はてなキーワード: 美術館とは
肉体的なセックスに全く興味は無いのだけど、精神的なセックス(自分はメタファーのセックスと呼んでいる)には凄く惹かれるし、憧れる。
例を挙げると、《酒》が《白濁》を表すモチーフとして、精液の象徴に使われる作品。
2人の間には肉体的接触は何もないが、白く濁ったそれを互いに注いで、飲む。
作者と、その作品世界、そして読解する読者、それらだけの間で成り立つ、目に見えない概念的なセックス。
そういうのを読むと、物凄く心が満たされる。
性的に興奮してるわけじゃない。
美術館に行って思いもかけず気に入った絵を見つけ、いいなあと思って椅子に座ってずーっと眺めてしまうことあるだろ。
あんな感じで、心がだんだん潤って、精神がやすらいでいく感覚。
別に普段からアセクシャルである自分のことを悩んでいるとかそういうわけではないんだけど、メタファーのセックスに出会うと、あ、これは自分にぴったり嵌る絵だな、と思って嬉しくなる。
メタファーのセックスを集めて、たまに思い返して、人生っていいなと思い、また歩き始める。
そういうのを何年も続けてきた。
本題。
最近読んだ作品で、しばしば銃が性器のメタファーとして使われていた。
銃が性器のメタファーとして使われるのは度々ある表現だけれど、その作品ではなんというか、伝わってくる熱量が段違いだったのだ。
肉体的なセックスの話もテーマとして取り上げられる一方で、全ての愛を否定するように、鬼気迫る絵の力で射撃が行われていた。
凄い作品だと思った。
自分はそのメタファーのセックスの力に完全にやられてしまって、そして、自分ももう少しそこに近づいてみたくなった。
上手く言えないけど、このキャラクターがやっていることが自分にとっての正解なんだ、と強く感じた。
心が潤うどころではなく、ずっと種火がじりじりと燃えているような感覚。
銃を撃ちたくなった。
肉体的なセックスはしたくない。
でも、性器の役割を無機質な銃に代行してもらって、疑似的な射精をすることは、したいのかもしれない。
こんな思いは初めてなので戸惑っているが、やってみたいと思う。
銃のカタログを見ている。
もうしばらく経ったらちゃんと銃の免許を取って、大事に手入れして、射撃場でも猟場でも、的でも動物でも何も撃つものがなくたっていい、とにかく一発実弾を撃ちたい。
あそこは現物のあった古代遺跡や教会などの環境自体を実物大立体再現して展示する狂気のクソデカ美術館なので、一度ぜひ行ってみてほしい。単なる複製品展示場ではない。
上野やん
でツイッター民みたいなブサイクなオタク層がキャッキャ言ってるの見てるとさ
どっからか湧いてきたていねいな暮らし層とかもアートがどうとか言ってて
お前ら一昔前のDQN層が流行に乗って意識高いふりしてるだけのくせに
崇高な我々の為のメインカルチャー界隈にお前らが入ってくると
私までそういう層と同一視されて迷惑なわけ
化石博物館では去年発見されたミズナミムカシアシカの企画展が開かれていました
同種の化石は以前から一部が見つかっていたものの、今回は頭骨が見つかったため
クリーニングに10日80時間、レプリカ作りに2週間も掛かったと説明されてましたが
どちらもとても早いと感じましたの
すごい根気と集中力ですわ
企画展の展示室にあるものはクリーニングが完全に終わったもので
常設展示の方に置かれたものは石の付着が残っているものでしたわ
瑞浪mioちゃんのコラボ紅茶が公園内のレストランで売っているそうでした
やくならマグカップもの次は瑞浪mioちゃんをアニメ化してほしいですわ
陶磁資料館では「山五陶業 洋食器の世界展」が開かれてましたわ
おそらく以前にも山五陶業の企画展は開かれていて見覚えがありました
加藤孝造先生専用スペースと思っていたところが第一展示場になっていて
いつものところが第二展示場になっていたので、様々な洋食器が見れましたの
アメリカでの鉛規制を契機に、あえて規制が厳しくなったアメリカに工場を進出させて
生産をおこなった発想はすばらしいと思いましたわ
展示されている会社の新品同様の制服と、古い写真に写っている方が着ている制服が
市ノ瀬廣太記念美術館では「天野裕夫彫刻展」が開かれていましたわ
樹齢1300年と言われていたけれども本当の樹齢はその半分だったことが最近ニュースになった
倒れる前に樹勢回復のために行われた枝打ちから素材をいただいて彫刻にしたそうですの
天野先生の作品はベルセルクの使徒を連想させるような幻想的な怪物の彫刻が多かったですわ
彫刻の表面を小さな象さんの像がたくさん歩いているところも特徴です
象さんが作品の基本単位で、たくさん集まって作品に変身しているイメージを抱きました
復元が古かったけれど寂しいです
あらゆるエロに対する絶対的な規制こそが絶対に正しいと言い続ける奴らを早く説得したほうがいい。
このまま「エッチな絵はどんな理由があっても許されないことを世界に知らしめねば!行動に移せば絶対皆納得してくれる!」といったノリをヒートアップさせれば最後には美術館や博物館が襲撃される。
人類の作り出してきた創作物なんて土偶の時代からエッチなシロモノばかりだ。
あらゆる時代に根付いたあらゆるエッチな創作物も、人類の文化・風俗史の十代な資料だ。
だが、だからこそ奴らはそれらを破壊することで世界の目を覚まさせてやろうと行動に出るだろう。
やはり危険性が高いのは最古のエロフィギアたるオッパイ土偶と世界一有名なエロ絵であるミロのヴィーナスだろう。
危険だ。
対応を急いだほうがいい。
このままヒートアップし続ければタイムリミットは長くて数年、下手したらもう数日まで迫っているかも。
今すぐフェミ界隈過激派のトップを逮捕、ないしは再生産不可能なエッチな創作物の厳重保管をするべきだ。
新たなテロとの戦いはもう始まっているんだ
本人の気の持ちようでどうにかなるレベルならそれはハズレじゃない。
貧乏でも図書館に連れて行ってくれたり、博物館美術館に連れて行ってくれるような親の子供は高卒で公務員になることもできるだろうね。
貧乏で、夏休みに子供にご飯を食べさせず痩せさせるような親、子供に手間暇かけることを知らない・興味がない親、生活保護費や児童手当奨学金を酒タバコギャンブルで溶かす親、子供がアルバイトで稼いだ金を根こそぎ持っていく親、子供に売春させる親、そんな親がハズレ。
そんな親の元で育つ子供は、教科書以外勉強に役立つアイテムを持たない。知らない。
高校行けば中卒よりどれだけ稼げるようになるのかわからない、誰も教えてくれない。
そんな環境を用意する親が、ハズレ。
いつも、同じ大学に縁のある人間たちが、隣駅の駅前ロータリーを汚していて、
恥ずかしい思いでいっぱいです。
さらなる学びや、芸術の世界への羽ばたきをたのみにしている人達です。
自分にとって彼らは、勉強はできるが社会に合わせない人、という印象です。
彼らを見ると、
そうした時、自分は、『何も見なかった』ことにしがちです。
という自分の考えが、
「多様性」の物差しで見たら古さや因習のくくりに入る考えなのだろう、
と分かりつつも、
でもそれが正しいよな?と
学びの豊かさが至上という人達の、
学びへの愛情や熱意や、
否定したくはありません。
彼らのそういうところを、
まあそういう奴だよな、と、
隣人として愛しています。
だからこそ、その人たちの前では、
「働くことは結局は悪なんですよ楽しいですけどね」というポーズを取るしかなくなります。
働くことはつらいけど楽しいと思っている自分を密かに殺しているような、
俺をこんな目に遭わせているのはこいつらだ、と相手を憎みたくなるような、
話は変わりますが、以前、その中の一人と、
彼は、不忍池の周りを意味もなく歩いたり、黙り込んだり、話したり、
弛緩ばかりの時間を共有してくれる、数少ない友人です。
自分の入館料を出そうとすると、彼は
と言いました。
それはあなたに奢られた訳では無いだろ
俺は入館料も払えず美しいものを無償で享受するような人間ではない
先輩らしさとは奢りのことなのか?
それをこの人に投げかけるのは俺の情が許さない
今日は楽しかった、この人が障害を持つことでこの先遭遇するだろういくつもの苦しみのひとつに、今日を加えたくない
「あ、じゃあ、それで…」。
美術館は印象的でした。
洗練された気持ちになりつつも、
胸の奥に何かが引っかかり続けていました。
その人と美術館に行くことはもうないでしょう。
働かなくても(公的な補助と親の支援で)生きていけるという人たちが、
でも変わりたいと思えません。
長くなりましたが、
そういう汚さを飲み込んで生きていくのが、
勝ちも負けもせず思います。
みなさんはどう思われますか?
いやいや、撮り鉄みたいに他の乗客を妨害、立ち入り禁止ゾーンに突入、樹木を勝手に伐採とか、
「撮影禁止・作品にお手をふれないでください」美術館とかで、作品にお手を触れまくり、フラッシュ焚きまくり、
この前美術館の企画展を見に行った。随分前から楽しみにしており、充実した時間だった。ミリ単位で調節されたであろう作品たちは美しく、この上ない没入感であった。この展示を無料で見れるのは高校生の特権だ。浮いたお金で画集を購入した。
入場の際、来る人来る人に学芸員の方が作品には「お手を触れないでください」、「写真撮影不可のエリアはこちらです」と何度も注意していた。
撮影不可のエリアはめちゃくちゃ空いていた。とにかく空いていた。ゆっくり見れて良かったと心の中で小躍りしてしまった。じっくりと堪能した。現実と乖離した誰にも邪魔されない時間だ、独りで来て良かった。
どんどん作品、アーティストの世界観に没入、空気が完全に変わってきた時だった。私と同じ高校生くらいの若者たちがたくさんいた。正直安心した、ここまでの入場者は大人たち、お年寄りの方たち、とにかく難しそうな顔をした人たちばかりで少し浮いているのではないか、と感じていたからである。誰も私の方なんか気にも留めていないであろうに、そう思ったのも束の間。
「カシャ、カシャ……。」
楽しそうな話し声笑い声。このエリアはこれまでのエリアからガラリと雰囲気が変わりたくさんのいろやおと、ひかりで溢れていた。
確かにここに展示されている作品は所謂写真映えのするものであった。何も撮影可能な場所であるのだから写真撮影を否定するつもりはもちろん無い。私自身もカメラ越しに観た時に変わる作品の表情を知るため、帰りの電車で振り返るため、自室で作品を考察するために撮影することもある。写真撮影によって、美術館側のSNS等にあげられることの広告効果の期待、アーティスト側の作品に気軽に触れてもらうための方法であることも重々理解している。
しかし、作品の土台の一部が床と混ざり合っている部分を踏み、写真を「映え」させるために作品に触れ、フラッシュをたく。学芸員の方が注意するが悪態をつく。はじめのうちは気にしないようにしていたが、もやもやしてきた。ここで入場前に執拗に注意を促していたことを思い出した。
「ああ、これのせいか……」
読んだ人は少ないだろうが、たった20年弱しか生きていないし、芸術を語れるほどの教養がない高校生の感想文であるのでこんなふうに考えるやつもいるんだなぐらいで捉えて頂きたく思う。