はてなキーワード: 時代劇とは
しかし冒険というのは「未知」のものに挑む話だが、長期連載漫画でこれはかなり厳しい気がする。
長期連載で「お馴染みの人気漫画」になることは「未知」という要素とかなり相性が悪い。
少年漫画という「舞台設定」よりも「キャラクター」で物語を引っ張るフォーマットもネックかもしれない。RPGが人気なように、冒険はゲームとは相性がいいんだろう。
もちろんジョジョ三部やダイの大冒険など、過去に成功した少年向けの冒険漫画も多いから、あまりアテにならないけど。
今の時代に冒険物を成功させるには、ゴールデンカムイのように「アイヌ」「金塊」「時代劇」「生きていた土方歳三」「食(トリコやダンジョン飯もそうだ)」などの、周到な道具立てやそれをうまく切り取る視点など、かなり高い力量が必要だと思われる。
あれくらい緻密に大胆にやらないと、すぐに飽きられて終わってしまうんじゃないか。
逆にいうと、そんだけ現代劇のバリエーション、ドラマ作劇の題材が豊富でありながら、それでもなおヤクザなんぞ題材にしてるような、端的に言えば前近代的な価値観の作品がこの世からなくならないのはなぜなのか? って話ですわ
あたかも「エンターテインメントフィクション=どいつもこいつも前近代的作劇」と言ってるかのような最初の書き方は悪かった、すまん
でも、スポーツ物や職業物や刑事物なんぞの現代劇エンターテインメントにおいても、多くの観客が見いだしてる娯楽性は、極端なるチームメイト間の団結やら組織への忠誠やら宿敵との確執やら時代劇じみた前近代的要素ではないかではないかという気がするなあ
ありていな話、「わかりやすいエンターテインメントフィクション」は前近代的価値観でないと成立しにくい
たとえば、私的な問題に対する司法権力を無視した暴力による解決、私情による復讐での殺人、近代的な企業のビジネスライクな上下関係にはない濃密なロマン性を持った主従関係、所属集団が敵対しているゆえ結ばれない男女……等々
おかげで、それらを描いた作品を作ろうとすれば、時代劇とか異世界ファンタジーになるのが通例
現代劇でその手の要素を描こうとしたら、「現代に生きてる前近代=侠客アウトローの世界」ぐらいしかないのだ
現実の生活においてはとっくに、ヤクザや不良や暴走族を嫌う人間の方が多数であろう
高倉健の任侠物映画や深作欣二の実録ヤクザ映画が若者の基礎教養みたいなもんだった60~70年代に比べれば、ヤクザも不良もエンターテインメントの世界においても随分と隅っこに追いやられた方だと思う
しかしながら、フィクションの世界において現代においてなおヤクザが都合良く使われているのは、みんな心の奥底では「近代の自由・平等ってつまんない、前近代的な暴力性や主従の束縛などがあるほうが”ドラマとしては”面白い」と思ってることの証左
衣食足りて礼節を知るというけれど、あくまでエンターテインメントとしては、平和な時代になったからこそ、むしろみんな前近代的なものを楽しく思うのさ
時代劇は東西を問わず体制批判の手段だったというから、そういう方法がまず考えられるのでは。過去を舞台とすることで一旦クッションを置いて検閲を逃れる、または客が事前に持つ政治思想などの偏見を拭い去るやり方。
同じように未来SFなどもそういう趣向がある。管理社会を描いたディストピアものがわかりやすい。
ストレートな体制批判はあまり見かけないが、歴史的に見ると都市化とともにサイコパスやストーカーや連続殺人鬼ものが増えるなど、社会状況の変化があらわれやすい。
デスゲームものも若者たちの閉塞感やゲームを仕掛けるものへの反抗心と取れる。
最近人気のゾンビものも政治や文明批判の題材としてはよく使われるジャンル。
世界中でゾンビ映画が量産される理由には低予算で作りやすいことの他に、メッセージを込めやすさも挙げられる。元々現代ゾンビの産みの親であるロメロは、ベトナム戦争の時代背景を参考にしたり消費社会文明を批判する意味も込めて作ったと語っている。
ちなみに攻撃したい対象をなんの工夫もなく出してしまうと、百田尚樹先生のカエルの楽園のように左右両方からも「あほか」と一蹴されて終わってしまうので注意。
もろディケイドじゃねえか。
でもメイン購買層の未就学児童は3年周期ぐらいで入れ替わってるはずだし、
5〜10年スパンぐらいで同じネタ題材にしても別に全然問題ないんだよね。
大友は「これ前にやったよ!●●じゃん!」とか言いつつも結局のところ見るし買う。
もうクウガ〜剣ぐらいまでの「販促縛りの中でもちゃんとした物語を!」という気骨は残って無いしこれで良いんだろう。
てかさ、大体の特撮っていつもこのパターンで周ってるんだよね。
真面目に作った素晴らしい作品が大当たり、それに味を占めて続編を乱発するもネタ切れして客演などの使い回しが横行。
徐々に子供向けが子供騙しにすり変わって終焉する。で、十数年ほど経って心機一転で真面目に作った復活作がヒット、てな感じ。
現時点でも新作が出続けてるウルトラマン・仮面ライダー・ゴジラ、全部そうやって周ってる。直近だとシンゴジラが良い例だ。
数少ない例外が戦隊シリーズで、最初っから子供騙しと割り切ってる。平気で同じ題材使い回すしプロットも毎回陳腐だ。
車や恐竜、忍者なんて何回モチーフになったか分からないだろう。だからこそゴレンジャーからシリーズが途切れていない。
その代わり物語を評価されることは殆どない。水戸黄門や暴れん坊将軍みたいなもんだ。同じ時代劇でも黒澤映画等とはまるで違う。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ここだけの話、私も少し前までは誰が作ったか見分けがつかなくてな。
今でも百合とか薔薇とか、右とか左とか、リベラルの種類やPCあたりは正直なところ記憶が怪しい。
ブクマの多さがホッテントリに密接に関係している以上、「ブクマしている人間がしょうもないから」というのが答えになってしまうな。
まあ、あくまで君の主張に則った上での回答だが。
つまり、その「“しょうもない”中に君が含まれていない」というのが本質的な回答になる。
君がその“しょうもない”人間に加担した覚えがあるなら自明の理だが。
今回学ぶべきは、「大局的に見れば、しょうもないモノの方が遥かに多い」ということだ。
その次元内では、しょうもないと思っていないからブクマしているかもしれないし、思っていてなおブクマしている人間だっているかもしれない。
幸か不幸か、私の質問会場はしょうもなくないことが多いが。
スープにできた膜を食べる仕事も大概だが、こっちはまだ理解できる方だからな。
昔の日本でも敵討ちは認められていたから、そんな感じになるだろうな。
そういったものを題材にした演目もいくつかあるので、私刑行為ってのは古今東西需要があったわけだ。
私が知っているレベルの時代劇とかでも、基本的には悪い奴らを非合法な手段や、超法規的措置で成敗するものが多いしな。
とはいっても演目になる程度には、理想と現実が異なっていることの証左でもあるが。
多くは返り討ちに合うか、そもそも仇相手と出会うこともないまま旅の途中で死んでいたようだ。
武家とかは仇を討たないと家督を継げないなんていう風潮もあり、嫌々やらされることも珍しくなかった。
つまり何かを公に認めるということは、しがらみも多くなりやすいってことだ。
セリフの和訳も多い。それだけじゃなく、固有名詞も解説されてる。例えば第一話、webster's roomという言葉が出てくる。調べてみると、フルハウス放送前にあったドラマに出てくるwebsterくんの部屋を意味しているとのことだ。このレベルの解説なんて他のドラマにない。
ゲーム・オブ・スローンズのような今をときめく人気ドラマも悪くはないんだが、やっぱり時代劇なので古めかしく堅い表現も多い。現代の一般会話には使い難い。それにウィンターフェルか壁の登場人物は北欧訛りの英語を話しているらしい。自分には分からんけど、ウェールズ出身の重度GoTオタクの知り合いが言ってたからそうなんだろう。つまり勉強には向かないって事だな。
銭形平次とルパン三世の銭形警部、どっちの知名度が上だろうか。
俺はアラフォーだからさ、銭形平次という時代劇があったことくらいは知ってるのね。祖父母がテレビを見ていたとかいう記憶はないけれど、小さいころに触れた作品のいくらかで銭形平次ネタが扱われていたのだと思う。内容とかはあやふやだけどな。江戸時代の岡っぴきかなんかで銭を悪人に投げつけるんでしょ。
だからFFのアビリティ「ぜになげ」も、ああ銭形平次のやつね、と普通に通った世代でもある。でも、本当言うとドラマは見たことないし、どんな俳優が演じていたのかも何も知らない。ルパン三世の銭形のとっつぁんのほうが親しみがある世代でもある。それでも、知った順は銭形平次→とっつぁんだった。
俺より年上の、例えば親の団塊世代なんかだと、明らかに銭形平次の知名度が圧倒的だ。それはまあわかるんだけど、俺より若い世代はどんなふうにして「銭形平次」を知っていくのか、これがわからない。銭形のとっつぁん、コナンの服部平次、FFのぜになげ、この3つを知っていても「銭形平次」にはなかなかたどり着かないのではないだろうか。物語が読まれているわけでもなく、時代劇が放送されているわけでもなく、現役の若いクリエイター自体が「銭形平次」に直接触れてきていないのだ。
もはや10代20代は「銭形」と聞いても「とっつぁん」しか思い浮かばないのではないかと思うのだ。もはや銭形平次という元ネタは通じなくなったように思うのだ。
いや、そんなたいした意味はない。
江戸時代とか明治とか、落語と講談ってのがあって、落語よりもむしろ講談のほうが流行っていたと聞いたような気がする。
しかし、ラジオはともかくテレビの時代になると、講談はもうすっかり衰退した。
講談で聞いていた勇ましい戦の話は、これはもうテレビや映画の時代劇にはまったく対抗できない。
時代劇に限らず、講談でやっていたような話は、現代の映像と音楽のシステムの前に歯が立たない。
(ラノベと漫画は残っているので、それはテレビに対抗できているすごいシステムだ)
一方、落語はほとんど声で一部動きや音もあるけれど、いまでもテレビの映像システムに対抗できている。これはどういうことか。
落語以上に動きの入った漫才やら、音楽の強いリズム芸人やら、まあそれなりに頑張ってはいるけれど、落語を滅ぼすほどの力はない。
またシベタクか〜って感じだけど。
西部劇が、日本でも「誰もが知ってる人気のジャンルと世界観」だった時代―それが”消滅”するまで - Togetter
西部劇なんか
「元ネタは見たことないけどオマージュやパロディを通してどういうものかは知ってる」
の典型例じゃん。
漫画なりアニメなりゲームなり、西部劇モチーフの作品は誰しも必ず通ってきてるはずだし、
スペースオペラなんかの派生も含めれば、むしろ知らないほうがおかしいとさえ言える。
別に流行ってるとは言わないけど「消滅」は明らかに言い過ぎでしょ。
「西部劇が好きだ」「西部劇を知ってほしい」という側なんだよね。
「どうして時代劇は無くなったんだろうね」
現実にある人気をわざと無視するかのように最初から諦めてしまう。