はてなキーワード: 鳥山明とは
増田が物心ついた頃、ドラゴンボールはまだセル編の最初の方だった。
増田は、悟空があまりにも強いので、きっと生まれつきこの強さなんだと思っていた。
ところがセル編に入ってしばらくしたところで、悟空が精神と時の部屋で修行しはじめた。
なんと悟空は強くなり続けていたのだ。
逆に考えると、遥か昔のフリーザ編やピッコロ編のときの悟空は、セル編の悟空よりも弱かったのではないか。
さらに言えば、第一巻の最初のページの悟空は、信じられないくらい弱かったに違いない。
増田は古いドラゴンボールを持っていなかったが、そう推測した。
では第一巻より前はどうなのか。
いや違う。
最初に鳥山明が悟空という主人公を思いついたとき、それはまだ漠然としたキャラクターでしかなかった。
自らの思いつきに興奮した鳥山明は、熱狂のままにアイディアを生み出したり、没にしたりしていた。
やがて、少し落ち着いた鳥山明は、そこで作品の構想を一気に固めた。
たくさんの脇役を生み出し、様々な設定を付け加えた。
作品世界は急速に形になり、そして今のドラゴンボールという作品になったのだ。
そのように増田は考えた。
知らん。
何もしていなかったと言う人もいるし、別の作品を連載していたと言う人もいるが。
それよりまずはドラゴンボールの第一巻がどんな話だったのかを考えようぜ。
増田はそう思った。
終わり。
これはある意味、必然的なことで特定の分野で上の世代に勝ち目がなければ
別の分野を開拓することで若い世代は自分たちの居場所を見つける。
問題なのは、今の若い世代には上の世代に対する憎悪の気持ちが強すぎることだ。
実際に様々な面で、上の世代に多大な責任があるのは事実だと思う。
だがそれは悪い面だけではなく良い面も同様だ。
今のアニメ、漫画コンテンツは一言で言えば「現実逃避」であると言える。
別にそれでもいい。ただそれだけでは負のスパイラルに陥るだけで現にそうなっている。
宮崎駿にしろ、鳥山明にしろ何故あれほどの世界的な評価を得られたのか。決して偶然だった理由ではない。
子供の頃、暇さえあればドラゴンボールのコミックスを開き模写していた。
とくにピッコロさんが小学生には難しく、あの体の筋みたいなのを一生懸命描いていた。
意外と変身前のザーボンさんのような男前キャラの方がクリーチャー系のキャラより難しいのだ。
男前に描かなくてはいけない…というプレッシャーを小学生ながらも感じていたのだろう。
それと鳥山明先生の世界に出てくる乗り物は非常に魅力的で一生懸命模写した。
あの頃を思い出すと胸が熱くなる。
自分にとってドラゴンボールは青春であり、ドラゴンボールを知らない人とは会話が成り立たないくらいだ。
孫悟空が大学生でチチとの出会いがホームパーティというなんともアメリカンな雰囲気なのに「ゴクー」と「チチ」と呼び合っているシュールさ。
頭がいかれてやがるぜ…
あれは今思うと中二病だった。確実に。
「埒があかねえ」とよく使っていた。
思い出すとこんな風に死にたいこともある。
鳥山明先生は自分にとって神様のようなもので、ドラゴンクエストやクロノトリガーなんかは鳥山明先生の絵を見るだけで胸が熱くなりゲームが楽しみになったのだ。
一度は諦めたけれど、やっぱり鳥山明先生に憧れて諦めきれず漫画家をまた目指して漫画を描きはじめた。
子育てもちょっとだけ落ち着いて仕事も楽になり漫画を描く余裕が出てきた。
人生まだまだある。
好きな事を諦めてやらないで過ごすより、全力でやりたいことを楽しむ人生にしたい。
見てきました。
あまり期待してなかったせいもありますが、かなりしっかり作ってありました。
通常版で見たのでアイマックスはどうなのか分かりませんが、通常版でいいと思います。アニメですし。
全体的に子供向けの下らないギャグもあり、大人向けの懐かしい映像をリメイクして折り込み、というのを交互にやっていて、子どもと一緒にみるお父さんは楽しいでしょうね。
きっと映画の後アイスクリームでも食べながら「あそこはお父さんが子供の時こうだった」だとかなんとか言って盛り上がるんでしょうね。
35歳童貞の僕には想像もつきませんが、しいていえば曲はオリジナルがよかったなぁ
戦闘シーンはゲームみたいでしたけど、色使いとスピード感があって楽しめました。
スーパーサイヤ人ゴッドの設定もその後の戦いでなる必要がないって落とし所があるし、パンちゃんが鍵になってたり、ビルスが仲間じゃない設定もチートにならなくて済んでます。
カイオウサマの星の所以とか、細かい後付け設定も披露してて楽しめました。
エンドロールの演出も大人は懐かしみ、子どもは一から読んでみようという気にさせるいい販促でした。
映画館でみる必要はないかもしれませんが、色んな世代と見る事によって許されるシーンもかなりある映画なので、家でみてるとベジータの踊りでテレビを消したくなるかもしれません。
五大天才漫画家「手塚治虫」「尾田栄一郎」「鳥山明」あと二人は?
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4323316.html
1.質が高い作品を複数、残している。
を条件とした場合、
手塚が入るのは当然として、赤塚は作品自体のクオリティはともかくとして革新性が弱い。
尾田は商業的にはひょっとしたら鳥山よりも成功した漫画家かも知れないが、やはり革新性に劣る。尾田はたとえるなら少年漫画界のマーガレット・ミッチェルみたいなもの。作品の訴求力と当人のクリエイターとしての革新性とは別。
鳥山は天才に当てはまると思う。ギミックを詰め込んだデフォルメされながらもリアリティを持つ画風自体が衝撃的であったのと、アメコミの影響を受けて租借したうえで、日本の漫画の原稿に和風化して落とし込むという表現技法上の革新もあった。「Dr.スランプ」は大友克洋の「AKIRA」よりも早い。言うまでもなくメガヒットを複数出している。大友をして大友的な革新性の代表として天才扱いするならば、大友的な革新性は鳥山の中に抱合することが出来、時系列的にもそれが妥当だと思う。
水木しげるは天才と言うよりはアルチザン。緻密に粘着的に徹底するという程度が他者を凌駕しているのであって、漫画史全体で見れば、それほど重きを置かれるわけではない。これは水木を軽視しているのではない。作品への評価で言えば、私はむしろ水木を手塚を凌駕して評価している。ただ、漫画史的な視点での評価はおのずと作品評価とは異なると言うことだ。田山花袋や横光利一が作品単体では大した作品は残していないにも関わらず、文学史的な革新性において評価されるように、ここで言う天才とは、作品自体の質はもとより、その数、社会的影響力、そして革新性を備えている必要があるということだ。
そういう意味では石ノ森章太郎は、天才何人か分の重要、かつ致命的な影響を漫画史に残している。フォーマットの創始者という点においても、集団ヒーローの群像劇、そのキャラクターの性格づけはもとより、マーチャンダイジングの手法においてもパイオニアと呼ぶべきである。更に重要なのは、いわゆる「オタク的」な要素の萌芽がすべて石ノ森作品の中に顕著にみられることであって、少年サンデー的な、中産階級的な趣味的なマンガすべてが石ノ森マンガに端を発しているという点である。意外と重要なのは、「日本経済入門」のような、それまで非マンガ的な要素とされていたものについてもマンガに取り込んだことで、手塚や水木の中に見られるマンガというイデオロギーを脱して、徹底的に表現手段として分解してみせるという、作家性とは別の次元の理数系的な分析をマンガに持ち込んだのも石ノ森である。
漫画表現の飛躍的な革新を成したという点では24年組(竹宮恵子、萩尾望都、大島弓子、山岸涼子)を挙げなければならないが、その集大成的な立場としては萩尾を挙げるべきだろう。手塚が基本フォーマットを作ったと言われる戦後マンガの基本は、映画表現をいかにして紙の上に再現するかと言う視点から成り立っていた。萩尾らによってマンガは初めて独立した表現手段になったと言ってよい。マンガは文字と絵が同じ一つのコマの中にあり、吹き出しのセリフ、吹き出し抜きの内面のセリフ、そして絵とそれぞれ矛盾した内容を同時に表現できる唯一の表現手段である。たとえばぶっきらぼうな少年が少女に向かって毒づきながら、なおかつ画面上では頬を染めるなどをして、明らかに少女への好意を示しているような表現は文学では難しい。描写ではなく説明になってしまう。更に実はそれも演技だとして、内面は実はこうすれば少女は自分に対してぶっきらぼうな少年に対する好意を増すであろうとの計算があるとすれば、その内心を同時に表現するのはこれは映画等でも不可能なのである。こうしたマンガ独自の表現方法の確立は萩尾望都を代表とするのであり、その表現手段の派生が致命的過ぎてもはやエピゴーネンとも意識されないほどの重大な影響を及ぼしていることを踏まえれば、彼女の存在は、二十年、三十年のスパンではなく、百年、二百年のスパンで見るならば、手塚をもはるかに凌駕する重大かつ致命的な転換点となったのであった。
と5人のうち4人までが選ばれたが、ここは議論の余地がないところである。つまり個々のこのみや評価の違いはあっても、漫画史の視点から言えば、偏見なく選べばこの4人は欠かせないということである。残りの一人は評価と好みの違いになるだろう。私は、
藤子・F・不二雄を挙げる。
[補足]
まあ、みなさんいろいろご意見はおありでしょうが、そもそも5人に絞るのが無理っちゃあ無理とちゃぶ台をひっくり返してみる。
「てめー、あれ読んでねえだろ」「俺はビートルズの武道館ライヴ見に行ったんだぜ」「江夏の21球も実際に見てない奴が投球論を語るな」的な反応はプロレス論の醍醐味で正しいレスポンス。
レスが挙げているような御大たち、高橋留美子、大友克洋、白土三平、水木しげる、赤塚不二夫、永井豪、いしいひさいち、つげ義春、大島弓子、大和和紀、三原順、梶原一騎、吉田秋生あたりは誰が入ってもおかしくない。個人的にはいくえみ綾とかも入れたい気もするが、個人的過ぎるので止めた。
あと、尾田先生が入っているのはつりですか、みたいなことを言う人には、何といっていいものやら。
[補足の補足]
ekken さんがブコメで尾田は外せよみたいなこと言ってたんですが、私もそれはリンクを張っている元記事について言っているんだろうなって思いました。そうじゃなくてもっと直接に私に向かって「尾田先生が入っているのはつりですか」と言っている人がいたんで(消されたみたいですわ。こわっ)、書いたことで批判されるならともかくさすがに言ってもないことで揶揄されるのはやだなあと思って補足しました。ekkenさん、ご迷惑おかけしてごめんなさいね。この点をブコメで指摘してくださった方も、言ってもいないことで私が批判されるみたいな流れになるのをくぎをさしてくださったんだと思います。ありがとうね。
国内RPGの2台巨頭であるファイナルファンタジーとドラクエ
ドラクエは堀江もすぎやんも鳥山明も関わっているけど制作の実態はほぼ外注という使用
http://matome.naver.jp/odai/2134822600981472001
自社で制作したのなんてそれこそ、1や2だけなんじゃないだろうか・・・
FFは当初ものすごい気合と思いをこめて制作されていたにも関わらず、現在において主要開発陣は
だれもいない・・・。
http://matome.naver.jp/odai/2134852596810875001
どちらも残された「企業」という大きな団体を維持継続するためだけに肥大化してしまったのだ
。名作に思いをはせるのはただの回顧だろうけど・・・
もう期待している「名作」は生み出されることがないんだろうな
SONYにしかり、今後のAPPLEもそうだよね。圧倒的なクリエイターの力ってほんとうにスゴイ。
「ワンピースはドラゴンボールを超えた」という人もいるけど、ちゃんちゃらおかしい。
★
もちろん今のところ、ワンピースの人気は高いけど、それはただ流行っているというだけ。
どうせ連載が終わったら、「ワンピース?ああ、そんな漫画もあったな」という感じになってしまうよ。
連載終了後も根強いファンがいて、ゲームやグッズが発売され続けるドラゴンボールにはぜったいなれないと思う。
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ある漫画がロングセラーになれるかどうか、これを決めるのはみんながその漫画を何度も読み返すかどうかにかかってる。
もし読み返されなかったら、すぐに忘れ去られてしまうだろう。
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アニメ「イカ娘」は2期が製作されたのに、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」はされてない。
まあ、作ってもよかったんだろうけど、もし俺妹2期が放送されたとして、イカ娘2期の場合と同じ高さのテンションでそれを迎えられる人って多くないと思う。
「ああ、そういえば俺妹とか、あったなあ」という感じだろう。
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俺妹の1期放送中は各話を何度も繰り返し観た人も、いざ最終回を迎えた後では、俺妹に対する興味が失せてしまった、という人は結構多いはず。
たまに観返しても、「あれ?こんなアニメだったっけ?もっと面白かった気がしたが・・・。」といった違和感を覚える。
★
この原因は、そもそも俺妹というアニメが「最終回が気になる」タイプのアニメだったからだ。
視聴者は、「主人公と妹が仲良くなれるか??」という緊張感を最終回までずーっと引きずってきた。
しかしいざ妹が素直になったのを観ると、その緊張感は消えてしまう。
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むしろ近年まれに見る傑作だった。
ただこういう種類のアニメは、最終回後に観ると面白さが半減してしまう。
「ペリーヌ物語」なんてのも好い例だ。
★
逆にイカ娘は、緊張感がぜんぜんない。
しかも各話独立のため、1期全体を通した一貫性というのも無い。
だからみんな、純粋に1話1話が面白いという理由だけでイカ娘を観ていたはずだ。
こういうタイプのアニメというのは、放送が終わっても何度観ても面白さは変わらない。
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基本的に、俺妹のような「最終回が気になる」タイプのアニメは、最終回が終わった後は忘れら去られることが多い。
ただし例外的に、最終回が視聴者に欲求不満を残すような終わり方をするアニメは、何度も観返される。
たとえば「あしたのジョー」。
あるいは「エヴァンゲリオン」。
こういうアニメは最終回を迎えた後も「いつも心のどこかに引っかかっている」ということになる。
だからみんなふたたび観る。
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2つ目の例外として、「まだ続きがありそうな終わり方」をした漫画は、何度も読み返される。
たとえば「スラムダンク」。
もしこれが「桜木が全国優勝して終わり」とかだったら、読者はみんな心から満足して、その漫画のことをきれいさっぱり忘れたはずだ。
あるいは「ドラゴンボール」。
悟空より強い敵はまだまだたくさん出てくるんじゃないかと思わせる。
鳥山明さまの終わらせ方は本当に上手いと思う。
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さて問題のワンピース。
読者は「いったいワンピースとは何だろう?」と気になりながら読んでいる。
そしてシャンクスとの再会も気になるところ。
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こういうありったけの伏線を張っておいて、いざ最終回を迎えてすべての伏線が回収されるとき、その満足感は計り知れないが、逆にその分だけ、えらく気の抜けたことになってしまう。
だからふたたび読み返そうにも、「ああ、ひとつなぎの大秘宝ってのはつまり4つの〇のことなんだよね。」などとわかっていたら、面白さ半減もいいとこだ。
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みんなの中にはこういう反論があるかもしれない。
「私はアラバスタ編は何度読んでも泣けるよ」という人が。
しかしそれはワンピースという漫画がまだ「終わっていない」からだ。
しかしいざ終わってしまえば、「過去の漫画」になってしまうだろう。
それがワンピース。
この間漫画喫茶でドラゴンボールを改めて読んでみたんだけど、画力が圧倒的だってわかった。
画力だけで、迫力、スピード、臨場感、世界観、全てがなりたってる。
今読むと、ストーリーもセリフも珍しい部分はそうないんだよね。
むしろ、編集に言われるままに新シリーズ新キャラを出し続け場当たり的に続けたんだろうなって感想さえ受ける。
トランクスなんていうふざけた名前のキャラが準主人公でも不自然がないのはさ、あれは実は画力によるとこだったんだよ。
ベジータのセリフも、ベジータの行動も、ベジータがっていう前提がある素晴らしい。
ベジータらしさをどうやって演出してるかっていうと、初出は典型的な悪党だったし、ナメック星ではいきがった小物だったし、じゃあなんで人造人間編からの魅力はどっから来てるんだ?ベジータらしさってどこでわかるんだ?って思えば、恐るべきことに、単純に、絵をみればわかるということ。
ドラゴンボールは戦闘力という強さの数値化を発明したように僕は思っていたんだが、数字よりモブの解説より、なによりも絵で強さを表現するということの凄さ。
外国でウケたってのもわかるわ。
ニンジャがでなくても、サムライがでなくても、誤訳があろうと、識字率が低かろうと、文化的な前提が違おうと、きっと理解できるだろうなって思った。
http://anond.hatelabo.jp/20110315201517
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このROM専の主張は要するに
1.俺をがっかりさせる下手な絵を描くな
2.俺の好きなジャンルの絵を描け
という無力なROM専にありがちな自我肥大MAXの幼稚な駄々に過ぎない。
発言権がないと自覚しているなら発言しなければ良いのに。しかも主張が上記の駄々。
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被災地エールの絵を描く事を否定したいなら、鳥山明の行為から「意味のない事」と切り捨てるのか問いたい。
「いつも通りに好きなものの絵を好きなように描いてくれれば」の結果が、被災地エールの絵だろう。人気タグの便乗を非難するなら、まどマギも見られない筈だが。
「ドラゴンボールのパチンコ化、鳥山明氏が首を縦に振らない」 版権ものパチンコ、ネタ枯渇…加熱する版権争奪戦
ttp://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1414344.html
302 :名無しさん@十周年:2010/02/08(月) 11:48:57 ID:UjH28TiD0
鳥山「この前もパチンコ会社からドラゴンボールで作らせてくれってきましたよ(笑)
でも、きっぱりと断りました」
─なぜですか?
鳥山「私は自分のキャラクターが、パチンコという大人の賭博に使われるのが我慢ならないんですよ。
漫画を大人の賭博に使って、お金のために誇りを捨てる人たちがたくさんいる」
─たとえば誰ですか?
鳥山明の人気少年漫画「ドラゴンボール」に登場する悪役、宇宙の帝王とすら呼ばれているフリーザを頂点とする一派。
彼らの普段の活動について、主人公である孫悟空の兄ラディッツは単行本15巻71ページで以下のように述べる。
われわれ サイヤ人は
戦闘民族だ
環境のよい星を探し
そこに住む者を
絶滅させてから
適当な星を求めている
異星人たちに
高く売るのが仕事だ
当初はサイヤ人という種族そのものがそういう「星間貿易」みたいなやり方で外貨を獲得しているのかと思いきや、74~75ページですぐに否定されてしまう。
サイヤ人は もともと
少数民族だったうえに
巨大隕石の衝突で
爆発してしまったのだ
………
のこったサイヤ人は
おまえを含めても
たったの4人しかいないのだ!
彼らはたった3人で星を売買してるのか?というとそうでもない。
単行本29巻153ページでフリーザ直属のエリート戦士集団「ギニュー特戦隊」が、登場直前まで別の星「ヤードラット」を攻略中だったと明かされている事からも、フリーザ一派とはフリーザを頂点とする様々な星の種族の戦士達の寄り合い所帯のようなものだと推測される。言うなればフリーザは派遣企業の社長で、サイヤ人を初めとする配下の戦士達は派遣社員みたいなものか。まとめると「フリーザ一派」はおおよそ以下のような存在と推測できる。
スカウターという機械の存在もこの説を補強してくれる。スカウターとは主に任意の相手の強さを数値化し表示する装置である(他にも遠方の相手との通信機能などもあるようだ)。フリーザ一派の殆どがこれを装備しているあたり、携帯電話並みにありふれた存在と言える。
星を売る商売をしているとなれば、効率的に対象となる星の原住民を排除する必要がある。そのためには、投入する戦力は常に適性に配分されなければならないのは明白だ。地球のような脆弱な民族しかいない星に、ギニュー特戦隊のようなエリート戦士を大量に投入したり、もしくはエリート戦士でなければ対応出来ない屈強な原住民がいる星に下級戦士を逐次投入して人的損害をいたずらに増やすというのは無駄以外の何物でも無い。よって排除対象の戦力を正確に把握するデバイスがラディッツのような下級戦士にまで広く普及しているのは必然と言えるだろう。
さて、ここで気になる点が出てくる。
一つは、会話の中で触れられながらも「ドラゴンボール」作品中に最後まで登場しなかった存在。前述のラディッツが語った「適当な星を求めている異星人達」である。彼らの存在は非常に厄介である。なぜなら、具体的な姿が想像しにくいからだ。
考えてみると良い。フリーザ一派のトップであるフリーザおよび彼の一族は宇宙一強いと広く認知されている(原作では父親、劇場版アニメでは兄の存在も明らかになっている)。その配下の戦士達も、質、量ともに大軍団と言うべき規模を誇っているはずだ。はっきり言って彼らを止められる存在など宇宙には存在すまい。
であるならば、相手とまともなビジネスを展開する必要があるだろうか。
何せ星を丸ごと滅ぼして商品にしてしまうような戦力・組織力をもった一派である。顧客の星も有無も言わさず収奪してしまえば良いではないか。
二つ目の気になる点は「高く売る」という表現である。「売る」という行為は基本的に、手元の商品や権利などを相手に差し出し、それと同時に相手から対価をもらい受ける事である。では、惑星丸ごと一つと同等な対価というのは存在しうるのだろうか。
仮に「売る」が物々交換を意味しているのならば、対価は少なくとも以下の条件を満たすものである必要がある。
貨幣で売買しているシチュエーションはさらに難しい。フリーザ一派以外の誰がその貨幣の価値を担保しているのか、という問題からして解決不可能。
仕事中の眠気覚まし程度にはなったが、結局結論は出ずじまいだった。誰かスパーンとこの辺を解決出来る説を頼む。
単行本21巻の扉絵特集でフリーザについて「星を集めて支配するのが趣味」と解説が。利益とか度外視の道楽でやってんのか?
もしかしたら、星の売買は副業程度の位置づけなのか?