はてなキーワード: ブーメランとは
とのたまうこのブログ↓
http://arcadia11.hatenablog.com/entry/2018/02/03/090000
作業ゲーであるという主張を「エアプ丸出し」という言葉を連呼して尽く論破しているように見えるがむしろ殆どがブーメランなので草という話
>素材のために同じクエストを何度もこなす、どのクエストも究極的にモンスターを倒すだけ、アイテムを活用したりPT組んで狩る、こうしたことを指して「作業ゲー」と言っているなら、噴飯物の理屈だ
新しいクエストの攻略、タイムの更新、その為にモンハンプレイヤーは装備作成を行う。もちろんコンプを目指すプレイヤーも居る。これらをまとめて「主題」と呼ぶことにする。
しかしこうしたプレイヤーの最大の敵になっているのが「素材集めにかかる作業の比率が主題より比重が重いこと」なのだ。
一つの装備を作るのに一つのモンスターを複数回倒して素材を充足させる。これはプレイヤーにとって「作業」だというストレスを与えるには十分である。それが主題であるものにかかる時間より重くなる傾向があるからこそモンハンは「作業ゲー」たりうるのである。
>「敵の攻撃をいなし、自分の攻撃を叩き込む」…。ただこれだけの戦略に、無数の武器と、無数のモンスターを、絶妙なバランスで調整することで、何度遊んでも飽きない深みを与えている。
つまり最適戦略は常に似通った行動の繰り返しなのである。特に洗練された動きを身につけたプレイヤー達にとっては。
ヘビープレイヤーはそれをすぐに見つけ出すことができる。故にそれ以降に待つのは「作業」である。
>「作業ゲー」と揶揄されるレア素材集めや周回といった要素は、こうした純粋なアクションを楽しむ上でのインセンティブに留めている。クリアだけならレア素材なしの鉱石だけの武器でも可能。何度遊んでも楽しめるように作ってる前提でのシステム。
まず体言止めの体裁をなしていないので最後の文は意味が不明。モンハンを複数のシリーズを通してプレイしたヘビープレイヤーにとって過去作からの登場モンスターはある程度の行動が把握できている。故に新規に追加された行動、仕様の変更を観察した後は「作業」が待っている。ヘビープレイヤーにとって周回、レア素材集めは純粋なアクションを楽しむ上でのインセンティブではない。純粋なアクションを知り尽くしてしまったプレイヤー達の「作業」なのである。
フェミニストが乳製品を摂ることは矛盾か、という議論が喧しい。
https://togetter.com/li/1194767
http://sutaro.hatenablog.jp/entry/2018/01/29/162209
http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2018/01/30/152800
はじめに言っておくと、わたしはヴィーガニズムやアニマルライツには明白に反対である。しかし、それらを一部のバカによる寝言だとは思わない。むしろヴィーガニズムは正しいと思っている。いや、より正確に言うならば、ヴィーガニズムは正しすぎるがゆえに問題なのだ。
ヴィーガニズムへの反対に理屈をつけようとすると、かなり高い精度でブーメランとなって戻ってくる。人間と動物は違う! 白人と黒人、男と女を代入して同じことが言えるだろうか? 人間は他の動物より賢い! 男が力強いことを男性が優越していることにしたい性差別主義者は、古今東西どこにでもいる。人間が動物と違うのは社会の常識だ! アメリカ南部の奴隷主たちも、同じことを思っていただろう。
10年ほど前、はてなで「本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない」というフレーズが話題になった。まったくその通りだ。「同じ人間を差別してはいけない」にも理由はない。理由はないが、道徳律とはそういうものだ。差別はいけない、なぜならそれは差別だからだ、という主張は空虚だが、しかしその正しさを疑う人はいないだろう。差別は正しくない、これは自明です。
ところで、「同じ動物を差別してはいけない」という主張は、「同じ人間を差別してはいけない」と論理的に同型である。空虚である。空虚であるが、ではそれゆえに正しくないと主張することは可能だろうか?
人類の平等への闘いは、「同じ○○」の範囲を広げてゆくことだった。「同じキリスト教徒を差別してはいけない」という議論に対して異教徒が声を上げることは必要だった。「同じ成人男性を差別してはいけない」という主張では、無産階級の男性のことは救えても婦人参政権は実現できなかった。ようやく今、人種差別や性差別が「同じ人間を差別してはいけない」として斥けられる時代になったのだ。
しかし牛や豚からすれば、その「人間の平等」は、「白人のなかでの平等」や「男性のあいだでの平等」と寸毫変わらぬであろう。
それがヴィーガンやアニマルライツの訴えの核心である。これを安易に「人間と動物は違うんです。以上」で切り捨てることは、安易に「だって男と女は違うじゃん」と切り捨てることと、いったいどこが違うというのだろうか? このふたつの主張をまったく別物だと切り分けること、それ自体が彼らの批判する種差別なのだ。
何でフェミニストにばかりそういう要求や追及がなされるのか? と疑問を呈する人もいる。断言するが、それは最悪の戦略である。
第一に、ヴィーガン界隈を見ればわかるが、彼らは一般人に対しても肉を食ってさえいれば無差別にマサカリを投げつけている。それが今回たまたま件のフェミニスト氏に向けられただけであり、構図としてはセクシーな萌えキャラの出てくるポスターをフェミニストから批判されたオタクが「何でオタクばっかり叩くんだ?」と過去の女性運動の蓄積も知らずに愚痴っているのと寸分違わない。やめておいたほうがいい。
第二に、差別に反対する運動の中で別の差別が行われていたとき、それを厳しく追及してきたのはフェミニストたちだったではないか。人種差別に反対する運動の中で性差別が起きたとき、人種差別だけでなく性差別にも反対すべきだ、そうでなければ真の反差別とはいえない、という主張はそれなりの説得力をもって受容されてきたように記憶している。であるとすれば、性差別だけではなく種差別にも、という主張が向けられることは自然な話であろう。
つまり、既存の反差別運動の側は、迂闊にヴィーガニズムを揶揄しているとブーメランが帰ってくるわけだ。反差別、正確には、反人種差別および反性差別を支持する者として、味方がブーメランに撃ち抜かれて斃れていくのを見るのはやるせない。
ではどうするか? わたしはまず、敵対関係を認識すべきだと主張したい。
フェミニストは男性優位社会の敵である。奴隷解放論者は南部社会の敵であり公民権運動の闘士は白人中心主義社会の敵である。それと同様に、ヴィーガンは人類社会の敵である。
このことは、現在のヴィーガニズムの支持者が全員人類であることと何ら矛盾しない.家父長制と闘う人びとの中には男もいた。奴隷を逃がしたり黒人とともに座り込みに参加した白人もいた。そして彼らは、男でありながら男性中心主義の敵であり、白人でありながら白人至上主義の敵だった。ゆえにヴィーガンが、人類でありながら人類社会と敵対するのは何ら矛盾ではない。
わたしたちにはふたつの選択肢がある。ひとつめの選択肢は、敵が提示する平等のテーゼを受け入れることであり、つまりはジャイナ教徒のように虫の一匹も殺さぬようマスクをし箒で道を掃きながら歩く生活を選び取ることだ。もうひとつが、平等と敵対することである。種差別の何が悪い、人間は動物とは違うんだ、人間の都合で動物を搾取することは当然だ、と傲然と言い放つことである。
最悪なのは、この敵対性に対して目を瞑ることだ。敵を「なんか頭のおかしい人たち」として片付けることだ。そうではない。彼らは正しいのだ。彼らは正当な抗議者として、つまりはわれわれの敵として扱われるべきなのだ。
この敵対性を隠蔽してしまったら、他の敵対性が隠蔽されることに抗えなくなる。それは平等への闘いの自滅だ。敵対性がそこにあることを明るみに出すことは、常に闘いの出発点なのであるから。
なのでわたしは宣言する。肉うめぇ。これはヴィーガニズムが提示する平等への敵対だ。朕はたらふく食ってるぞ、汝畜生食われてろ。数百年後、あの世代は動物差別と動物大虐殺を何とも思っていなかった民度の低い連中だ、人類の進歩を阻害してきた、と糾弾されるかもしれない。それでもわたしは、種差別を正しいと信じる。人間は動物とは違っており、この差別は当然だと主張する。未来の子供は、わたしのこの言明を醜悪なスピーシシストの声明として読むかもしれない。ユダヤ人は劣等だと言い放ったちょび髭の指導者や、女は男よりも劣った生き物なのだと公言してきた家父長たちが扱われるように、動物を殺して恥じなかった我々現代人も扱われるかもしれない。ひょっとすると数十年後に革命が起きて、人道に対する罪で訴追されるかもしれない。自己批判を強要されるかもしれない。それでもわたしはヴィーガニズムに敵対する。この差別は正しい差別だからだ。
さあ、みんなもそう叫ぼうじゃないか。種差別は必要だ! 種差別は正しい! 今ここで種差別を! 明日も種差別を! 永遠に種差別を!
これの続き。https://anond.hatelabo.jp/20180119190450
けんちん・F氏から反応がありまして。
twitterにて「丁寧な分析とご意見、野村某よりもよっぽど誠実だと感動しています。(中略)真面目に書いて揶揄は避けるつもりです。」
というお言葉を頂いたわけです。
色々感じる所はあったけれど、一番最初に思ったのは「してやられたな」というところ。
僕は文中には氏に対し一定のリスペクトはある的な事を書いたものの、まあ基本的には僕が一方的に揶揄してる形で記事を書いたわけで。
なんで?っていう問いに関しては
1.読む人が興味を持って「うんうんわかる」と言いたくなる文体で書きたかった
2.どう丁寧に書いてもけんちん・F氏の心にはどうせ響かないのではという勝手な思い込み
3.「どうせなら面白く書きたい」という欲
以上の3点が理由です。
よって、きちんと読んでいただいた事の感謝と、揶揄する形で書いてしまった事への謝罪をここに記載いたします。
でも、1・3を優先するあまり今後も同じスタンスでやると思います。ありがとう。ごめんなさい。
「冷静に対処する」っていうのは、書き手がクレバーに見える一つの非常に効果的な手法なわけで。
だから、「やーいやーい」って書いてる所、「うん、そうだね」って冷静に返されちゃうと、振り上げた拳が降ろせないといいますか、
「あー、やべー。こっちが嫌なやつに見えちゃうやつだ」っていう感じなんですね。
なので、「うわ、まじかそう来たか」っていう驚き2割と
「あ、きちんと文章読んで(そして多分受け止めて)くれるんだ」という喜び4割と
「やべーな、この後のスタンスが取りづらいな」っていう後悔が4割。僕の心情はそんなとこです。
自分も別に主語を大きくした「演劇の作り手と観客の代理戦争」みたいなのには一切興味がないしやりたくないから
紳士的な形でこられたら紳士的な対応を取るしかない。何故ならこれは個人と個人のやり取りだから、と思うわけで。
つまり、「演劇人が悪く言われてるから攻撃的に言っていいんじゃオラァ」ってなると、それこそブーメランだと思うわけです。
僕は、個人であって誰かの代弁者ではない。思いあがらずに自制していきたいと常々、思っております。
でも、そうなると一個、疑問が沸いてくるんだけど、
野村氏の(割と)冷静な記事に対して異様なまでにカッとなったような批判をしてる(ように見えた)んですが
これはやっぱり立ち位置の違いと言うか「市原氏に近い存在のヤツが市原氏を叩く記事書かずに『これからどうしていくか』
みたいな俯瞰位置の発言してんじゃねえよ!お前どうせ知ってただろうよ!?ああん!?」っていうバイアスありきで書いちゃったからなんかな。
今回の自分の推論でいけば完全に悪手になるわけで、そこだけがちょい疑問。
あと、名前どうしようかなと思って、確か何らかの意味合いで(忘れた)「けーえふ」って適当に名乗っちゃったけど
「けんちん・F氏」とがっつりカブっちゃったのは超後悔してる。
俺にはブーメランじゃなかったし
そもそもオルガは鋭利なブーメランのような前髪の面白さから元々ファンの間でいじられネタキャラの一面があった
でも前髪以外はそこまで面白くないし、前髪の面白さだけであそこまでのネタキャラになった訳では無いだろう
では死に方が酷かったせいだろうか
主人公格キャラなのに誰もが突っ込む頭が悪い死に方をし、ちょっと前に似たような殺され方をしたキャラが居たためにまた暗殺かよとインパクトもなく視聴者を白けさせた、オルガの死に方の酷さがオルフェンズは駄作だと決定づけたと言える
けんちん・Fさんという人物がいまして。
彼はmixiを中心に、様々な映画や作品の論評を投稿しており、
その切り口は身内同士でズブズブになっている九州・福岡演劇界をバッサリと斬るものが多く、たまに面白く拝見していたのですが、
どうにもここ最近、彼の文章の質が変わってきたというかちょっと見るに堪えないものになってきました。
彼がどのくらい影響力があるのかはちょっと分からないのですが、このまま福岡演劇界のご意見番ヅラしてるのもちょっといかがなものだろうかと思いまして、
<はじめに>
私は、市原幹也氏を知りませんが、様々な記事などを見る限り今後、演劇には関わって欲しくないと思います。
但し、彼が演劇をやりたいと言う気持ち、思いを禁じる権利は私にはないと思います。(何故なら知らない人だから) というスタンスです。
人を裁けるのは司法、又はその直接の被害を受けた人だけ。というスタンスです。そうじゃなきゃ私刑だよ。
<目的>
1.昨今のけんちん・F氏の文章が論理的でない事を広く知っていただくこと
3.彼の文章が今後理論的になり、もとのキレのよい論評をしていただく事
達成できるかどうかは別ですが、この3つを目的に書いていきたいと思います。
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964252256
②あなたが本当に「演劇人」なら、市原幹也を救おうとはしないはずである
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964295122
③今そこにいる、一万人の市原幹也
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964416782
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964577327
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964600688
⑥不透明さを増す市原幹也と、藤原ちから、野村政之らの卑劣な印象操作
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964756079
記事数は多いですが、出来れば正確さのためにきちんと目を通していただければ、と思います。
<問題点>
さて、早速問題点ですがけんちん・F氏の文章、大まかに分類すると3つの問題点があると思います。
1.事実と推論を分けておらず、非常に読みにくく、推論を事実とすり替え、さらに理論を展開する
3.自論に対して反論する人に対し「擁護するから反論している」とレッテル張りを行い間違いを認めない
それぞれ見て行こうと思います。
「AということはBなのではないか、BということはCなのではないか、Cは問題だからAは非常に問題だ!」という推論に推論が重なった故の結論が、ソース不在の論理性に欠けるものが多い。
例ア
一応と言うか、市原氏は、2013年をもって、アイアンシアターの芸術監督を解任されてはいる。のこされ劇場≡の活動もそこで中断し、実質、解散状態にあるようだ。
当時はその理由が不透明だったが、こうした事件が発覚してみると、「そこでも何かやらかしたんだろうな」と判断せざるを得ない。劇団員に手を付けたか、
ワークショップの参加者に手を付けたか、そんなところだろう。彼の不始末のせいで、枝光演劇フェスティバルが開催不能になり、枝光から演劇の火が消えてしまったことは残念だが、
事情が事情なら仕方がない。 でももし本当に私の憶測が正しければ、枝光商店街はその時点で、彼の解任理由をきちんと発表すべきだっただろう。そうすれば、その後、
<以上引用>
要約するとこうなります。
2013年アイアンシアターの芸術監督を解任、のこされ劇場≡もそこで実質解散状態(事実)
↓
「そこでなにかやらかしたんだろうな」と判断せざるを得ない(推論)
↓
↓
彼の不始末のせいで枝光演劇フェスティバルが開催不能になったのは残念(事実のように記述だがソースなし)
↓
憶測が正しければ、枝光商店街が解任理由をはっきりさせれば犠牲者は防げたかもしれない(推論)
2013年の解任と解散は事実だが、そこの理由ははっきりしていない。にも関わらず、枝光演劇フェスティバルの中止を彼が原因かのように記述、
有名な言葉がここにあります。「なんかそういうデータあるんですか?」
「枝光演劇フェスティバルは市原氏の不始末で開催不能になった」
推論を並べ立ててもいいけど、そこに至った経緯、又は根拠を示さないと説得力ないよ、けんちん氏。
例イ
自主的に引退してくれるのが一番マシではあろうが、どこぞの議員みたいに、どこかにずっと居座り続けそうだよね。周囲もそれを許してしまいそうな気がする。
つまりそれだけ日本の演劇界がユルい社会であるということだ。それも日本の演劇レベルが沈滞し続けている原因の一つかもしれない。
<以上引用>
↓
周囲も許しそうだよね(推論)
↓
それだけ日本の演劇界はユルい社会で、演劇レベルが沈滞する原因かもしれない(推論)
はっきり言ってウケる。脳内妄想垂れ流してもいいけど経緯又は根拠を示さないと説得力がねえよ。
例ウ
逆に言えば、なぜ市原幹也は別の道を選ばず、また彼の仲間もそれを勧めないのか、ということなのだ。市原だけでなく、彼の周囲の人間も、演劇を愛してはいない。
演劇に対する愛があったのなら、とっくの昔に、彼を制止していたはずだ。
<以上引用>
↓
↓
データと経緯がないのは先の例と一緒。さらに、さも自分が部外者かのようにけんちん氏は記述しているが、それ以前の文章に「悪い噂は流れてはいたようだ」とか書いてんだから
同じ論法だとアンタも周囲の人間に一人に入っちゃうよ。ブーメランだよ。
あと、文章③において
<引用>
彼は、市原の舞台に出演していた当時、既に、「ウワサ」は聞いていたようである。けれども、面倒ごとに関わるのは嫌だと、市原に意見することを控えてしまった。
そのことが、次の被害者を生んでしまったと気づいて、今、深く責任を感じてしまっているのだ。いじめの現場を目撃していながら見て見ぬふりをして、その結果、被害者が自殺をしてしまった、
そのことを悔いるような心境になっているのだろう。もともと心が弱い方であるから、このショックは相当にキツかったと思われる。
<以上引用>
一個前の論理で行くとこの人完全に「別の道を勧めなかった周囲の人間」に入るわけで「演劇を愛してはいない人」になるわけですけど。
知人と分かった瞬間この手のひら返し。まごう事なきダブルスタンダードです。
例エ
野村氏は、市原に電話で「死ぬな」と言ったとか書いているが、はっきり言って芝居がかっていてかえって白ける。電話でどのような会話をしたのかを
「公的な報告」として記すのなら、本来は今後の対応をどうしていくかについて書くべきで、こんなプライベートな心情吐露を垂れ流してはいけない。まるで、泣きを誘って、
市原の方が被害者的な立場に見えるように、話を粉飾しているようにすら見える。 野村氏もここですっかり忘れてしまっているよ、被害者は女の子たちなんだって!
「死にたい」と思った女の子たちが、今も「沈黙」するしかない被害者たちが、いったいどれだけいるのか、それを認識していたら、
たとえ本当にそのような会話をしたのだとしても、申し訳なくて公表なんかできないって。 野村氏もまた、人間として最低な部類に属するのである。
<以上引用>
この文章には山ほどの問題点があるのだけれど、とりあえず推論のすり替えについて言えば
野村氏は、市原に電話で「死ぬな」と言ったとか書いた(嘘だけどここでは事実としましょう)
↓
まるで、泣きを誘って、市原の方が被害者的な立場に見えるように、話を粉飾しているようにすら見える。(推論・感想)
↓
野村氏もここですっかり忘れてしまっているよ、被害者は女の子たちなんだって!(事実のように記述)
↓
野村氏もまた、人間として最低な部類に属するのである。(結論)
ものすごいとんだ論法。あと、後述するけど「死ぬな」って言ってないしね。「死ぬな」の意味合いも違うしね。
例オ
いつでもどこででも、これだけ派手にやらかし続けていれば、福岡の演劇人が、あるいは市原と関係があった人々が、「知らなかった」人間ばかりのはずはない。
なのに彼らの殆どが、自分はセクハラ行為とは無関係だと強調するか、全くの沈黙を守り続けるかのどちらかしかしないのがどうにも解せないのだ。
前回の日記にも書いたように、市原のセクハラを知りつつ看過したことを恥じて自らを責めたのは、私の知人一人だけである。
他の「知ってたやつら」は、今どこで、何をしてるんだよ。 中には、市原が誘ったか誘われたかで、一緒にセクハラ行為に及んだ演劇関係者もいるはずなのだ。
市原はその人物の名前を明かしてはいないし、本人が名乗り出て謝罪する気配もない。市原同様の行為に及んでいながら、今ものうのうと「演劇人」の仮面を被り続けている人物が、
福岡の演劇界に居残り続けている可能性を否定できないのである。
<以上引用>
市原と関係があった人が知らなかったばかりのはずがない(推論)
↓
↓
中には、市原が誘ったか誘われたかで、一緒にセクハラ行為に及んだ演劇関係者もいるはず(とんでもない推論)
↓
今ものうのうと「演劇人」の仮面を被り続けている人物が、福岡の演劇界に居残り続けている可能性を否定できないのである。 (結論)
一緒に及んだ人がいる根拠を示せ根拠を。バックデータのない論理はただの言いがかりだぞ。
<問題点2:主語を大きくすることで、拡大解釈とレッテル張りを行う>
彼の文章はよく「個人の問題」が「福岡・九州演劇の問題」に主語が大きくなっているように感じます(感想)
「福岡・九州演劇界は腐ってる!」という意識が根底に根付いているのでしょうか(推論)
例カ
自主的に引退してくれるのが一番マシではあろうが、どこぞの議員みたいに、どこかにずっと居座り続けそうだよね。周囲もそれを許してしまいそうな気がする。
つまりそれだけ日本の演劇界がユルい社会であるということだ。それも日本の演劇レベルが沈滞し続けている原因の一つかもしれない。
<以上引用>
さっきも出てきた文章ですね。引退しない、が周囲が許しそう、の周囲の話になり、日本演劇会の話にどんどん主語が拡大していく。しかも推測なのに。
一泡沫演出者の話を日本演劇界に持ってくんなよ。日本演劇界も迷惑でしょうよ。それなら一連の騒動が大物の米映画女優の話からはじまってんだから、「米映画界はクソだ」くらい言ってもいいんだよ?
例キ
それどころか、事件発覚から十日余りが過ぎて、事態は早くも風化しつつあるような印象である。 いやホント、Twitterをずっと追いかけてみても、九州の演劇人の間でも、ろくに話題になっちゃいないのである。
2ちゃんねるでちょっと取り上げられて、あと何人かがブログで「市原擁護」としか取れないような文章を書いている程度。何だよ、それ。 ジャーナリストの江川紹子さんが、セクハラ告発が相次ぐ世界の情勢を俯瞰しながら、
市原についても触れた文章を綴っているのは非常に貴重だが、それくらいだ。
<以上引用>
個人個人が発言しない事がいつの間にか九州演劇人全体の問題に。え、だって市原のこと知らない人も結構いるよ?
身近に被害者もいない九州演劇人はどういう声明出せばいいんだろう?もしも、具体的に声明を発表して欲しいのにしてない人がいるならその人に言いな。
自分が知ってる演劇人が発言しないからって、責任を演劇界・演劇人全員に持ってこないでくれる?
例ク
九州の演劇人たちが、沈黙するか、あるいは市原擁護に回った理由はそこにあるのだろう。 やはり「同じ穴の狢」を追及することができないでいるのだ。
指導と称して、セクハラ、パワハラが当たり前の世界に堕してしまっているのだ。もしかしたら、九州の演劇界だけでなく、全国的に。
<以上引用>
目の肥えた読者さんなら「あ、推論が置き換わってる」と感じ取れたかと思います。
どの世界にも、同様の問題はあるだろう。けれども演劇界は特に腐っている。仮に日本の演劇人が全部で二万人いるとしよう。
そのうちの半分が加害者で、半分が被害者になる。そう考えてもらった方がいいくらい、どいつもこいつも腐っているのだ。
<以上引用>
「なんかそういうデータあるんですか?」
君の知ってる演劇人に腐ってるやつが多いのかもしれないけどその井の中のレベルを日本演劇界の話に拡大しないでくれるかな。ちゃんと統計取った?
主語の拡大はもう少し散見されるのですが、周囲はどこまで責任を持つべきか、というのには正解が出しにくいため
個人的に「明らかにデカすぎない?」と思うもののみ掲載しました。そのほかは是非皆さんで探してみてください。
その2に続きます。