はてなキーワード: お稽古とは
私はボーイスカウトが減る事は講習会で聞いた事と違うから納得できません。
を育てる事を目標にしていて、お稽古ごとやスポ小と違って直ぐに成果が出ない活動だと言ってました。大人になって成果が見えるような気の長い育成プログラムだと解釈しました合ってますか?
何年の歴史があるのか忘れたけど本当にその通りなら活動に参加してきた少年少女が良き社会人になった時にそんなに素晴らしい組織から離れていることは考えづらいし、仮に一時的に環境の変化の影響でやめても組織への恩返しとしてそして子供や友人も良き社会人にしたくなり連れて戻ってくると思います。
1人が2人3人と連れてくれば脱落者をある程度見込んでも急激に減るのはおかしいです。良き社会人を育てられないプログラムなのではないかと疑っています。人の減り方に失望してます。
他人が抱えている問題に対して「甘やかされて育ったんだな」というコメントを書き込む奴を見かける。あれ、見るたびに腹立つ。
そういう奴が、ちゃんと、その人の経歴とかを分析してるの見たことない。まともに分析してアドバイスしてあげる気ないでしょ?
単に「俺は甘やかされて育ってないからお前とは違うんだ」、もっと言うと「俺がお前の親ならもっとお前を罰したのに。お前に罰を与えたい」を言い換えただけでしょ?
何の解決にもならん。
大体、「甘やかす」の定義ってなんだ?
例えば、子供にあげるお小遣いは、いくらからが「甘やかし」?1円でもお小遣いあげたら「甘やかし」?
誕生日プレゼントはいくらからが「甘やかし」?そんなものを買うのが「甘やかし」?
小中高大、公立・国立より私立の方が学費が高い。最終的に得られる学力は国立の方が上なのに。どっかで学費払って私立に行かせたら「甘やかし」?
塾に通わせる・家庭教師をつける・お稽古事を習わせる、全部、「甘やかし」か?
なーんにも考えてないくせに、こうやって細かく突っ込めばすぐボロが出るくせに、何分析した気になってるんだよ。
お前のコメントなんか誰も求めてないんだよ。黙ってろよバーカ。
と言ってやりたくなる。さて、このコメントを書いている俺は「甘やかされて育った」のか?当ててみろ、当ててみろよ、間違ったらお前も「甘やかされて育った」ことにしてやるから。
http://seramayo.hatenablog.com/entry/2016/05/23/121352
「国立大で税金のおかげで教育してもらってるのにもったいない」という意見に対して
費用対効果は当然考えるだろ。
教育を何だと思ってんの?
なんで国は回収出来もしない遊びでやってくる大学生のためにお金使わなきゃいけないの?
ボランティアじゃねーんだぞ?
教育は受けられて当たり前、とか思ってんの?
高校生授業料無償化とか言ってた時点でなんか変だなー、とか思ってたけど。
とうとう大学まで「行けて当たり前」って考える人が増えちゃったの?どうしちゃったの?
「音楽学なんて学んだって社会の役に立たないからいーよいーよ」
…だってさ。ふざけんなよ。じゃあ何で大学行ったんだよ。何で音楽学学んだんだよ。
趣味のためか?「わー、着付けできたら楽しそう♪」「わー、茶道できたら楽しそう♪」みたいなお稽古事のノリで大学で勉強したの?
国のお金使って?馬鹿にしてんじゃねーよ。うちら君のお稽古代払うために働いてるんじゃないのよ?
音楽学を社会の役に立てられる人にその席を譲って自分は私立行くなり独学でやるなりお稽古に通うなりしろよ。
なに国の予算使って勉強して「役にたたないから専業主婦しますね」とか言ってんの?
おかしいだろ。
考える余裕はなかったの?
学べること、当たり前だと思ったの?
大学でみんなが学ぶことって、
体系付けられた形にしていって、
それを教授たちが頑張って勉強して、その集大成をみんなにわかりやすいような形にして、
ようやくみんなが勉強できるようになるんだよ?
本気で、大学で学んだことが社会で役に立たないと思っているんなら、
大学なんて行かないで欲しい。
を体得するために大学ってあるんだよ?趣味なら生涯教育でも受けててよ。
日本はもう、そんなに豊かじゃないんだよ。
趣味で勉強する人のために税金投入できるほど、余裕は無いんだよ?
国に、支えてもらうためには、
私達も、国を支えないといけないんだよ。
私たちはバブル期にためた貯金を、もう使いきろうとしてるんだよ。
分かってくれ。大学は遊びじゃないんだ。
専業主婦になったって良いけど、
「なんでもったいないなんて言われるのかしら」
っていう、メンタリティは、多分、間違っているよ。
http://anond.hatelabo.jp/20160524012315
追記
バブルについては勘違いしていたみたいだ。バブル⇒高度経済成長にすればおかしくないか?
いずれにせよ、過去の貯金で日本の研究がなんとか持っているのは事実だよ。
あの頃の資金がなければカミオカンデは作られなかったろうし、ノーベル物理学賞も得られなかったろうな。
(本文にも専業主婦への投資が失敗だなんて書いてないのは読んでもらえればわかると思う)
専業主婦にだっていろいろあるしさ。大家族を切り盛りするにはそれは専業主婦としての能力が必要だろうし。
家庭として構成員が家事、育児を担って他の構成員が仕事に集中するという役割分業はメリットも大きいだろうと思う。
(自分は、労働する親の姿を見せることこそが最高の教育だと思っているけど)
国や親に教育を受けさせてもらった恩恵に対しては、感謝の念があってしかるべきだと思うし、
与えられた恩恵は返すように努めるべきだと思っている。
国と個人を別々に考えている人が居るみたいだけど、何でなんだろう?
なんで生活保護の話で「もらえるもんはもろとけばええんや」っていうのは非難されるのに、
高等教育に関しては「学ぶだけ学んであとは個人の好き勝手にすりゃええやん」っていうのが許されるのか?
それは、もちろん全て回収しようと思っているわけじゃない。
いろんな可能性に投資するのが教育だっていったらそのとおりだけど。
でも、そもそも全く大学の勉強を役に立たない、と思っている人に投資するのはやっぱりおかしいよ。そりゃただの詐欺よ。
「みんな、うちの株買ってねー!まぁ、それで社員が豪遊するんだけどね!」
教育を受けられたことに感謝しながら、社会に貢献するように努めるのって、そんなにおかしいか?
そんなに社会主義的か?ふつうのコトだろ、受けた恩を返すのは。
まぁでも、
仕事をして豊かな生活を与え、塾やお稽古に通わせたとしても豊かな心を持った子供になるでしょうか。手抜きの子育てをすると、後で補うことのできない大きなツケがまわつてくるとおもいます。
こういう事を書くと「働く親の背中を見せる事が何よりの教育だ!」「世間知らずの寄生虫の専業主婦が教育する方が子供にとって害悪!!」と言われますよ。
先日、待機児童がクローズアップされ、社会問題になり、早期改善方向に舵がきられました。
日本語の使い方は兎も角、保育園問題は切実なので大変良かったとおもいます。
人口の減少が叫ばれても、生み、育てる環境が整わなければ、不安ばかりが先にたち、子供などもてません。
最近、小、中、高校生の自殺、イジメ、引きこもりなど社会適合出来ない子供達が増えているようなきがするのです。
五体満足、立派な頭脳をいただいてこの世に送り出されてきているはずなのに、それぞれの能力を生かしきれない、なんて悲しいことなんだろうとおもいます。
子供の生まれる環境はそれぞれです。子供は環境を選べません。親もまたそうでしたが。
昔も今も家庭環境は様々です。子供なとっての居心地の良さは、断然昔だと思います。貧しくても母親は心も体も身近にありました。それだけで十分幸せだと思いました。
今は核家族が増え、祖父母もいず、母親も働くことが当たり前になり、働かなくては生きていけないので保育園は当たり前で、ぜいたくなど言ってはいられません。
ですが、子供とは、泣きたい時にはなきわめき、グズり、親を翻弄させて、親の手を煩わせて大きくなるようなものです。
仕事をして豊かな生活を与え、塾やお稽古に通わせたとしても豊かな心を持った子供になるでしょうか。手抜きの子育てをすると、後で補うことのできない大きなツケがまわつてくるとおもいます。
保育園が整って、働きやすくなって、経済的余裕ができてそれなりの成長をしていったとしても、次の世代を担える、子供になるかでしょうか。子供の心を取り残したて、張り子の子供を作り出しているような気がしてなりません。
働く事は最重要です。しかし、ほそれと同時に、親が子供の心に寄り添える時間と環境を作らないと、いずれ張り子の日本になってしまうのではないかとも心配です。
あくせくあくせくした、ただ働く事だけの一億総活躍なんてはたしてその場しのぎではないでしょうか。
子供を育てる環境を全て見直し、その場しのぎではなく、次の世代を見越した方針をすべき時だとおもいます。
貧困、非行、いじめ、ひきこもり、殺人、手遅れになる前に考えなくてはならないことがたくさんあります。
次の世代を骨太に、揺るぎない強い日本にするために、母親が でーん と構え、子供を育てるとはどう言うことか、確固とした教育をしなおし、そして余裕をもって子育てできる環境を造らなければ、一億総活躍など一時の経済的豊かさを享受するだけで、ひ弱で自分を守ることしかできない子供がそだちあがるのではないか、心配です。リスクなどとうてい背負えないでしょう。
物で溢れ、物で満たされている今日、一億総活躍して母親も子供を保育園にあずけて働いたとしても、子供の心はいったいいかがなものでしょうか。
物を与えて心を満たし続け、豊かさの伴わない心が貧しくて淋しい子供が育ち、そうなった時、日本はどうなっていくのでしょうか。
私の祖母「私の母はシングルマザーで生活が辛かった。早くに夫をなくしてしまったから、私と私の母は親戚の家にお世話になって肩身が狭い生活をした。
だから私は手に職をつけて夫に先立たれたり収入がなくても生活に困らない女性になろう」
↓
↓
私の母「私のお母さんは働いてて、お金を稼いでくれてる。おかげで田舎町のジャスコじゃなくて都会のデパートまで連れて行ってもらえて、同級生よりオシャレな服が着れる。
けど、いつもお母さんは夜八時くらいまでお仕事だから、夜ご飯が遅い。たまに私が作らなきゃいけない。
勉強したり、テレビ見たりしたいのに…お母さんとゆっくりお話したいのに、お母さんは仕事関係の人と話してばかりで寂しい。
私は子供ができたら、子供にご飯をきちんと作ってあげる母親になりたい。子供に寂しい思いなんてさせたくない。」
↓
母親、割と高収入な旦那を捕まえ専業主婦になり私を産む。過保護なくらい甲斐甲斐しく世話をするが、金銭面では旦那に頼り切りなので夫婦喧嘩になると立場が弱い。
↓
私「私のお母さんはいつも美味しいご飯に、綺麗なおうち、手作りの通学バックと誰もが羨む優しいお母さん。
けど、お父さんは仕事仕事で週に一度くらいしか顔をあわせないし、
お父さんとお母さんが喧嘩した時「私は、稼いでないから、何も言えないっ」と悔しそうにお母さんが泣いてるのを見るのが辛い。
だから私は結婚したけど絶対仕事はやめない。正社員としてずっと働き続ける。仕事辞めたくないから、子供も産まない。そこまで体力も気力もないし。
病気とかで働けないならまだしも、働けるのに旦那に養われる生活なんて絶対嫌。」
別に母子で憎しみ合ってるわけでもなく、割りと親子仲のよい三世代なのだけど、仕事の生き方に関してはお互いがお互いを反面教師にしているのがなかなか面白い。
まぁこの連鎖も私が子供を産まないってところで途切れるんだけどね。(選択子無し夫婦。私はずっとピル飲んでる。)
小学生の頃の能力差は才能の差や個性で、努力による差ではないっていう記事を見たけれど
他の子がだらだら教育テレビを見ていたり自転車で走り回ったりしている間、
私は地道にドリルをこなしていた。(もちろん遊びもした)
「小学生なんてみんな遊んでる」と思い込んでいる人は多いが
効率よく集中して勉強する方法もわかっていて中学高校の間も当たり前に勉強ができた。
毎日真面目に授業を聞いて宿題をこなし質問をし、放課後は友達と遊んだり部活に励んだり。
テスト前は「昨日全然勉強してないよ」と笑って、それでもいつも高得点を叩き出していた。
同じ「三時間机に向かった」という行動の結果が人によって違うのを
才能の差にする人をよく見るが勘弁してほしい。
嬉しかった。
自分の親は毒持ちで、その日その日を気分で生きる。
借金を背負ったことをいつも愚痴り、食い扶持が増えてるのに借金がどうのこうのっていつもあいつらは子供に当たってた。
自分のせいで借金があって、生きててごめんなさいっていつもいつも罪悪感を抱くしかできない心になっていたのだ。
博打で借金まみれになっていた父の方の祖父母は、離婚したあとも、父が養育費を一切払わず逃げ切っているのを容認し、いつも笑ってた。
本当に田舎の土人だった。
毒の連鎖は自分で断ち切りたいし、遺伝子も残せない自分には毒が強すぎて人生が歪みまくった。
マイナスからはじまる人生で、未だに生き方がわからず困っている。
人並みの親のアドバイスなんか貰わなかった。
親として最低限の常識やしつけもされなかったので、いま、すごく困っている。
スポーツや芸術で頂点に立つ努力をしている人を見ていると何かに熱中して成し遂げることの手段を持ってて本当に羨ましいなって思う。
毒親のもとで育ったらあんな、恵まれた環境にはとても近づくことができない。
そもそも生きることで、借金生活から逃げ回って生活していくことで精一杯で、塾もお稽古事もなにもできなかったので、いいなあ・・・って心から思う。
エリートにもエリートの悩みはあるんだろうけど、貧乏暇なしの逃亡生活の自分たちの境遇とは本当に何かが。。。根源が違うんだなって思う。
他のアイドル界隈がどうなっているのか私はしらない。
そしてこれから書くことはシステムの話ではなくて、感想文にすぎない。システムについて興味が出た人はグーグルに尋ねるかお近くのヅカヲタまでお問い合わせください。
タカラジェンヌが公演や、公演のためのお稽古に向かう時に所定の場所で待ち、やってきたタカラジェンヌにお手紙を渡す。
公演は細かいことを全部外してしまえば大きく分けて、宝塚大劇場(以下ムラ)と東京宝塚劇場(以下東宝)で行う。ムラでは公演のお稽古も行われておりそれは「お稽古待ち」という。ファンは公演を観る予定もないのにこの「お稽古待ち」の為にムラまで通う。片道1時間以上かかるファンなんて、たくさんいる。それでも、タカラジェンヌと会う一瞬の為に平気で通う。たまに自分で何やってるんだろうと虚しくなるけれど、虚しくなったら負けである。
東宝は所定の場所に並びお手紙を受け取ったらタカラジェンヌにそのまま「いってらっしゃーい」とお見送りする。タカラジェンヌが通るたびにしゃがむ大量の女性たち(時たま男性)はいつみても壮観である。
ムラだと所定の場所でお手紙を受け取ったタカラジェンヌは楽屋口までそのファンを引き連れてやってくる。そして、楽屋口で「いってらっしゃーい」とお見送りをする。大量のファンを引き連れて楽屋口まで歩いてくる男役スターをみると「うをぉぉぉ!!スター様が歩いてくるぞぉぉぉ!!!」と興奮する。ファンをたくさん引き連れているタカラジェンヌはそれだけで神々しくみえてくるし、圧巻で楽しい。
スターさんによっては「お隣歩き」と言ってこの所定の待機場所から楽屋口までお隣を歩いてタカラジェンヌとお話しできてしまうシステムがある。楽しそうにファンと話をしているスターさんをみながら「なんて優しい人なの!!」と勝手に感動することもよくある。話の内容なんて、当然聞こえやしないが。
以上穴だらけの入り出説明。ちなみにこの入り出は会を登録しているタカラジェンヌにのみ適用されるシステムである。まだ会登録していないタカラジェンヌはまた別のしきたりで入り出があるのだが書いていたらキリがない世界なので放置する。
この入り出。したいと思ってすぐに出来るものではない。まずはその生徒の「ファンクラブ」に入らなきゃいけない。この「ファンクラブ」は「非公認」のファンクラブなのだけど、宝塚システムに置いて凄く大きな位置を占めている。非公認の癖に「@@ちゃん会立てたんだって?」「うん、劇団に立てろって言われたらしいね」「そっか。まだ下級生なのに大変だねぇ」みたいな会話がヅカヲタの中ではよく繰り広げられる。繰り返し言う。ファンクラブは非公認である。
このファンクラブに入ることのメリットとは色々あると思うけど(デメリットも正直あると思っている)大きく言えば「応援している人を明確にする形でチケットをかえること」「入り出が出来ること」なんじゃないだろうか。チケット難の公演でも会に入っていればなんとか観れたりもする。
けど、私がしたいのはこの話じゃないから、このシステムについて気になる人はお近くのヅカヲタまでお問い合わせください。
そう、入り出である。入り出。
私が今好きなタカラジェンヌ(以下贔屓)を好きになった時、ファンクラブに入ろうと思った。ファンクラブに入って、その人の名前を通してチケットを買って、お礼状貰って、その人のお茶会(トークショーのようなもの。一種のファンミーティングイベント)に参加できればうれしいと思っていた。
入り出なんてしたいと思わなかった。
だって、怖いじゃん!?自分がいかにその人を好きか書いたお手紙をちょくせつ本人に手渡しするんだよ!?ホラーじゃん!!って真剣に思っていた。
憧れは憧れの存在のままでいて欲しかった。お手紙を直接渡すことが繰り返されるうちに、純粋な憧れは必ず憧れと違うものになると思った。それに、入り出(ガードともいう)する人が怖かった。宝塚の宗教じみた世界の一端はこのシステムが担ってるに違いないと思っていた。事実私の友人の一人は宝塚大好きで何年も見続けているが「ファンクラブなんてあるから宝塚が気持ち悪いところだと思われている」と吐き捨てた。だから、宝塚ファンがみんなこんなことをしているのだと思ってほしくは無い。舞台の上で輝いているタカラジェンヌをみることだけが楽しみで、公演を楽しんでいる人だってたくさんいる。入り出をはじめとした会活動は確かに不思議で独特なシステムであって、未だに奇妙だと思うこともあるけれど、私がこの世界に入ってしまったから非難することが出来ないだけだ。
私が宝塚を好きになってから仲良くなった人は、入り出をする人だった。
「おいでよ」
とその人は私と贔屓が違ったがそういった。
「入り出は楽しいよ」
正直、興味はあったのだろう。後を押されたのか、押されたという言い訳が欲しかったのか私は入り出にいった。同じファンクラブに所属している知らない人に挨拶をしながら贔屓を待ち、やってきた贔屓の目もロクにみられずに消え入りそうな声で「オハヨウゴザイマス」と告げながら私はその場から消えたかった。見慣れた顔の中に知らない顔がいるからか、彼女は私の目をじっとのぞきこんだ、気がする。
もう、数年前の話なのであまり感想は覚えていない。覚えているのは誘ってくれた友人とお茶をしていたらその友人が楽しそうに「また来週も会おうね」と言ってきたことぐらい。その時は「行かないよ!?」「一度経験したのでもう満足しました」とその人に伝えていたのに、翌週には何故か私はそこに立っていた。
それから、毎週のように私はそこにいた。
何が楽しいのか、私は未だに分からない。あえて言うなら贔屓と会った後にファンの人同士やお友だちとするお茶が楽しいと言ってしまうかもしれない。長時間乗る電車の中でポストカードに手紙を書き、ムラについてから贔屓を30分以上待つこともザラだ。やって来た贔屓に「おはようございます」の一言だけを告げて、ほんの少し会話をやりとりして、楽屋口まで贔屓の背中をついていく5分足らずの時間の為に多くのことを費やしているという事実を数年かかっても未だに認めきれない。
おはようございますの一瞬で目を見てくれたかとか、笑ってくれたかとか、今日は機嫌が良かっただとか、なんだか疲れているみたいだとか、たった一瞬触れ合うだけなのにそういうことで喜んだり心配したりする自分が滑稽だと常々思っている。
贔屓と仲良くなんか、なりたくない。勿論ファンとして大事に思われたい。嫌われたくは、ない。でも、近付きたくは無いし、入り出をしてどれだけ時間がたっても私にとって贔屓は遠い存在だ。
笑い話みたいかもしれないけれど、私は入り出するようになってしばらくしてから友人に「贔屓に顔を覚えられてしまったかもしれない」と言って泣いた。贔屓をみるのは楽しかったけれど、贔屓が私の顔を覚えるのは耐えられなかった。贔屓が私の顔を覚えるということは、関係が蓄積していることに他ならず、それがいいことだとは欠片も思えなかった。送る手紙はいつだって適切なものとは思えなかったし、贔屓がそれを負担に感じていたらどうしよとばかり考えていた。
今は、贔屓がどう思っているかなんてわからないし、私がやりたいからやってるでいいんだよって笑っていられる。手紙も送りたいから送るのだ、贔屓に喜んでもらうために書いてるじゃないよと言い張ってる。時々それにも失敗しているけれど。
入り出はタカラジェンヌによって色々で優しく雑談をたくさんしてくれる人もいれば、視線も合わせずお手紙を回収してさようならの人もいる。たくさんお話してくれるタカラジェンヌの話を友人としながら「@@ちゃんさすがだよね」と笑いあうけれど、そこでガードすることはない。会のシステムが無くなったとしても、多分しない。私が入り出をしたいのは、贔屓だけだし、その贔屓が見せてくれる一瞬がどんな神対応よりも意味を持っている。
AKBの柏木由紀さんは握手会を「10秒の公演」と称したそうだけど、きっと宝塚の入り出も近いものがあるのだとそう思っている。
毎週5分の為に駆けつけて、直接お手紙を渡すことで愛が伝わっているのかは分からない。エゴだけが伝わっているのかもしれない。
それでも贔屓だけをみれる時間が嬉しい。舞台の上に立つ完全な男役ではなく、化粧を落し、ほんの少しだけ素の部分を見せてくれるその瞬間がたまらない。
少なくとも、贔屓が退団するまでは。
お稽古のあと、『GQ』の取材。「韓国への謝罪はいつになったら終わるんですか?」というご質問に「謝罪というのは相手が『謝罪された』と実感できないとしたことになりません」とお答えしました。「謝罪したからいいだろう、コノヤロ」というのはふつう誰も「謝罪」とは言いません。— 内田樹 (@levinassien) 2014, 3月 10
と内田樹が言っている。だから、韓国が謝ったと感じるまで謝りつづけないといけないのだろう。
しかし、今回のセウォル号の事故の件で、彼らが認める「謝罪」のハードルがいかに高いかはじめて知った人もいるだろう。
韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は18日、ソウルの明洞大聖堂で行われた旅客船沈没事故犠牲者と遺族のためのミサに出席した。1000人以上が出席したミサが開始された直後、朴大統領は「私のせいです。私のせいです。私の大きな過ちのせいです」と叫んだ。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/05/18/2014051801732.html
僕は内田樹に対してある面ではその知見に深い尊敬を抱いている。
しかしながら、彼をはじめとするリベラル派の的外れで非現実的な物言いに対する違和感や反発を持つ人が多いのは、これではしょうがないのではないか。
フランスの右傾化は「彼らの真意ではない」と言いつつ、日本の嫌韓を叩いて憂さ晴らししてる場合ではない。
リベラル派がこんな体たらくだから、今回の馬鹿みたいな解釈で進められている集団的自衛権の話でさえ、反対が盛り上がらない。
すべて、これまでのこのようなリベラルに対する不信感が蔓延してしまっているのが原因なのだ。
彼らは、日本の右派に対して向ける批評性を、中国や韓国に向けることはない。なぜか。おそらく「右派」に見られたくないからだ。右派と一緒になりたくないからだ。
それでは、他国に向ける厳しい目を自らに向けない糞みたいな右翼と表裏一体の存在ではないか。
同様に、慰安婦問題に関して日本を批判する人たちが、同じ熱量で韓国政府の慰安婦制度を批判し議題に上げる場面を見たことがない。
アメリカのリベラルにはC.Sarah Sohのような存在がいるから、これはリベラルそのものの問題ではなく、日本のリベラルの問題であると思う。
安倍の危険性を論じる熱量で、中国の人権侵害や危険性や韓国社会の歪みを論じなければ、リベラルに対する不信感が解消されることはない。
ここ最近の嫌韓化は注目され批判されても、ここ10年での台湾に対する関心度や好感度の上昇はリベラル側からそれと結び付け政治的に語られることはない。
下記は内田樹の鋭い論考であるが、彼はこの論点から日本やアメリカを批判することはあっても、韓国を対象にコラムを書くことはないのだ。
「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。
「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。
もし、すみやかな救済措置や、気分の切り換えで「被害」の傷跡が癒えるようであれば、それは「被害者」の名乗りに背馳するからである。
「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
先に断っておくと、今まで霊だの金縛りだのとは一切無縁だし、話もあくまで目の前で見ただけ。
後先にも不思議体験なしと前置き。
子供対象に幅広い年代に教えているが、一番上のクラスで中学生がメインのクラスを指導中だったときのこと。
一人の子が具合が悪いというので休ませたのだが、特段どこが痛いでも気持ち悪いでもないというので
それなら戻れるかと聞くも首を横に振って無理という意思を表す。
一体どうしたこっちゃと別の講師も声をかけるが鈍い反応で、更には泣き出す始末。
嫌なことでもあったのかと聞いてもそんなことは全くないとこれまた首を横に振って答えるが、
何が異常かというと本人も周囲も原因わからぬままひたすら数十分弱泣き続けた事。
家に帰りなさいと促しても大丈夫とは答えるが…
既に中学生であり普段泣いた事のない子の異常な姿にやはり帰宅を促すべく家に電話するも生憎繋がらず。
それじゃあと緊急連絡先である親の携帯電話に電話するも繋がらず、何度かのトライで漸く繋がったのだが。
その子は両親と祖母で暮らしていて、その日は両親が職場へ、その子は習い事で外出し、家には祖母がいた。
その一人での留守中、不幸なことに祖母は突然死したらしい。
電話が繋がらなかったのは親がちょうど帰宅して祖母の状態に気が付き電話を使用していたからで、
その子が原因不明の状態に陥ったのがつまりちょうど祖母の亡くなった時間帯であった。
帰宅してぴたっと泣きやんだとのこと。
本人も後日その状況を振り返ってみるも、なんでああなったのかよく分からないと話してくれた。
というはなし。
虫の知らせとう言う奴なんだろうか?
ちょいと昔のはなしなんで、祖母が亡くなっていたから電話は誰も出ず、仕事中の親は電話に出れず
無理矢理帰宅させたその子が祖母の倒れているのを発見して…って流れだった気もするが、
そこが本題ではないのでそんな感じだったとだけ蛇足追記。
話題になることもないが、そういやそんなこと有ったねの備忘録としても書き留めておく。
気持ちはわかる。
それで、足りないのはオカしいと言っている人は、正社員で給与所得者だと思う。
私のスペック
・自営業
・年間売上 約700万くらい
・いちおう著書とかもある
なので、よくわかる。
私も足りない、というか今は足りてるが、将来の保証や安定、失業保険がないので、かなりやばい。
逆に、うちもカミさんがそれくらい稼いでくれると、どれだけ助かるか。
オカしい、といっている人は、年収と手取りを間違えていると思う。
・住民税 ※
・年金 ※
・介護保険
・国保 ※
・所得税
・個人で自衛のための年金の積立 ※
・個人で自衛のための退職金積立 ※
・生命保険 ※
・住宅ローン ※
このうち、所得税は10%なので、それほどでも無いのだが、社会保険がとんでもなく高い。
ほぼ毎月5万以上とられるのだ。
で、※でかなりの部分消えるわけですよ。とにかく正社員の人は、※が会社負担なので手取りがそのまま手取りになるので、いいわけですが、自営業は稼ぎからさらにそれらが引かれるので、これは体験した人しかわからないです。
給与所得者の人、わかりますか?ほぼ毎月5万消えててくんですよ?
会社員の場合は、これを会社や保険制度がかなり助けてくれてる。
あと、生命保険が、自営業の場合半端ない。企業だと死亡年金とかも違う。
ここでぴったりのプランを試すと良い。サラリーマンと自営業とで全然違うから。
http://www.lifenet-seimei.co.jp/lifestage/input.html
子供の学資保険やお稽古、幼稚園代などは、せいぜい数万で、子供手当てもでるから、日々のハッピーに比べれば大きくはない。
とにかく、※が結構かかるのですよ。
で、うちは法人、という人も養ってるので、自動的に最低でも年間で、7万と税理士代金20万ちょっと出る。正直キツイけど、決算処理とか考えると、税理士を削るわけにもいかない。
さて、うちは切り詰めたときは切り詰めたけど、結局いきついたのは、収益を上げること。切り詰めても限界あるし、節税しようにも、閾値からすると年収300万切らないと、あまりメリットない。税金とかって、そのランクのギリギリ上位手前が一番オトクなわけで、年収500万前後が、いちばん厳しいのですよ。
よく法人化して経費化せよ、っていうけど、それもそもそものキャッシュがないとだめなので、体感的には「安定して」売上1500万くらいないとダメだと思う。
法人化して、ほんと後悔してる。
ちなみに、転職サイトで活動もしたけど、たいていは年齢でアウト、呼ばれても条件でたいていアウト。お金になる実績は著書じゃない、ということね。
40過ぎたら、自分で営業するしかないと腹をくくってるけど、来月どーしよーって感じです。
最悪自殺でも生命保険は出るけど、せめて、子供の結婚式くらいは見たい。そう思って頑張ってます。
安定するには、とにかく安定した大口をゲットするしかないので、がんばるしかないです。
http://www.amazon.co.jp/dp/4806139742
今はこの本読んでがんばってます。
http://anond.hatelabo.jp/20130423064007
ブクマコメントを見てると、結婚する事について熱のない人がいるなあという感想を持った。
親が出てきてどうにかなる時代でも無い気はするけれど…。
これって典型的に、後になってからやっておけば良かったと後悔するタイプだと思う。
と書いているけど、容姿に難のあるタイプにマッチしているのは仲人を立てたタイプのお見合いだと思う。
で、数万人の会員がいる大手結婚相談所には紹介書をやり取りするコースの他に紹介者が仲介したりアドバイスしてくれるコースもちゃんとある(もちろんかなりお金はかかるが)。親だって小学校や中学校の恩師にお願いするとかお稽古事の先生にお願いするとか方法は幾つもある。条件を落とせば相手はいる。容姿でダメなら気立てと家政力で勝負という方法もある。家庭料理の上手さは最大の武器になるし、結婚詐欺を働く女性は大抵美人でなく気立ての良さで男を騙すのだ。
重要なのは、やれるだけの事をやり尽くして、それでもダメだったというならばあきらめもつくということ。
重要なのは時間は流れていく一方、あとになってリトライは効かないという事。やれることをやらずに、あとになってあれもやっておけばこれもやっておけばと思うよりははるかに良いだろう。
こどもの年齢によるけれど
「おやつ代」
っていうのは必須だと思う。食費から切り離しているので非難が集中しているけれど、子育てしたことあるとわかるけれど、ある年齢くらいまでは
必要な食事の量÷3>>こどもの胃袋に一度に入れられる食事の量
学童保育でもおやつが問題になるのはそのせい。昔はこのことを家庭科で習ったんだけど、いまは習わないのかな。
お稽古事(塾かもしれないし、習字そろばんかもしれないが)は地域によってはほぼ必須。0でいいだろっていうのは、こども高校に行かせないと決めないと無理って言う地域だってあるよ。あと私の家の近所は学区が分かれる所だったので、塾かお稽古事に通わないと近所に友達が一人も居ないという状況に陥った時期がある。塾移ったら孤独だった・・・
親族に生活保護のことを言ってないとなると、固定電話がなくなったときにものすごい突っ込まれることがある。特に歳行った親戚とかは
みたいな言い草してくることがあってびっくりする。
生活保護が今だけの生活で脱却する為になにかしているかどうか、が
「残り1万五千円」
に掛かってくると思う。
下の子が中学になったらこれこれの仕事に就くんだっていうんだったら、それなりの人脈なりなんなり作るために動かないとならんだろうし、そのためのお茶代やらお稽古事(!)やら必須。ハロワのWordExcel講座で就職できるならいいけれど、それ以上のところを探すなら補助金を受けつつも、アドオンのお金払って通ったほうがいい。
生活保護から抜け出す為の足がかりがいらない、ずっと生活保護で生きていくっていうなら、削りどころはあると思う。てか、彼らをこの生活から抜け出させたくないなら削る方向で考察してみたら? と国に言いたいw
これを書いた者です。後で出てくるとあまりかっこよくないと思ったのですが、ここまでズタボロなのでもう取り繕うこともありません。
自棄で書き散らかして盛大にゲロったのが気恥ずかしく、デパスとドリエルで一晩進めてなんとなしに見たらすごい伸びようですね。手遅れかもしれませんが巡り巡って奴の目に触れないことを祈ります。
トラバ及びはてブetc.での励ましお叱りもありがとうございます。ちょっとだけ読んでしまいました。循環参照はExcelです、風俗嬢より事務屋が長いので。おつむの程度は偏っていると思われます。創作であったならば別れの会話をもっと綺麗に創りました。本当にフィクションだったらいいのに。埼玉のおっさん説・フィクション説支持者は出会うか出会わないかの1年くらい、いや就職する会社選びくらいまで魔法で巻き戻してフィクションにさせてください。お願いします。
世に溢れるありきたりな失恋話なのでしょうがご多分に漏れず私も立ち直れないほどのダメージを受けているうえ、周囲に愚痴るにしてもフェイクを入れなくては話せないので(風俗側にも)、身バレ隠し以外はここまで書かなくてもいいだろうということまで書きたいことをかなり書きました。
何事もお稽古気分とはどの辺りでそう感じられたのでしょう。リハなしぶっつけ本番のような心地でした。芸事で上を目指すのにも様々なかたちがございます。
ご指摘のこじらせ女子、その通りだと思います。その割になるべくシンプルに素直に表現しようと頑張った方ではあります。相手の多忙さを考慮のうえで私の最大限でした。どうすれば上手に「女性」を生きられるのでしょう。奴となら、ひらけて行きたいと思えたのですが。
欧州編、書けるでしょうか。書けるほどまた誰かを好きになれるよう祈ってください。
女子力を磨くのは「女子」のうちにやっとかないと無駄ってことに尽きるんです。幼少期から学生の間に、お稽古事や勉強をしっかりやっていれば「女子力」がつきます。
だけどいい歳になって「女子力磨き」なんてやっても、それは「オバサンの厚化粧」と同じ意味なんですよね。
そんな無駄な努力をするよりも「良い歳のとり方」に力を注いだ方が、よほど美しく生きられるんです。アラサーにもなってネイルだエステだのと必死になっても、それは内面の醜さを増すだけで、外見も、これは自己満足を楽しむ分には宜しいのですが、男性諸氏には醜悪としか映りません。
昔着てた服を自分で上品にリフォームしてみるとか、派手な化粧をやめて、自分の年齢を受け入れた自然なメイクを心掛けるとかした方が、男性婚活者が結婚相手として認めてくれる可能性は格段に高くなるんです。
わかりますよ、みなさん私が古い考えなんじゃないかと思ってますよね?しかしこれは婚活の現場で私が日々見ている最新の傾向なんです。テレビや雑誌では、ほぼ真逆のことが言われてますけれども、それは、言っちゃ悪いですけど、商売のための宣伝広告であって、婚活女性のためを考えたアドバイスじゃないんですよ。
「最新」とか「正しい」とかいう情報は現実の男性にあるのであって、テレビや雑誌には無いんです。そういった事をよく考えて、みなさんの婚活に対する姿勢を考え直してみてください。
無邪気な子どもが、ねえねえこれ見て。これすごいでしょ。面白いでしょ。使ってみてよ。って感じ。
本業と間接的にからむ色々なサービスを無償提供している余裕なのか、サービス系が苦手な通りのイメージからなのか。こんな感じ。
よぉ。オレ様がいいもん作ってやったから使え。どうだすごいだろ。とか
こら、下品で野蛮なあんなお友達と遊んじゃダメって言ったでしょ。あなたは選ばれた人間なのよ。お家の中でお稽古しなさい。でしょうか。
自分たちが最高のものを提供している感覚はgoogleにもあるだろうけども、それ以上に極端な、ジョブズの価値観にそぐわないものは全て却下という
体質がそう思わせる。
ネガティブキャンペーンが大好きなところもそう思わせる。
専業主婦になりたい20、30歳代女性が増えている。不景気の影響もあって、若い女性が仕事をしてキャリアが積み上がっていくケースが少なくなっているせいらしい。希望を失った彼女たちは、その代わりにパンを焼いたり、料理に手間をかけたりといった、専業主婦としての生き方に、魅力を感じている。
国立社会保障・人口問題研究所が行った「第4回全国家庭動向調査」で、「夫は外で働き、妻は主婦業に専念」という考えに「賛成」と答えた既婚女性が1993年の調査開始以来、初めて増加に転じた。08年7月1日に調査票を配布し、有効回答を1万192票得た。このうち妻が回答した6870票を対象に分析した。
年齢別に見ると、賛成派は60歳代がもっとも多く半数を超え、次いで29歳以下が47.9%で、前回調査(03年)を12ポイント上回った。
20歳代女性の専業主婦志向が上昇しているのはなぜか。日本女子大学現代女性キャリア研究所客員研究員の石崎裕子さんは、
「女性が仕事を通して自己実現を果たすには、依然として高いハードルが存在しています。さらに、不景気の影響で、就職難だったり、非正規雇用が増えたりと、若い女性が、仕事を通してキャリアを積み重ねていくことに対して、希望が持ちにくい状況になっています。このような将来に対する先の見えない不安感を抱えた中で、専業主婦という選択が、結婚後も仕事を続けていくことと比べたとき、若い女性たちにとって、より魅力的な選択肢として浮上しているようです」
と話す。
前出の調査で30歳代にも専業主婦志向が目立った。「夫は外で働き、妻は主婦業に専念」との考えに41.7%が賛成し、前回調査を7ポイント上回った。
就職氷河期を経験した30歳代は、仕事に就くことの大変さを実感している。ところが、『アエラ(AERA)』(10年4月26日)の「結婚と仕事 不器用世代が願う『新・寿退社』」と題する記事では、キャリアを積んだ女性が結婚を機にあっさりと会社を辞める姿が報じられている。
例えば、氷河期まっただ中の01年に外資系金融会社に就職した既婚女性(30)は、深夜3時にタクシーで帰宅する生活が続いていた。仕事を家に持ち帰ることもあった。家庭を実感できず、「キャリアやお金がいくらあっても人生の最後には残らない」「夫婦の絆を失うことのほうが怖い」。そう思って会社を辞めた。専業主婦になってからは毎日の生活に幸せを感じ、「もう二度と働きたいとは思わない」という。
寿退社が決まった女性(28)は、「仕事は好きだけど、家庭がおろそかになるとストレスを感じる。両方を手に入れるのが難しいなら、仕事はしたくない」と専業主婦の道を選んだ。
ただ、こうした若い女性の専業主婦志向は今に始まったことではないようだ。「1998年版厚生白書」(厚生労働省)によると、夫婦の役割分担が「男は仕事、女は家事」から「男は仕事、女は仕事と家事」を経て、「男は仕事と家事、女は家事と趣味(的仕事)」に変わった。「新・専業主婦志向」と名付けられ、生活のためのパートやキャリアウーマンといった働き方を嫌うが、社会とつながっていたいため、趣味や趣味的仕事は欠かせないのだという。
前出の石崎さんは、女性誌『VERY(ヴェリィ)』(光文社)に、「新・専業主婦志向」の女性たちが憧れるライフスタイルが創刊以来ずっと描かれている、と指摘する。生活感を巧みに隠しながら、夫という経済的基盤のもとで、レストランでのランチやお稽古事を楽しむ幸福な専業主婦像は、それまでの主婦イメージを大きく塗り替えた。
最近の若い女性の専業主婦志向も、この延長線上にあると石崎さんは考える。不景気の中で節約を心がけつつも、自らパンを焼いたり、料理にほんのひと手間かけてみたりといったように、主婦として生活自体に楽しみを見出そうとする傾向がみられるという。
「夫や子どものために自分自身を犠牲にして主婦業に専念するというよりも、むしろ、専業主婦という生き方を通して、一人の女性としていつまでも魅力的でありたいという思いが感じられる」