虐待されていた女の子が亡くなった事件で、DV被害を受けていたと言われる母親が逮捕された。
「一人で子供を産み落とし、育てきれなかった母親が逮捕され、往々にしてその相手は罪に問われないのに対し、
なぜ直接の加害者である父親が逮捕された上に、DV被害を受けていた母親も逮捕されなければならないのか」
というような言説を見かけて、第三者的な私は確かにそうだなと思った。
DV被害を受けている中で、正常な思考が奪われているのだから、それは咎められない。
しかし一方で、被虐児としての私は、私の母親を責める気持ちを持ち続けている。
そもそもなぜあんな人と結婚したのか、婚姻生活を継続したのか、途中逃げ出せたのになぜ逃げなかったのか。
私が過去に傷ついた分(かそれ以上)のpaybackは受けてほしい。
私は、大学で親元を離れるまでの間、父親から軽度の虐待を受けていたと思う。
「軽度」というのは、私が今日まで生きていられていることと、私よりひどい虐待を受けていた人がいるであろうことから飾り言葉としてつけただけであって、虐待の内容の軽重比べの意味ではない。
「虐待を受けていた。」と言い切れないのは、両親の認識として、そして私の自認としても、ある時期まではそれらが「しつけ」であったからで、
また、私の中に今も尚あれらの経験を「虐待」と指してよいのかどうかという逡巡が多少なりとも残っているからである。
それに、彼らが私に教育というものをプレゼントしようとしてくれた事実自体には感謝しているのもある。
(ただ、彼らが私に授けたその教育のおかげで、私がそれらの経験が「虐待」であるかもしれないことに気づけたのは、多少皮肉なことかもしれない。)
私の家庭は貧しかった上、母親も、父から今日で言うところの経済DVを受けていたし、連絡先は消され、友人との付き合いは禁止で、故郷からはるか離れた義理の実家の近くで結婚以来何十年も暮らし、地元に帰れるのは4,5年に1度であって、私の出来が悪いと言ってはお前のせいだと咎められ、夫婦喧嘩のときには青あざを作っていた。そういえば、確かに父親も外面はいい人であった。
重ね合わせてみれば存外似ている。
私は幼心に「それはおかしいし、なぜ別れないのか」と思っていて、小学4年の頃には母親に父親の異常性を指摘したし、中学2年のある日「離婚を考えている」と言われた時にはいつ別れるのだろうかとわくわくした。結局その日は来ないまま今日に至るのだが。
そして、もしどうしても我慢できなくなったら、自分で児童相談所に通告しようと思っていた私は、通告しないまま大人になった。
彼女がどうして、ダメな夫と別れられなかったのかというと、それは彼女に「完璧な私」と「完璧な家庭」と「完璧な子供」という理想とプライドがあったからで、反面、彼女には教養もリテラシーもなかったからである。
高校受験もセンター試験も二次試験もすべて自分で準備した。母に少しは調べてほしいと依頼したが、彼女は何一つしなかった。「完璧な子供」はそれくらい一人でできて当たり前であるし、「完璧な私」は何もしなくてよいのである。
オープンキャンパス中に開催された高校生限定のイベントに参加するため、喫茶店で待っていてと私が頼んだ待ち時間の2時間を、彼女はコーヒー代の600円を節約するために炎天下の下で待ち、熱射病にかかり600円以上を無駄にした。
彼女は子供の学歴を親族に吹聴する反面、子供の傷跡については誰にも相談しなかった。
もし仮に何かあったときに彼女を助けてくれる親族は母親にはいたが、私には父親か母親しかいなかった。
当時、母は目の届く範囲では私をかばってくれたし、父親がいないところではよくしてくれた。それには心から感謝している。
でも、最終的には私が私を救うしかなかった。私が、私を救うために、家族との連絡を絶つということを含む、すべての選択を責任を持って行って、今日まで生きながらえてきた。
大学で家から離れた私は、実家から遠いところで日々幸せに暮らしている。
今日も女は毒親叩き