はてなキーワード: 人知とは
元増田さんに上手く答えられるか分からないけれど、書いてみる。
依存症治療の会合、アルコホーリクス・アノニマスの手法を書いた本「ビッグ・ブック」の中に神を信じること、っていうのが出てくるらしい。
元々がアメリカからでてきた治療法だから、多くはプロテスタント的発想なんだろうけれね。
そもそもの依存症って例えばアルコール依存症にしても仕事依存症にしても、問題はアルコールを飲むことや仕事に重きを置くことにあるのではない。問題は大事な人(家族や友人)に向き合わなければならないときに、アルコールや仕事や買い物に逃避して向き合わず、人間関係を壊していってしまうことにあるのね。
(ここ、重要)。それを前提として読んで欲しいんだけど。
ビッグ・ブックを読んでいる看護師さんと話していて、ここにある神っていうのは、別にキリスト教である必要はまったくなくて、
に許し、受け入れられる、っていうことが、心の安らぎに通じている、ってことなんだなって分かってきた。
無心論者であっても、「超越者」に「私は生きて呼吸することそのものが、祝福されたことなんだ」と認められていることが、がけっぷちに立たされた状態では、必須で、これがないと人は生きていられない。
私に立ち返ると、父親は仏教徒で、母親の根底はシントーイスト。私は仏教って哲学であって宗教ではないと思っているから、仏壇はあるけれど、宗教的な観点は神道にあるという、古い日本の一部ご家庭の状況。
神道っていっても、自然神的なものを「人知の及ばぬ、わたしの上位のもの」だと感じる程度です。
そんな状態だった私は、幼稚園くらいのころ、桜の花びらが散っているのを見て、
「妖精さんだ!」
と思い、それが創ではないと分かってからも、花びらや雪や、さらには汚れた水の中でもわもわと沸き立つごみや土ぼこりを見るたびに
と感じています。
あれ(神様的なもの)は、目を凝らすと周囲にふりそそぎ、ただにこやかにこちらを見ているもので、こっちのことを好きだけれど何の力も無く、ただいるだけのもの。
小説「沈黙」や「レ・ミゼラブル」みたいな情熱的な信仰心ではないけれど、家族の死や苦しさの局面に至ったときに、
「それでも神は降り注ぐ、何の力も無いまま、それでも私たちを愛している」
というのが根底にあるだけで、不思議な立ち直りの力が沸いてくるのです。
多分それが信仰の原型みたいなもので、それは無心論者であっても必要だろうし、持てるんじゃないかなぁ。
数億分の1だかの確立で地球に生命が発生した奇跡を、成し遂げた神は無心論者が否定することが出来たとしても、惨事を見つめるだけの無力な神は否定できないんじゃないかと。
そして無力な神であっても、「わたくし」の生命をことほいでくれているとしたら、それは力の源になると思うんです。
んで、アルカホリック(というか依存症全体)の、壊れた人間関係に立ち返ると、
「誰かに容認されない自分」
のまま、他人に向き合うことはむずかしいこと、らしいのね。
誰か(上位の、人間そのものが存在することを容認できるくらいの存在)に存在を容認された状態でないと、人は人に対峙できない。
元増田さんの腹が割れないってのは、だから多分その感覚なんじゃないでしょうか。
他の方が書いているように、それについて鈍感な人や、日本人が持っている古い神や「ひととひとがよりそって人っていう字」っていう感覚を知らず知らずのうちに身につけている人にとっては、
「元増田の悩みは宗教ではない」、と言っちゃうけれど、私から見ると宗教っていうか「宗教っていうか、それ以前の、なんだかわかんないものが、私が生きていることそのものを許してるってことを感じられない苦しみ」なんだろうなぁって思います。
感じるのは変なことじゃないし、恥ずべきことでも中学生でもないと思います。
むしろ、人生の危機的状況に至る前に、それに気づいていたほうが、対処に悩まないからいいことだと思います。今後宗教を持つかどうかは別として。
タイトルは半分釣りなので、いじめ被害経験者も冷静に最後まで読んで欲しい。
「いじめられる方にも原因がある」と言われることがある。これは正しい。
私は中学でいじめを受け、そのトラウマを高校以降も引きずって、人間不信とコミュ障に苦しんだ。
社会人になるまでに表向き目立たない程度には克服したものの、今でも人知れず鬱々とした精神的発作のようなものを抱えている者だ。
それでも、この言葉は正しいと思う。
なぜなら、この言葉と「誰でもいじめられる可能性がある」という言葉は背反する、つまり片方がウソで片方が本当だからだ。
自分は、後者がウソだと思うので、前者は本当ということになる。
人は性格によって、どんな集団に居てもいじめられない奴、条件が悪いと一時的にいじめにあうことがある奴、継続的ないじめの対象になりやすい奴に分かれる。(学生時代、自分は一番最後のカテゴリ)
「いじめられる可能」というやつは、誰にでも均等ではない。これが現実だ。
可能性0.0001%と95%を一緒くたにして、「誰でも可能性がある」なんてのは、極めて悪質な詭弁だ。
なのに、そんな詭弁を恥ずかしげもなく撒き散らし、現に苦しんでる被害者や周囲を惑わして、問題の解決を遠のかせておきながら、「自分は弱いものの味方です」のような顔でいる奴には、腹の底から反吐が出る。
お前が綺麗なセリフに陶酔するためだけに、現実を糊塗隠蔽するんじゃねえよ、どクズ。
話が逸れたが、さて、人によっていじめられやすさが違うのなら、いじめられやすい奴は、いじめを引き起こす性格上の要因を何か他の奴より多く持っているということになる。
「何か」の中身は、ここでは趣旨が違うので踏み込まないが。
一方いじめる方の性格上の要因も、当然ある。偶然運悪くいじめ加害者になるなんてことはない。
いじめる方の原因と、いじめられる方の原因が、同時に成立したとき、言い換えると、いじめる側の性格の歪み(凸とする)と、いじめられる側の性格の歪み(あえて歪みと表現する。凹とする)の凹凸が噛み合わさったときに、いじめという現象は発生する。
この理屈に従えば、性格に凹な歪みがない奴はいじめられない、凹な部分を直せば、いじめはなくなるとも言える。
自分はこれまで、そういう性格の歪みを矯正するために、何度も恥にまみれて死にたくなるような思いをして、なんとかギリギリ社会に適応してきたのだ。
いじめられる側が自分から何とか状況を改善し、自己防衛をしようとする場合には、それなりに拠り所となる考え方だ。
しかしだからと言って、加害者や傍観者、さらには教育者(救いがたいことに実際に存在した)が、ドヤ顔で振りかざしていい理屈ではない。
凹があるだけでは成立しない。凹があり、凸があり、凸が凹に、その突起を刺し込もうとし、なおかつそれを抑止する力が存在しないときに初めて、いじめが起こるのだ。
さらに、凸を放置すれば、もともとは凹ではない奴の心を抉り、凹な性格に仕立て上げることさえある。
だから、凸の突起を折り、刺し込んだり抉ったりしないようにすることの方が、凹の歪みを直すより、よほど効率よくいじめを抑制できるに決まっている。
そもそも教育者の中に、凹の歪みの改善指導ができるプロの技術の持ち主なんて、ほとんど居ないだろうが。
いじめの原因は、確かに双方にある。
横さんこんにちは。
書き込んでくださってありがとうございます。
上から目線ではなく、遠くから俯瞰しているからこういう書き方なんだと思います。
私の脳みその中のことだけれど、私や他の人の、人知の及ぶ所ではない部分に触れる問題というか、トラブルと言うか、だからまぁ「障害」とくくられてしまうアレの話なので、遠くから眺めて話すしかない、それが
みたいに見えるのかもしれません。
私自身、自分のことだし、実生活では非常に困ることも多いのですが、事象そのものを話題として誰かと話すとき
「ほんとうに、あなたそれで困っているの? そういうふうに聞こえないんだけれど」
といわれます。
いやぁ困っているんですが、マクロだかミクロだかこう、カメラをズームしたりパンしたりしていると自分自身が客体化されたというか、「起きている事象」そのものはプレパラートの上のミドリムシだかミトコンドリアだかと同じ状態になるんです。そういう状態として把握しないと見つめることができないんです。
お気持ちにひっかかるような話題だったら(たとえば当事者だとか、ご家族にいらっしゃるとか)、提示してごめんなさいなのかも。
「お前技術もなんも中途半端なんだからさっさと地元帰って専業主婦にでもなれば(pgr」
って言われたり、
「なんでそんなこともできねえんだよ」
って詰められたり。
限界まで耐えに耐えて上司に訴えたらチーム異動させてもらえたけど、
そういう奴だとわかっていたくせに見て見ぬフリをされていたらしい。
2年前の夏、私が駅で行き倒れたのとほぼ同じタイミングで同チームの先輩も病気で休職した。
先輩は復職したらしいが、私はまだ復職できるまで回復できていない。
少し集中して作業をすると翌日ぐったりと寝込んでしまう。
とうとう休職の期限が近づき、会社から連絡が来たので退社したい旨を伝えた。
会社側の人はとても優しく丁寧に手続きをすすめてくれたので複雑な気持ちになった。
健康なころに戻りたい。たくさん歩いたり走ったりできて、本を読むことができて、
人と話すことができて、当たり前に家事をこなして一人暮らしできていたころに戻りたい。
ちょっと外出しただけで体力なくなって寝込むとかほんともう嫌だ。
これまで何も意識せずにできていたことができなくなる、
自分が無力で無能になってしまったことを思い知らされる絶望感。
どうしたらいいんだろう。
気持ちばかり焦ってるけど体はたぶんついてきてくれない。
「調子よくなったり悪くなったりを繰り返していくものだ」ってお医者さんは言うけど
がんばって外出したあとで熱出したりヘルペス出したりするのって地味につらくてしんどいよ。
今まで試したので一番療養によかったのはネット/SNS断ちして友人知人の近況を
すべてシャットアウトして家事手伝いをすること。
自分と他人と比べるからつらくなるなんてことは百も承知なんだけどさ、
ドラクエで自分的に気分悪いことがあったので、ここまで気分悪いのは誰にも言いたくないのでここで人知れず吐き出させてください。
チームがごたごたしてて、チームの一部の人がいない人の悪口をやたら言ってた。
雑談の中にもいきなり名前ほりこんでネタにして小バカにしてたりして、他人事だけど見ててすごく気分わるかった。
でも、自分はその言われてる人は悪くないと思う。むしろこの人たちに理不尽に意味不明な質問されたりつっかかられたりしてる中、冷静に対応してた。
そのなかで、唯一信頼できると思ってた人にできるだけ言葉を考えてそう思ってることを伝えたら、
もう主要なメンバーには自分からそういう意見あったってことが名前含めて伝わったみたいで
インした瞬間に「ログインしてもチャット遡ってみることはできないよね?」って誰かが言って
「ん?」て思ったけど、「○○さんの悪口なんて言ってませんw」とか「いってないいってない」って
いろんな人が言い出して、誰かが「○○さんがナントカカントカだなんて言ってませんw」みたいに
すごいバカにした感じで、「XXさん、シーーーッ」とか言ってて。。。なんかすごいバカにされてるなあって思った。
自分はチームの雰囲気が楽しくなればいいと思ってたのに、そういう意見があるって知ったのなら自重すると思ったのに。
もうね、なんなんでしょう。社会人でいい年した大人だろうに、悲しい人たち。
お盆休みも終盤の昼間の新宿で家族連れに囲まれて観ていていたたまれなくなったので書く。
出てくるキャラクターがどうも好きになれない。顔の描き方も好みじゃないし、それ以上に主役の宮崎あおいちゃん演じる花(以下あおいちゃん)が何考えてんのかわかんない。キャラクターとしての魅力、リアリティーがなさすぎて。
この映画の問題はあおいちゃんが健気で善良でどんな困難にも立ち向かえる女の子という設定に頼りすぎていている所にあると思う。
客観的にみれば人知れず自宅で出産した外に出せない子どもを2人抱えつつ、近所から通報されて児童相談所の人が来て死んだフリーターの旦那が貯めた貯金だけを持って山奥へ逃げ出すという、なんとも独りよがりな状況であるのに、周囲との接触を自分から取ろうとせずに健気に田舎暮らしを始めたらなんとなく上手いこと手助けしてくれる人達が現れてうまく生活しているし、移住することに決めた廃屋の近所にはたまたま勝手に見守ってくれる菅原文太がいる。芋のおすそ分けから村の互助社会に参加するくだりでは、人里離れて暮らすことを目的として村との交流をする覚悟のないあおいちゃんが健気な姿をみせることだけを頼りに菅原文太に認められて話が進んでいく。この辺りはあおいちゃん自身にはなんの変化も無いのに、事は順調に進んでいくわけでどうにもこうにも都合が良すぎると思う。もしあおいちゃんの意思で周囲と交流して生活を営んでいく話にしたいのなら、健気さだけでなくそれまでの孤立主義を改心して自発的に関わっていくエピソードや身を削っていくエピソードが欲しいし、受動的に関わるのなら田舎ではもっと厄介なことを抱え込むのが常だと思う。独身男がつきまとってくるとか、村に居つかせることを前提に勝手に見合いさせられたりとか。
で、あと他にも問題だと思うのは、子育ての大変さがちゃんと描かれてないんじゃないかというところ。一連の子育て描写では誰にも頼れずに2人のこどもを保護して養っていく苦労や重圧はあおいちゃん1人にかかっているはずなのに、オオカミであることの苦労は描いてもシングルマザーである事の苦労は描かれない。動物園の檻のオオカミに相談したりはするものの、あおいちゃんはなぜかずっとニコニコしながら良き母としての態度を崩さない。たった1人で子育てをしているのに、その大変さや葛藤が単なる健気さに覆い隠れてしまっていて、子育ての重要な側面がみえないので、感情移入できないわ。その辺りのシングルマザーの苦労の描写でいえば、最近だと塚本晋也のKOTOKOが良かった。孤立して育児をしていくことでノイローゼで精神的におかしくなっていくcoccoのように、右手に焼け焦げる中華鍋と左手に泣き叫ぶ赤ん坊を抱えて途方もなく泣き崩れてしまう。そこまで追い込まれるまではいかないとしても、そんな医学的にも何者か分からないこどもを抱える不安、そんなシーンがこの映画にも欲しかった。
あとおおかみ男と結ばれたくだりは少女漫画も真っ青な純愛物語風になっているけれど、オオカミ男には社会的なケアを一切受けずに2人の子どもを設けて養っていく覚悟があったとは思えなくてなんだかなあって思う。もしオオカミ男にその覚悟があったとするならば、どうして本能を抑えずに街中で狩りをして川で死ぬことを選んだのだろうか。大学の講義に潜ってソクラテスがどうとか勉強するよりも、自分の本能との付き合い方を学ぶべきでしょうが。
この無責任さのしわ寄せが結果的にすべて母になったあおいちゃんに行ってしまっていて、あおいちゃんは不憫でならないはずなのに、2人の関係が単なる美談になっているのが腑に落ちない。
あとは音楽の使い方も好きじゃない。美化された田舎・自然にさわやかオーガニックでダイナミックな音楽を乗せればさも感動的なシーンになると思っている。この久石譲風の高木正勝がこの映画のなんとなく感動的な雰囲気に盛り上げる主因だと思う。
以上、長文になったけど、俺が一番言いたいのはこれ。
オオカミでフリーターのくせにあおいちゃんに中出ししやがって!!しかも1人ならまだしも2人目も作る所なんてまるで無反省!
俺は高岡蒼甫を許さない!
プロレスという興行がある。
スポーツ風なんだけど、オリンピックの種目ではレスリングであり、プロレスはスポーツではなく、スポーツの技をおもしろおかしくアレンジして、敵と味方に分かれて、戦いをショーアップする何かだ。
当然、子供はそれを真似るわけで、技をかけあってみたり、どちらかがあらかじめ勝利するストーリーを描いて、お互いに演じあったりもする。
あえていうと、成熟したプロレスファンは、プロレスでは死者やけが人がでないこと、興行は連日続くので、善玉も悪玉も安全かつ翌日も興行できるようにお互いに配慮し合っていることを暗黙の了解とした上で、プロレスを楽しんでいる。
熟すほどにプロレスに精通していない子供が真似したらどうだろう。
最近はテレビ放映も少ないので、そんな真似する子供も激減したかもしれないが、お約束を理解していない相手に力を誇示するためにプロレス技を使ったら、きっといじめに近いものになるのではないだろうか。
あと、わざとけんかのようなことをする人はいると思う。当事者たちの間では、一種のプロレスであって、周りを面白がらせるためにあえて遊んでいる人。炎上屋といえばいいのでしょうか。
ネットの表層的な部分で発言している人の中にもいるだろうし、人前では複数人でわざといじめのような状態を楽しみ、当事者しかいないときに本音を話す。
そんな衆目を集めるための行動も部外者がかかわろうとしたときにお約束が通じない状態を体験して、いじめのような状態になってしまう。
続いてテレビで気軽に見ることができる娯楽のひとつのお笑いについて。
うっかりした勘違いを笑いに変換することもあれば、貧乏やだらしなさや見てくれを笑いに変換することもある。
あと、ことば遊びもそれになりうる。
笑いと不愉快は紙一重で、不愉快に近づくほど笑いの効果も大きくなる。
プロレスで死人やけが人がでない程度に激しく技を繰り出すのと同じく、訴えられたり消されない程度にきわどいことを触媒にして、笑いを構成するほうがより、お笑い芸人として面白いという評価が得られるはずだ。
しかしながら、お笑いにも構成作家がいて、面白さを増幅するストーリーを描き、批判を受けないようにネタを確認したり、許可を取っていたりする。
ラジオで落語家さんが、このテーマで20分で新作落語を考えてくださいと無茶をいわれていたときは、本当に切羽詰まった様子で、できた落語もそんなに面白くなかった。
高度なお笑い番組ほど、何人もの構成作家がバックに控えていて、より多くのリハーサルを行いつつも、何度も練習した様子を見せずに質の高いお笑いを作るものだ。
今のテレビで、許可もなくシロウトをドッキリにかけることはあり得ないし、放送できない。
一見、シロウトが笑われているようでもプロの劇団員や名の知れないお笑い芸人の卵がシロウトのフリをしている。
子供がお笑いの真似をすると、構成作家の創作もなく、リハーサルもなく、責任者のチェックもなく、お笑いの良くない部分が全開となった状態で、笑いが作られる。確かに笑いは取れるが、負の側面が多すぎるお笑いができあがってしまうのだ。
誰かを傷付けたり、失言であったり、暴言だったりする。お約束が守られていないお笑いも、いじめに近いものになってしまうのではないだろうか。
華やかな舞台で活躍する人たちは、人知れず練習しているし、ずっと舞台に立ち続けるための配慮があるということを断固として子供たちに教えたい。
朝日新聞の記事
http://www.asahi.com/business/update/0614/TKY201206130859.html
これを読んで「企業が精神障害者を雇わなければいけなくなる」と勘違いしている人が多い(おそらく新聞記者もそう思っている)ようですが誤解です。
というより、すでに企業は精神障害者を雇っています。事実上、精神障害者の雇用は義務化されています。
どういうことか、具体的に説明します。
障害者の法定雇用率は1.8%ですので、200×0.018=3.6人以上の障害者を雇う義務があなたにはあります。
法律で雇用義務があるのは身体障害者と知的障害者です。ですから、4人全員を身体障害者で揃えてもいいし、知的障害者で揃えるのもアリです。
さらに、身体3人知的1人みたいにブレンド(?)して適材適所で採用するのも構いません。
ここからがややこしくなるのですが、実は、精神障害者を雇っても、身体障害者または知的障害者を雇ったものと「みなされる」のです。
つまり、上記の4人のうちに精神障害者を含めても、法定雇用率を満たしたことになります。
障害者枠(法定雇用率を満たすために障害者を雇う人数の俗称)の4人のうち、4人とも精神障害者でもいいし、3人身体障害者で1人だけ精神障害者みたいなブレンドでももちろんOKです。
あなたがハローワークに障害者の求人を出すと、身体障害者・知的障害者・精神障害者がどっと応募してくるでしょう。そのなかから好きなのを選べばいいのです。
どの障害の人を雇うかはあなたが決めればいい。
障害者枠の対象となる障害者は障害者手帳を持っている人が対象となります。身体・知的・精神それぞれに手帳制度があります。
精神障害者が障害者枠の対象となったのは2006年からです。身体障害者とは違い、施設面などでの特別な配慮が不要のため、意外とその枠で働いている人は多いです。
普通、障害者枠で精神障害者が入ると、「枠の人」であるのを知っているのは人事と上司だけだったりするので、あなたの会社にも精神障害者が働いている可能性は十分にあります。
今回、精神障害者の雇用義務化がなされるとしたら、精神障害者を雇った場合に身体障害者または知的障害者を雇ったものと「みなす」のをやめて、正式に(?)精神障害者も障害者の法定雇用率の算入対象となりますよ、ということです。法律の文面が変わる(というか現実に合わせる)だけです。
追記:
各企業が何人の障害者を雇わないといけないか、それを決める「法定雇用率」は「雇用義務のある障害者が何人いるか」で決まります。
精神障害者の雇用が義務化されると、雇用義務がある障害者の母数が増えるので、当然、法定雇用率が引き上げられます。
1998年に知的障害者の雇用義務化が行われた結果、法定雇用率が引き上げられました。
参考資料
ガラケー、というかフィーチャーフォン買いに行ったら在庫切れだった。
ちゃんと売っていてほしい。
特別区なんだけどな…売れる数自体が少ないからかもしれないが。
ドコモのキャリアメールが捨てられないから、ガラケーを維持せざるを得ない。
他社へMNPもしたくない。
すっかりキャリアに縛られているが、メールアドレスを変えたくない。
友人知人、先輩後輩に恩師その他いろいろのお知り合いへ通知するのが面倒くさい。
キャリアの提供するレベルの低い迷惑メールフィルタでも、幸いにして迷惑メールはただの1つも届いていない。
ドコモはiモードメールの宛先の数を5から50へ増やしたらしい(5件のままだったらメールアドレス変えない)。
まわりの友人はスマートフォンばかりになっている。
けれどiモードのメールアドレスを使い続ける以上、ドコモスマートフォンはありえない。
NTT系というアプリックス社製メーラー、SPモードメールアプリへの不満はgoogle playに多数投稿されている。
(BlackBerryは“ふつう”にメールが使えるらしいが、RIMの先行きが不透明)
そもそもSPモードの障害以来、あと1年は様子を見たい。
iモードもローンチから数年はトラブルが多くて、システムを刷新してからよくなったという。
なのに在庫切れ。