はてなキーワード: 口話とは
だってワーワー権利主張して健常者に悪口言いたいだけのヤツらしかいないんだもん
耳が聞こえないのは個性、だから私たちはかわいそうじゃない! ああそうですか
仮に「私は目が悪いのが個性だけど、それを大事にしたいからメガネもレーシックもしたくない
そうしたら車の免許取れないって言われたけどそれは差別だ」って言ったらどう思う?
差別じゃないってお前らは言うだろうけど、「差別って当事者が感じた時点で差別だ、他人がそれを決めつけるな」って言ったのは身体障害者のお前らの方だよ
目が悪いのは障害じゃないってお前らは言うだろうけど、「ろうと難聴は障害じゃない、個性だ」って言ったのもお前らのほうだよ
私は目が悪いけどその自分自身とアイデンティティーを大事にしたいから絶対にメガネ、コンタクトはつけないしレーシックもしない
だけど見えないから配慮をしてほしいしそれに気づかなかったり冷たくする周りの人は理解がない差別主義者だ
っていう言葉にひとつもおかしさを感じないのであればお前らの主張をそのまま続けてればいいよ
人工内耳手術や補聴器は聴こえない自分のアイデンティティーを否定されることになるからしたくない、もちろん口話は苦手だししたくないからしない
だけど聞こえないから配慮をしてほしいしそれに気づかなかったり冷たくする周りの健常者は理解がない差別主義者だ
っていうその主張な
スマホのメモ機能とかで筆談する分にはいいだろうけど、一部の界隈なんか「健常者が手話覚えないのはおかしい、努力が足りない」とか言ってるもんな
聾者難聴者が口話したり人工内耳付けたりする苦労>健常者が手話覚える苦労
だと思ってるらしいけど お前らの好きな配慮はどこ行ったんだよ 健常者が皆何でもかんでも簡単に出来るとでも思ってんのか?苦労マウントお疲れ様です
そのくせ子供とかがよくやる手話歌(歌詞を手話にして振り付けしてあるやつ)に対しては 通じないとか手話になってないとか散々コソコソdisりまくってるのも草 そんなんだから誰も手話なんかやろうとしねえんだよ
どうぞ今後も日陰の中で身内同士健常者の悪口コソコソ言いながら差別ダー差別ダーって言っててください
それやってるうちは一生日陰だろうよ
まず、文化の盗用、と主張するに足る背景がある、認識している当事者や賛同する人達が、もともと結構いるのよね。
それはお辛いでしょう
「補聴器や人工内耳があれば、手話は必要ない」「手話を使うと日本語を覚えない」みたいに言われて育ってきた聞こえない人は沢山いるし、
大変でしたね
結構なことです
続き)人達がいて、過去の同じ様な人達の活動により、街中で手話を使って話すだけで奇異の目で見られることは少なくなり、
大変でしたね
ただ、手話が一般的に普及していくのと同時に、まず最初に、聞こえる人が覚えやすい手話表現が広がった、という問題があったんですよ。
それを問題と言われても
何が問題なんですか?
アニメで日本語に触れる外国人は「キサマ」とか変な二人称から覚えるし、「アラアラ」という言葉をセクシーな年上女性と結び付けています
そんなもんでしょう
それはそうでしょうけど
それを、どこまで許容するかってのは議論があって…(続
聞こえない人が使ってる手話表現こそが正統派って思ってる人から、いやー少しくらいヘンテコでも手話が広まる方が大事だよーって人まで、いろんな考え方の人がいるんですよ。
その二者って衝突してなくない?
「普及は大事」「このバージョンが正統」これ衝突してないよね?
え、お話一通り終わり?
何がどう複雑であるのか、健聴者が手話学ぶことの問題が那辺にあるのか、お話聞いてもさっぱりわからなかったのですが
どこかで示されていましたか?
まとめると
1~4は「手話はこんなに抑圧されてた歴史がある!」というお話なんですよね。
はあ。
大変でしたね。
同情します。
でもそれが
本題である「健聴者のガキが手話を学ぶことは不当である」「文化の盗用である」という主張をどう後押しするのかさっぱりわからないんです。
本当にこれだけなら、ただの未整理のモヤモヤしたお気持ちの八つ当たりに見えるのですが…
5~7は「健聴者の手話には独特のクセがある」「それをどこまで許容するか」というお話。
はあ。
そりゃ聞こえない人と違うクセが出るんだろうなってことは言われるまでもなく想像できることですが
それの何が問題なのか、なんで許容するとかしないとかいう話になるのかがわからないんです。
中国人の日本語は独特のイントネーションや助詞のクセが出ますが、「それをどこまで許容するか」なんて話しますかね?
もちろんあまりにクセが強くて意志疎通出来ないとか、凄く失礼な雰囲気になってるとかで、「ここはこう治した方が役に立つよ」ってことはあるかもしれませんが
そういう話じゃあないんですよねえ。
じゃあなんなんですか?
8~9は、何も衝突してない2つの立場が対立的に書かれてるのでこの人大丈夫かってなります。
「Aが正統」と「Bが正統」なら戦争ですが、「普及は大事」と「Aが正統」は何も衝突してない。
さらに問題を複雑にさせてると思うのは、長いあいだ手話がしいたげられてきたからか、聞こえる人の手話感におもねる判断や行動をする、聞こえない人がけっこういまして。
少なくとも解決は聞こえない人の精神変革でしか達成しないですよね
おもねるのはやめよう!おわり
この人どうも「問題は複雑」って言うのが好きみたいなんですが、書いてること見る範囲ではそんなに複雑じゃないんですよ
自分が物事を整理整頓せずに思考してるだけなんじゃないんですかね。
文化の盗用って主張は、そういった聞こえない人達に対して、手話は自分達のものだよ!!って呼びかける意味もあったりするのよね。
はあ?
聞こえない人達に、「聞こえる人へおもねる必要はないでしょう」と呼び掛けるべき話を
聞こえる人達に、「手話を使うな!文化の盗用!」と言う。それが何故なのかがわからないんです。
例えば、年配の人に多いんだけど、普段はとても魅力的な活き活きとした手話を使う聞こえない人が、
痛ましい話かもしれないけど
それって聞こえる人間が手話を勉強しようとしたことが悪いんですか?
って聞くと、えー?ただ単に初心者向けに、わかりやすく表現してくれてるだけじゃないの?って思うかもしれないけど、そうじゃないの。
手話は文化であるって主張する人の本とか読んでると、聞こえる人が使う手話のほうが正しい表現だと思っていた、ってエピソードはわりとでてくるのよ。
それ聞こえる側にどうも出来ない問題ですよね?
その問題は「聞こえない人がちゃんとしよう!自主性を持とう!」 としか言いようがないことでは。
むしろ手話教室に出席しにきた聞こえる人達は生徒として教わる側なので
「あんたたちに教えてる手話は実はあんたたち向けに文法変えてるんです」とかも、言ってあげないと困るじゃんわかんないんだから。
彼等彼女等に何かできるの?それ。
はあ、大変でしたのね
でもご説まるまる拝聴しても
結局何が「文化の盗用」なのかさっぱりわからなかったんですよ。
耳聞こえるガキが手話勉強したことの何が問題なのかも結局全然言えてないですよね?
手話界隈のTwitterをゆるく眺めてる人としては、「お、また、いつものやってるな」って感じだったけど、話題が大きくなったので、
っていうから長々読んで、結局これだぜ
→さっぱりわからない
→さっぱりわからない
アホちゃう?
主張を~
ま・と・め・ろ!
これが基本形。な。
ポエムはどうしても書きたいなら基本を済ませた余白で書け。
なんでいっちょ噛みして「自分の言葉で語ってみます」からの、長文費やしながら全く何への説明にも回答にもならないポエムなの?
それってバカじゃん?
でさあ、この人個人がどうこういうより、このタイプのバカが多すぎない?世間。
私はバカだと思った相手について、相手が何故バカなのか、どうバカなのか、
逐一当人の言葉を引きながら、ちゃあんと理屈で説明してるでしょう。
私へ異論反論したい人は「待て、ここの論理がおかしい」「ここの前提が間違いだぞ」って簡単に反論出来るんですよ。
(まあ本格的バカはそれすらできないので「こいつなんかムカチュク!」という概観的お気持ちを喚くだけで終わりですが)
おバカさん全体に言いたいのは
「自分の気持ちを上手く表現できる言葉が出てくるまでもうちょっと考えてから言葉にして、文にしようよ」
ってことなんです。
全然理屈が整理できず論理も通ってないまま」「文化の盗用」みたいな大雑把なバズワードだよりで発表するなと。
自分が整理する気ないだけなのに「問題は複雑で~」とか言って投げっぱなすなと。
口での会話なら頭の回転とか語彙力とかでその場で上手く出てこないってのはある、それは酌量しますよ
でも文で発表してるのにお気持ちそのままボヤボヤ思考そのままで論理がなんにも通ってないのは甘えだと思うんですよ。
私は表面的にはちょっと口汚いけど、それなりに礼儀正しく書いてるんですよ。
お前のその整理されてないお気持ちや全くまとまってない思考をそのまま他人様に見せるなと。
つうか、よくそんな脳内がゴミ屋敷のような状態のまま生きていけるな、気持ち悪くねえのかなってバカを見るたび思います。
oka_mailer 知らない事ばかりだった。こういう背景を理解しないで「文化の盗用」に文句つけても話にならんわな。
2020/07/31
これ全く栄養の無いスナック菓子みたいなコメントですけどこれが1位なんですよ。
誓ってもいいですけど、こんな無内容なこと書くの、別に何もわかってないし、何も理解してないし、
そもそも読んだもの咀嚼して自分なりに考えるということすらしていないんですよ?
全然脳細胞動いてないけど、なんか殊勝で感心な態度に見せるテンプレートを使ってるだけ。
そして同じぐらいのレベルの人たちが「立派な人だ!」って☆を付けてトップにするわけ。
「うーん、もんだいはふくざつなんだ!」「しんしなたいどがだいじだ!」
全員なんにも考えてない。
考えること頑張る前に、”殊勝に見える仕草"だけ身に着けたんだね。
ゾンビみたいだよね。
こう挑発しても誰一人として意気地を見せないですよ。
ponpon_qonqon おまえも反論できてないじゃん。
私は「こいつらは何を主張してるのかすら不明」と言ってんのに反論出来てるわけないじゃん。
1.一行目と二行目繋がってなくない?
2.その押し付けについて、「ガキが給食中黙って会話出来るように手話を学びましょう」って話がどう関係してくるの?
あの小学校のガキが手話でコロナ飛散を防ぐと(そこまで上達すると思えないけど)、聾者が口話法手話を押し付けられて混乱するの?
なかなかにすごいバタフライエフェクトだけどそれちゃんと検討してから発表してる?
3.あんたのその主張はかなりチョウチョが飛び回ってるけど、少なくとも一つの反論可能な主張ではある。
元のカッキー氏やさらに大元の文化人類学者氏はそういう一定の主張すらちゃんとやってなくて、何が何だか全く分からない。
「文化の盗用」というコンテンツ不明のバズワードで威嚇し、そのワードの定義は何だと聞かれると怒るという糞仕草をいい加減にしてほしい。
maruX 全く持って分かる気がないくせに、自分に分からせろ自分が分からなければお前の主張は論理的でないという良く見るやつじゃん。「ガキ」呼びといいあらゆる方向に敬意がない酷い増田。
2020/08/01
どうダメなのかこれだけ粘着長文書いて説明する人間に「分かる気がないくせに」ィ?
失礼ながら、どんな話題についてもあなたよりは真剣に分かろうとして読んでると思うよ。
maruX 2020/08/01
意味わかんね~~~~ ふわっふわ。
でもこういう「何となく殊勝な感じに見える態度」を取ることにだけは長けてる感じがすごい伝わってくるよね。
何故直接聞いたらいかんのですか?簡単に聞けるツールと環境があるのに。
聾者様に失礼だぞみたいな話?
この「なんで?」はしーらいおにんぐに当たるんですかね?
ちゃんと根拠と思考を持って発言してる人ならノータイムノー負担で答えられるようなことしか聞いてないんだけど。
これぐらいが不当な問い詰めだと感じる人は自分の脳のフローを見直した方がいいと思うんよ。
otihateten3510 なげーよ。
なげーなすまん。
それならそう書いてくれりゃいいと思うけどね。(もちろんその危惧の妥当性は検討するし怪しすぎたら突っ込むけど)
そういう風に何かをはっきり書くこともなんか避けてねえ?
rci 聾者よりも健聴者の数が圧倒的に多いから、でしょ。そのせいで、本来は聾者のものがどうしても健聴者に乗っ取られがちになるということが、この増田はなぜわからないのだろう。
2020/08/01 リスト
健聴の手話利用者が聾の手話利用者を上回るなんてまるで考えづらいねというのがまず一点。
そんでカッキーさんはあなたのようにはいってません。抑圧の歴史があるせいで聞こえない人が卑屈になってしまいがいなのが問題だといってます。(手話人口が逆転するなんて仮定は荒唐無稽なので採用しなかったのかもね)
知らない人も多いかもしれないが、日本の30以上の地方自治体で成立している。先日大阪市でも成立した。
(https://www.jfd.or.jp/sgh/joreimap)
ここまで多くの地方自治体がこういった条例を作っているのなら、国が手話言語法を制定してしまえばいいじゃないかと思う方もいるかもしれないが、国がやってくれないのである。
一部の聴覚障害者や関係者が制定運動をしているのだけれど、なかなか実現しない。
仕方ないので、地方から国を動かしたろということで2013年に鳥取県が制定したのである。それから全国に手話言語条例が乱立し、世はまさに手話言語条例戦国時代!状態になったのである。
とりあえず手話言語条例がどのようなものかを理解したければ、実際に条文をよんでみるのが一番だと思う。原典アタック。
最近はいろんな手話言語条例が成立したので変わったものもあるが、ベーシックな原点の鳥取県手話言語条例でいいかな。
http://www.pref.tottori.lg.jp/222957.htm
23条しかないので、全文を読むのにも大して時間はかからない。法律に出てくるような難しい言い回しもないので簡単に理解できる。
最近は変わった手話言語条例を制定しよう(京都市の観光客向けの手話言語条例とか)としているところもあるみたいだが、基本は大体この鳥取県の条例と似たようなもんである。
結局のところ、総合的に見て各地の手話言語条例に書いてあることの基本をおおざっぱにまとめると以下の2点のようになる。
②手話を普及させることで聴覚障害者やその関係者等の暮らしをよりよくする
(具体的には、鳥取県の例でいえば手話通訳者を育成したり関連の事業者をサポートしたり県民のための手話講座を開いてみたり小学校で手話を教えてみたりしているようである。)
こうして見ると、①はあくまでも理念的なものであって、この条例の本質は②にあるのだろうと思う人が多いだろうと思う。少なくも鳥取県のケースはそのようになっている。
しかし、一部の聴覚障害者にとっては①、つまり手話を言語として認めてもらうことは②と同等、あるいはそれ以上に大事なことで、彼らの人生にとって極めて重要なことであると考えている。
「手話が言語であると条例や法で認められたとしたって何が変わるのか?どうでもよくないか?」そう考える人もいるだろう。
しかし、そのことを考えるにあたって、まずは手話というものについて掘り下げなければならない。これは非常に厄介な問題なのだけれど、がんばって簡潔に説明してみる。
手話というものは世界中にある。アメリカであればアメリカの手話があり、韓国は韓国の手話、そして日本にも日本の手話がある。
ここまでは普通の言語と変わらない…のだが、日本の手話は少なくとも2種類のものがある。(もちろん方言とかではなくて)
A日本手話 と B日本語対応手話 である。どう違うのか。説明する。
Aの日本手話は一言でいえば、「日本語とは異なる、一つの独立した言語」であるといえる。
私は言語学には疎いので言語の定義もよくわからないが、重要なのは独自の文法を持っているということだろう。
手話の文法の具体的な説明は難しいが、まぁ英語に似ていると思う。
日本語の「私は 手話を 勉強 しています」という文を無理やり日本手話にしてみると、「私 勉強 している なに? 手話 です」とかそんな感じ。
実際にはこれを踏まえてこまかい表情や首の動き、眉の動きなんかも文法の一要素としてあるようで、日本語をしゃべる人間にとってはややこしいし難しいしわかりにくい。
手話言語学とか文化人類学とかで研究されているので、興味のある方はそこらへんの本でも読んでみるといいかもしれない。
とにかく、日本手話というのは聾者と呼ばれる人が使う独立した言語なのだ。日本語とは違う言語。これが重要。テストに出るぞーレベル。
そして、Bの日本対応手話はどうか。「日本語の文法に手話の単語をあてはめただけのもの」とでもいえばいいだろうか。
こちらは日本語でしゃべるのに合わせて手話の単語を出せばいいので簡単に習得できる。
日本語で「私は 手話を 勉強 しています」と口で言うときにそれぞれの単語のところでその手話をだせばおしまい。表情や首の動きもいらない。楽ちん。
この手話は日本語の文法ありきのものであって、独自の文法を持たない。言語学をよく知らなくても、それでは独立した一つの言語ではないということはなんとなくわかるだろう。
むしろ、これは言語というよりは筆談やノートテイクのようなコミュニケーション補助のためのものと解したほうがいいかもしれない。
大学の手話サークルとかはだいたいたぶんこっち。Aの日本手話をやっているところもあるのかもしれないが、そちらは難しいので手話を勉強しようと思うと最初はこれを使うことになるだろう。
聴覚障害者の中でも軽度のものだったり、聾学校ではなく普通学校に通っていた人や中途失聴者は日本語の会話(口話)の補助としてこれを使う人が多い(と思う)。
ただし、この二つはきれいに分かれているわけではない。二つが混ざり合うこともある。
けれど、この二つは対立関係のような部分もある。Aの日本手話の話者によってはBの日本対応手話はまがい物である!という人もいる。
これを巡ってはかなり論争があるというかめんどくさい感じに聴覚障害者の中(聾者対難聴中途失聴)で内ゲバっちゃってる。ここでは書かないけど。
とにかく、大事なことは手話の中でも日本手話というのは独立した言語であるということである。
私は言語学も文化人類学もまったく勉強したことはないが、言語というのは文化と密接な結びつきがあるというのは間違いないだろう。
そして、上に挙げたAの日本手話という言語は「ろう文化」というものを形成する。そしてそのような文化圏にいる人は自らを「聾者」と名乗る。
逆にそうした文化圏に入らないような聴覚障害者を「難聴者」と呼ぶ、あるいは自称することがある。
(「聾者」「難聴者」の定義は不安定で人によっては違うのだけれど、とにかくここではこのように理解しておく)
それでは、この「ろう文化」と聾者はこれまでの歴史においてどのように扱われてきたか。
結論からいうとひどいものだった。マイノリティとして抑圧されてきた。
特に酷い例でいえば、彼らは日本手話という自らの言語を奪われることもあったのである。
細かいところはここに載っているが、(http://www.d-b.ne.jp/d-angels/sub4-3.html)
日本の社会において日本手話は役にたたない、要らないということで聾学校で手話が禁止され、口話(残存張力と唇の読み取りで頑張るだけ)を強制されたのである。
その結果、上手に喋ることができるようになり、聞こえるようになった聴覚障害者がたくさん出てきたかというとそうではない。良い効果はあまり得られなかったのである。
それどころか、生徒は学校で自らの言語をつかうことを禁止されたことに苦しむことになる。
手話を使えば手っ取り早く友達と楽しく会話ができるのに、不慣れで不自由な口話を強制される…。
そしてこの抑圧は当時の生徒に大きな悲しみと怒りを植え付けることになる。
そして、この抑圧が彼らを固く結束させる。自らの誇りある言語、日本手話を守ろうと。
もうおわかりになると思うが、このような歴史の中でマイノリティとして抑圧されてきた事実に対する憤り、それこそが手話言語法制定運動の原点である。
いまいちわからないなら例を考えてみよう。例えば日本語が禁止されたとしたら。
敗戦直後にGHQが学校で「ジャパニーズは言語としてダメ!これからは君たちはイングリッシュをしゃべるんだ!ジャパニーズ禁止!」とか教える。
そんな感じだろうか。だいぶちがう気もするけれど。まぁ、でもすごく不快だよね。
(日本手話はマイノリティだったという点で日本語とは異なるので不適切な例だろうと思う。)
そんなことが実現したとは思えないけれど、とにかく大事なのは自分たちの言語が奪われるというのはその言語の文化に属する人間のアイデンティティにとっては大いなる損失になるということである。
某ゲームでも「人は、国に住むのではない。国語に住むのだ。『国語』こそが、我々の『祖国』だ。」なんて言葉が出てきたしね(ルーマニアかどっかの思想家の言葉らしいけれど)。
手話言語条例・法というのはそうしたろう文化に属するもののアイデンティティの名誉の復活を意味するものでもある。
だからこそ、手話を言語として認めてもらうこと、それ自体に大きな意義があるのである。
まず、手話言語条例の「手話」というのが何を指すのかという点で微妙である。
例外はあるけれど、基本的にどこの条例も手話というものがAの日本手話だと明記していない。
これは各自治体が二つの違いを理解していないということではない。
二つの違いを理解した上でBの日本対応手話を使う難聴者に配慮しているという形になっている。
上にも書いたけれど、この二つは対立関係にあってものすごくこじれている。
だから、片方だけを優遇してしまわないようにするという形にしている。
ちなみに、例外としては、埼玉県朝霞市の「日本手話言語条例」で、こちらは日本手話と明記している
https://www.city.asaka.lg.jp/uploaded/attachment/29886.pdf(pdf注意)
『第2条 この条例において「日本手話」とは、手、指、体、顔の部位等の動きにより文法を表現し、日本語とは異なる文法体系を有する言語のことをいう。』
という風に定義している。
しかし、こういった条例というのは、私の知る限りここしかない。
もっといえば、聴覚障害者自身でさえどうして手話言語条例を制定しようとするのか、そこの目的が人によってぶれている。
実をいうと、聴覚障害者の中で日本手話を使うろう文化圏に属する人間は少ない。多くは難聴者と呼ばれる人間だと言われている。
当然だが、こうした人たちは手話言語条例を「生活がよくなればいいな」ぐらいにしか捉えていない。
そして、聾者の中でも若い人は上述した日本手話の歴史に疎い人も多いので、中にはも「生活がよくなればいいな」くらいにしか捉えていない人もいる。
もちろん、それが悪いわけではない。ただ、本来の目的からずれ始めているのだ。
そして、結局のところ、世間(聞こえるひとたち)での受け取られ方というのはつまりだいたいこんな感じだ。
「手話言語条例?これで聴覚障害者たちの生活がよくなればいいね!」とかそんな感じである。
この受け取り方がまずいとは思わない、思わないけれど少し浅いというか、これでいいのだろうか。
聴覚障害者について知る機会もあまりないのだから仕方ないだろうとは思う。けれどもやっとするところである。
というわけで、長くなったけれど手話言語条例・法について書いてみた。
何かの参考になればいいかな。
"「かたわ少女」Act1V3プレイしました - ミッション! アクション! パッション!"について。
(略)障害者が通う学校なのに「高等学校」です。特別支援学校ではなく。「高等学校」を名乗るからには、高等学校設置基準に基づいて設置され、高等学校学習指導要領に基づいて教育活動が行われなければなりません。
確かに「今現在の」「日本の」学校制度ではそうなんでしょうね。しかしゲーム作成者の国ではどうなんでしょう。私は知りませんが、むこうでもそんなに名称レベルできっちり区別されているんでしょうか。それによっては評価も少し変わるように思います。
無論、設定国の忠実な再現という意味では「今現在の」「日本の」再現も重要なんですが、個人的には障害者が通う「高等学校」が物語の世界にあってもそれはそれでいいような気はします。それは世界設定の問題なので。
また、様々な障害のある子供が同じ学校で生活しているというのも不思議です。それぞれの障害特性に応じて環境づくりをしないと教育効果が上がらないので、特別支援学校は、障害種別ごとに学校が作られています。
特別支援学校でない学校の話で、特別支援学校は…と話をしてもあまり意味はないような気がします。「それぞれの障害特性に応じて環境づくり」が特別支援学校以外の方法では無理だ、というのであれば仕方ないですが、生徒が学べるぶんの環境が何がしかの方法で整えられるのであれば、別にさまざまな障害者が同じ学校で生活してもいいのでは。どうしても分別したいのであれば別ですけど。
ゲームをやっていないので具体的にどう階段を登ったのかはわからないのですが、簡単にできるかどうかは人によったりはしないんでしょうか。障害者もいろいろでしょうし。http://www.youtube.com/watch?v=LJP5xat-XNAなどを見ると、それなりには登りうるようですけれど。
全員の生徒が盲人ならそれでもいいのでしょうね。でも別段必須の設備とも思えません。携帯のメールじゃまずいのでしょうか。特に今回のような複数種の障害者が生活する状況なら、私であればいちいちのディスプレイ設置ではなしにメールを使いますが。
手塚琳がトイレに行かなければならないというシーンでは、介助を主人公に任せるわけに行かないので断り、誰かを探す、ということをしています。特別支援学校ではこのような介助は教員がやります。もし、誰も介助者を見つけられなければ、琳はどうするのでしょうか。
特別支援学校では、教員は障害者に張り付いているんでしょうか。張り付いていないのであれば、「教員を見つけられない場合」はどうするんでしょう。性別さえ問題でないなら生徒が介助可能、という世界で、介助を教員がやるかどうかはあまり重要に思えません。気にするところってそこなんでしょうか。
この作品を作った方は、特別支援教育や障害者についての取材をあまりされなかったようですね。このことのひとつの現れとして、「障害を持つ」という表現があります。作中では「持つ」と書かれています(日本語版)が、障害者は自らの意志で障害を「持っている」わけではないので、「障害がある」という言い方をするのが(特別支援教育の業界では)一般的です。
「一般的」でないとそんなにまずいのでしょうか。意思なき状況に「持つ」を使うのがそんなにまずいのでしょうか。重箱の隅つつきにしか思えません。私は腰が悪いのですが、自分を「腰痛持ち」ということになんらの抵抗もありません。もちろん、腰痛を自らの意思で「持っている」わけではないですけど。気にするところってそこなんでしょうか。
砂糖(※ママ)リリーが校内で白杖を使っていますが、通常、校内の移動で白杖は使いません。どこに何があるか覚えているからです。逆に言うと、視覚障害特別支援学校では、普段物がないところに物を置くというようなことは絶対にしません。
「通常」…。さっきの「一般的」もそうですが、なんだか普通でない状況の存在を認めないような口ぶりだなあ、と思うのは私だけでしょうか。どうなんでしょう?
というか、「普段物がないところに物を置くというようなことは」ありえない、絶対に―というのであれば別ですけど、「もしあったらとても困る」と仮に考えるのであれば白杖を持つしかないのだから、白杖を持つ生徒がいてもいいと思うんですけど。それに全員の生徒が盲人ならいざ知らず、そうでない場合他人に「自分が盲人であること」がわかり易いほうがはるかに便利であるように思います。ではどうするか? 私なら白杖を持つ、のですが。
羽加道静音は手話以外は全く理解できないようですが、実際の聴覚障害者は、ある程度の口話(口の動きを読み取ること)ができます。
これは「普通は」という括弧書きなしの話なんでしょうか。口話は相当に難しいようですし、人によっては事実上できない人もいるように思いますけど。できなかったら「実際の聴覚障害者」ではなくなってしまうのでしょうか。
この作品には、今のところ知的障害者は登場しません。この作品を作るきっかけとなった1枚のイラストに知的障害者が登場しなかったからでしょうが、どうせなら、すべての障害種別を対象にしてほしいところです。
「すべて」を要求する意味がわかりません。それこそが作品のテーマである、とかの場合を別とすれば、ある作品が全パターンを網羅することは必要でも何でもありません。「この作品にはいろいろな国の人間が出てくるのだから、どうせならあらゆる国の人間を出してくれ」といっても仕方ないのと同じです。
エントリ主さまは障害者やその環境についてとてもお詳しいようです。が、「どうせなら、」そのありあまる知識を(今更ではなく)プロジェクトが動き出した2007年、日本で話題になった2008年ごろに作成者側に語ってもらいたかったところです。彼らは閉じた存在ではなかったのですから。
いえ、過去を振り返ってもしょうがない。「どうせなら、」障害者の物語を語ってみてはどうでしょうか。障害者をよく知らない者が語るより、よく知る者が語るほうがずっとよいはずです。どうですか。
http://anond.hatelabo.jp/20090414170900
上の日記を読んでいたらちょっと吐き出したいことができたのでチラ裏で。
ちょっとした成り行きでこの数年間、都市部にある上流階級向け私立学校で事務員やってた。
入試倍率・学費ともに高いし寄附金の集まりもよい。しっかりとした教育と親の財力がないと入れない高校。
毎年(通名)欄が必要な本名が韓国っぽい生徒さんも2~3人一般受験で入学してくる。
さすが生徒も素晴らしく、勉強はしっかりとやるし、礼儀作法が完璧。最初の数ヶ月は生徒に上品なお嬢様言葉で話しかけられてドギマギしたこと。漫画の世界に迷い込んだのかと思ったよ。賢い生徒が多くて下手な大人としゃべるよりもはるかに楽に仕事できます。
でもそれは、あくまで賢い生徒たちの「大人向けの対応」であって言わば表の顔なわけです。生徒間でお嬢様言葉しゃべるわけがない。大人の目がなければ自分の高校時代と大して違わないレベルの言葉を聞ける。なまじ大人に対して裏を隠蔽できる小賢しさを持っているからやりたい放題してたよ。学校の裏掲示板は先生の悪口、ヤリマン情報、カップル死ね程度で比較的健全だったが、ブログやmixiをツールとしたいじめは陰険そのものだった。先生にばれて停学くらってもやってたし。
さて、本題。今の高校生はしっかりとネット見てるし影響もされてるので在日をネガティブな方向で見る傾向が強い。
数年前、書類に(通名)欄があったために周りに在日とばれていじめを受けた生徒がでた。いじめの内容は軽いものだったので加害生徒の処分は校長訓戒。学校としての対応は被害生徒保護者の希望もあり「在日だからって差別しちゃいけません」なんて声高に叫んで問題を顕在化させるよりも教職員側で通名欄のある生徒の本名を知られないような配慮と事務手続きを変更させることで解決を図った。
それからは在日を理由にいじめがあったという報告は今までないので一件落着・・・なわけない。
10月の金曜日に部活動をした生徒の下校時間と私の帰宅する時間が重なり、最寄りの駅通路で女子生徒達の横並びゆっくり歩き&バカ騒ぎに捕まり、その集団の後ろでイライラしてたら陰口話の流れで1人が
「あの○○さぁ、在日のくせに努力なんてしやがってウゼェんだよなぁ」
耳を疑ったし、周りの大人たちも怪訝そうな目で女子生徒を見てた。それでも気にせずに盛り上がり続ける集団。
小人な私は「やめなさい」なんて言うこともできず、「明日クレームの電話が来るだろうからどう対応しようか、この件を誰に報告しておこうか」とか考えてました。クレーム対応するのどうせ私だし。
しかし予想ははずれ、学校の制服着てあれだけ公共施設で在日の悪口を大声で言って怪訝な顔した大人がいっぱいいたにも関わらず苦情の電話はこなかった。正直ほっとした。わざわざ自分から上に報告して残業増やす真似もしたくなかったので今日まで誰にも言わず。
その後、辞めるまで生徒の口から「在日だから・・・」って言葉は2~3回聞いた。
なんかこの件はもやもやと胸に残り続けていたので、これを機に吐き出してみた。
上流・下流、頭の良い・悪い、誇り高き日本人だろうと宇宙船地球号乗組員だろうと、他人を卑下して満足を得る心根がお腐り遊ばしてるクソったれは必ずいるし、ネットでは検索するまでもなく見つけられる。で、私はそれを「想像力の欠如」なんて言葉と絡めて自分のなかでクソったれの言葉に揺さぶれらないよう処世していってますが、上の自分の対応をみて自己嫌悪に陥る。
私の在日に対する感情について。
親の兄妹で在日と結婚した人がいる。火病(死ぬ死ぬ殺してやる系)を電話越しに聞けたり、ひどく身勝手な要求に悩まされたり、傷害事件おこして逮捕歴つくって身内の警察官志望を台無しにしてくれやがったり(試験順位は申し分なかったが身辺調査で不合格にされて発覚)と実害でまくりで絶縁したいです。てか通名でウチの名字を使うな。というわけで身近な在日さんには正直ネガティブな感情しかない。だからってそれを在日全ての人に同様な感情を持つことはないし「努力してんのうぜぇ」なんて発想をもてない。
あ、あと(通名)欄を持っているからといって在日確定ってことはないです。たとえば在学中に両親が離婚した場合にも通名を使用することがあります。それにネットで流れてる在日認定名字(木村は金とかいうあれ)、嘘だから。どう見ても由緒ある日本人の名字でもそれは通名、木村さんて名字でも先祖代々日本人なんていくらでもいたよ。名前で判断するのは大変危険です。