はてなキーワード: 婚姻とは
結婚しない子供産まない事が問題として挙がりがちだけど、まずは結婚、子供を産む、育てる事へのしたいけどできない、そこをいかに掬い上げるかに焦点あてるべきなんじゃないのかと思う
経済面での問題は比較的分かりやすい課題(簡単という意味でなく)ではあるけど先進国の少子化傾向を考えて恐らくそれは社会的に産む産まないの選択を個人の権利と認めて(求めて)その権利の幅を支持できる土壌の成熟度って面からだと思っててその権利の部分を社会として保ったままでも育児や産む環境の意識改革で数字が改善出来てたりの例を見ると経済だけじゃない個人の選択以前の環境整備とそこへのものも含めた意識の問題はやっぱり大きいんじゃないかなと思うし、今日本が経済含めそういう状況に満たないとしても今回のやつみたいな産まない自由が人権に則するものだって認識が一般的に(個人の是非は別としても)もうあるなら他の課題と並べて注力し始めるべきものなんじゃないかと思う
特に養子周りは制度自体変わってはいても少子化というよりあくまで子供のための環境改善を目的にしたものに見えるし(そこを優先するのは当然ではあるから+αが必要という意味で)
キリスト教圏との宗教的罪悪感の差異を抜きにしても産んで手放すって部分の選択肢としてのそもそもの挙がりにくさというか、そこが更に産まない、産めないって状況の人たちの選択肢にも関わって来てるように思えて、それは制度への理解と周知、意識的なところへの環境整備の薄さからに見えて、先進国における少子化対策に必要なのは焼け石にどう水かけるかって事じゃなくて焼け石をどうカチ割っていくかって話だと思うんだけど、他のよく聞く少子化課題に比べてのまず聞かなさこそまさにそこに焼け石があるって証なんじゃないのかって思う
焼け石っていうのは制度の問題として解決が可能な社会的な、また結婚子供に関する現代の事情に添わない観念で、その中には子供を産み育てる状況、環境へのものも多くてそれは一概に偏見てだけじゃなくもちろん現実に即した懸念からのものでもあるのは分かってるんだけど、産む自身も含めた転ばぬ先の杖的にそれをやり過ぎて杖を用意するのはいいんだけどその事で杖がなくても転ばない、転んでしまってもケガを負わない様なところへ話が行かないというか、たまに軽く炎上するような男性と結婚する気ないけど同性婚が可能になったら女同士気の合う相手と結婚して養子取ったりして余生過ごしたい的なものもそれで、見てたら炎上と同程度同意する人もいてじゃあその人たちは一人でも養子とる(現実無理だし海外でも難しいらしいけど)って発想になるかって言ったらざっくりの夢物語でもきっとそうでなく、それは経済というより子供を育てる環境(自体ではなく)への意識、制度の問題が大きくて、その同性婚へのものは制度に便乗するって言ってるわけだから反発くらうのは当然だし実際そうなったとして本当に子供育てるかというとどうなんだろうという感じだけど、でもそれは意識改革に必要な糸口でもあると思って、養子を受け入れるグループが増える事は産みたいけど育てられない、育てたくないって選択の受け皿が増える事で、受け皿が増える、選択が増えるという事は社会的許容度が増す事でもあると思うし、子供が出来てからの結婚が賛否両論あるとしても少し前より確実に社会的に受け入れられて来てるのを考えると今の少子化に向けた結婚、出産における問題提起、改善、解決のための前提としての環境モデルを恋愛関係にある男女が結婚後自分達の子供を産み育てるって事にほとんど限定してるそれこそが問題のひとつになっているようにも思うし、是とするモデルが限定的な事で現実として有用、必要でもそこから外れるパターンが相対的に倫理性の是非が問われる事になって、そうなるとそこへの制度は助長を招くというような理由で実質的な議論になりにくいって問題にも繋がってるように見えるし、転んでケガしないなら杖の有無を気にする必要もないわけで、少子化対策における女性の社会進出に関しては保育所問題だとかシッターを利用する事への意識がそれなんだけど(それは養子の受け入れグループへの意識へも関係してる)
同性婚自体もそうで、少子化においてデメリット(元々の志向を無視した異性との可能性を想定してのものは問題外だけど)を叫ばれる事多いけどメリットであるとも思っていて、それはその結婚を望む人達の中にもその養子の受け入れグループ先としての可能性、また当然自身の子供を産みたい育てたいって層が含まれるからで、でもやっぱり婚姻関係という環境や制度が整わないと現状それは埋もれたままだし、それも環境以前の転ばぬ先の杖の一旦で、子供に最適な環境という答えのひとつの杖がある事でその他の最適になり得る可能性を持った方法論を探る、それ自体端から頭にないようなところがあって、そしてそういう環境による懸念は同性婚を求める人たちの中にでもあるように見えるし、男女のものがそうであるようにそれは社会的環境的制度的なものからの意識の問題でもあって養子の問題も含めて社会的許容度に選択が影響されるものは簡単に変わるものではないからこそさっさとやり始めないといけないんじゃないのかって思う
少なくとも恋愛感情の有無や性別に関わらないパートナー制は養子含め色んなパイを増やす意味でもハードルを下げる意味でも少子化対策としてはやるべきには見える
正直結婚する気産む気のない人へのどうこうなんて結婚したい、産みたい、育てたいけどできない人をやって更に結婚、出産、子育ての選択の幅を広げての万策尽きた最終的な話だと思う
そこ置き去りにしてちゃ本末転倒じゃないのかなと思う
虐待されていた女の子が亡くなった事件で、DV被害を受けていたと言われる母親が逮捕された。
「一人で子供を産み落とし、育てきれなかった母親が逮捕され、往々にしてその相手は罪に問われないのに対し、
なぜ直接の加害者である父親が逮捕された上に、DV被害を受けていた母親も逮捕されなければならないのか」
というような言説を見かけて、第三者的な私は確かにそうだなと思った。
DV被害を受けている中で、正常な思考が奪われているのだから、それは咎められない。
しかし一方で、被虐児としての私は、私の母親を責める気持ちを持ち続けている。
そもそもなぜあんな人と結婚したのか、婚姻生活を継続したのか、途中逃げ出せたのになぜ逃げなかったのか。
私が過去に傷ついた分(かそれ以上)のpaybackは受けてほしい。
私は、大学で親元を離れるまでの間、父親から軽度の虐待を受けていたと思う。
「軽度」というのは、私が今日まで生きていられていることと、私よりひどい虐待を受けていた人がいるであろうことから飾り言葉としてつけただけであって、虐待の内容の軽重比べの意味ではない。
「虐待を受けていた。」と言い切れないのは、両親の認識として、そして私の自認としても、ある時期まではそれらが「しつけ」であったからで、
また、私の中に今も尚あれらの経験を「虐待」と指してよいのかどうかという逡巡が多少なりとも残っているからである。
それに、彼らが私に教育というものをプレゼントしようとしてくれた事実自体には感謝しているのもある。
(ただ、彼らが私に授けたその教育のおかげで、私がそれらの経験が「虐待」であるかもしれないことに気づけたのは、多少皮肉なことかもしれない。)
私の家庭は貧しかった上、母親も、父から今日で言うところの経済DVを受けていたし、連絡先は消され、友人との付き合いは禁止で、故郷からはるか離れた義理の実家の近くで結婚以来何十年も暮らし、地元に帰れるのは4,5年に1度であって、私の出来が悪いと言ってはお前のせいだと咎められ、夫婦喧嘩のときには青あざを作っていた。そういえば、確かに父親も外面はいい人であった。
重ね合わせてみれば存外似ている。
私は幼心に「それはおかしいし、なぜ別れないのか」と思っていて、小学4年の頃には母親に父親の異常性を指摘したし、中学2年のある日「離婚を考えている」と言われた時にはいつ別れるのだろうかとわくわくした。結局その日は来ないまま今日に至るのだが。
そして、もしどうしても我慢できなくなったら、自分で児童相談所に通告しようと思っていた私は、通告しないまま大人になった。
彼女がどうして、ダメな夫と別れられなかったのかというと、それは彼女に「完璧な私」と「完璧な家庭」と「完璧な子供」という理想とプライドがあったからで、反面、彼女には教養もリテラシーもなかったからである。
高校受験もセンター試験も二次試験もすべて自分で準備した。母に少しは調べてほしいと依頼したが、彼女は何一つしなかった。「完璧な子供」はそれくらい一人でできて当たり前であるし、「完璧な私」は何もしなくてよいのである。
オープンキャンパス中に開催された高校生限定のイベントに参加するため、喫茶店で待っていてと私が頼んだ待ち時間の2時間を、彼女はコーヒー代の600円を節約するために炎天下の下で待ち、熱射病にかかり600円以上を無駄にした。
彼女は子供の学歴を親族に吹聴する反面、子供の傷跡については誰にも相談しなかった。
もし仮に何かあったときに彼女を助けてくれる親族は母親にはいたが、私には父親か母親しかいなかった。
当時、母は目の届く範囲では私をかばってくれたし、父親がいないところではよくしてくれた。それには心から感謝している。
でも、最終的には私が私を救うしかなかった。私が、私を救うために、家族との連絡を絶つということを含む、すべての選択を責任を持って行って、今日まで生きながらえてきた。
大学で家から離れた私は、実家から遠いところで日々幸せに暮らしている。
杉田水脈の論文や、LGBT関係団体の主張を見るたびに、モヤっとしている自分がいるんだけど、何がどうモヤっとしているのか言葉にできない。
それはおそらく、少なくとも次のことが分かっていないせいだと思う。
(3)日本という国家において、諸制度はどのような思想で設計されているのか(特に婚姻関係と扶養)
杉田水脈の「再生産」は杉田の考える「国家とは」「日本における婚姻関係と扶養手当の在り方」「日本の方向性」の文脈ではそこまでおかしいことを言っているわけではないと思う(そもそものそれらの考え方がおかしいというのはまた別の話だ)。
しかし、まったく違う論点、もしくはあえて論点をずらされて批判されている、もしくは新たな規範を生んでいるように思えて、何となく気持ちが悪い。
LGBTの発生機序が完全に明らかでない以上、無いとは言い切れない
あと、これだけ草食だのMGTOWだの女性離れが進んでる時代に同性カップルに婚姻に伴う税制優遇なんかつけたら、愛もない打算の同性同居が急増しそう
日本で同性結婚が認められていない現状が違憲であるかどうか争った裁判はまだない。
ただし、憲法24条1項に「両性の合意」「夫婦」という文言があることから、憲法学者の君塚正臣は、同性結婚は憲法の想定されたものではなく憲法問題と認められずに棄却されると推測している[3]。
自身が同性愛者であることを公表している市民活動家の明智カイトは、司法関係者の間に「憲法を改正しなければ、同性婚は法的に成立しない」という意見があると述べている[4]。一般社団法人平和政策研究所によると、憲法は「結婚が男女間で行われることを前提」とし「同性婚を認めていない」とする解釈が「現在の憲法学界の主流派解釈」であるという[5]。過去には青森県で憲法24条の規定を理由に同性婚の届出が却下されたこともあった[6][7]。法学者の植野妙実子は憲法24条を根拠に同性婚違憲論を唱え[8]、憲法学者の八木秀次も憲法の規定は「同性婚を排除している」と主張し[9]、弁護士の藤本尚道も「明確に『両性の合意のみ』と規定されていますから、『同性婚』は想定されていないというのが素直な憲法解釈でしょう」と述べている[10]。法学者の辻村みよ子は憲法24条の規定が「『超現代家族』への展開にブレーキをかけうる」として同性婚合法化の障壁になっているとの見解を示している[11]。
一方で、憲法学者の木村草太は、憲法24条1項は「異性婚」が両性の合意のみに基づいて成立することを示しているにすぎず、同性婚を禁止した条文ではないと説明している[12]。弁護士の濵門俊也は、憲法24条で規定されている「婚姻」には同性婚が含まれず、憲法は同性婚について何も言及していないため、同性婚の法制化は憲法上禁じられていないと考察している[13]。また、憲法第14条を根拠に同性婚を認めるべきだという見解も存在する[14]。セクシュアル・マイノリティの問題に取り組む弁護士・行政書士・司法書士・税理士・社会保険労務士などで構成するLGBT支援法律家ネットワークは、2015年12月、「『憲法24条1項は同性婚を否定していない』というのが憲法の趣旨や制定過程を踏まえた正しい解釈です。したがって、日本で同性婚制度をもうけたとしても、憲法24条1項に違反することにはなりません。日本国憲法が同性婚制度を禁止するものではないということは、憲法学者、民法学者からも有力に唱えられているところです」とする意見書を公表した[15]。
そういう「生殖ありの男女関係」以外の家族もきっとこれから増えていくよ。男女じゃなくてもいいし2人だけじゃなくてもいい。たとえ男女で婚姻しても、死に別れたらどちらかはまた一人になるんだし
例えば賢い増田なら「PC」って言葉を聞いたときにwindowsPCの事をイメージして、OSXがインストールされたMac端末の事をPCとは看做さないし況してやiPadなどもPCとは扱わない訳じゃん。
ところが、一般人からするとMacどころかPC-98のこともPCとするし、なんだったらポリティカル・コレクトネスのこともPCとしちゃうわけだ。
これは何がそうしているのかというと、知識というよりは「歴史認識」の差がこの違いを生むわけよ。
だから、文章に何がどう書いてあろうと「この人はこの文章を書いたときに何を想定して書いたのか」が明文化されていないと(あるいは明文化されていたとしても)意識合わせって作業が必要になるわけじゃん。
具体例を言うと憲法24条には
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
ってあるわけだけれど、現代人の認識は「両性」っていうのは「雄/雌」を指すわけだけれども、憲法制定時は実は「両性」っていう苗字の人がいて、その人が結婚を許可してたとかのかもしれないし。
そこらへんに質問投げてくるとかは単に面倒臭いだけで人の能力がどうのこうのという話でもねえな。
寧ろ丁寧であるとすら思える。
こういうのには、やっぱ思想教育よ。思想教育から始めれば相手が何をおもんぱかってるかのロジックをシンプルにすることができるからなw おススメ。