はてなキーワード: 犠牲とは
もうとっくに後ろ指さされない時代になってるよ。
ジジババだって暇で健康とは限らないし、子育て終わってこれから人生を楽しみたいのにまた孫育てなんて嫌だと拒否される事もあるし。
つーか今のジジババ世代は子供の為に犠牲になるのを厭わない人がまだまだ多いけど、
自分の子供ですらジジババに丸投げしていた若夫婦がジジババ世代になった時に
子供の為に犠牲になって孫育てに残り少ない人生を費やす事を許容するとは思えないから
どっちみち長続きはしない風潮だね。
「パリストンがいいやつだった件」
なんてまとめがあったが、いいやつって敢えて安っぽい表現してるのが、かえって深く考えさせられるね
とてつもなくいいやつ
理由、キメラアント編の結果を見ると
東ゴルドーは軍事国家で正攻法で攻めたら戦争レベルだし、NGL自治国に至っては表向きが超自然回顧主義だから軍隊を突入させる事すら不可能な完璧なシステムを構築している
それが、結果的に見ると、たった数人のハンターの命を犠牲に解決している
さらに言えば、キメラアント討伐の結果、ハンター協会は世界規模のピンチを救うという功績を残している
ハンター認定証を売ると人生遊んで暮らせる、それぐらいハンターは特権階級だけど、それはハンターが今までに功績を残しているからで、今後においてもキメラアントの残党狩りのためにハンターの地位は確固たるものとなり続ける
たしかにゴン達の視点で見ればキメラアント編は苦難の連続だったし、親しい人をどんどん亡くしている
しかし、一般の人間や関わっていない大多数のハンターにとって非常に望ましい結果となっている
「いいやつ」の定義を「大半の人間が望ましい結果を出すやつ」と定義すると、パリストンすっげえいいやつって結論になる
そこで疑問、パリストンはどこまで計算してやったの、少なくとも会長達が失敗したとき世界規模でピンチになるんじゃねえの、てこと
キメラアントの社会システムは、女王、もしくは王を倒せば一気に崩壊するシステムになっている
そこで、世界規模のピンチに派遣されたハンターが、何でたった三人だったかと言う話
・貧者の薔薇をかかえているネテロ会長は、一対一の戦いにおいては、勝利か相打ちしかない
・モラウとノブの能力は、会長を一対一の戦いに誘導するのに最適な能力
それでも、万が一メルエムが予想外に強すぎたりして、会長一行が失敗した場合どうすんの?世界が終わるじゃん、って話になると、活きてくるのが先週の発言
「信じてますよ。決まってるじゃないですか」
パリストンは会長に絶対の信頼を置いていたからこそ実行できた、ていう根拠になる
結果的にネテロ会長は相打ちになったけど、ジン曰くハンター最高の快感は
「狙いが自分の思った通り動いた時」
小さな会社で1日8時間、週に5日働く。私は一人住まいだから、家族といる時間よりよほど長い。
3年半働いた。
でも、私の居場所はなかった。作ることができなかった。
溶け込めなかった。溶け込むことを私自身が良しとしなかった。
誰も彼もつまらなかった。誰も自分自身の話をしようとはしない職場だった。でも、それは私も同じだった。
私には相応しい職場だったのだろう。
でも、やっぱりおかしい。何がおかしいのかはわからなかったが、嫌な感じはずっと付きまとっていた。
退職した。定年まで働きたかったが、あと30年もあの場所で暮らすのは苦痛以外の何物でもないと気づいた。
定年まで働きたい理由が、少しでも多くの退職金が欲しいっていう理由だけだと気づいたから。
そのために私の30年、1日8時間、週5日を犠牲にすることはしたくない。
見つからなければ見つからないで、やり方を考えよう。ひとつのところに留まることができないことを、個性と割り切ろう。
私は私の中に素晴らしいものがあると信じている。
どうなるのだろうか
BPDの人は、不思議な魅力を持つ
彼・彼女らは人との距離をとても狭めようとする
精神的な距離がとても短い関係を作る
その為に彼・彼女らは劇的な関係を演出し、自らを守られるべき存在に見せる
だから、人同士の距離が大きくなり、繋がりが弱くなった現代の人間にとって魅力的に見える
けれど、彼・彼女らは愛情を確認するために時として残酷なことをする
試すのだ
その人が何処まで犠牲にしてこちらに意識を向けてくれるかによって、彼・彼女らは愛情を感じる
例えばこうだ
あなたが友人・知人と遊んでいると知れば時間・場所に関係なく電話をかけて自分自身を優先させる
深夜に電話をするとか、呼び出してみせるとか
(例えばあなたの大切にしているものを粗末にしたり、他の異性と出歩いてみたり)
そうした行為であなたを試し、耐えてくれることを"献身的"であると受け取る
あなたは彼・彼女の憂いを帯びた雰囲気や、こちらを健気に繋ぎ止め頼ってくる姿に夢中になるだろう
だから、初めの頃はそうした試し行為も甘んじて受け入れるのだろう
「もう付き合いきれない、もう少しこっちの事も考えてくれ」
それと同時に、自分を守るためにあらゆる手段を講じる
初めの頃、あなたに見せた"かわいそうな姿"を用いて、自分やあなたの周りの人を味方につける
彼・彼女らはあなたが特別だから好きなのではなく、都合の良い人間であるから好きなのだ
覚えてないだろうか
それと同じことが起きている
しかし、まだ終わらない
「やっぱり、あなたが一番だった」「もう一度やり直せないか」「友達として相談に乗って」と
そして、あなたはそのトラブルに巻き込まれ、完全に縁が切れるまで利用され続ける
その過程で、あなたは彼・彼女らによって知人・友人の多くを失い、そのコミュニティでの立場も失うだろう
さて、そうした経験を持つ人はその後どういう風に生きていくのだろうか
呪いのように、自らもBPDとなるのか
誰も信じられなくなり、恋愛や対人関係に怯えるようになるのか
『まどか☆マギカ』 まどかウエハースを140枚購入してカードをコンプリートしたスレ民・・・ | やらおん!
上記の記事を見るに、どうやら25枚のカードを手に入れるためにウェハースを140個開けたスレ民がウェハースの魔女に食べられたようなんだ。というよりもはや本人が絶望してウェハースの魔女になりかねない。むしろ俺なら魔女化する。それにしてもこのシャルのやつかわいいな。
もうすぐビックリマンシール(第1弾)も復刻されるとかされないやらで、人々の蒐集欲はどの時代もとどまることを知らない。ビックリマンシールは第1弾の37種類に新キャラが3種類増えて全部で40種類。全部で40枚だったら…うん、ダブリも考慮して60枚ぐらい買えばコンプリートできそう!
さて、ここからちょっと算数の時間。苦手なひとや結果だけ知りたいひとは次の見出しまで跳躍してくれるといいよ。
この問題は「Coupon collector's problem」として有名な問題で、日本語だと「食玩問題」とか言われたりします。食玩ってあたりがなんだか日本の文化って感じ。
さて、全部で n 種類のシールがあるとして、1種類目を手に入れるために必要な購入回数を t1 、1種類目を手に入れてから2種類目を手に入れるために必要な購入回数を t2 、一般化して、k-1 種類目を手に入れてから k 種類目を手に入れるのに必要な購入回数を tk で表しましょう。するとコンプリートに必要な購入回数 T は t1 + t2 + ... + tn-1 + tn になりますね。あとはこの犠牲 T の期待値 E(T) を求めてやればいいことになります。そして期待値は足し算を分けて考えれる便利な性質があるので、それぞれの E(tk) を求めてやりましょうか。
確率 p で起きる事象が1回起きるまでの期待回数は 1/p ですね(幾何分布ってやつ)。確率0.5なら2回、確率0.1なら10回ってのは直観的にもなんとなーくわかってもらえそう。E(tk) は 全 n 種類のうち、まだもってない n-k+1 種類を引き当てるまでの期待回数なので、 (n-k+1)/n の逆数、つまり n/(n-k+1) です。
あとはこれを全部足し合わせると、次のようになります。
E(T) = E(t1) + E(t2) + ... + E(tn-1) + E(tn)
= n/n + n/(n-1) + ... + n/2 + n/1
= n ( 1/1 + 1/2 + ... + 1/(n-1) + 1/n )
これだと足し算がいっぱいあって計算しづらいのでちょこちょこっと大学数学の結果を使っちゃうと、ほぼ次のようになります。どうしてこうなるか知りたいひとは教科書でもみとけ。
E(T) = n ( log(n) + 0.5772 ) + 0.5
さて、上の式をEXCELにぶちこんで計算してみます。セル$A$1に全部で何種類かをいれて、次の算式をどこでもいいので適当なセルにコピペしてぽちっとな。
=$A$1*(ln($A$1)+0.5772)+0.5
では颯爽とセル$A$1に25と入力してみると…おっと、95.4019、え、96個…? たった25種類集めるのに…? どうしてこうなった…。
単純に考えて、ラスト1個を引き当てるためには平均して n 回の犠牲が必要。最後から2番目には平均して n/2 回、最後から3番目には平均して n/3 回。ではまどかカードの場合この3種類を集めるのに平均して 25 + 12.5 + 8.333 = 46 回必要です。裏を返すと、コンプリートまであと3種類!ってところまでは 96 - 46 = 50 回ぐらいでたどりつけるということです。なんてことでしょう。最後の3種類を集めるためだけにほぼそれまでと同じぐらいの回数をこなさなければいけないなんて。もう最後の3つは諦めてショップで買ったほうがいいんじゃね…。
ちなみに、セル$A$1にビックリマンシールの40種類を入力すると、172回という驚きの結果が返ってきます。一部界隈で非難轟々だったように復刻版は1個30円じゃなくて84円なので、およそ14500円かかるというわけですね。ひぇー…あ、いや、案外普通だった。大きいお兄さんならなんとかなるな。
ただし、ここではキラシールみたいなレア物の確率を考慮してないので、実際はもっと期待回数はあがるんじゃないかな。
計算が複雑になるのでここでは扱う気全くないですが、 x 個買った時にコンプリートできる確率ってのも当然考えることができます。こちらのサイトには導出のイメージと計算機が公開されてるので感謝しつつ計算してみましょう。冒頭のひとは140個目で揃ったということなので、
おまけの種類の数:25
これから欲しい数:25
これから買う数:139
として計算すると…0.9169とでました。つまり、139回の犠牲をはらってもコンプリートできない人は全体のおよそ 8.3% これは40人のクラスに3.3人ぐらいの計算ですね。たしかにだいぶ運が悪い方だとは思いますが、各クラスから3.3人も魔女が出てたらそれはそれは大変なこと。
知らなかったゆえに絶望して魔女化して魔法少女に倒されグリーフシードとして消費される。でもほむらちゃんにならわたし消費されてもいいかなって、ティヒヒ。
似たような話で、アイマスシンデレラガールズになぜ大きなお兄さんは大金を突っ込むのかって話が盛り上がってたのでご紹介だよ。最後の3枚を集めるのはほんと鬼畜だってばよ。
6年間つきまとわれて鬱陶しいと思っていた女の子と1年間付き合ってみて思ったことを書く。内容が内容なので2chと迷ったが2ch怖いしもっと怖そうなこっちに書く。
高校3年生の頃、コースも違うあの子と出会ったのは生徒会に入った時だった。小さな身長と独特のしゃべり方が印象に残ったのを覚えているが、当時は授業をサボって生徒会室に入り浸っていたためクラスの女の子よりもよく会って話していたなあ程度の思い出しかなく、卒業して大学に入ればお互いに忘れ去るものと思っていた。
しかし実際は大学へ入ってからも度々メールを寄越したりmixiで繋がっていたこともあって、遠く離れた場所に住んでいるのに気付けば年に2度ほどのペースで会っていた。その間になんとなく流され二人で遊びに行ったりついうっかり家にあげてしまったおかげで簡単に童貞を奪われたりした。流されてこういうことをしてしまった自分がすごく嫌だった。
自分はこの子を恋愛対象に見ることができなかった。童貞は奪われたが、セックスを経験しお酒が飲める年になっても心は完全に童貞だったし、恋愛に幻想をたくさん抱いていた。それなのに、セックスがしたくなったらあの子を家に呼ぶようになっていた。相当な屑だなと他人事のように思っていた。ただ、付き合うまでは一度もイクことができなかった。
セフレのような関係が1年ほど続いた。自分の屑さに嫌気がさして、俺なんかじゃなくてもっといい人を見つけて欲しい、と言った。その時初めて、あの子に彼氏がいることが分かった。それも付き合って3年になるのだという。なんとなく惰性で付き合っている、と言っていたことも深く印象に残っている。そのあと、その彼氏と結婚の話が出ていて悩んでいるという相談をされたのをぼんやりと覚えているが、その時はあまりのショックで何を話したか覚えていない。厨二の頭には「私と付き合うなら今のうちだ」というメッセージに聞こえたことだけは覚えている。
それから数ヶ月後に自分はあの子に告白した。好きだと言った。内心は「惰性で付き合ってるような男より、自分の方が幸せにできる」「人を幸せにできるなら、自分が犠牲になってもいいんじゃないか」というまさに厨二脳だった。何かを認めたくなかったのか、彼氏がいるのに他の男と寝るような女だ、と根に持っていたし、本人もにそう告げた。
あの子はすごく喜んでくれた。惰性で付き合ってる彼氏とすぐに別れ、自分のもとに来た。誇張でもなんでもなく、10分に一度くらいのペースで「幸せ」と言っていた。私のことが好きかと問われ、好きだと言った。
言葉にすると不思議なことに、なんだかそんな気がしてくる。就活で自分のアピールを盛りまくっていると、就活を終える頃には完璧超人にでもなったかのような気がしているあれだ。自分はなんだか気持ちよくなり好きだ、好きだと言った。時には愛してるとも言った。1ヶ月もすれば、自分は本当にあの子が好きになっていた。
のろけ話を書くのはもういいので、この1年間を簡単に書くと、半年経つ頃にはあの子はとっくに幸せと言わなくなっており、それから数ヶ月後にはあの子は会う度にため息をつくようになっていた。こちらから話し合いを持ちかけ、あの子からフられる形で別れた。フられる直前まで、自分はあの子が好きだった。
センス良いしおしゃれだし優しいしいい男だけど、ごめんなさい。本当に好きだったの。ごめんなさい。
あの子なりの優しさだったのかも知れないが、これ以上ない一撃だった。どうせなら後学のために気になる部分をボロクソに言って殴るくらいのことをして欲しかった。
自分はあの子が嫌いだった。自分の理解できないところで怒るし、普段は言いたい放題のくせに肝心なところでため込んで爆発するまで言わないところとか。なにより、人を悪く言うし、何が嫌いかを語るのが好きな、自分が一番嫌いな人種だった。これから付き合うかも知れない男の前で「惰性で付き合ってる」なんてよく言えるなと、付き合う前から別れることを考えるやつはいないとは思うが、もしそうなった時に傷つくのは目の前の男だぞ、と。
自分はあの子が本当に好きだった。変なところで怒っていたがなるほど確かにそういう考えもあるなと何度も思わせられたし、ため込んでいたものが爆発して怒鳴られた時には心から反省できたしもっと普段から頼れて相談できる男になりたいと思えた。嫌いなことについてズバズバと的確に叩くその口にすかっとしたし何度も感心させられた。
というのを最近見て、思うところあって勢いで書いた。1年間しか恋愛を経験していない未だに頭が童貞のような人間が言ってもかっこわるいが、恋愛において妥協はポジティブなことだ。女の子の彼氏を褒めると、そんなことないって心理が働いて別れるのが早まる、みたいなことを聞いたことがあるが、そんなことないけど現在仕方なく付き合ってあげてる、というのは、大きさはどうあれ「妥協してでも一緒にいたい」なのではなかろうか。
恋人が不満でしかたがなく、現在なあなあで付き合っている、という人は、「妥協してもう少し一緒にいてあげてもいいかな」と少しでも思っているなら、バカみたいに好きだ、好きだと言ってみたらどうだろう。いつの間にか相手への不満が変化しているかもしれないし、少なくとも「何それ急にどうした?」って笑い話くらいにはなると思う。
音声合成DTM製品「VOCALOID2 CVシリーズ」の第二弾である「鏡音リン・鏡音レン」を用いて作られた一連の楽曲作品。詳しくは検索。
小説とか漫画とか劇化もされてるようだけどそっちはノータッチなので除外。なんか詳細設定とか山のようにあるらしいけどあくまで元動画とその歌詞に情報源を絞る。
前者はある国で暴政を敷いた愛らしい王女が革命によって倒されるまでのことを歌った歌、後者はその王女に仕えた召使いの視点から同じ一連の出来事を歌ったもの。
YouTubeとかに死ぬほど転がっているのでこの文章を読む人にはできれば聞いといてほしい。ネタバレを含むので。『悪ノ娘』から先に。
英語版ならEnnという人? が歌ってるやつの歌詞が好きだな。情報量が多くて。
身も蓋もない言い方だけど「売れてる」から。
ニコ文化が中高生とかOTAKU中心に大人気とは知ってましたが劇って。コミカライズくらいまではわからんくもないが劇。
ファンとはいえそこまでのめり込むほどか。何がそんなに優れてるっつーかウケてるのだろう、という話です。
「優れてるからウケてるんじゃねーよ」というお話はあるでしょうがまあそこはおく。ぶっちゃけ「優れてない」点はいっぱい挙げられるし。
たとえば物語終盤の交代劇とかバレねーわけねーからね常識的に考えて、とか。
・仮にも国のトップなんだから、立てるならもっとマシな影武者を立てるのが普通というもので、脱がした瞬間バレるようなのに気がつかないとか革命が総崩れしかねない。
いや史上の狂乱というのは往々にしてそういう熱狂が高じてもはや狂気〜みたいな面があんだろうことは否定しないけど、そんなの後世には物好きな歴史家とかにケツの毛までひんむかれるレベルまで分析されるのが当然なんだからさ。恥ずかしい性癖が伝わっちゃってる為政者が今どんだけいると思ってんの。読んでないけど正直小説版にはクビ落としてから替え玉と判った革命軍の偉いさんとか偽史として押し通してきた『召使』側の話を証明しちゃったアマチュア研究家とかが裏で始末されるドロドロとかがきっとあった! と信じている。三次創作。
・本物も見物に戻ってくんなよ。そこでバレたらすべてがガチで水の泡よ。危険すぎるだろ。
…とか、突っ込みどころはとってもたくさんあるわけなんですね。文化ルーツもしっちゃかめっちゃかだとかそもそも歌詞がちょっと拙いとかね。
にも関わらず、絶賛者とかいっぱいいる作品でもあるわけで。合唱とか英語版とかあって再生回数すごいし。
何がそんなに人を酔わせるのかしら。それがロマンスというものなのか。
いやねーだろ。これロマンスじゃないじゃん。中世の騎士物語とかほんのちょっぴり読んだことあるけどコレジャナイ感すごいじゃん。
三大悲劇って言われてるけど悲劇ですらねーだろと言いたい。少なくともwikipedia曰くの古典主義的・新古典主義的「悲劇」では絶対ない。
それでは「これ」は何なのか?
まあアレじゃん。ジェンダー界隈でいう性役割意識がどうこうとかあと男の娘ブームとかなんかそんな。
あとこれ国家の皮をかぶった家庭悲劇なんですよね。一種のセカイ系というか。
このお話は王家に生まれた男女の双子のうち女が王家に残されて(おそらくは凄い抑圧とか受けて)暴君になって、男はどっか養子とか?出されて召使いとして戻ってきたつーことになっていますが、男をイエに残して女はよそに嫁がせるつーのがどっちかというと鉄板ですよねこういうの。
「なんでそんなことになっちゃったの」というのはきっと小説版とかが政治の派閥抗争がどうのとかに絡めて辻褄つけてると思うのでおいといて、「よくこれでウケたな」ってーのをですね。
この作品は基本的にすごいストレスを(受けたくないに決まってるけど)受けなくてはならない人間が見るとツボに来るようにできてるんスね。
よく何かこう、最近の若者は〜的な文脈で、男が女っぽくなっただの女が強いだのと言われますよね。いや印象だけど。自分の観測範囲内の話だけど。観測範囲内でもいい加減下火っていうか言い古されて説得力がアレな言説だけど。
少なくともこの作中ではまさに男がやるようなことを女がやっているわけで、そこんとこのギャップがウケてるっていうのはあると思うの。
鏡音リンってキャラクタ的には妹系ってんですか? 笑顔がかわいくてドジで〜みたいな感じだと思うんだけど、それが女故子ども故の残酷さみたいなのを全力発揮してるあたりのギャップもあると思う。
そう、彼女は良い為政者ではない。聖母聖女は齢14で「お金が足りなくなったなら〜、愚民共から搾り取れ〜♪」なんて言わない。普通の女でも言わない。
彼女はむしろ聖女みたいな女に恋人取られたら相手の国ごと潰して復讐する程度にはやりたい放題の女のコ☆です。
しかもそのレベルの人格破綻者まで「最初は無垢だった、ホントは彼女は悪くない」的な補足が入るわけです。これもウケたツボだろう。
イエのあれこれとか人間関係でむっちゃ我慢とか強いられてるけど正直破裂したい、けど破裂したらあとが面倒だけど破裂したいけどあああああとか思ってる人間にはとてもツボ。
破裂したい人間がなぜ破裂しないかって、破裂すると崩壊するナニカがあるわけで、この王女の話は破裂してナニカを崩壊させてしまったってことなので「ああ、あんな風にならないためにも我慢がんばらなきゃなー」とか、「私がしてきた我慢は正しかった!我慢しなきゃああなってた!ざまあwww」とかいろいろと解釈できて美味しい。
それだけなら単なる破滅劇なんだけれども、これを悲劇にするのが王女と対になる召使いの存在ですね。『悪ノ召使い』は『娘』よりもあとに発表された作品ですが、何千回単位だった再生回数を100万くらいまで押し上げたらしいっす。
「顔の良く似た」召使いは(内緒になってんのか知らんが)召使いってことになってるが王女と双子です。これをまず物凄く突っ込みたい。王家の血縁が人に使われる側に回ることのあり得なさとか。でもまあそれはいい。
召使いは破裂しそうな王女のそばであれこれ世話を焼くわけです。王女の命令なら惚れた相手も暗殺してくる。それくらい自分を殺している。
ある意味王家という枷つけられてる王女と完全に同類なわけですが、召使いはそれほど人格破綻してないというか暴君的な方向に爆発しそうではない。
彼には「王女のため」という大義があるからです。彼が背負っても良かったモノを彼女に背負わしたら歪んでしまった、王女がこんななってるのは彼にも責任がある。
だからその責任を果たすためなら、ほんのちょっぴりの「自分」も捨てられる。盲目的に尽くせる。
完全に「家庭なるもの」の中で板挟みになるガキそのものですね。あとほんのりとした近親愛。これがツボをつく。
オチはもうその最たるものですね。自分を殺して殺して殺して…の召使いは本当に自分を殺してしまう。王女はその代わりに助かる。
要は例えば機能不全気味家庭のお子様らには神話のように美しい物語だということですおわり。
鏡音リン・レンなるソフトは作中やファン間でも双子ってことになってますが公式的には「鏡に映るもうひとりの自分」的な感じではっきり双子ではないらしい。
というのもなんかこう、意味深ですね。
怖ェなーと思うのがこの作品が世界規模ですごい再生回数稼いでるという事実。
機能不全家庭の子どもにばかりウケてるわけじゃねーとは思うが、でも例えば上で述べたような「この身代わりはあり得ねーだろ常考」みたいな意見はたぶん野暮としてブーイング浴びるだろうし、きっと小説版あたりで「そうするしかなかったんだよ…」みたいなことが切々と説かれていたりして要するに反論として封殺されることが明らかなわけです。
実際には例えば召使いの行動として「二人で一緒に逃げる、最後まで王女のそばにいて守り通す」みたいなのがあっても良かったはずだし一昔前なんてそれで逃げ切れなくて死んじゃってーみたいなのが悲劇のテンプレ化してたような時代があった気がするんですが、そうならない。
何というか、すごい絶望的で、しかもその絶望が絶望のまま肯定されて同類間で共有されてる感がする。
そういう方法で絶望が連鎖して伝播しているような感じがするのです。
漫画家のとり・みき氏の言葉(の引用の引用)だけど、こういうのがある。
人が涙を流すのは必ずしも作品の出来とは関係がないのだ、と。
かつて自分が何かに感動した時にできた涙腺回路のようなものが頭の中にはあって、そこにピタリとはまるような場面だの言葉だのを見聞きしてしまうと、涙というのはどうやら自然に流れる仕組みになっているらしいのである。歳をとると涙もろくなるというのは、つまりそういう回路のパターンが増えているからではないか。
個人的にこれは結構ガチだと思っているんだけど、一点だけズレてる部分がある。
ここで書かれてる涙腺回路の起動スイッチである「感動」っていうのが、自分個人に限っていえば何か崇高なものに触れて心を動かされたとかではなくて単純に傷つけられたときのことを指すようになってんのね。
つまりこの文章に則って言うと、自分はある一定の場面とか言葉だのを見聞きしてしまうと自動的に繰り返し繰り返し傷つくようになってしまっている。
恐ろしいことなんだけれどこの「回路」が結構強固で、俺はこいつを潰しておかないと日常生活が送れないっていうレベルでいろいろと不便。具体的にいうとAED講習で実際の救命現場の録音(子どもが突然心停止して倒れたそばで手当てする人とか救急車呼ぶ人とかその子の名前を狂ったみたいな大声で必死で呼び続ける母親の声)聞いたときとか、アレ本当は命が助かる感動的な場面のはず(「とりあえずはもう大丈夫です」まで録音されてたはず)なんだからすごくイイ話だと理屈では思うしわかってるんだけど生々しいやりとりそのものがあまりにもショッキングでしばらく「親子」みたいなキーワードで突然ぼろぼろ泣くようになって本当に困った。もうすぐ一年になる例の津波関連も未だにいろいろな場面でダメージ。直に被災したわけでもないのに。
閑話休題。
だから例えば映画とか小説なんかで「泣ける」みたいのを売りにしてるのは基本見ない。
そういう作品は大体が回路起動ツボを外していて(かつ、他の例えば大爆笑回路の起動とかには結びつかないので)白けるが故に、そしてごく少数の作品は客観化が十分でツボ自体から適切に距離を取れるが故に、涙腺回路起動までに結びつくことは滅多にないんだが、それでも見ない。
何が楽しくてそんな自傷行為をせねばならんねん。
でも例えばナイフは指を切るだろうとかわかるけど、この作品で泣くようになるだろうとか普通は読んだり聞いたりするまではわかんないわけじゃん。
で、『悪ノ』シリーズも回路の起動スイッチになってしまったので、困ったなー。と思っている。前述の録音ほどの威力はないしもうだいぶ整理して削いだんだけども未だに人前ではこの曲聞けねえ。
あの召使いの台詞で泣かねー奴は人じゃねーみたいなコメントが動画についていたりして、それを「気持ちはわかる」と思ってしまう。
気持ちはわかるけど、実際問題召使い馬鹿だし王女も馬鹿でみんな馬鹿すぎて救いようがないと思う。「崇高なものが犠牲になる」みたいな楽しみ方は視点が狭すぎて阿呆だと思う。
いろんな人が感動してファンになって翻訳とかされてるのはわかるけど、作品としては全然優れてないと思うのです。
他の作品と比較してどうとかではなく、あの物語自体にもっと洗練の余地があるということ。
そして洗練されるとたぶんあれは悲劇オチ(と取ってつけたようなハッピーエンド後日談)じゃなくてちゃんと喜劇にもなれたはずだなー、悲劇にしてももっとレベルの高い悲劇になれたはずだなーと思うということです。
「物語の洗練」を。
機能不全家庭の傷なめ的なものでなくて、もっとちゃんと救いとか絶望とかが欲しい。
具体的にいうとこのネタで小説でも書いてそれで旅行のためのおこずかいとか稼いでみたいんだけども、まあおこずかいにならなくてもいいから二度と回路起動スイッチにこのネタで手を触れられる奴がいなくなるように自分でパテを塗っておきたい、そのために小説を練ってみたい、ということでした。
すでにやってる人いるけどねそれ。舞城とかね。でも最近なんか舞城も振るわないっていうか、「その先が欲しいんだけど!」みたいなあたりで止まっちゃってる感するからね。ジョジョノベライズ期待してます。
・われわれは生存機械--遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。この真実に私は今なおただ驚き続けている。私は何年も前からこのことを知っていたが、到底それに完全に慣れてしまえそうにない。私の願いのひとつは、ほかの人たちを何とかして驚かせてみる事である。
・「乗り物」(普通は個体)とのその中にいてそれを運転する「自己複製子」(実際は遺伝子)の間の区別について、わたしが明確な考えを持ち始めたのは、ようやく1978年になってからだという事情がある。
・自然淘汰の単位として競合する遺伝子と個体の間の見かけ上の論争(故エルンスト・マイアを最後まで悩ませた論争)は解消されている。自然淘汰の単位には2種類があり、その二つの間に論争はない。
遺伝子は自己複製子という意味での単位であり、個体はビークルという意味での単位である。両方とも重要なのである。
・「利己的な遺伝子」のもうひとつのいい代案は「協力的な遺伝子」だったかもしれない。それは矛盾してまったく正反対のように聞こえるが、本書の中心的な部分は、利己主義的な遺伝子の間におけるある種の協力を主張しているのである。
このことは遺伝子のあるグループが自分たちの仲間を犠牲にして、あるいはほかのグループ犠牲にして栄えるということを意味するわけでは断じてない。
そうではなく、各遺伝子は、遺伝子プール-ひとつの種内で有性生殖のシャッフルの候補となる遺伝子のセット-に含まれるほかの遺伝子が作る背景のもとで、自己の利益を追求しているとみなされる。こうしたほかの遺伝子は、天候、捕食者や獲物、生命を支える植物や土壌細菌が環境の一部であるのと同じ意味で、それぞれの遺伝子が生き残る環境の一部なのである。
・ローレンツの攻撃、アードリーの社会契約、アイブルアイズフェルトの愛と憎しみ、もこのような問題を論じているといえようが、これらの本の難点は、その著者たちが全面的にかつ完全に間違っていることである。彼らは進化の働き方を誤解したために、間違ってしまったのだ。彼らは進化において重要なのは個体ないし遺伝子の利益ではなくて、種ないし集団の利益だという誤った仮定をおこなっている。
・ダーウィニズム理論の現代的説明の驚くべき結果のひとつは、生存の見込みに対するささいな作用が進化に多大な力を及ぼしうることである。これはこうした作用が影響を及ぼすのに使える時間がたっぷりあるからである。
・おそらく群淘汰説が非常に受けたのは、ひとつにはそれが、われわれの大部分が持ってる倫理的思想や政治的思想と調和しているからであろう。
・進化を眺める最良の方法は最も低いレベルに起こる淘汰の点から見ることだ、というわたしの信念について述べなければならない。
・複数の誤りが進化に必要不可欠だという説と、自然淘汰が忠実な複製に有利に働くという説は果たして両立するものだろうか?われわれは自分が進化の産物であるがために、進化を漠然と「よいもの」であると考えがちだが、実際に進化したいと「望み」ものはないというのが、その答えである。進化とは、自己複製子(そして今日では遺伝子)がその防止にあらゆる努力を傾けているにもかかわらず、いやおうなしに起こってしまう類のものなのである。
・化学的手段を講じるか、あるいは身の回りにたんぱく質の物理的な壁をもうけるかして、身を守る術を編み出した。こうして最初の生きた細胞が出現したのではなかろうか。自己複製子は存在を始めただけでなく、自らの容れ物、つまり存在し続けるための場所をも作り始めたのである。
・海中を気ままに漂う彼らを探しても無駄である。彼らは当の昔にあの騎士のような自由を放棄してしまった。今や彼らは、外界から遮断された巨大なぶざまなロボットの中に巨大な集団となって群がり、曲がりくねった間接的な道を通じて外界と連絡を取りリモートコントロールによって外界を操っている。彼らはあなたの中にもわたしの中にもいる。彼らはわれわれを体と心を生み出した。
・遺伝子が決定論として批判されるような強い意味でのその創造論を制御したりしないことは、誰にも理解できることだ。われわれは避妊手段を用いるたびに何の努力もなしに(そう、かなり簡単に)、それらを否認しているのである。
昨日もやもやして眠れなかったけど考え抜いて分かった
私たち人間が日々誰かをdisり、disられ忘れ去られた過去の淘汰され弱者の存在の上に幸せがある
「一番の仕返しは幸せになること」という言葉は自分の中だけでそう思うならともかく
他人にそれを言った時点で
「いままでいじめられた分、強くなったべ。俺たちに感謝しなさい」という言葉と同質の
自分の今まで他人に行ってきた過去の仕打ちを棚に上げておきながら、他人にモラルを求める
恥を知らない言葉だと気づいた
あの人がクラスでいじめられていなければ、ターゲットは私だったかもしれない
あの人がパラハラを受ける的になっていなければ、ターゲットは私だったかもしれない
あの人が殴られていなければ、ターゲットは私だったかもしれない
そうやって過去に誰かが代わりに犠牲になってくれたからこそ、幸せは壊されなかった
過去そして現在の弱者の犠牲の積み重ねの上に私たちの幸せは成り立っている
己の恥を知りつつそれでも「一番の仕返しは幸せになること」と言うのと
ただRTされた言葉が何となく良さげだから何も考えず、今まで他人に行ってきた過去の仕打ちを棚に上げて
「一番の仕返しは幸せになること」と笑顔で言うのではまったく違うし、言われる側にもそれは見透かされるだろう
無意識に他人にモラルを押し付けて優越感を感じたくてそう言ってる人と、励ましたいけど自分の頭で考えた言葉が無くて
犠牲を欲してはいませんが、構造上仕方がないことだとは思っています。
別に他人に不幸になって欲しいわけじゃない。大事な人が幸せになるためなら、多少の歪みや他人の犠牲には目を瞑りたい。そういう当たり前の感情です。
そうですね。今男性が幸せになるためには、どうしたらいいか。最善の方法を考えて行きたいし、他の人にも考えて欲しいと思っています。
・・・要するに衛生条件と動機づけ条件をわけろってことでおk?
「人間はネズミではない」という、当たり前の事実が忘れられるとするなら、よくありません。
「動機づけとは、教育の手段ではなく、目的である」ということです。
例えば、子供に勉強をしてもらいたければ「知りたい!」という動機づけをすることが必要なわけです。
ところが、勉強を「させる」ために、しばしば用いられるのは、誰かに勝ちたいとか、褒められたいとか、ご褒美をもらいたいといった手段としての動機づけです。
この背後にある問題を考えるため、以下、本書の記述をピックアップしてみます。
・アメによって反応を引き出せはするが、同じ行動をさせ続けるためにはアメを与え続けなければならないという事実そのものが、
アメの長期的効果(あるいはその欠如)についてのカギを提供しているのではないかということである。(p25)
・ごく幼い子供たちにはコントロールをもって対することも必要なときがあろうかと思う。
最低の基準として、例えば三歳児がよちよちと表の通りに出て行こうとするのを見過ごすわけにはいくまい。
しかしコントロールに頼る前に、それほど強圧的でなくもっと相手を尊重した世話の焼きかたはできないかどうか、しっかりと確認すべきではある。(p49)
・報酬と罰とは基本的に同じようなものである。現代の社会心理学の創始者であるカート・ルーインが言うように、
両方とも「そのときの自然の場面からは生まれないような行動」を引き出そうとするときに使われる。
さらに、長期間にわたって見るとどちらもまったく同じ様相を示すことが分かる。
つまり、こちらの望むような行動を続けさせるためにはやがて賭けるものを上げ、報酬なり罰なりをどんどん増やしていかなければならないのである。(p74)
・親が子供に、ずっとおとなしくしていれば日曜日にサーカスに連れて行ってやると言ったとする。
土曜日に子供が親の気に入らないことをした場合、親がよく使うせりふは、「そんなことをしているとあしたのサーカスはだめだぞ」であろう。
褒美をご破算にするということの脅しが、罰を与えるという脅しと同じ機能を持っているのは明白ではないか。(p77)
・報酬は、ひいき目に見ても、こういう協力や仲間意識を促進するのになんの役にも立たない。
アメを奪い合うときには必ず「争いと嫉妬」の底流が生じるのであって、それはすでに二世紀近くも前にニューヨーク市の教育者たちがある行動修正プログラムが実施されているのを見て出した結論でもあった。(p80)
・報酬主義の問題は、報酬を与える場合、そもそも問題がなぜ発生したかに注意をすることは全然必要でない、という理由である。
子供が泣きわめいている原因、生徒が宿題をやって来ない原因、従業員が気の乗らない仕事ぶりをする原因を考える必要はなく、ただ該当者を買収するか脅すかして活を入れればいいことになる。(p87)
・「こうすればあれをあげるよ」と言えば、関心は「これ」ではなくて「あれ」に行ってしまう。
従業員に給料袋の中身について考えさせたり、生徒に通知票のことを心配させたりするのは、創造性を重んじようという場合にはほぼ最悪の戦略である。(p99)
・先生は肩をすくめて、「試験に出るよと言わなければ、子供たちは覚えようとしないわ」と言う。
経営者は、キチンとした仕事をさせるためにはボーナスを出さなければダメだと主張する。
親は、子供が誘因なしでも「やるべきこと」をやるだろうと期待するのは現実的ではないと信じている。
しかしもう一度考えてみよう。そういった言い分は通俗行動主義を擁護するものではなく、教室や職場の設定のしかた(あるいは人々がなすべく要請されていること)に何か大きな間違いがあることを示すしるしなのだ。(p123)
褒めたり操ったりすれば、その自然な動機づけを押し殺し、そのかわりに盲目的従順や機械的学習態度や権威に対するあからさまな反抗を生み出すだけである。(p142)
・大抵のおとなが褒め言葉を連発しようとするのはなぜなのか。
褒めることは安上がりで簡単なのだ。
それとは対照的に、技術と工夫と配慮がなければ、人を励ましてしかも今やっていることへの興味を持続させ、その上コントロールされているとは感じさせないようにすることはできない。(p168)
・一般に報酬というものが業績を伸ばすのに役立たず、しばしば業績を妨げることは、いろいろな種類の仕事において見られるが、それは特に創造性を要する仕事において著しい。(p182)
・仕事にほかのもっと重要な面で欠けているところがあると、次善の策として給料の額が重視される傾向がある。
つまり、課題が本当におもしろく意味のあるものでなかったり、自分のやることを自分で選べなかったり、社会的な支持が得られなかったり、自分をみがき自分の能力を発揮する機会が与えられなかったりすれば、
給与がいくらかということに目が行きやすいということである。(p197)
・強調しておく必要があるのは、こうした事情があるからといって、経営者が給料を出ししぶるのが正しいということにはならないという点である。
だれも給料は十分かつ公正であってほしいし、いちばん単調できつい種類の仕事をする人たちは特に高い給料を望むように見えよう。
しかし金こそが人間を動かすと考えることは、人間の動機づけというものを貧しく解釈することになろう。(p200)
・家庭でのものごとを自分で決め、自己決定の感覚を持つ機会を親からあまり与えられていない子供は、学業成績もあまりふるわないということも明らかにされている。=私はそうでもなかったけどな。多分日本のテストはバカ向けなんだな
こうした事実は何を意味するのか。基準を厳しくしたり、点を辛くしたり、誘因を増やしたりすることは、益よりは害になるということについては強力な証拠がある。(p225)
・自分がどれぐらいよくやっているかを気にしている人は、自己概念をかけているということがある。
自分を利口だとか有能だとか思っている自己イメージは、一定の活動水準に達しないおそれがあれば危険にさらされることになる。
そういう自己イメージを守ろうとすると、普通は、自分の最善を尽くしたいという欲求を犠牲にすることになる。
そういう欲求は危険だと思われるのである。やらなければ失敗もしないわけだ。(p233)
望ましい行動を取らせるために報酬というニンジンを与えることは、その人が持っている「行動そのものへの興味」を殺し、ニンジン中毒を作り出してしまう可能性があるのです。
僕たちは、これを慎重に回避するための方法を学ばなければなりません。
「うれしいな、月曜日だ」と思える人生を、より多くの人に実現してもらうということが、教育に関わる人の責務であり、それは人生をかけるに値するものです。