はてなキーワード: マウンティングとは
上司が毎日毎日、五輪で敗退した選手の方々をこき下ろしまくるから今週本当に仕事が苦痛で仕方ない
見かねた同僚達がさりげなくメダル獲得した選手の話題を振っても「まあ私に言わせればあんなもん有力選手はみんなコロナ問題や感染で辞退してるから」とか言って強引にマウンティングを始める(一人称は私だけど上司は男性)
もう営業や外回りの人達は五輪トーク始まると一斉にバタバタ逃げていってて
内容はメダルが取れないなんて努力が足りないとか、それ以上はここに書くのも憚られるくらい暴言まみれなんだけど
もう本当に、マジでお前何様なんだよ?何目線だよ?お前に五輪選手の何が分かるの?ってぐらい失礼な事ばかり言うので気が滅入る
元々上司は愛想笑いが読み取れなくて、喜んでると勘違いする人だから
ずっと真顔で、相槌も肯定の言葉を一切言わないようにして仕事してるんだけど
私はカルチャーが、好きだ。音楽、映画、美術、小説、観劇、等々。
そして、好きなことについて話をしたい気持ちもある。
「◯◯は押さえておかなきゃ」「◯◯知らないなんてモグリ」「映画は劇場でみなきゃ、ちなみに俺は劇場で観たよ」「レコードで聴いていないやつ、本当に音楽好きじゃないよね」「ライブ観てないくせに良さがわかるの?」「原書で読まないなんて、良さがつたわらないよ?」
クソクソクソ!楽しみ方にケチつけるな!
趣味嗜好は一人で細々と楽しむに限る。
です!
私は主張したい。
決してメインストリームになれない「陰キャ」上がりの当時の業界人がメディアを介して間接的なマウンティングを行い「陰キャ」の聴衆が受け入れた結果なのである。
実際のところ、小山田が過去に障害を持つ同級生を虐めたか否かは大した問題では無い、何故なら日本全国で小山田の行為に類似したいじめはどの年代でもどの地域でも珍しいとは言えない内容だからである。
だが、普通はそんないじめの経験は、武勇伝としても自慢話としても公の場で話す類の内容では無い。
何故、小山田は25年前に積極的に悪質な虐めを全国誌で語り、その内容がそのまま出版され、多くの読者が受け入れたのだろうか?
その雰囲気を醸成したのが体育会系文化の下位互換としての90年代サブカル文化だったのである。90年代サブカル文化は、00年代以降のオタク文化とは似て非なるものであった。
00年代オタク文化はハレとケの、褻に当たる存在であることを自認しており、また、それは属性ではなく役割である。つまり、普段は「陽キャ」として振る舞う一般的な大学生が熱烈なオタク文化のファンになることも、役割であるが故に成立するのである。
90年代サブカル文化においては、これは成立しない、何故ならサブカル文化は属性であるが故に、メインストリームになり得ない存在であることが所属と同時に確定するからである。
多くの者が成長と共に就職等で、サブカル文化という属性から自然に離脱することにはなるが、留まり続ける者もいる。それが、メディアを牛耳る業界人だ。
今でこそ高収入で社会的地位が高いイメージだが、当時、サブカル文化属性の業界人はメインストリームに対して劣等感を抱いていた (※ ハリウッドでも似た話があるので、これは珍しいことでは無い)。
この劣等感は金銭的な収入では満たされない感情だったのだろう。社会的な地位が上がるにつれてサブカル属性の業界人は、メインストリームの体育会系の強者に匹敵するようなエピソードが欲しくなる。
しかし、人間は正直な生き物なので、完全に空想の嘘は付けない。結果生み出されるのが、90年代に公放送や出版物で繰り広げられた下劣ないじめ体験談につながった。
これは、小山田だけの問題ではない、小山田の経験を自らと同じサブカル属性の強者の武勇伝と位置づけ誇示するように掲載した雑誌関係者、自らと同じサブカル属性の英雄の功績として希望を感じた読者は、皆等しく文化を醸成した因子なのである。
陽と陰が協調し一つの目的に向かう初めての機会は、学生時代の文化祭である。(※ 24時間テレビが近いと思うかもしれないが、24時間テレビは、テレビ業界に所属している者が中心であるためにサンプリングに偏りが生じている)。
五輪はこの文化祭以来の、初の世代を跨ぐメインストリームと非メインストリームの協同作業だったのである。
この機会に、90年代サブカル文化の代表的な負の象徴である、小山田の過去が全国規模で炙り出されたことは決して偶然では無い。
センスのある人に髪型に気を使った方がいいと言われたなら、何回か変えたと書いてるけど、美容師が合ってなかった可能性はあるんじゃないかなぁ。
・人気のある街で
・その街で高いといわれる価格で
・予約がなかなか取れない人を指名
自分の場合は安い価格帯でベテランっぽい人を指名してもあまり変わらず、
上記3点を守ったら変わったよ。(たしかハテブで仕入れた知識だと思う。)
とはいえでかい有名店に行くのに気が引けたから、シャンプーから一人で担当してもらえる小さな店だけど
人気で予約がそこそこ入っているお店で、その中でも予約が取りずらい人を勇気をもって指名したよ。(東京の郊外でカット6000円)
残念ながら増田は女だから男のことはよくわからないけど髪型はショートだよ。
私立のボンボン学校に通い一流と呼ばれる大学を出て就活もお祈りされることなくあっさりと大企業に入り一般年収よりも遥かに高い給料を貰いながら生活している。
確かに金に困ったこともなければ何かを諦めた経験もほとんどない。家庭環境もすこぶる良好だ。
だが「増田君は人生イージーだよね」と他人から言われると何かシャクにさわる。別にこちらがマウンティングをしたとかではない。そもそも他人の生活に興味が無い。こちらの素性を聞いておいて噛み付いてくるのは何なのだろう?どう答えれば満足してくれるのだろう?
いや、恵まれているのは環境のおかげであって自分自身が有能なわけではないのかもしれない。
幼少期から周りもハイスペックな奴ばかりなので自然と競争が当たり前の社会に身を置くことになる。周りの子供が鼻を垂らして遊び呆けている間自分はひたすらに勉強や習い事に打ち込んできた。その投資を無駄にしない様常に人より優れた結果を出さねばと子供ながらにプレッシャーを感じていた。
社会に出て、自分と周りの目線が違うことに戸惑うことが増えた。「それは恵まれた人だから言えるんだよ」と指摘を受けた事も何度かある。
三十年近くこの価値観で生活してきたので、今更競争や社会的な地位と無縁な生活を送ることは恐らくできない。自分にはそれ以外何もないからだ。
空っぽな自分をスペックで誤魔化すことでこれまで生きてきた。恐らく今後もそうなのだろう。
それでも、いくら取り繕ったところで周囲には透けて見えているんだろうな。
反対意見とか煽りとかマウンティングとかじゃないよ(読まない人のため一応)
わたしは祟りって言葉のひびきでとらえ方ちがうかもっておもった(三行は読む人用)
具体的に直接防御がしにくい影響が比較的遠方(距離じゃなくて因果関係が)からくるものかなと思うのだけど
例として
①八百万の健康の神様たち的な何かに対する不敬(という自己ケア不足)
自分をケアするのは面倒だけれども人のためにしないといけないという要素に変えることで
②不敬がたまって神様がお怒りなので、罰を与える(神罰執行形態になると人の力では防げない攻撃が来る)
すると人間側はなにかの犠牲をはらって中和しないといけない(儀式や生贄や代償という交渉術)
③交渉がもはや不可能な状態や交渉ができない(言葉が通じない相手や呪いなど)はそれを受けることで中和したり
この①の関与方法が直接的じゃない(神と人など)と仲介を挟む量で煩雑さがますため、効率化を目的としたときに因果が堆積し
②の崩壊がきたとき、それに対応しうる手段が人にないため祟りじゃってなると思うのだけど③みたいに交渉不可能で犠牲不可避だと
呪いになって手を触れないように①の時点でなんらかの効率化や利益を得るための関係性を築くなということになるんじゃないかな
これが祟りだとしたら、判定スパンや状況によっては人の意思で仕組まれた事以外はだいたい祟りで表現できるんじゃない?
そういう意味ではむしろ「祟り」って言う人は因果関係の視野が広くて関係性を見出すんじゃない?
たとえば、太陽光発電で地崩れがあったのを「祟り」という定義でいうなら、一番短いスパンで「山の神様の祟り(構造上まもるべき定義がありその禁忌を侵した結果)」とか
長いと「その土地を変化させた、保持してきた一族には常に影響が発露していて、今回その一端として地崩れがあった」とかあればいうのでは
逆にいえばそれらがない場合「祟り」というカテゴリには入れないのでは。だとへんな因果関係でいちゃもんつける方法としては「祟り」の呼称や方法というのはなさそうな
原発や農薬もその直接的な物質やそれを利用する人間について直接的に言及するのに「祟り」は使わないとおもうんだけどどうかな
前提条件として原発をつかうなら、農薬というものは、それらの情報について取り扱い方法があり、守るべきだったり手をだすべきでないという定義があって
それを侵し続けた結果、堆積した纏め払いが一気に噴出するプロセスが「祟り」だとおもうのだけど、唐突に因果関係なく強い影響力を示すものも「祟り」って分類します?
みんながやめろやめろ、つかうといけない使い続けると災いがおきるといっていたものに触れたり使い続けて、結果問題が発生したときに「祟り」と呼ぶ気がするのだけどどうかな ちがう感じかな?
私なりの「祟り」の定義でいうと、「たたりとかいってる人」(いたとしたら/いってたとしたら)なにかしら積み重なる前提条件ありと因果関係を思慮しているのではないかと思う
因果関係無視する人は、因果関係無視といっておいて因果関係という言葉にはなるのだけど、起因する条件が近い、崩れるのは木を切ったからとかその原因としてあげたものを排除すれば片付く問題だといってそう
ちょっと現代で祟りっていってる人がまわりにいないので、言うならばこうかな、言わない人ってのはどうなのかな、と考えた感想でした
根本的に解決する方法を思考せずに脊髄反射で状況と原因をセットにする、そういう人がいたりそういう事のそれの名前が「現代の祟り」って言い方だったとしたらそのとおりかなと
「昔ながらの祟り」を無視してしまうってことは言葉を大切に紡いでこなかった原因が堆積した「祟り」なのだとしたら その言っている意味そのままかな、とも思いました
当方男。大学時代の友人で、彼が地元に帰ってしまったためそれ以来、ずっとメル友な友人がいる。(かつては本当にメールだった。今や、lineばっかりだけど。
彼が最近、飯の写真ばっかり送ってくる。自炊した料理だったり、近所の街中華で撮った写真だったり。
悪いけどそれ、1ミリも興味ないんだわ。もう、送ってこないでくんないかな?もしくは、ついったーでやれ。または、家族に送れば息子からの頼りに喜ぶんじゃないか?
日本人って飯の話ばっかりしてるよねって昔、ALTの先生が言ってたけど、そんなちゃちなもんじゃねぇ云々。
お互いにもうアラフォーだし、友人も数少なくなってきたから、やりとり自体をやめたいわけじゃないんだけど、さすがに一言返すのもだるくなってきた。何か穏便にやめてもらえる方法はないだろうか。
または、何の意図で送ってくるのか考えてくれないか。知り合って十数年、今更俺を口説きにきたわけでもないだろうし、何かライフハック的なネタも、自慢するようなネタも感じられない。
まだ、帝国ホテルとかのビュッフェならわかる。マウンティングと言う人もいるだろうけど、その方が遠い世界な分、反応はしやすい。