はてなキーワード: 観劇とは
ホワイティに育ったけどブラックで働いてるよ。
資産家ではないけど別荘や自宅の他に不動産もあるし、小さい頃から楽器やったり海外旅行やら観劇やら…いろいろさせてもらいました。
私は行かなかったけど、子供達は高校〜大学の間にだいたい留学していた。
アルバイトなんてしなくていいから学生のうちは勉強や興味のあることを一生懸命やりなさい!という教育方針でした。
(↑というのが大学に行くまで普通だと思って生きていたあまちゃんです)
でも、いまやブラック。ブラックというより、地味な中小企業ってだけだけど。
高卒、ヘビースモーカー、下品なメイク、リスカ跡だらけ、ヤリマン…とかがメイン。
みなさん性格悪くないので楽しくやってるけど、テレビでやってることしか知らない人たちなので知的好奇心が満たされないのが辛い。
お友だちに誘われて、前日まで行く予定にしていなかったのに急遽行くことになった。
こちらオリコンチャートにのるような音楽には全く詳しくない宝塚オタク。音楽番組は紅白を家族が観ていたら観る程度。Perfumeはもちろん知っている。好きな曲もある。だから、物は試しにと行ってみた。
ちなみにコンサートなるものに行くのは高校生の時親に連れられて以来という、まぁ、なんていうか、私の人生から縁遠いものだ。
「どんな服でいったらいい?」「動きやすい服でいいよ」
そうか、コンサートとは動くのか。普段は宝塚しかみない私はその時点で新鮮だった。私たちはお芝居の間中背もたれから背を浮かすことすら禁止されている。後ろの人もちゃんと楽しく観劇するための当然のマナーである。
何を持っていけばよく分からないからとりあえず、普段宝塚を観劇するために持っている倍率10倍のオペラグラスを持っていく。
京セラドームでたった倍率10倍がどこまでの効果を発揮するとか、私は知らない。そもそも京セラドームの広さを私は知らない。
貰ったチケットには@塁と書かれていてそれに驚く。塁!そうだ!!ここは野球場だったのだ!!!という新鮮な驚き。
上手下手ではないらしい。一つ賢くなった。
そして席に着く。なんとか手持ちの10倍オペラが有効に使えそうな距離だった。近い。と思った。ちなみに宝塚なら劇場からはみ出てる程度の距離感ではある。それでも、なんだか近かった。
コンサートの前にチョコラBBのCMが画面に流れそれに手拍子で応える観客。私はこんなに熱いCM鑑賞を初めて見た。私も手拍子しておく。
コンサートの内容についてはどこまで話していいか全くわからないし、曲名も知らないままのものが多かったので割愛。
3人しかいないのにお衣装チェンジとかどうするんだろう、宝塚みたいに着替えている間に違う人が場を埋めてくれるとかできないよな、とか真剣に悩んでいたけど、すごくうまいことなってた。凄い!!っていうかなんでも宝塚基準で考えるのやめよう自分。それ、狭い世界の話だから。
良く知らないけれど、それでもその場の空気に適当に乗ることにためらいがない私はずっと手拍子したり手を振ったりキャーって言ってみたりして、凄く楽しかった。同じアホなら踊らにゃ損損。
楽しかった!!かしゆかもあーちゃんものっちもみんな可愛かった!!本当にお人形さんが動いている。
この会場の大きさに対しあーちゃんもかしゆかものっちもとにかく小さいなと思った。別に本人が無力とかそういうことじゃない。本当なら一人5メートルくらい必要だと思う。それでも足りないかもしれない。
3人だけの力じゃなくて、映像や音響の力もあっただろうけど、たった3人でこのおっきな会場を埋めて、満たしていたPerfumeは本当に凄い。
大きなスクリーンでは踊る3人の表情が観れる。それでも、表情も確認できない、オペラをつかってなおバービー人形のようにしか見えない3人を観ている時間が長かった。必死に踊っている3人はとても近くて、遠かった。
凄いなって思った。
そして、何よりこの3人はとてもファンのことを思ってくれてるなと凄く感じた。
宝塚の舞台でもジェンヌさんはよく「ファンが大事」と言ってくれる。でも、ファンとして信じきれない時がある。
だけど、3人のコンサートは、私が本当のファンではないちょっと離れた距離から観てたからかもしれないけれど「こんな大きなドームをたった3人で埋めてしまえるほど凄い子たちにとっても、ファン一人一人は大事な存在なんだな」と本当に随所から伝わってきた。
もうちょっと、自分の大好きな宝塚のジェンヌさんたちの「ファンが大事」という言葉を「はいはい、社交辞令ですね」とか思わずに受け止めようってちょっと反省した。
ライブ、凄く楽しかったのです。言いたいことはいっぱいあって、連れて行ってくれた友人にもありがとうって凄く言いたいし、他にも書きたいことはたくさんあるけれどどこまで書いていいのか分からないからこんな適当な感想になってしまった。でも、面白かったことを誰かに伝えたいからここに書いておきます。
こんなにも反響があると思っていなくて少し驚いています。読んでくださってありがとう。そしてPerfume愛されてるなぁ!!!
一応言い訳なんだけど、ジェンヌさんたちの「ファンが大事」という言葉が本心でないとは思ってないよ。みなさん、心底言ってくれていることは本当は知っていて。
ただ、中にいすぎて外からその姿がどう見えてるかわからなくて、(すでにのめりこんでいるというのに)のめりこむのも怖くて「はいはい、社交辞令ですね」と受け流してしまうのだと思う。もちろん、Perfumeの3人とタカラジェンヌではファンとの距離とか思いの返し方は全く違うので比べるだけ無駄なのかもしれないけど。
タカラジェンヌだっていろんな人がいて、いろんな返し方をしてくれているし。
でも、そういう物事をベタに受け止められなくなっている自分に気付かされたライブでもあったのです。もうちょっと、ベタに受け取った方がいいなという反省。
宝塚も独特だけどとても面白い世界なので興味を持ったらお近くのヅカヲタまで声をかけてみて下さい。すごい勢いで宝塚の世界に案内してくれると思います(笑)
私はガリ勉で、オタクで、地元に友達が少なくて、大学院生で、外国とハイカルチャーが好き(な自分と友達が好き)だ。
一方妹は勉強が大嫌いで、リア充で、地元友達の誕生日に必ず帰省して顔面ケーキやって、JPOPとTVが大好きだ。
考え方も生き方も何もかも違っていて、お互いが「ちょっとね…」と思っている部分がある。
実際、用事のある時(スマホ買いたいけどオタク的にどれがいいか教えて等)と帰省の時以外は話すことがない。
でも険悪とかではない。用事があれば協力しあうし、帰省時にはお互い(あーヤバイな)と思いながらもそれなりに楽しく話す。
例えば私は実家でビグダディとかを嬉しがって見てる妹を(あーヤバイ)って思うし、妹もかなしそうな目で私を見ることがある。
そんな感じなので、長期にわたって一緒にいると、お互いを避けるようになってくる。
連続5日間くらいまでが楽しく過ごせる限度だ。こんな関係の人いないのかな。
友人はみんな、きょうだいと仲良くしてて、びっくりしたし、ちょっとうらやましかった。
特に姉妹関係の人は買い物とか美容情報交換してたり、一緒に観劇したり、彼氏含め3人で飲んだりとすごく仲がいい。
・選手は自己の持てる力を最大限に発揮した試合をしたいと常々願っている。
・観客もそのようなレベルの高い試合を観戦したいと願っている。
・そしてそのようなレベルの高い試合は、選手だけで達成できるものではなく、選手と観客との総合作品である。
こういうことではないのかなと。
特に3番目の、レベルの高い試合は、選手だけで作れるものではなく、観客と選手が一体となって初めて出来るものだ
というところが、テニス観戦の歴史の長い海外ではもしかしたら、観戦マナーとして定着しているのに対して、
もちろん、日本でもまったくなじみがないわけではなく、野球でも、鳴り物自粛だとか、スポーツ以外の分野でも、
観劇のマナーとか、いろいろ定着してはいるけれども、はっきりと言語化した形で、あるいは明確に意識化された形で、
試合中のためいきの是非といったひとつひとつの具体化されたものにまで踏み込んで、意識に根付いているわけではないのだろう。
だから伊達発言に違和感を感じる人は、「プロであるにもかかわらず、自身の不出来を客のせいにするとは」といった反応に
なるのではないだろうか。
だがプロとはいえ、メンタルをもった人間であるから、メンタルに左右されるのは事実として否めない部分はあるのではないだろうか。
たとえば、将棋や囲碁の頭脳ゲームで、周囲で騒音を鳴らしても、ゲームの質は本当に維持されるだろうか。
ゴルフのパターで観客の携帯が鳴ったらプレーヤーの集中力はどうだろうか。
こう考えていくと、「プロといえども…」という部分は、絶対にあるはずで、「いやしくもプロならば…」という気持ちも一方でもちろん
わからなくはないのだが、しかしレベルの高い試合をしたい&見たいという願いは、プレーヤーと客の双方の共通の願いなのであるから
そう考えていくと、観戦の歴史の長い国ではすでに共通認識化されているマナーが、日本ではまだはっきりとそこまでは進んでいなくて、
やばい。
とても分かる。
んでスポーツでもなんでも話題は付いていかれるし、そこそこ楽しく会話できる。
昔の職場では、女の人同士がいろんな会話をしたし、思い立ったが吉日で突然一緒に映画を観にいったりもしていた。
「あれ~バイクなんて乗るんだ」
「これかっこいい、映画の◎◎に出ていたのに似ている」
とか、どんどん話題が広がった。選挙前に政治家の話題で盛り上がったりもした。そういう気質の会社だったんだと思う。
独身時代は一緒に旅行に行ったし、結婚しても映画や観劇は趣味が合えば誘い合わせていた。
ところが、上司が変わったら、セクハラモラハラを受けるようになりうつ病になった。当時(十五年前)、うつ病の知識が社会的に広まってなかったので、私自身うつ病だと気づかなかったし、周囲も
と思っていた。仲がいいけれど仕事は、小さなことでも頑張るっていう気質の会社だったから、仕事に対して意欲が無いと思われると居場所が無かった。
そもそもオトコばかりの業種だったので、セクハラくらいで仕事が嫌になるっていうのも女性同士でも認められなかった。
的な。十数年前だからであって、今だったら環境も違ったと思う。
仕事能力も失って、友達もなくして会社をやめて、しばらく休んでからまた仕事を始めた。
新しい職場では、女性の話題がファッションと恋愛だけでぐったりした。
あ~あとテレビドラマ?
私の配属された部署だけではないらしく、同じような会話しかしないみたいだった。
映画もスポーツもニュースも、話題として投げても呼応しない。乗ってくれるのは、一部の男性だけだったり。
女の友達がほしいんだよ~。
だけど、この会社ではなんだか難しい。
意識が高い低いとかじゃないのよ。なんかこう視野が狭い人が多い。
多分この職場関連の女性は、視野を広くしてもいいことなんかなんでもないからなんだろうな~っていうの空気がある。
私自身が病気で会社を辞めた時に友達を失ったいきさつもあって、
と本気で悩んだ。
ダンナはそんなことはないと言ってくれるが、現実問題、洋服やら化粧品やら私が面白くないと思ったドラマの話題やら以外で会話が成り立たない。つらい。苦しい。
何年か、映画も女同士で行くことがなくなって、その日も一人の方が気楽さ~と思いながら映画館に行った。
腰掛けたら、隣の女の人がなんだか見覚えがある。
映画が終わってトイレに行ったらその人がいて、向こうもこちらを見ている。でも誰だか分からない。
「?」
お互い、あの~どなたでしたっけ、だった。
そしたら彼女が気づいた。
「◎◎ビルでお勤めじゃないですか?」
前の会社では、女性も男性も、掃除の人と挨拶してたんだけど、今の会社では掃除の人と挨拶するのは私だけらしい。その話題からなんだか意気投合して、そのまま二人でビールを飲んでメアド交換して帰った。
向こうのほうが7つ年上。でも映画の話では気が合うのでたまに一緒に行く。
思えば私は、年齢が近い人(できれば上下4歳以内)、職場が似ている人(男性で言えばホワイトカラー、専門職でも総合職でもいいけれど)にしか目が行っていなかったんだと思う。
今特に仲がいいのは20代の元ヤンキーの看護婦さん、30代半ばのOLさんでゲーマー、60超えても元気な元・ビルメンテナンスのお姉さま、私が50になるところ。それ以外の趣味や仕事の話ができる友達は、年齢がぜんぜん違ったり、仕事がぜんぜん違ったり。
女は、職業だけじゃなく、結婚している・していない、それ以上にこどものいるいないで分断されがちで、それで友達になるきっかけを失ったりすることがあるのよ。これは男の人にはわかりにくいみたいだし、書くと長くなるからここでは書かないけれど。
それに加えて年齢や職場でさらに友達の対象を限定すると、友達が探しにくくなる。
結婚相手の探し方と一緒で、本当に必要な要件だけを自分の中で考えて、相手と接していけば、友達は見つかる。
壁をぶち破るのが、意外と大変だけど。
一年前くらいから毎日のようにメールや電話をしてくるようになった女友達がいる。
一向に気持ちは諦めきれないが、万が一仮に付き合えても幸せになれない気がしてならない。どん詰まりだ。
最初はバイトの休憩時間、ほとんど話したことのなかった彼女が俺の読んでいた本を見て、「実は私もその本が好きで」と話しかけてきた。
それまではただ、物静かでちょっと綺麗な子だな、と思ってたくらいだった。
それから、向こうから誘われて、バイト帰りに食事に行ったり二人で何度か遊びに行ったりもした。
他にも、ややマイナーな趣味(観劇系)が合うことがわかって、意気投合した。
二人で話すと彼女は意外なくらいよく喋ったし、よく本を読んでて話の内容も面白かった。
その頃からほとんど毎日、長文のメールや電話が来るようになって、恋愛抜きでもすごく楽しかった。
そんなとき、別のバイト仲間の女の子から、彼女に恋人がいるらしいと聞いた。
ちょっとショックだった。なんだそれ、と思ったのも正直な気持ち。
そのときは好きになりかけてて、彼女も俺に気があるんじゃないかと自惚れてたから。
聞いた話が本当かどうか気になったし、本当なら、二人で出かけるのも彼氏に悪い気がしたし。
そうしたら、明らかに動揺した表情で曖昧に濁されて、次に会ったときに気まずそうに告げられた。「ごめん、本当は彼氏いるんだ」。
隠してた理由は、彼氏が元々同じ職場の正社員だから(俺は直接の面識はないが)、らしい。
少し距離を置いてみようと当たり障りなく接したら、
「なんで」「遠慮しなくていいのに」「彼氏とは、交友関係に干渉する感じじゃないから。お互い束縛は嫌いだから、しないようにしているし」
そう言って彼女は、悲しそうな顔をした。
その彼氏がよく女の子とも遊びに行くのは本当らしいので(バイト仲間から聞いた)、それは嘘じゃないんだろう。
結局、俺は自分の気持ちを隠したまま、彼女を傷つけず適切な距離を置くことに失敗した。
俺は就職、彼女は大学院での研究に専念するため、バイトを辞めた。日常的に顔を合わせる機会はなく、たまに飲み会で顔を合わせる程度。
俺は、少しの後ろめたさとままならなさを抱えながら、今日も電話に出てしまう。
基本的にこちらからは連絡しないが、好きな子からの連絡を無視できるほど心が強くもない。
雑談するときも、思い切り惚気てくれるんならともかく、彼氏の話題は全然出してこない。
そこまで頻繁にデートしている様子はないが、かといって、特に別れそうでもない。
たぶん彼女にとっては、手軽に連絡が取れるし趣味嗜好が近いし、女友達よりも気を遣ってくれるしで、いいこと尽くめなんだろう。
彼氏に甘えられないときの寂しさや暇を埋めてくれる相手なり、便利な友達なりとして。
彼女が心地いいならそれでいい、と思う気持ちも本当だ。俺だって楽しんでいるのだし。ただ、嫌でもつい下世話な想像をしては、しんどくなる。
恋愛対象として全くナシならナシで、「(俺のことを)結構頼りにしちゃってるみたい」とか、「もっと私に甘えてくれてもいいよ」なんて言わないでくれ。
……たぶん俺の方に恋愛感情さえなければ、「いい友人関係」に他ならないはずで、彼女のことを責める気にもなれはしないけど。
もしも彼女も気づいているんならほんの少しだけずるいよなあとは思うが、いい友達ぶっちゃってる俺も悪いのだ。
恋愛に関する価値観がそもそも違っていそうなので、(脈云々は度外視しても)彼女がフリーになるのを待つのはあまり現実的でない気はする。
俺は普通に女の子とも友達付き合いをするほうだけど、さすがに自分の彼女が知らない男友達と連日こんだけやり取りしていたら気分はよくないし。
玉砕してすっきりする……も考えたものの、万が一でも上手く行ってしまった場合に自分が困る告白もどうよ、と思うわけで。
ガキっぽいかもしれないが、彼氏がいる女の子にそれと知って告白するのは、なんだか嫌だ。
男でも滅多にいないくらい趣味が合うので、友達としてもかけがえのない相手だと思ってはいる。
だが、気持ちを切り替えようと他の女の子と出かけてみても、彼女と比べてしまって申し訳ない気持ちになる。
とは言うけれども、ほとんどのまともな人は(大人も子どもも)、それが仮想現実であると分かった上でゲームで遊んでいる。というか、仮想現実だと分かっているからこそゲームを楽しめる。
ふつうの子どもや大人にとって、テレビドラマやテレビゲームは、それが「フィクション」であり「ゲーム」であるというメタ・コミュニケーション的了解のもとで果たされる。まちがいなく現実の遊びや観劇の経験である。ここには厳密にいって、虚構と現実の境界侵犯はない。ゲームのなかでモンスターを殺し、あるいは死んでもすぐまた生きかえるからといって、プレイヤーが死ぬということ、殺すということの思い意味を理解しなくなるというのは、あまりに短絡した主張である。
西村清和(1999)『電脳遊戯の少年少女たち』講談社現代新書1472 140ページより引用
ゲームと現実の区別がつかないような人は、たとえゲームを規制したところで他の何かに影響を受けておかしなことをするんじゃないの?
首都高でレースすることはできないから、グランツーリスモ5のスペシャルステージルート7で競争して楽しむ。そういうものでしょう。
それから、エロゲに関してよく論点になっているのは、間接的な女性への暴力ではないのかという点など存在そのものを有害視する態度だと思う。
Twitter発の劇団として最近話題になった『ツイゲキ』を付き合いで観に行ったのだが、やたら不快感しか残らなかった。
時と共に解消されるだろうと思っていたのに
1週間以上経った今でもなんだかモヤモヤするので増田に吐き出してみる。
<登場人物>
私: 20代後半♀
A: 30代前半♂
私のTwitter具合はというと、有名人や身の回りの知人のツイートはチェックするけれど
自分からはさほど積極的に発信したりしない“一応やってるけど”レベル。
ある日、気心知れた知人のAが私を「演劇観に行かない?」と誘った。それが『ツイゲキ』だということは伏せて。
Aはここ半年くらいの間にTwitterにハマったようで、『ツイゲキ』の内容については何も調べていないらしく
ただ「Twitter発の劇団」というところに興味を持って、身近でTwitterやっている私を観劇に誘ったようだった。
行ってみると、まず渡されるのは卑猥なフタナリの絵のチケット。ここでちょっと嫌な予感。
会場は非常に狭かった。
前後左右の人とも少し動けば接触するし、
万が一途中でお腹が痛くなっても絶対トイレ行けないだろってレベル。
座席は抽選だったのかどうか知らないけど、ステージが近かったので一層圧迫感を感じた。
で、肝心の内容なんだけど、もうね、一言で言うと
『マジキチ』
これに尽きる。
自分はいわゆるエッチな2chまとめスレ(童貞捨てたwwwとかまんこくせえwwwとか)も、
1人の時は抵抗なく見るし、むしろ楽しんでいる。
友人と下ネタが出ることもまぁ稀にある。
だからえっちいことに関する耐性は決して低くはないと思っていたのだが……。
それとこれとは話が違う。
実際に目の前にいる可愛いおにゃのこや、そこそこのイケメンさんや、おじさんや、ベテラン女優っぽい風格漂うおねえさんが、
劇場内とはいえ公共の場でちんことかまんことかアナルオナニーだとか
その他にもわんさか猥褻な単語を恥じらいもなく台詞の中で連呼する。
これにはどうにもこうにも不快感しか感じず、しまいには吐き気がした。下品すぎるだろ。
日本人の美徳どこへ行ったよ?それとも世の男性はこういうのを純粋に楽しめちゃうの?
目の前で巨乳のかわいいおねえさんが手ブラで踊ったりとか(※TVで放送されたらしい→http://sezon.ti-da.net/e3154071.html)
女目線で純粋に「おっぱいすごいなぁ」とか思うけど、観に来ている男性客や
私を誘ったAも少なからず「( ゚∀゚)o彡゚ おっぱい!おっぱい!」とか思ってるんだろうなと思ったら
なんか物凄く居心地が悪かった。
でも自分は男の人が風俗行ったりAV見てシコシコしたりエロゲでハァハァしたりするのを否定するつもりは全くない。
むしろいいんじゃね?と思ってる。
だからどうして今回こんなに嫌悪感を感じたのかもはっきり言ってよくわからない。
このモヤモヤした気持ちをどこにぶつけたらいいやらわからない。
■「初めて」の価値
まず言えるのは、相手の「初めて」をエスコートできるのは単純に楽しいということです。
これは性交渉に限らず、
どこか食べに連れて行くのでも、観劇に行くのでも、旅行に行くのでも
相手に何かサービスを提供した時に、相手が初めてであった方が、
既に誰かと経験済みであるよりも、ずっと嬉しいし、やりがいがあります。
「いろんな初めてを経験させて、相手の世界を広げるのは自分でありたい」
そう願うのは別に不自然なことではないと思います。
相手の「初めて」の相手が自分であって欲しいと望むのは
(エスコートされる側としては相手は経験豊富な方がいいかもしれませんが)
■性感について
「最初は痛いだけで、肉体的・精神的な習熟を重ねて(相手との信頼を深めて)で性感を発達させて行く」
と認識されていると思います。
相手が処女であった場合、男性側パートナーはその性感の育成を共に楽しめる
という利点があると思います。
またその方が相手に深い愛情を持つことができるとも思います。
例えて言うなら、
既に10歳まで育った状態で引き取った養子と、
0歳で養子にもらい、10歳まで育てた子とでは
もちろんどちらにも変わらない愛情を注げるのが人間の理想像であるとは思いますが、
それにこの例えで言うと、子供におかしな点が見られた時に、
10歳まで育てた別の人間の影響だろうかという心配をする必要がない。
そういう意味で、処女の方が交際相手として価値があると私は感じます。
「非処女は中古」と言って 経験済みの女性に過剰な攻撃性を発露する人の心情は
私にはわかりかねますが、それでも自分の率直な気持ちとして、
すげえな。えらいと思うわ。
85年生まれ実家住まい(生活費・家賃は入れてるけどそれにしても一人暮らしに比べれば全然負担は軽い)だけど、働き始めてから物欲爆発。ていうか、浪費欲?
自分は地方なんだけど、普段は地味にせこせこ暮らしてるんだけどまとまった休みになると、
仕事で溜まったストレスを発散するために東京に宿をとってバーーンと貯めた金使ってしまう。
元々観劇が趣味だったんだけど、地元には観たい公演がこないから上京してたのが、いつからか金使うために上京みたいになってしまった。
ムダにいいホテル取ったり、普段行かないようなレストランで食事したりして。余計に一泊して、一日宿でゴロゴロしてたり。
ちなみにストレス溜まるから、ひとり。これが恋人との旅行だったら喜ばれるし仲も深まるだろうに・・・と思うけど絶対喧嘩になる気もするし
最低でも3日に1回。
たぶん、毎日してほしいと思ってる。
仕事が忙しくなって一週間に一度とかになると、とても怒る。
恋人に抱かれるのは権利だなんて言われて、すがるような目で見られてしまう。
そう書くと、ビッチとか言われてしまいそうだけど、外から見ると彼女はいたってふつうで、むしろ経験が少ないようにみえる。
性格もとても素直で、気の利く優しい年上の人。
そのうち結婚するのだろうと思っている。
だから正直、拒むと別れ話を切り出されるのではと怖くなる。
それに、こうなってしまったのは、ぼくのせいなんじゃないかと思っていて、それがどうしてももやもやと残って、苦しい。
増田に、相談させてほしい。
当方はプログラマーで25歳。
プログラマーと言っても老舗の通販会社なので、いつもはそんなに忙しくなく、ときたまプロジェクトが佳境に入ると、泊まりが発生したりするぐらい。
仕事の関係で知り合って、なんだかんだで付き合うことになった。
メールを何度もやりとりして、意気投合して、飲むことになった。
ぼくはその彼女とつきあうまで、女の子と付き合ったことがなく、24歳までまったくの無経験。
なんとなくいい雰囲気になったことは何度かあった。
ただ、ぼくは好きな人の前に出ると、どうしても恥ずかしがってそれを出すまいとしてしまうところがあって、それで女の子の方から脈なしと離れられてしまう、ということの繰り返しだった。
感情を平静に保つ事だけは上手なようで、仕事ではその冷静さを買われていると思うときもある。
バーで話して、付き合うことになった。
あとで聞いたら、飲んで気が大きくなっていたらしく、彼女につれられるまま、渋谷駅のホームでキス。
もちろん初めて。
なにかくちびるとくちびるでスタンプを押すようなキスで、すごい違和感を感じた。
だけど酔っていたこともあって、なにかほんとうに流れ作業をしているような感じがした。結局、最後まで行くことができなくて、そのまま眠った。
朝になって、
「何でこんな事になっているの?」
と問い詰められて、さすがに抗議した。
次に会って、キスをしたとき、ぼくは言った。
いま思うと、これは言ってはいけなかったのかもしれないと、後悔してしまう。
「下手です。それはキスじゃない」
ショックだったはずだと思う。
カップルの何割かはそんなことを考えずにしているのだと思う。
5年も経験のある2つ年上の彼女がそんなキスをしていたのだから、数だけ多いキスが東京中に飛び交っているのだと思う。
ぼくはハリウッド映画ばかり見ていたから、そのキスをイメージしていたのかもしれない。スポーツ選手のイメージトレーニングのようにキスが脳裏に残っていて、映画のようなキスが、ほんとうのキスだと、思っていたのかもしれない。
「もっとこう、触れるようにです。やさしく撫でるようにです」
ちょっとやってみると彼女はすぐにコツをつかんだ。
くちびるの合わせ方、触れ方、歯の使い方、舌。
なんどもなんども試して、恍惚とするキスの仕方を二人で探した。
キスはお互いのくちびるでお互いのくちびるを愛撫するものだから、二人の息が合わないとうまいキスができない。いやがる相手は自分を愛撫してくれないし、相手が乗り気でないときも、たいてい上手くいかない。
だけどお互いキスをむさぼることに完全に合意をしていると、突然にそれは愛撫をむさぼるようなキスになる。
二人で映画を見ながら、キスの仕方を研究していたときもあった。
そしてやってみる。
これはいい、これはわるい。
一時期、マニアみたいな二人だったような気がする。
身体の合わせ方も同じで、いろいろに研究するうちに上手くいくようになった。
ただ、キスと違うのは、男の方が極端に冷静にならないといけないということ。
よく、男性が女性の姿に興奮をしてしまい、その興奮だけで事を終えてしまうので、女性は気持ちよくなれないという話を聞く。
これは当然のことで、その男性は性的な頭脳的な興奮で事を行っているだけで、肉体的な快楽や興奮で行為を行っていないからだ。キスと同じようにお互いを抱き締め合わなければそれは得られないのに、脳だけで行っているからだ。
気持ちがいいのは脳だけであって、身体ではない。
やはりそれはキスではない、のだと思う。
「なにか肩もみのようだった」
と初体験の感想にショックを受けていた二人も、だんだんと上手く身体を合わせられるようになると、それに夢中になった。
お互いに相手の気持ちのよいところを探し、それをむさぼり合っていく。
もう真っ逆さまにそれだけになっていくようで、都内を泊まり歩いた。
月に何泊もすれば、当然にとんでもない額が飛んでいく。
たしかにお互いに上手くなっていくのだけど、会ってやることは結局それ。
のめり込み、夢中になり、溺れていく。
4ヶ月前に同棲を決めたのも、泊まり歩くお金よりも家賃が安かったからという理由でしかなく、同棲するようになって、仕事から帰ってきてすることも結局それだった。
行為の最中は夢中になっている。
終わってみると、なんて非生産的な事をしているのだろうと思ってしまう。
それがよぎると、冷静になってしまう。
これはとても空しいと。
これはなにも生み出さないと。
でも彼女は求めてくる。
足裏マッサージだって週1回ぐらいなのに、それを毎日してほしいと言う。
いくら一番お金がかからない遊びだからって、それに耽っているのは、なにか取り返しのつかない無駄をしているようにしか思えない。
たとえば旅行でもいい。
いまなら国内旅行よりも海外旅行の方が安く、信じられないぐらい安い値段で、よいホテルに泊まれる。台北3日間なら二人で6万円。都内を泊まり歩くならば、月一で海外旅行ができたはずなのだ。
同棲を始めてしまい、遊び歩く余裕もなくなり、閉じこもる日ばかりが続く。
同棲生活自体はそれほど不満でもなく、彼女ともけんかはするけれど、仲良くやっていると思う。仕事も、給料は安いけれど、そんなもんなんじゃないかと思う。
だから、せめて月1ぐらいにならないのだろうか。
どうしたらいいんだろう。
週1でも過剰だと思っているのに。
もし、出会った頃に戻れるのなら、あの言葉をいうのをやめるだろう。
下手だなんて言わなかっただろう。
上手くなる必要なんてこれっぽっちもなかった。
ほんとうのキスである必要なんてなく、キスなんてうそで充分だった。
その前に、酔った勢いで連れ込まれるのを阻止しただろう。
あなたとしたいのはそんな事じゃない。
あなたを好きになったのは、そんなところじゃないって。
泊まるのに消えていったお金で、旅行だって、食事だって、観劇だって、いろいろな企画を立て合ってあちこちを遊び回る事だってできたはずなのに。
愛し合うのは、別に結婚したあとだってよかったのに。
なんで、こうなってしまったんだろう。
なあ、増田、どうしたらいい?
昨日、新宿二丁目に遊びに行ったんだけど、美しいオカマは本当に美しいな、と思った。これは二丁目に行くといつも思うこと。
そのお店には女性客がたくさん来ていて、美しいオカマに女性が群がっていたんだけど、オカマはその中で際立って美しく、群がる女性が少々残念に見えた。群がっていた女性も決して醜い訳じゃないんだけど、オカマと並んでしまうと、女性としての意識の低さが目につく。
その点オカマは美意識が高いから、スタイルの維持にも余念がないし、メイクも完璧だった。さらには身のこなし、周囲への気配り、いずれも女性以上に女性だった。
以前、大人計画の「ドライブイン・カリフォルニア」という舞台を観劇したが、その中で「男の乙女は、女の乙女以上に乙女だぜ」という台詞があったんだけど、まさしくその通りだな、と。
男の中にある「女性像」通りの女性なんてものは、もうこの世にいなくて、幻想の中、もしくはオカマの中にしか存在していないのではないか。
オカマは女性を追い求める。永遠に。何故なら永遠に女性にはなれないから。追い求めても、追い求めても、女性にはなれない。でも、女性にはなりたい。じゃあ、どうするか。なれないと分かっていながらも、自分の中にある「女性」に近づく努力をするしかない。結果、オカマの美貌は磨かれ、美しくなる。
オカマの美しさは、悲しい。悲しいからこそ、美しい。
私はノンケですが、「昨日の店内からSEXする相手を選べ」と言われたら、まず間違いなくあの美貌のオカマを選んだことでしょう。
http://anond.hatelabo.jp/20090707100038 の続き
弐拾六話では全ての人とあっさり和解でき、すんなり受け入れられた。 しかし世の中そんなに甘くないというか、実はそれこそが自己中心的世界 と言える。もっとリアルに描いてみよう、というのが26話ではないかと。 何故なら「本質的に解り合うことのできない他者が存在する」というこ と、他者を認識するとはそもそもそうしたことである筈だったから。庵野 氏の構図で言う幻想世界の内部において、シンジはどうしてもそのことを 容認できず、他者を理解できないまま、自分を理解するよう他者に縋り続 けた。補完計画が完成し、群体から単体に還元され、全てを包含しレイに 抱擁された時点で、彼はやっとそのことに気付いた。 ラストでアスカを殺そうとしたのは、アスカが正に他者であることを、 彼が遂に知ってしまったから。でも結局殺せないし、前のようにエヴァの 胎内に逃げることもできない。そこは既に第弐拾六話の月面と同様に、後 戻りの聞かない場所、補完が導いた現実世界。・・・ なんと、エヴァと融合し全てのヒトを包含した神が、人一人殺せず、孤 独に耐えかねて泣いているんです。 私はここに最高のユーモアとカタルシスを感じました。こんなに見事な ラストは、これまで観たことも読んだことも恐らく無かったです。(^-^)
宮村優子さんのラジオ発言とか最近目にするようになった彼女の雑誌のコメント を見ると、宮村さんは今回の劇場版をお気に召さなかったのかなとも思います。 自分でも「なかなかのモノが出来た、俺の選択って凄いぜ。フフン」と庵野監督 が思ってたのに、いざ、脚本を渡したら宮村嬢からの冷たい反応。それにショッ クを受けてああいったラストにしたのかな(^^;? 無責任な憶測ですけど
あのラストシーンは,シンジが選んだこの世界が決して「気持ちのいい世 界」ではないことを辛辣に描いていました。しかし同時に,そこには絶望だけ でなく,わずかな希望もあることをも示していたと思います。 希望はアスカの手,シンジの涙。 そして,『会いたい』という気持ち。
ラストシーンは絶望的。シンジはほんの少しだけ変わった。もうひとり、ほ んの少しだけ変わったひとがいるみたい。でも、その「ほんの少し」への一歩 のなんて遠いこと。2人は、まだ変わっていないみたいに見える。だけど、絶 望は希望の裏返し。これからどうするか、それは、私たちに委ねられたのかも しれない。
ひとつだけ考えられるのは、シンジが物理世界に戻ろうと決意したのをアスカ も知っていて、そんなシンジとだったら一緒にいても良いかな、って思ったの かも知れない。 でも、砂浜で再び自分の首を絞めてる彼を観て「ああ…やっぱり何も変わって ないんだな…」と思っちゃったとか。
寂しいことを言ってしまえば、アスカにとって、自分のために泣いてくれた人 を身近で感じたのは初めての体験だったのかもしれません。初めてで慣れてない から、「気持ち悪い」のかも。
庵野監督は最後までアスカの扱いに困ってしまったようですね。その苦悩がラス トシーンにも出てしまったのでしょうか。「おまえがいるから滅茶苦茶になっち ゃったんだ~!」ってね。でもその存在を消せない(笑)。
嫌悪も一つのコミュニケーション。心の壁は現実そのもの。 そして、今までと同じ、自我と、人を代表とする非我との戦いがつづく。 何度もそれを確認しながら、幸せにも不幸にもなれるラストだったと思います。
ラストシーンのアスカ。第1話のレイと同じ場所に包帯を巻き、首を絞められな がらもシンジの頬をなでる。 これって、つまりアスカの中の“母性”を表してるのかな、と思いました。綾波 レイは「母」のメタファーそのものと言っていいでしょう。そして、シンジの側に 横たわっているアスカがレイと同じ姿であることは、彼女もやはりシンジを優しく 包み込む“母性”を内に秘めていることを意味しているように思えます。その後の、 シンジの頬に触れる行為も。 しかし、彼女の最後の言葉は「気持ち悪い」。シンジを拒絶する言葉です。これ は“14歳の女の子”として、「私はあんたの母親になる気なんて、今のところ、 さらさら無いわよ」と言ってるんじゃないでしょうか。「あんたが何を求めてるの か分かんないけど、受け止めてあげる気なんてないわよ。余裕もないしね」と。ま あ、あのシンジ-自分を傷つけるかもしれない他人を殺すこともできないで、ただ しゃくりあげている-を受け止めることなど、14歳の少女に過ぎない、もちろん 自身それなりに問題を抱えているアスカに、できるわけないでしょう。たとえ“母 性”を持っているにしても。むしろ、一方的に求める方が酷です。(さらに、相変 わらず求めるだけっていうのも、また問題だ)。 しかし、将来的には彼らがどう成長し、変化するかは分かりません。そういう意 味では、もう多くの方が感想に書いてますが、「これから」を感じさせてくれるラ ストシーンではありました。もう語られることのない物語の続きの中で、彼らは彼 らなりに成長していくのでしょう。
「不快感(=気持ち悪い)」というのは、赤ん坊が最初に感じる感覚だということを聞いた 記憶があります(←記憶あやふや)。そうでなくとも、「気持ちがよくない」という感 覚は、まぁ、「夢」だとか「望んだ世界」ではなく、「現実」を示唆しているのかな、 とも深読みしましたが・・・深読みしすぎかな?
シンジとアスカは、それこそお互い誰でもよかったんだと思います。憎む相手も 愛する相手も。でも、自分を互いに真正面からぶつけ合った過去が、二人には出来 てしまった。互いに、相手に対する憎しみも、相手が欲しいという気持ちも、相手 を拒絶する言葉も告げてしまうほど、互いの気持ちを相手にぶつけた。そして、そ の憎しみも欲求も、おそらく今後の彼ら自身の心を強く拘束していくでしょう。 ラストシーンで、くびを絞め、瞳を動かし、頬をなぜ、涙を流し、気持ち悪いと つぶやいた二人は、それこそ、愛よりも深い、憎しみもかなわない、たとえ離れて も、ひととき忘れても、もう互いの心の一部そのものにまで結びついたように見え ました。 One more final: I need you. もう一つの終局もすべてのおしまいではありません。英語のタイトルは『私はあ なたが必要である』でした。 そして、皆に等しく、同じ戦いが、始まり、続きます。 でも生きてさえいれば、幸せになるチャンスはどこにだってあります。だって生 きてるんですから。 愛よりも深く。 夏の映画は誰も他人を受けいれられなかった二人が、とにかくも深く結びついて、 そこから再び、同じ戦いが始まる、終局であっても、何も解決していない、ラスト でした。
シンジの内面に問いかける声も、もはや静かなレイの後ろ姿ではなく、アスカの 赤裸々な罵倒へと変化しました。「お願いですから、もう電話してこないで下さ い。」「よりを戻すつもりは更々ないの。」「その、やっぱり、友達以上に思え ないの。」「ハッキリ云って迷惑なの。」「これ以上付きまとわないで下さい。」 これらのセリフは作品の展開からは伺うことができない以上、庵野監督自身の人 生から引用してきたものと解釈されます(もちろん脚色を加えているでしょうけ れど)。つまり、劇場版におけるアスカは、これまで庵野監督を傷つけてきた 「5人の女性」のような「他者」を象徴する役割を与えられるようになったのだ というのが僕の理解です。 そうすれば、ラストでシンジがアスカの首を絞めかけたり、アスカがその後で 「気持ち悪い」と言ったりする寒々しい展開も、すんなりと納得できるのです。 現実の他者は、お互い決して期待通りの反応をしてくれない存在ですから。
オタクの依存を打破するために作ったアニメが、逆にオタクの依存の代表になっ てしまった苦い皮肉。昨日某アニメショップで見かけた会話。 「これ買えば」(とシンジ君が表紙のアニメディアとニュータイプを指さす少女) 「えーいゃぁー」(と汚いものでも見るかのように嫌悪する少女B) 彼女らの心の中にはカヲル君しかいないらしい。作品全体のテーマを見ようとせ ず、自分のお気に入りのパーツを使って幻想のエヴァを作り上げて固執する。虚 構からも逃げ続けている。自分以外のエヴァはいらないのだ。そして、そのこと を指摘されると過剰に反応し激怒する。「ぱふ」の一部読者はひどいものだ。無 論、綾波やアスカの一部ファンにも言える。 そういう意味で、庵野さんが「気持ち悪い」と言わざるを得なかったのは良く分 かる。だから実写を入れてこれでもかこれでもかというぐらいに観客に語りかけ た。でもそれは届かない。最も病んでいる人間、庵野さんが最も一言言いたい人 間は嫌悪する現実をファンタジーに変えて消し去ってしまうのだ。
シンジくんの首締めはちょっと??な気もしましたが アスカのシンジの頬を撫でて「気持ち悪い」は、 頬を撫でるシーン拒否、否定の感情からではなかったと思ったので 集合体としての生命の海から浮上して「こ」の世界の「ここ」にいる 「こ」の自分を認識し他の存在シンジを認識し 「気持ち悪い」ことも沢山あるけど「ここ」に自分と他人が存在 することを知覚し認識して噛みしめていると感じました。 いやぁすっかりアスカが主役でしたね。 ここまでアスカの映画になってくれるとは 嬉しい誤算でしたってのはアスカ者の偏見でしょうが。 とでも思わなきゃやってらんないよなぁ。
かくして、シンちゃんはアスカちゃんのドレイとなり、 一生、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。 <終劇>
自分は性的嫌悪感からくる言葉だと思ってるんですけどネ。 DEATHの新作カットの「ミサトやバカシンジの使ったお 湯なんて~」の頃には、もうシンジ君が自分の事を性的対象 して見てる事に気づいていたのでは?このぐらいのお年頃の と女性ってそういうのたまらなく嫌だと思うのですがどうで しょう?
シンジはアスカを殺そうとするが思い止まる。アスカに優しい言葉を期待する "ファン=シンジ"だが"虚構=アスカ"は"気持ち悪い"と突き放す。 そういうことか?ヒゲメガネよ。
それと映画でアスカがシンジを否定したのは (自分の勝手な解釈ですが・・) 「シンジがアスカの事を、好きで求めているのではないのを、 アスカは気付いていた。なので、コーヒーメーカーに激突させ、 最後に’気持ち悪い’とまで言った」 好きで求めていない、というのは、恋愛感情のみ、でなく、 シンジは弱い自分を何とか持ちこたえさせる拠り所に「強く 見えるアスカ」にすがっていたふうに見えたからです。 アスカにしてみればそんなおかんのような役、あまり嬉しく ない気が・・・。
また、最後の台詞「気持チワルイ・・・」ですが、ラストシーンでのアスカ の様子を見てみると、腕と頭部と目に包帯およびガーゼが当てられており、 これは第壱話においてストレッチャーに乗せられてシンジ君の前に初登場 した綾波レイそっくりの状態で、加えてあの目線から察するに、アスカの 中には、彼女自身の魂や人格に加えて、レイの魂が入り込んでいるのだと 私は感じました。 いわば、アスカとしてはトラウマを刺激するモノとして忌み嫌っていた レイの魂が自分の内面において(シンジへの想い故に)融合しつつある ことについて現在のところ「ケンカカレー」(歳バレ?)の状態にある、 ということで「気持チワルイ・・・」という言葉に繋がったのだと私は考えた のですが、みなさんはどう思いますか。
あのラストシーンは実はハッピーエンドである。 あの砂浜のシーンは補完直後のシーンではない。 実はその前にシンジがアスカを見つけ、傷の手当をし、ミサトの墓を作ると いう一連のシーンがあったのである。 しかしアスカは何も話さない、何も反応しない病室アスカの状態に戻ってし まっていた。(偽りの復活) そんなアスカを不憫におもったシンジは思い余った挙げ句、彼女の首に手を のばす。 しかしその時、今まで何も反応しなかったアスカの腕が動き、シンジの頬を 撫ぜる。 嬉しさのあまり、涙を落とすシンジ。 更にアスカは言う。 「(あんたバカー、何泣いているのよ)気持ち悪い(わねえ)」 そうあのシーンは「クララが歩いた」パターンの感動的なラストシーンなの である。 しかし観客の期待を裏切る事ばかりを要求された監督は素直に感動的なシー ンを作る事ができずにあのような解りにくい形にしてしまったのである。 だが安心したまえ、ビデオ・LD収録時には完全版として失われたカット・ 台詞が収録され、誰の目にもハッピーエンドである事が解るに違いない。 (笑)
シンジ・監督、アスカ・観客に置き換えると、あのラストシーンは また違った見方が出来ますね。 現実から遊離してしまっている観客を不憫に思った監督の真心。 アスカが無反応だったら悲惨ですね。 それより、もし「気持ちいい」と言われたらどーする(笑)
シンジ・観客、 アスカ・監督ではどうでしょうか? シンジ「わーん。こんなEVAはいらないよぉ~。 謎もあまり解明されてないし~ そこで気絶してないで、もう一回EVA作り直してよ~」 アスカ「(まだやれっての?)気持ち悪い....」
1:呼吸困難になった為の気持ち悪い えー、シンちゃんに首をギュッとね!(爆)された惣流ちゃんですけど意識 の無い状態で首を思いっきり絞められては血のめぐりも悪くなり気分が悪く なったという、低血圧で良く立ち眩みしてる女の子の意見がありました(苦笑) 2:あのセリフはみやむーちゃんのアドリブ説 庵野監督に捧げるアドリブ説(黒い説ですわねぇ(苦笑))という人若干名 3:怪我のために気分が悪い説 右手の謎の治療跡で判ると思いますが怪我してる場合気分が悪くなるもんです (経験者談) 4:2日目説 ・・・・・・(^^;)・・・・・・ 5:観劇してる人へのメッセージ説 ・・・・・・
「きもちわるい」。 他人の体温が気持ち悪いことって、ないですか? でも、その嫌悪感を、人は「愛情」で中和させる。 けれどそれは「無理をしている」のかもしれない。 本当は、人なんて、生まれてこない方が良かったのかもしれない。 だけれど、生きている。 それでも、生きている。 生きていなければならない。 決して理解できない「他人」の隣で、それでも「一人ではなく」生きている。
エヴァみたいな「黙示録もの」のラストって、和解・融合、善悪何れかによ る統一、純粋な荒廃、・・・みたいな一元的な世界の出現で終わるのが相場じゃ ないですか。これは魅力的だけど、弱点があります。つまり、解り難いんです。 具体的にどんな世界になるのかが想像できない。私達の周りにあるのは、一 元的把握が通用しない、それこそ「他者」が存在する世界です。争いの無い平 和な世界、とあっさり書くことはできるけれども、そこがどんなところなのか、 人或いは人々が何を考えて生きるのか、よく考えると理解できない。 放映版の受け入れ難さって、ラストのそういう典型的ユートピアが、観る側 の想像力を麻痺させたせいがあると思うんですよね。 映画版は、そうした典型から脱したところが凄いと思います。シンジとゼー レの意思に従って、一元的な新世界を一度は成就しておきながら、シンジの成 長というモチーフを重ねて「その先」を開いてしまった。この点に限れば、黙 示録を越えちゃってますよね。そうして出来上がった「他者の居る新世界」に は、シンジがその成長の代償として手に入れた、純粋で人間的な憎悪や悩みや 悲しみがあり、観る側として非常に素直に感応できる。これがユーモアやカタ ルシスでなくて何であろうかと。そしてまたそうした世界を、アスカの最後の 台詞一つで完成したところがまた見事なんですよね。
インパクトのある、出来るだけ短い、どうとでもとれる演出、ということで ああなったんではないでしょうか。鏡のように、見たいものが見える、見た くないものが見える、うがった人にはうがった見方が見えるラストシーンだ と感じてます。
最後にアスカが包帯をしている意味は、 「アスカ自身が女になった」 「シンジにとってアスカが女になった」 という二つの意味を同時に持っていると思います。 「気持ちわる」という言葉には、リアリティを持たす効果と、 触れあいによって「産むことが可能な存在となった」=妊娠のイメージを出す効果、 それに、存在が個に分かれていることの実感(喜びも悲しみも)が 表現されていたように捉えられました。
最後のシーンについてはアダムとイブというよりアジア系の神話 洪水で生き残った 兄妹の話(日本のイザナギ、イザナミの話でもこういう始まりのものもあります) の方を連想しました。 アスカの気持ち悪いのセリフですが考えによっては色々とれるセリフですね。 私はシンジと一線を引くセリフと取りました。 (ここから他人としてスタートとして2人の関係はどうなるかという・・・) この最後はFANが自分たちで考える宿題だと思えました
最後のアスカも女っぷりがよかった!きっと、あれがアスカのやさしさじゃないの かな?と思った。急にわかったようなアスカになったら余計かなしいもん。 とっても、ハッピーエンドだったと思います。映画みたあと結構すがすがしかった。
気持ち悪い,はよかった。絶望とそれでも幻想を構築しなくてはならないという 意志が感じられ・・・るか? 絶望だけか? 慰めてもらいたいのか?
立派に完結していたと私は感じましたし、救いもあったと思います。 ラストのセリフは、生々しい接触も含めてアスカがシンジを受け入れ始める、 という言葉ではないのか、と思うのですが。 少なくとも、突き放されて終わったとは感じませんでした。
私、あのシーンは本編に絡まないと思ってます。 庵野のファンに対する愚痴だと思ってます。 ファンによって傷つき首を絞められた「エヴァ」から、 おおよそ倒錯しているファンの一番多いアスカの声で、 ファンに対して文句を言ったんだと思います。
創世記によればエデンの園では人も含めてすべての生き物は裸で(つまり自分自身 をすべて晒して)いても恥ずかしいとは考えなかった。ところがアダムとエヴァが 禁断の知恵の木の実を食べた途端に裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、身体 を覆って隠した。このことが神の怒りに触れ、2人はエデンを追放された。 ・・・ラストシーンの2人はやはり楽園を追われたアダムとエヴァなのですね。 自分の殻(ATフィールド?)を壊すことができなかった(あるいは自分の殻に閉じ こもって出ることができなかった)シンジとアスカだけは結局補完されることなく、 荒廃した世界に取り残された・・。それでもアスカはシンジを拒絶するかもしれな い・・と。
この映画を、人間の内面の描写をメインとして考えると、まさしく、私の好きな ジャンルに入るんですよね。いっかい、救っておいて、最後にもう一回、落とし ちゃうっていう。(笑)でも、最後は、あれでよかったと思います。だって、簡 単にシンジが、他人を認め、世界も、そんなシンジを喜んで、迎え入れるで終わ ってたら(テレビの終わり方かな?これは。)、面白さ半減だと思います。そこ で、アスカに気持ち悪いといわれて、自分の選んだ世界の厳しさというものを示 して、終わった方が、なんか、心に重ーくのこるじゃないですか!(だから、 ONE MORE FINAL なんだとおもいます。)
補完中にシンジはアスカと、ものすごい勢いで傷つけあいます。 彼は最後には彼女の首に、手をかけるのです。 そこまで他人というのは自分にとって厄介なものなんです。 理解不能ですからね。 それでも、シンジは「融合」ではなく「他者との並存」を選びました。 「共生」だとか「相互理解」とか美辞麗句に彩られた根拠なんて、 これっぽっちも示されないのに。 根拠があるのだとしたら、寂しさゆえの「I need you」くらいなものです。 単体になってしまったら永遠に孤独ですからね。 (この辺、あまり自信無いな。二回目を見たほうがいいかな?) 目の覚めた彼は、隣で寝ているアスカの首を、再び絞めにかかります。 そりゃ、あたりまえです。 自らの選択とはいえ、自分を苦しめる元凶が、 現実に厳然と、そこにいるわけですから。 ほっとくと、こっちが殺されるかもしれませんし。 「他人がいる」─────本当に深刻です。この問題は。 なぜか生きていたアスカが、そんなシンジの頬に手をやって、 彼に「他者のいいところ」をちょっち認識させます。 苦しみとともに、ヨロコビもまた確実にあるのです。 シンジの手から、力が抜けて、その後のアスカの一言で 「終わらない夏の物語」の幕が引けます。
アスカの「キモチワルイ」発言は、相当ショックだったのですが、 彼女らしい発言だなとも思います。少なくとも、病院のベッドで 息だけしてる状態で生きている彼女より、ずっといいです。 「詩編 The End of Evangelion」では、アスカの言葉は、 「あんたなんかに殺されてやるもんですか」が入っていますが・・。 現実は、そうそう、都合のいいようにはならないんだという事に 通じている気もします。
私が思ったのは、アスカはショックで植物人間状態がある程度つづいており、 (目がサカナだった)シンジはいっそ楽にしてあげようとしたと見えたのです が。包帯をきれいに巻いてあるところを見るとシンジが悩むに十分な時間はあ ったのでしょう。(だからエントリープラグから気が付いたらあの場面、てい う訳ではない。)そしたらもう動かないはずのアスカの手が動いたので、嬉し くて涙が出た。ついでに「気持ち悪い」という正常なアスカがはくセリフが出 て、アスカが完全復活したという、無条件ハッピーエンドだと迷いもなく思っ たのですが。
あの最後のアスカ首しめられシ-ンですが、そのあと のアスカのセリフが最後の最後に観客を現実に引き戻すオチ みたいにかんじました。首しめ、まえふり?みたいな(笑)
TVシリーズを見る限り、アスカはシンジに対して14歳の少女らしい「嫌いだ けど好き」という心理を抱いているようです(まぁ25話で助けられなかったこと がしばらくもめる原因にはなるでしょうが)。それゆえに、シンジの腑抜けさに我 慢がならないのでしょうか。ただ、その心理とは別にエヴァのパイロットとしての ライバル意識も強烈ですから、非常に言動もわかりづらくなるのでしょう。 シンジの方は、ミサトさんもレイもアスカもいいという宙ぶらりん状態ですが、 考えてみれば男ならたいていは心理的二股、三股は当たり前です。しかし、この中 で本当に可能性があるのはアスカだけなのですから(ミサトは年上過ぎ、レイは・ ・・実の所は母、ユイですから)、将来的になんとか努力するでしょう。そのため に現世に戻ったのですから。 で、最初のコミュニケーションが首締めと「気持ちわるい」。一種ダークな感じ もしますが、「他人とのコミュニケーションが最初からうまくいってたまるか」と いうことであれば、先がどうなるかは・・・
しかし、あのラストは必然とはいえ悲しい物がありましたね。 アダムにとってイブとは所詮他人であり、殺意を抱く対象であ り、自分を傷つける存在なわけですから。
しかし、やはり最後はきついです。安易な現実礼賛はもっと嫌ですけれども あそこにはやはり意地の悪さは感ぜずにはいられません。 少数派なのかもしれませんが、肯定否定はともかく「私の趣味としては嫌だ」 というのだけは間違いないです。こんな人もいるということで、一応、存在 を認めていただけるとありがたいです。
やはり、あれは監督からのメッセージと取るべきではないかと。 月に斜線が入っているように、もうこの「エヴァ」は終ったんだ、 もう人の作品に自分の考えに目くじら立てて攻めるのはやめてくれ、 見る側と自分は「他人」なんだ、そこまで立ち入らないでくれ、攻めないでくれ、 こっちにしたら「気持ち悪い」んだ、 エヴァ=庵野の首を絞めるのはもうやめてくれ・・・ そういう事だと私は感じました。いつまでも他人に依存されると気持ち悪いって 事だと・・・そういう意味の、監督の「エヴァは終ったんだ!」という宣言 ではないだろうか。
私はあのラストシーンは 「自分に棘があることも、相手が針を持つことも、 全てを承知した上で敢えて一歩前に進む事が出来るようになった シンジ君」に成長した、と言う風に考えています。 「気持ち悪う。」の台詞に関しては、あそこから人類の新しい 時代が始まる的な雰囲気(オーケストラが聞こえてきそうな、 とでも申しましょうか。)の中で、劇の中の世界ではこれは 現実なんだ、と言う目的で入れたのではないでしょうか。 (日常性を出したと言った方がいいかもしれません。) まあ、いわゆるハリウッド的な大円団では無いよ。ってとこですか。 私はいい出来だったと思ってます。
アスカは「気持ち悪い」よりもその前に差し出した手の方が重要だと思います。 敗北の象徴である同じ右手だというのがヒントでしょう。
シンジが心象世界とラストシーンでアスカを求めて首を締める シーンはレイプのメタファーじゃないかという意見がありました。 確かにそう解釈するとあのラストも非常に理解しやすくなるんで すよね。
そしてラストの台詞ですが、私はシンジだけでなく、世界の全て(自分も) に対して感じたメッセージだと感じました。生きていくには気持ち悪い世 界だけど、やっぱり死ぬのは嫌だ、と。そもそもアスカがシンジを好きだ とは思ってなかったのでショックではありませんでしたが、手も触れず、 目も動かさなくてあの台詞だったら、やっぱつらかったかな(^^;)。ともかく、 我が儘を貫き通した監督に拍手!
やっぱシンジがアスカの首を絞めたのは、ATフィールドの象徴で しょうな。人は生まれながらにして、他人を拒絶すると
http://anond.hatelabo.jp/20081212235411
女だって、やりたいことはいろいろありますよ。旅行とか観劇とかエアロビとかバレエとか。でも、そういう「お出かけ」系の趣味を結婚して続けるためには、パートナーの許可が要るから、相手によってはぜんぜん行けなくなりますね。自分の趣味を優先させるのが当然と思っている間は、結婚しても破綻するだけですよ。それで破綻しない関係なら、まさしく「亭主元気で留守がいい」ってタイプの女性で、老後に2人っきりで過ごす時間が増えたら、お互いにノイローゼになっちゃうような関係でしょうね。知り合いにいますが悲惨ですよ。
地位ができて小金が貯まると、男も警戒心が強くなります。近寄ってきた女性に対しても「どうせ金目当ての妥協だろ?」なんて考えてしまいます。
ちょっと外見の良い女は、近づいてくる男に「どうせ体が目当てなんでしょ?」と思いますから、どっちもどっちでしょう。重要なのは、最初から「相手の気持ち」を決めつけないで、よく観察することだと思いますよ。自分の思い込みで相手の気持ちを推測するのではなく、証拠を集めて、そこから導き出される結論を信じることです。理系ならお手のものでしょ? そういうやり方。それから、お金を稼いでくるのと家のことをやるのを、パートナーと分担するなら、それは対等の関係であって、あなたが「養ってやっている」わけじゃありませんから、お間違いなく。最近は自分の食い扶持くらい自分で稼ぐという頼もしい女性も多いですから、地位だの小金だのと言うのなら、そういうステータスの高い女性があなたにふさわしいのではありませんか? まあ、自分のことしか考えない人に、そういう方々がふり向くかどうかはわかりませんが。