はてなキーワード: 生物とは
言葉は生物って言い回し、もう誤用が収集つかないレベルで定着したあとに「もう……さすがにしょうがないよね……」って自分を納得させるために使うならわかるけど誤用の一般化を積極的に正当化しようとする人が使ってることが多い。同時代で言葉の意味が同定出来なかったら、普通に誤伝達の懸念とか、契約や責任問題で悪用されそうで怖いんだが…
アラサーが近づいてきて、というかもう完全にアラサーになってしまい、そうすると同年代がちょいちょいガキをこさえてたりするんだけど、そのガキの写真とか見せられても、心がまったく動かなくてワロタ
例えるなら、「その辺にいくらでもあるような、なんの特徴もない山(標高100mとか)の写真」「オレンジ色のチリトリの写真」「トランプのハートの4の写真」こういうものを見せられたのと同じくらい、何も感じないんですよねえ
というか、むしろ、急に意味わかんねーチリトリの写真とか見せられた方が、えっなんなんスかこれ、どういう意図なんですか?!つって、楽しくコミュニケーションできそう
ガキの写真見て言えることって、「かわいいっすねえ!」「何歳でしたっけ?」「子育てってやっぱ大変でもあるんですか?」「保育園とかどこ行く予定なんですか?」「なんか習い事とか予定してるんですか?」
このくらいしかない
このくらいのカードをひとしきり切ったら、マジでもう、可愛いっすねえ連呼するしかない
おおー、いいっすねえ、程度で凌ぐこともある
ガキの写真見せてくるヤツのガキって大抵まだ物心ついてないくらいで、俺にとってそのくらいの年齢のガキって「器」でしかないんだよな
まだ何も入ってないじゃん
器は無理だ
いい器ですね、何を盛る予定なんですか、という話に持っていって、親の方の考えを聞くしかない
親の考えにも興味ねえけどよお!
水晶の洞窟の話とか、飛行機の形の都市・ブラジリアの話とか、巨大海洋生物の話とか、地底湖で死ぬことについてとか、ケムトレイルの話(俺は飛行機が出てくるホラーが好きです)とか、そういう話をしたいじゃん
いやまあ、ソーワットとか言い出すと、すべてソーワットなんですけどね
やっぱ子育てってあくまで当事者にとってだけシグニフィカンスが高いモンであって、部外者からしてみればホントーにマジでどうでもいいんだよな
俺はぜってえガキの話ばっかするマンにはならない
つーか生物として同じ種族でも別のトライブ(群れ)のやつが近づいてきたら敵対的な態度を取るのが普通
人間は結局動物なのに本能と違うことこそが正しいことなんだって言い聞かせながら生きてるから
何かとおかしいことになってる
元増田:23歳女性 婚約者:35歳男性
出会い:お見合い
悩み:結婚してもSEXしたくない(SEX出来る気がしない)
お見合いの原因:父親の会社の上司から持ち掛けられた話、お見合い相手はその人(父親の会社の上司)の息子
え~っと、結論から言わせて下さい。
そのお見合い、破談(お見合いお断り)した方が良いです。
父親の会社の上司からの話だから元増田さんの父親としては「断らないでくれ」と思っている可能性が有ります。
断ったら今後、会社での父親の出世に影響する可能性もあります(下手したらお見合いを断った事で、父親が仕事をクビになる可能性もあります)。
ですが、これ、相手方(お見合い相手のご両親)からしたら現代版政略結婚です。
このお見合いで結婚したら、お見合い相手の両親は、貴方を自分の息子の嫁なのだからという理由で支配しようとし、
貴方だけでなく、貴方の両親(特に父親)をも、会社で、「自分の息子の嫁の父親なのだから」という理由で支配しようとしてくる可能性が有ります。
この結婚で幸せになれるのは、お見合い相手の男性と、その両親だけです。
それから、女性の「キモイ」という直感は大体当たります。
女性の認識する「キモイ」は、「こいつとは死んでもSEXしたくない」という意識が表出したものです。
SEXできない相手と婚姻関係を続けると、どちらかが限界を迎えることになり85%は離婚することになります。
何故なら、生物の本能として、人間はSEXを求める生き物だからです。
「この人とSEXしたい」と最初に会った時に、お互いに思えた人と結婚するのがおススメです。
多分、父親の上司は「うちの息子には、ここで結婚できなければ後がない」と思いながら見合いを持ちかけてきています。
35歳まで結婚できなかったという時点で何か人間として問題が有ると思った方が良いです。
35歳の男性のお見合い相手に12歳も年下の女性を求めるのも異常です。まともな親なら年齢差が10歳以上見合い相手には選びません。
年の差婚が許されるのは(倫理的に考えるなら)9歳差までです。
Re:見合い結婚で子作り回避する方法
女性が10歳以上も歳下の男を選んで、お互い同意してるならいいの!問題なし!
男が10歳以上も年下の女性と付き合ってたら、同意があろうがなかろうが、合法だろうが違法だろうが気持ち悪い!問題あり!異常!
それで終わりでいいじゃん。
お見合いの時点で男性側から子供がほしいって明言されていたんなら、やっぱり
その時点でちゃんと考えて断らなかったのは元増田の非としか言いようがない。
友達っぽくて気が合う(から大丈夫)というのはセックスしたくない気持ちを
都合良く解釈しただけと取れる。
基本的には性欲はあるけどその男とはどうしてもセックスしてもいいと思えなかったのか、
その辺りをちゃんと(必要ならしかるべき機関での診断を受けることも含めて)しないと、
慰謝料の件にしても明確にならないし、
鋼の錬金術師には、老婆に化けるのが得意なグラマン中将ていう実力者が出てくる。
あの国家錬金術師なんてのは、どう考えたって異端審問官以外の何者でもないけど、実際、異端審問官のドミニコ会士が、錬金術師も兼ねてた事なんてザラ。
人柱だとか人体錬成とか、まあ、ウクライナには、謎の生物研究所があって、制圧したロシア軍によれば、ウクライナ人を使って人体実験してたらしいけど。
私にとって、彼の著作は、何かを始めたいが不安が先立ち一歩を踏み出せない…といった折々に、背中を押してくれるものだったと思う
振り返ってみて懐かしくなったのでここに記してみる
(断っておくが、私は彼の熱心な読者ではないので、以下解釈が間違っていてもご容赦願いたい)
初めて読んだのは、書店でたまたま目にした「弱いつながり」(2014)だった
この本には、固定化した状況での思考から導き出されることが選択肢の全てではない、不確かな状況や偶然に身を委ねることで思いがけない新たな出会いが得られ人生が豊かになる、というようなことが書いてあったと思う
他の人には当たり前なことかもしれないが、すぐに頭でっかちになって動けなくなる私にはとても新鮮なメッセージだった
当時20代後半で(当方女)、漠然と結婚への焦りがあり悶々としていたのだが、読了後、通勤電車の広告で目にした結婚相談所にエイヤッと登録し、もうなるようになるさと婚活を始めた
そして現在の夫と出会い、トントン拍子で結婚に至ることができた
それから後の「観光客の哲学」(2017)にも背中を押してもらった
この本で最も心打たれたのは、
という箇所だった
これは、生物上の親と子を指すだけではなく広い意味で自らが何かを生み出すこと(誤解を恐れずにいえば無責任に生み出すことを恐れない)の大切さを説いているものだが、文字通り私は子どもを持つことへのエールとして受け取った
私自身が親との関係があまり良くないため、「どんな子が生まれるのか、上手く育てられるだろうか」との不安を感じていたが、たとえ自分が完全な人間でなくても、どんな子が生まれてくるかはわからなくても、とりあえず子どもをつくってみよう、そしてその子どもがつくり出すものを見てみようと勇気づけられた
そして今では2人の男の子に恵まれ、日々四苦八苦しながら賑やかに暮らしている
背中を後押ししてもらったといっても、結婚出産というごく普通のライフイベントだし、他の人ならすんなり経験できるのかもしれないが、私の場合、もしこれらを読んでいなければ全く違う人生だったかもしれない
全く主観的じゃないじゃん
ここに欠けているのは、人類の進化についての真の理解である。第3章で、G&Wは、人類学の主流派のコンセンサスとされる、現存するアフリカの狩猟採集民-「小さな移動集団」で生活する素朴な民-に私たちの採食祖先をなぞらえたことを批判している。そして第4章で、彼らは考えを変える。人類学の主流派のコンセンサスとは、オーストラリアのアボリジニのような狩猟採集民のことである:
大陸を半周し、まったく異なる言語を話す人々の間を移動しても、キャンプは自国と同じようなトーテムの部族に分かれている。このことが意味するのは、住民の半分は彼らに歓待の義務を負いながらも「兄弟」「姉妹」として扱わなければならず(そのため性的関係は厳禁だった)、もう半分は潜在的な敵であると同時に結婚相手でもあったということだ。
ルイス・ヘンリー・モーガン(1877年)は、いわゆる「分類的」親族関係の発見に基づいて、私たちの学問分野を創設した。その原理は「兄弟の同等性」として要約できる。たとえば2人の兄弟は、その関係性に関して互いに相手の立場に立つ。ある女性は妹に、『あなたの子どもは私のもの、私の子どもはあなたのもの』と言うでしょう。だから、子供に関して『私有財産』という概念はない。家族生活は『核家族』ではない。すべての子どもは、数多くの異なる「母親」や他の支援者である親族の間を自由に行き来することができ、大人になるまでそのような自由を享受し続ける。
人生がこのように構成されるとき、その結果は並外れたものとなる。誰もが、広大な地域に広がるつながりの鎖の中で、形式的には互いに同等に扱われる「兄弟」や「姉妹」からのもてなしを期待できる。この結果のひとつは、国家が成長する土壌を持たないということだ。人々が自主的に組織化され、互いに同盟を結び、育児やセックス、ダンス、家庭生活の喜びがより共同的に経験されるようになれば、国家が入り込んで埋めるべきデッドスペース、つまり社会的空白はなくなる。国家に取って代わることなく国家を廃止することはできず、共同体的な家族生活(今日の世界では、自己組織化された近隣地域やその他のより広いコミュニティ)は、そのためのひとつの方法なのである。
不思議なことに、グレーバーとウェングローはその長い著書の中で、親族関係についてほとんど何も語っていない。グレーバーとウェングローは、モルガン=エンゲルスのパラダイムを批判する代わりに、『家族、私有財産、国家の起源』(エンゲルス1972[1884])におけるエンゲルスのヴィジョンをひっくり返している。彼らの言う「はじめにあったもの」は、私有財産、宗教、そして国家である。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの観念と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。マーシャル・サーリンズとの共著『王について』(2017年)では、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたのだから、国家の原理は人間の条件の不動の特徴であるとさえグレバーは示唆している。
アナーキストが私有財産と国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、『万物の黎明』はそのメッセージに重みを加えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。個人的には、すでに燃え尽きようとしている惑星に、どのような「飛び地」があるのか想像するのは難しい。グレーバーとウェングローは、「もうひとつの世界は可能だ」という革命的スローガンを放棄したようだ。代わりに彼らが提示するのは、「階層と平等は、互いに補完しあうものとして、ともに出現する傾向がある」という悲痛なメッセージだけである(p.208)。(p.208)彼らは、どこか別の場所で抑圧を受け入れなければ、ある場所で自由を手に入れることはできないと言っているようだ。
このような批判はあるが、本書の重要な点は、振動を提唱していることである。すべての生物には脈動がある。生きては死に、目覚め、眠り、息を吸っては吐き、季節の移り変わりや、私たちの生命に優しい地球・太陽・月の軌道系のその他多くの周期性によって動かされているのだ。
私たちは、物理的にだけでなく、社会的にも政治的にも、惑星地球をもう一度回転させる必要がある。これは、人々に配慮と支配や統制を混同するなと言うことでできることではない。それは、学校のストライキを支援し、そのピケラインで歌い、職場まで行動を広げ、通りで踊り、交通を遮断し、資本主義を完全に停止させることによってなされるのだ。
しかし、いったん主導権を握ったら、次はどうするのか?ストライキが長引けば、すぐに飢餓に陥る。だから、揺り動かそう。例えば、週1回の学校ストライキをもっと長くし、月に1回実施し、賃金奴隷から全人類を解放するまで世界中に広げよう。炭素排出量は即座に50%削減される。それから仕事に戻り、必要に応じて再編成する。資本主義に逆戻りしないと確信できて初めて、仕事に戻るリスクを冒すことができる。そして、次の新月には子どもたちとともにピケラインに戻ると誓い合って初めて、それを確信できるのだ。世界が再び揺れ動き、息を吹き返すまで、私たちは権力を奪い、それを放棄し続けるのだ。未来を取り戻そう。家父長制でも母系制でもなく、月による支配のようなものを。
それは、最初の人類革命の階級とジェンダーの力学を、今度はより高い次元で繰り返すことだ。このようなことは可能なのだろうか?みんなに議論を開いて、何ができるか見てみよう。それはきっと、活動家であり人類学者であるデイヴィッド・グレーバーが望んだことだろう。