私が小説を飲むのは、自分以外の人間にも、自分と同じような「人生」が存在するのを自覚するためだ。
というのは、自分以外の人間が自分と同じような「人生」を持っていることに、いまだに納得できていないからだ。
だって、私が目を離した場所で、その人間が常に意識を持って生存しているとは限らないじゃないですか。
彼らは私が目を離した瞬間にその機能を停止し、次回私と会う地点まで、自走か何らかの方法で回送されているのかもしれない。
何なら、私が目を離した瞬間に、「職場の上司」や「電車で会う見知らぬ人」なる人々は、溶解か風化でもして個々の分子に分かれ、
次回私と会う地点で、その場にある分子によって同じ物質比、そこに服装やら顔色やらのチェンジを加えて再構成される。
だから、その「上司」や「見知らぬ人」は目を離した瞬間に別人であるのだ、なんてことまで考えてしまっている。
つまり私は、自分以外の人間を、生活や思考を持たないロボットやぬいぐるみみたいな存在だと考えているわけだ。
なんで彼らのような存在が在るのかというと、きっと神様的な存在(それは、自然法則みたいな機能的な存在だ。
人格的に存在しなくても構わない)が、私の人生に何らかの働きかけを行おうとして存在させてくれているのだ。
いや、ここまで普段他人に話さない(他人が「ロボット」ならば、話す意味がそもそも無いわけだが)正直な思いを吐露したが、これは妄想なんだ。
これが妄想でなくては、毎日苦痛を以て職場に通う意味が無くなるじゃないか。
だから、他人に「人生」が存在することを無理やりにでも納得しなくてはいけない。
自分の人生を肯定するために、他人の「人生」を認めなくてはいけない。
あたかも生きているかようなキャラクターを、物語の流れの中に見いだすことによって、
私は他人にも本当に「人生」が存在するのだと誤魔化されようとする。
そんな態度で小説を飲むもんだから、小説を飲む度に、他人にも生活の存在することにたびたび驚いてしまう。
ましてや、感情があったり理屈を述べたり、なんだこの「ロボット」たちは!と混乱してしまう。
しかし、その混乱を抑えながら小説を読み進めることで、物語としての出来の良さに、
理屈でなく感情によって他人にも本当に人生があるのだと納得してしまう。
そういえば、自分以外の人間が「ロボット」だと考えるのなら、こうして、他人に向けてその考えを書き連ねることに何の意味も無いだろう、
その他人は「ロボット」なんだから、その考えを受容する「人生」が無いんだろう、といったツッコミをブクマやトラバで受けると思う。
いやまあ、他人が本当に「ロボット」だったら、そんなツッコミも返ってこないわけで、私がそんなツッコミを心から期待しているのは、
私が他人の「人生」を信じようとする萌芽なんだろう。私が妄想から解放されるチャンスなんだろう。
いや、そのツッコミは、私の人生への働きかけとして、つまり「ロボット」の機能として返ってくるのか?
ツッコミを行う人間の「人生」の一行為としてツッコミが返ってくるのではなく、
ツッコミを行う機能が与えられた人間の一機能としてツッコミが返ってくるのか?
そこは考えれば考えるほどよくわからなくなってくるが、とにかく、そのツッコミは妥当なものだとは思う。
私の妄想を私がまともに信じているのであれば、他人に向けて考えを書き連ねるその行為に、自分の日記ノートに考えをまとめる以上の意味は無い。
それでも、思考上の無理を押してでも書き連ねるのは、他人の「人生」が存在しないという考えが妄想なんだと自分に言い聞かせるためだ。
わざと、他人の「人生」の存在を仮定した行為を行うことで、その存在を自らに信じこませているというわけだ。
なんなら、この文章が小説だとするなら、あなたにも私に「人生」が存在すると理解してもらえたでしょうか、とでも締めておこうか。
仮定を信じるのは危ないやで。 通は他人に人生が無いと仮定して矛盾を導くやで。
この手の問題は案外矛盾が生じないから厄介なんやで。 哲学的ゾンビとか意識のハードプロブレムとかで真剣に論じられとる問題やで。
むしろなぜわたしがあると思ってるのかっていう
わからんでもないけど 年とるにつれて小説では他人の人生を感じ取れなくなってしまった。 あくまでも作者の作った世界の中での話なんだよなぁって感じてしまう。 リアリティの大切...
「小説を飲む」という独特のフレーズが続いた後に「小説を読み進める」という普通のフレーズが出てきたからがっかりした そこは「小説を飲み進める」と言ってほしかった
お前は既に 元増田に飲まれている
小説には登場人物を駒としてしか扱ってないものもあるけど、増田はそれについてはどう思うのだろう。