はてなキーワード: 兄弟とは
今年で35歳になるが、生まれてこの方お年玉🧧をあげたことが一度もない。
私は一人っ子なのだが、そうなってくると甥っ子・姪っ子の線が消えるので、グッとあげる機会が減る。
従兄弟ももうお年玉をあげる年齢はとうに超えたし、自分は結婚する気も子どもが欲しいとも思わないので、自分の子どもにあげる線もこれでなくなる。
近い親戚も結婚はしているが、子どもはいない。遠い親戚までいくと子どもはいるが、正直会ったこともないような人なので、あげるハードルが高い。
一人っ子だったので、家族・親戚からお年玉を独り占めしてきた過去があるので、あげる側の大人になったらその分還元してあげたいなぁ、とささやかに思っていたのだが、状況次第ではこんなにもあげることが難しいんだなぁ、とやっと気づく、お年玉って。
「今の子どもはどんな柄が好きなのかなぁ?」とポチ袋選んで、お金いれて、はいどうぞ、って渡したかったのに、もう渡す機会は来ないと思うと、なんか寂しい。
>不正防止プログラムみたいなのって元々の信用が無いとこほど厳しい目を向けられやすい
これ
ある日、同居している14歳になる姪っ子の下着類が一切合切盗まれる
という事件が起きたのです。あろうことか真っ先に疑われたのは私でした。
30歳過ぎて独身だということだけで血の繋がった実の兄の娘の下着を盗んだだろうと
この弟である私が真っ先に疑われたのです。肉親なのに。兄弟なのに。ずっと一緒に育った
兄弟なのに。ただただ30過ぎて独身だというだけで実の弟である私が 一方的にかつ
疑われたのです。とても心外で悲しいことです。やりきれない気分で一杯です。
確かに盗んだのは私でした。 しかし、そんなことはささいな事です。論点がはずれています。
私が訴えたい事は“私が犯人だと決まってないうちに” 既に“私を疑っていた”という事実なんです。
つまり30歳で独身だという事は常に『気持ち悪い事をしでかすに違いない』という疑いの目で見られている、
我々30過ぎた独身中年は常にそういったいわれ無き迫害に晒されながら
毎日ビクビクして生きて行かなければならないのでしょうか?
結局私が犯人だということがばれ、兄嫁と姪っ子は
「気持ち悪い。もう、出て行くか死んでくれないかな」と悲しそうに言いました。
ですが 私はそのような兄夫婦と姪を許す事はできません。
私が犯人だとばれる前から私を疑っていた、という事実は消えないからです。
みなさんはこのことにつきどう思われますか?
難しいところだね。
「これやってて襲われたんだったらちょっと危機意識が足りないんじゃないの?」というのと、「これやってても襲われるのはもう、襲うほうが悪いから仕方がない」というのとは人によって線引きが違うと思うし。
ソロキャンプだと危ないなら、守ってくれそうな屈強な男たちとキャンプするのがいいのか?とか思ったが、その屈強な男たちが襲ってくる可能性は否定できないし。
もっと信頼できる男をと思って例えば親兄弟を選んだとしても、娘や兄弟に性虐待をするクズはいるわけで。
ソロキャンプする場所も前にも誰かが襲われたような場所を選ぶのは危機意識なさすぎだと思う。
例えば、簡単に見つけられるけれど、人があまりいない場所は犯罪者に見つけやすく、犯罪をしても発覚まで時間がかかる場所で、往々にしてよく事件が起きる場所ではないのだろうか。
「子供ほしくないの?」→
知的障害者の子どもを生む可能性が仮に高かったとしても、それを躊躇するのは教科書的定義通りに言うと障害者差別だ。知的障害者だからと言って幸せになれない訳じゃないし、彼・彼女の人生には俺たちと同じちゃんとした意味がある。
だけど、現実には、養育や子ども本人の苦しみが確かにある。社会環境が未熟なために苦しみが発生するんだけど、困難に手をこまねいてる社会側の怠慢・差別は、文句を言ったとて直ぐに消えてくれたりはしない。だから、親が障害者の子を避ける差別は、必ずしも親に責任があるって事にはならない。親としての選択の重みを知らない部外者に口を挟める道理はない。選択を尊重するしかできない。
でもシンプルに親が差別主義者だから飛び出した発言って可能性もありうる。そういう場合には注意しなくちゃいけない。
どっちだ…? 見極めるにはどんなコミュニケーションを計ればいい?
コミュニケーションは事前に計画できない。相手に合わせた対応が必要になるからだ。そしてその結果、関係性が壊れてしまう怖れと、差別解消の機会を活かさねばならねばという使命感の天秤は揺れて、迷った挙句保身に走ってしまうことになる。俺も実際言われたら、黙ってしまうと思う…。
「なんで子供ほしいと思わないの?」の答え
鬱すぎる。
両親とか兄弟の話を聞いて同情して本人が言って欲しそうなことを言う。揉めてたら仲裁して、話を聞く。そうしないとお互いが頑固で、負けず嫌いだから解決しなくてどんどん空気が悪くなって、また話を聞くことになるから。そうやって、どうにかこうにかやってきたけど、家族に依存されてるだけって気づいた。でもまだ数年は縁を切れなくて、偉そうなことは言えない。
家族の悪口を他の家族に言うって、張本人も身近な人に裏でコソコソ言われてバカにされてると傷つくけど、言われてる私も辛いんだよ。そんなさ、言えばいいじゃん私に言えるなら。言いなよそれくらい。
あーあ、本当に嫌だな。なんでこんなことしてるんだろう。早く縁切りたい。
建前はどうであろうと、性的なことに興味がある未成年がおかずを求めるのは止められないわけじゃん?
昔は親兄弟の隠してるビデオとか河原に落ちてるエロ本がエロを得られる数少ない方法だったけど、今はスマホがあるわけ
でも正規品は買えないってなると違法アップロードサイトにいきつくのは当然なんだよな
性の目覚めからの数年間を無料違法サイトで過ごしてそれが当然になっているのに、18歳になって正規品が買えるからって律儀に正規品を買い始める人がどれだけいるのかって話でしょ
兄弟も兄弟って読むし兄妹も兄妹って読むから音声だけだと区別がつかないし
英語でもBrother, Sisterだから兄なのか弟なのか姉なのか妹なのかもわからねえ
この概念不完全すぎる
ホステス側が「土下座させるキャラで髪掴んでください!」とか言ってやってる可能性もあるわけだよね
写真撮った後に「きゃーありがとうございます!」とか言ってるかもしれないんでしょ
真実なんて分かりようがないんだから当事者間で解決してるならいいんじゃないの?と思うんだけど
今後はこの手の写真もAIが作り出した可能性が出てくるわけだし
写真一枚でこんな簡単に世論を動かせるなら捏造するやついっぱい出てくるでしょう
コロナじゃないけど、感染して反省してワクチン肯定派になった旦那なら俺だ。
子供のころからワクチンなんてあてにしてなくて、受験の時も親や兄弟が予防接種する中、しなかった。
今考えると、あれは家族がワクチン打ってたことで家族からの感染が起きないように守られていたってことかもしれない。
冬のある日、具合が悪いので年の為に病院に行ったらインフルエンザと診断される。
潜伏期間だっただけなのかもしれないが、同じベッドでふつうに寝ていた妻は無症状。
妻は夫が診断されたからと念のために検査したが、かかってなかった。
治るまでほぼ寝たきりで過ごし、今でも妻にはそのことで頭が上がらない。
今ではVPDにかかって後遺症が残ったり死んだりするのはあほだろと熱心なワクチン信者。
まあ、そんなことがあったのでコロナワクチンも打てるところを見つけて、まだあまりいきわたらないうちにうち、所定の期間を開けて3回目まで終わらせた。
病院などで「ワクチン2回打ってますか?」と聞かれるときは「俺、3回打ってますから!( ー`дー´)キリッ」って答えてた。
子供は今打てる上限の2回目まで完了。隙間なくつけられる不織布マスクが外出時の定番。
子供のクラスメイトや一緒に登校したり遊んだりする友達たちがことごとく感染し、高熱を出す中、うちの子はいたって平熱。全く何ともない。
第6、7波ほど子供のワクチンとマスクの有効性を見せつけられたものはなかったなと正直思った。
じゃあどう褒めたら自信つくの?
もう彼女に「きもちよかった?」とかいちいちきかずにママんとこいって自分は他の兄弟よりチンチンでかくうんでもらったよね!って確認でもとれば?
避妊具の使い方を必死で学んで異性を大切にしようとした、まるで宮沢賢治のような好青年ほど良縁がなくて
野生動物のリーダー格のようなDQNが避妊具を捨て街に出て、見せかけの性的魅力でたくさんの女性を騙し騙し惹きつけ、異母兄弟を続出させる
親は兄弟で分け隔てなく育てたと言うけれど、子供から見たら不平等だったよねって思うことはいくらでもある。
その辺は一生そうなんだろうな。
まあ、後から歩く子は先の子がやった失敗から学んでましな手を打てるというのはあると思う。
いや、俺の兄貴は受験失敗して三回浪人したから、俺が追い抜いちゃったんだよね。
これでもって、事実上「お兄ちゃん辞めます!!!」になっちゃったんだろうな。
俺は大学で兄よりも先に彼女ができたけれど、親からのバッシングがマジパなかったな。
その彼女と結婚したけれど、結婚も兄よりになって、そこもコントロールしてくる具合が半端なかった。
子供も先だったが、うちのやり方はこうだ!みたいに習慣などもよくわかってないくせして無茶苦茶やった。
全部まとめて無茶苦茶恨まれているし、我が家に少子化をもたらしたのは迷うことなく、うちの親だと思っている。
兄はその後結婚し、家を買ったのだが、実家を継ぐのは俺らみたいに裏で話ができていたらしくて本気でびっくりした。
「弟君は現役で合格したし、幸せで余裕があるんだから、これくらいのことをしてくれたっていいよねー」みたいな気持ちがあるんだろうか...
A
周りで人生がうまくいっている人が羨ましくて仕方がないが、それについて管を巻いて若者を説教して快感を得ようとするだけで、自身に原因があるという部分については向き合うつもりがない。
常に傍にイエスマンの肯定者を置きたがり、結果キャバクラ依存症だが対価を払うのが嫌で、金払いの悪い客として扱われることも不満。
自分がお金を払わなくても常に相手には笑顔で上機嫌で自分を肯定し続けてほしいが、相手には暴言を吐いたりして扱き下ろすので、最初は同情的で優しかった相手もだんだん本質を理解してビジネスライクにしか扱ってもらえなくなる。
しかし、そのような相手の態度が不満だし、それは自身の容姿が優れていないからだ、相手はルッキズムに支配されている嫌な相手だと思い込み、相手を怒鳴り殴りつけるようになる。
もはや相手には嫌われ始めているが、相手をなじることが解決になると勘違いしている。
健康を害するほどのアルコール中毒と肥満だが、それは遺伝であり自分は悪くない、と自己弁護するが、アルコールを飲まない痩せた両親兄弟の間でそれが欺瞞だということはすぐにバレる。
最初は、どんな悪い人でもいいところがあるはずだし、愛情をたくさんもらったら精神的に安定すると思っていたらしい。
B
自身の能力が低く不安なので相手を束縛したいと願い、束縛し合い、毎日何時間も無駄話をするのが正常な恋愛だと思っている。
自分が自信がないのは相手が依存してくれないせいだと思い込み、「依存してほしい」と言い始めるが、病的なので相手の恋愛対象から除外される。
リアル交際する気がない旨を伝えられると、泣いてくんくん鼻を鳴らし、泣き落としにかかる。
年下のネカレが欲しかったらしいが、あとは純粋に喜ばせたかったらしい。
C
大切なことを学べなかった人。
120キロ超えのデブで、全身の体毛は縮れ陰毛と区別がつかないが、特に剃ることもなく、平気でゲップをする。
女はマネキンだと思っているので、座った時に体に皺が入ることが許せず、努力が足りない肥満のせいだと思っている。
女に毛穴が存在することが許せず、ムダ毛を剃ったり脱毛後の肌を見てこれ見よがしにため息をつき、努力が足りないという。
成長期のJKのDカップを掴んで「努力が足りないと」とため息を吐く。
これから夜遊びを始めるつもりだったらしく、キモい男に触られた時に自分がどう反応するのか知りたかったらしい。
わかる。うちは両親ともに下に兄弟がいたためここまでではなかったが姉に許さず妹にだけ許されることが多かった。でも平等のつもり。ひとつひとつは小さくても溜まる。ぶつければいいって意見もあるけどガチで議論できない人だったので諦めた。元増田もそうかもしらん。
家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。
敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。
義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。
三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。
九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている[14]。
秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。
愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。
武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原の撤退戦においても松平忠吉や井伊直政ら徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。
若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。
慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである。
木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。
慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本に生還した。この2匹を祀った神社が鹿児島の仙厳園にある「猫神神社」である[15]。
晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。
関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。
義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話が加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。
戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。
茶の湯を千利休、古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。