
ペダルに後付で加速度センサーをつけたエアロバイク連動のVRコンテンツなども簡単にできそうだ
ダイエット・ゲーム・エロがあればVRもそれなりに普及するだろう
イメージトレーニングの補助、瞑想の補助、恐怖症トラウマうつ病の治療、
遠隔重機や兵器の操作、パイロット育成、遠近感の掴める内視鏡、その他教育用途、
宗教や軍による薬物併用の洗脳、マリファナ併用のトリップ、統失の妄想暴走加速、MMO中毒者のMMO腹上死、
等ありとあらゆる使われ方が成されるんだろう
ただ体験した限りでは長時間使用は相当しんどいのでスマホのように行き届くことはありえないだろう
●通勤時間にもできる!「歩く瞑想」とは? ティクナットハン師が教える瞑想法ーマインドフルネスー
http://www.el-aura.com/20140418-6/
座禅として日本に入ってきた方法は、もちろんですが、瞑想にも流派があって、マントラ法、ヴィパッサナー瞑想、サティの瞑想、密教系など...があり。
座る瞑想の他にも、「歩く瞑想」があり、「立つ瞑想」「食べる瞑想」があるようですよ。
子供さんが10才ぐらいだったら、下記の瞑想法を一緒にやれるのかもしれないですね...。