はてなキーワード: ハンムラビ法典とは
ここについて調べた限りこうではないかと考えた内容を書く。
保管は 内閣総務官室 本室 が行い、保管期間満了後は国立公文書館 へ移管される。
奏上書というものがあるらしい。
http://xn--hckq4a3al6a1tx12tl4ki8e7t9o.net/the_diet/bills/
最終的な内容の確定は上記の奏上書(下記ブログでは公布文)になると思われる。
奏上書の詳細を確認。
下記説明の交付文が法律内容の記載のある文書であると考えられる。
https://blog.goo.ne.jp/yokoikatsutoshi/e/1b0322e9ae0912daeb7027a603393396
・法律の公布は天皇がおこなう国事行為だから(日本国憲法7条1号)、内閣の「助言と承認」を必要とする(日本国憲法3条、7条柱書)。内閣は法律の公布を決定した上(内閣法4条1項により閣議による)、先の奏上を天皇に進達する。具体的には、内閣官房の職員が公布文や説明書を「上奏箱」に納め、閣議決定後直ちに皇居に届ける。天皇の地方訪問中や静養中には、現地まで上奏書類を持参する。
・通常は閣議決定のあった午後に天皇の決裁がおこなわれる。天皇による決裁は、公布文に天皇の御名が親署されて御璽が押される。御璽は「天皇御璽」と刻印されており、国璽とともにその保管は宮内庁の所管事務とされる(宮内庁法2条5号)。純金製で3.55kgもあるため、押印するのは天皇本人でなく宮内庁の職員が担当する。内閣の助言と承認があったことを示すため、公布文にはさらに内閣総理大臣が日付と副署をする。法律の末尾には主任国務大臣の署名と内閣総理大臣の連署がなされる(日本国憲法74条)。
どこがこの文書を管理保管するのかを確認。「公文書等の管理に関する法律」に関するところかと考えるも別途調査すると下記内容に行き着く。
https://www.cas.go.jp/jp/koukai/hyoujunbunsho/pdf/soumukan/k-1.pdf
法律の制定又は改廃及びその経緯
と書かれているため内閣総務官室 本室が公布文(御署名原本)を保管していると考えた。
保存期間満了後はどこに移行されるのかを確認。先の資料で「内閣官房行政文書管理規則」とあったのでググる。
http://www.cas.go.jp/jp/koukai/yosiki/beppyou2_110401.pdf
上記資料に「保存期間満了後には公文書館に移管するものとする。 」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/公文書館#日本国内の公文書館一覧
この中だと国立公文書館じゃない?と考えたのでまずそれで。
・疑問
保管期間は?
公布文(御署名原本)が最終確定版なのでこれを原本としてよいと思うが、国会での成立時の審議対象の時点の文書の方が正当性あったりするか?
法律は毎月変わるから「1つの本」としては存在しないが、成立した法律それぞれは国会決議録として国会図書館議会官庁資料室に原本がある。
こちらが原本?どちらかに誤字があればどちらが修正されるのかを考えると「内容が確からしいほう」が優先されそうな気もする。
「法律にこう書いてある」
と言われても、その法律ってどこにあるんですか?
って思いませんか?
原本?というべき、ハンムラビ法典の石碑みたいなの(おそらく天皇の署名した紙面)があるんですか?
それが、一字一句間違いなく複写される仕組みというのは、どういうことをしているのですか?
オリジナルの文章は電子データで、天皇が署名するのはその複写である印刷物ですか?
複写が署名で承認されると、オリジナルが承認されたことになる的な。
それとも、天皇の署名は元の文章の電子データに電子署名するんですか?
そもそも、法律って、一万円札のように、みんなが信じているから価値がある、的なものなんですか?
「法律でこう決まってる」「こう書かれてる」と言われても
「神はこう言われた」
といわれるのに似たモヤモヤがあるのは私だけでしょうか?
法律が言語で書かれているなら、言語の法則は、憲法より上位の取決めによってなされる必要があると思うのですが、どう思いますか?
なんかトラバやブコメを読むと、上手く自分の言いたいことが伝わらなかったので、追記します。
例えばですね、法律ってものがない世界にいたとして、これから法律ってシステムを導入しようとするじゃないですか。
借用書とかだって、借り手と貸し手で一部ずつ原本を保管するでしょ?
契約とか合意みたいなカタチのないものだって、カタチにしないと気持ち悪くないですか?
自分がそういう(法律というシステムを導入する)立場なら、原本は石碑に刻んで、一次複写は石碑に紙をのせて上から鉛筆でこすって写し取ったものにして、一次複写はそれぞれ厳重に管理。
一次複写から画像データとしたものを二次複写として、二次複写を文字起こししたものを3次複写にして流通させるってシステムをとると思うんです。
普通、最初はそう考えるから、ハンムラビ法典だって石碑なんじゃないですかね?
紙がなかったら、粘土で写しを取ったりしたんじゃないですかね。
で、現代、石碑にあたるのは輪転機のアルミ板が法律の原本だと思うんですよ。
別に、紙が原本って運用でもいいですけどね、ならば一次複写は石碑とか金属板で欲しくなりません?
王羲之の書とか、真筆は残ってなくて、紙を石碑に写したものがトレーサビリティの最上位で、そこから刷りとった拓本が各国の博物館に保管されてるわけで。
やっぱり私の考え方が古いんですかね?
追記2
目には見えなくても引力というものがあるように、人間関係の中には殺人罪とか詐欺罪という「罪」が確かに存在する。
存在するというと語弊があるかもしれない。
数学でゼロで割ることが許されないように、それを許してしまうと今まで積み重ねたもの(社会)が成り立たなくなってしまうことが過去の歴史から明らかなので、共通知を言語化したものが法で、どこにオリジナルがあるわけでもなく、分散型の管理がなされている。
ということ?
月に一回は「ツキイチ!生理ちゃん」という漫画を思い出してイライラしてしまう。
最初に1話を読んだ時は「少し引っかかるな」というくらいだった。次に2話を読み「腕から血が取られるのなら苦労はしない」と思い、3話は途中で読めなくなって閉じた。
それから生理ちゃんは読んでいなかったが、月に一度生理が来そうになる度に思い出し怒っていた。
もう思い出してイライラしたくないため、今回オモコロに掲載されている生理ちゃんを全て読み、どこに怒りを感じたか書いてみた。一旦吐き出したらマシになるかもしれないので。
この描写を初めて読んだ時に思った。
「わざわざ血の付いたナプキンを処理する必要もない、下着や服が汚れる心配もないなんて!楽で羨ましい」
腹痛と頭痛を抱えた状態で血の付いた下着を洗面所で洗わなくていいのだ。素晴らしい。なんで現実もこうではないのだろう。
しかしよく読むと2話では主人公の女性は生理ちゃんから注射器で血を取られながら、家にあるナプキンの残量の心配をする。
少なくとも経血を注射器で取るという世界観ならナプキンは必要無いんですよね。でもナプキンがある。
生理といえばナプキンという浅い発想が産んだ矛盾。この矛盾にイライラするのだ。
生理を擬人化して生理痛を腹パンに、経血を注射器で取るのに置き換える。生理による眠気をクロロホルムを染み込ませた布で呼吸器を覆われるという描写に置き換える。分かりやすくするためにはいいと思う。別に辛い要素を全てしっかり正しく描けとは思わない。しかし半端に現実の生理に寄せるからこれが現実を簡略し分かりやすくした物ではなく、ツギハギの適当な代物というのが分かってしまうのだ。それに怒りを感じた。
ちなみにこの注射器描写は3話から消える。徹底しろよと言いたくなる。
4話から生理ちゃんの紹介文が変わる「『男はぜんぜん生理痛のつらさを分かってない!とお怒りの方、こちらの漫画をぜひ彼氏や周りの男性にすすめてあげてください。」
いや、作者もぜんぜん分かってない!!これは高度なギャグなのか?と疑ってしまう紹介文。
4話のオチも良くない。生理が重い女の子を軽い女の子が叱る「私だって辛いんだから!」と。その解決方法、和解方法が最悪だ。
生理ちゃんが生理が軽い女の子の生理痛を重くさせるのだ。本当、ハンムラビ法典が作られたの何年前だか分かります!?
同じ目に合わせなくては共感も気遣いも生まれない、みたいな解決はして欲しくなかった。何故なら作者が男だから。彼に生理が来ることは無いから。自分は一生生理の辛さを理解しませんと晒してるようなものだから。
生理に幻想を持っています。生理に興奮します。だからこういうファンタジックな作品を描きます。みたいな感じだったら多分ここまで怒らなかったと思う。特殊な性癖の人なんだな……くらいで終わっていた筈だ。
私は生理が重い方だ。だから生理について人よりも考えこんでしまうのかもしれない。
しかし真剣に苦しんでいる事を茶化されるのはイライラする。生理とはなんか血が出るらしい、お腹も痛くなるらしいというぼんやりしたものではないのだ。
という作中の台詞があるが、作者は生理によって引き起こされる「大変」を知っているのだろうかと思う。
生理とは時に頭痛と腹痛を抱え、体は怠く精神は最悪なのに、血のついた下着を洗面所で手洗いしなければならないのだ。辛い現実で、日常の一部だ。人により症状が違うので、他人が理解をしたり正しい対処をするのが難しい。なのに性やタブーと結びついて、きちんと話せる機会が少ない。
こういった事をちゃんと知っているの?本当に?
ここまで書いてみて、怒りと悲しみが半々だったんだなという事が分かった。私が毎月毎月苦しんでいることを適当に漫画として描き、それに「生理の苦しみがわかる」「共感できる」というラベルを貼っているのに一番怒りと悲しみを覚えるのだ。
YouTuberヒカルがVALUで起こした行為について、詐欺行為ではないかと一部で盛り上がった。経緯については他のサイトに詳しく載ってるが、まあ詐欺なのではないかと俺も思う。
ただ、俺がもっと遺憾に思うのは、ヒカルの詐欺(少なくとも、そう疑われそうな行為)に対して、全く関係ない第三者がネットやリアルでヒカルに対して攻撃していることだ。
ヒカルから直接被害を受けたと思っている人間が集まって、裁判なり何なりやればいいと思う。この話はそれで終わりのはずだ。なのに、無関係な人間がなぜ彼を攻撃する?
コメントで「失望しました…ヒカルさんのファン辞めます。」とか書くくらいならわかる。ただ、いくらなんでもヒカルの実家の番号調べて凸する行為に正当性があるのか?完全に犯罪行為だろ。
最悪なのは、某組織に彼らが嫌がる行為を取った動画にヒカルの動画貼り付けて送り付けた奴ら。外患誘致罪にはならないのか?
こういうときに、犯罪行為を犯した奴は犯罪を犯されてもしょうがないとか、理解不能なことを言い出す奴がいる。犯罪を犯した者に(そもそも、まだ罪が確定した訳でもない者に)、犯した罪以上の罰を与えてはいけないとしたハンムラビ法典の時代より酷いことになる。
自らを愛し、そして世界を愛する。愛とは、全てを許し受け入れることである。
であれば、
人の負の面。例えば7つの大罪
傲慢(高慢)憤怒(激情)嫉妬(羨望)怠惰(堕落)強欲(貪欲)暴食(大食)色欲(肉欲)
なども、許し愛することができて、初めて本物の愛といえる。
口で言うのは簡単だ。
だがもし、自らや自らが大切と思う存在を攻撃された時に、私は攻撃してきたものを許し愛することが出来るのだろうか。
この問について、私は考えていた。
ハンムラビ法典の「目には目を歯には歯を」という言葉を思い出した。
これだ!とわかった。
そして、私があなたのその行為を邪魔し、私が私のためにあなたそのものを排除しようとすることも、同じように愛し許そう。
ここに私の愛は成熟した。
犯罪心理学の書物をみると、「謝ればいいんでしょ」「弁償すればいいんでしょ」みたいな考えの人は再犯率が高いと当たり前のことが書いてある。
しかし、これは結構核心をついた考えと思われる。私は子供の頃から「やたら申し訳なさそうに謝る人」に違和感を感じてきた。
なるほど申し訳なさそうに謝れば許して貰える確率は高い。だからといってやたら申し訳なさそうにするのが礼儀みたいになってて、みんなわざとらしく申し訳なさそうに謝ってる。
罪悪感という言葉があるが、本心から自分の行為を悪いと思っていて、罪悪を感じているなら、
・今回のことをどう償うか
・今後どう改めるか
をはっきり言うものだろう。「仲間に謝る時はルールがある。次どうするかそいつと約束する。そしてそれを絶対守ることだ!!」(ジン=フリークス)
罪悪感ばかり強くて罪悪への理解と対策案がないのでは困る。なぜこんなことが起きるかといえば、そう、罪悪感から謝罪する慣習がそうさせているのではあるまいか?
恥や罪の意識はあくまで内省のきっかけに過ぎない。死刑制度など刑罰の議論においても、罪の重みを思い知らせるという言い方がされる。
ハンムラビ法典でも目には目を口には口をと言われる。確かにそうやって罪の意識を持たせることは大切だろう。特に罪の意識が皆無な人間には有効である。
しかしだな。恥や罪の強さと再犯率は本当に反比例しているのか?そこをよく考えてもらいたい。ここが犯罪心理学の神髄とも言える部分でもある。
再犯を防ぐには、ただ罪の意識があるだけでは駄目。不倫や近親相姦や露出プレイなどに背徳心から興奮する人も少なくないのは分かるだろう?
それと同じで、悪いことだ改めようと思いながらも止められない快楽殺人者がいることを我々はそろそろ理解しないといけない。
どうも人は殺人事件のような話になると感情的になって、犯罪心理を理解しようとしない。また理解をうながしても「理解したくもねえよ何眠たいこと言ってんねやヴォケ」と罵声を浴びてくる。
あのね。目の前の事件に感情をぶつけるだけでなくて、冷静に再発を防ぎましょうよ。再発を防ぐには理解が必要なことくらい分かりますよね。
そう、犯罪を防ぐには、周囲から憎悪をぶつけられて罪の意識を持つだけでは駄目。現実的な対策も必要なのだ。
でまあ、それは社会の側が用意するとして、犯罪者の側はどうすればいいのか?いや犯罪者なんて言うと「私には関係ないわ」って言われるので、
「悪いことをした人」でどうだろうか?何も人がごめんなさいするのは法令上アウトな場合だけではない。
ちょっとうるさい演奏しちゃって隣の人に 「クォラ!」と怒られたとか、友人にしつこく音楽勧めて嫌がられたとか、そんなことで謝ることもあるはずだ。
そんなとき、再発を防ぐためにはどうすればいいのか?罪悪感を持てばいいのか?違うでしょと。繰り返しになるが、罪悪感は反省のきっかけに過ぎない。
罪悪感がいくら強くてもそれは必ずしも自分の悪かったところの反省を意味しない。「謝罪を丁寧にして沢山弁償すればいいんでしょ」と思ってるだけかもしれない。
それなのに、色んな人の相談を聞いてると、どうも直したいと本気で思ってるのに、罪悪感を自らに強く植え付ける作業ばかりしている人がじつに多い。
そのことにずっとずっと常日頃から疑問を覚えるんだよな。真面目に反省する気はありそうなのに真面目に反省してない。
それとも表面は真面目に反省してるフリして「真面目に反省してる私正しい」と酔ってるだけなのか。いや、どうなんだろうか?
それは本人にしか分からないことであるが、少なくともそんなことして何の得にもならないのは確かだ。
本当に自分が哲学的な意味で善い生き方をしたいと望むなら、恥や罪の意識に酔うのはもう辞めにして、「自分を直す良い機会だ」とでも思ったらどうなんだろう?
そのほうが潔く「うん、俺は確かに悪かった!」と思えて清々しいのに。そのほうが俺の人生経験から言っても再犯を防げると思うんだが。
本当に直したいと思ってる人は、これからはそういう反省の仕方をし、罪悪感が先行した謝罪の仕方は辞めるようにしてみてはいかが?
でも、罪の意識を植え付けさせることばかり躍起になって「反省させない」「再発を防ごうとしない」風潮にも問題あると思うんだよな。
言い方は悪いけど、やってることはそういうことだよな。もちろん、「悪いことした人」は「社会が悪い!」なんて言っても不毛だし言ってはいけないけど。
今まで色々な事件見たりして、持つ感想が他の人と違ってた。
他の人がみんな言ってる、
人を殺したら何されても文句言えないとか、
残虐なことをした奴に全く同じことしてやりたいとか、
ハンムラビ法典持ち出してくるとか、親しい人がそういうことされたら~とか、
そういうことは全然思えなかったし、
けど数年前からみっちりと法を学んでみて、
それが俺の考えに凄く合理的にマッチするもので、勉強すれば勉強するほど
「ああ、俺の考えって間違っちゃいなかったんだ」
って、自分を肯定してくれていて、本当に良かった。
が、そういう立場から物事を言っちゃうと、
「はいはい、お勉強してるキミは偉いですね」
「斜に構えて他の人と意見が違う自分カッコイイですか?www」
とか言ってくるヘンな輩は多いし、結局「日本の法律はどうなってんだ?犯罪者に甘すぎワロスwwww」
で締めくくられるワケ。
もーちょっと頭使えば良いのにと思う反面、
そういうのって他人の不幸で怒ったフリって言うエンターテインメントだから、
調和乱す発言する人を見るとイラつくのも仕方ないと思うって思うようになってきたなぁ。
これ見て思い出したがハンムラビ法典って厳罰と誤解されやすいよな。
本来は過剰な報復を防ぐためにやられた以上の厳しい罰を課さないようにしたものなのに。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1193243.htmlとかhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1193243.htmlとか
読むと、本当に分かってないなぁと思う。
まず、たぶん知ってるでしょうが、「体罰ダメ。ゼッタイ。」な法律があります。
学校教育法第11条
校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。
教員が体罰をしちゃダメなのは法律にきっちりと書いてあります。つまり、教員が体罰をする事は、立派な法律違反になるわけです。
で、それを踏まえて体罰肯定派の人たちの意見に反論していきます。
禁止されている行為が子どものためになるかどうか/子どものために行って良いかを一教師が判断してはいけません。あなたも判断してはいけません。
「子どものためだから禁止されていても私はやる」という考え方は本当に認めて良い考え方ですか?
子どものために学習指導要領を逸脱して自虐史観を教える先生を良しとしますか?
子どものために愛国心を説き「日本のために死ね」と言う先生を良しとしますか?
子どものためになると思うというのは法律に反しても良い理由になりません。
体罰になるかどうかの線引きを一教師がしてはいけません。あなたも線引きしてはいけません。
あなたの線引きより強い体罰が容認されてもあなたは我慢できますか?
「女は選挙に行くな!昔は女なんかに選挙権は無かったんだ!」って言ってるのと同レベルの発言です。
ざっと見た限りではこの辺の意見が多いみたいですが、体罰肯定で他の意見を持ってる人は教えて下さい。
「○○君に殴られたから殴り返した」という言い訳を認める教師は居ません。実際の社会でハンムラビ法典のような「目には目を」が許容されないからです。
つまり、教師は不当な行為に対して不当な行為で返してはいけないと教えます。にもかかわらず、生徒の問題行動という不当な行為に対して体罰という不当な行為で返すというのは、完全なダブルスタンダードだと私は考えます。
読んでくれた人が何か考えてくれると良いんですが。
ブックマークへの返信
lizy education 「文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる」 むしろこっちが気になる。文部科学大臣お墨付きの懲戒ってなんだろ
daradaru 「除籍・退学・退学勧告・無期停学・有期停学・出席停止・特別指導 」以上が教師が生徒にできる懲戒。これをもっとバンバンやれってか?そういうことなのか?
懲戒のうち、退学、停学及び訓告の処分は、校長(大学にあつては、学長の委任を受けた学部長を含む。)が行う。
とあります。法律に明記してあるのはこの3つですね。
基本的に学校教育法第11条は教師が児童・生徒を叱るのは懲戒で、懲戒するときに体罰はダメですよって条文だと思います。「文部科学大臣の定めるところにより」は、その権限を教師に与えたのが文部科学大臣って意味だという理解で私はいますが。
体罰議論であまり出てきませんよね。今回知ってくれた人が居れば私は嬉しいですが。
masaki_SSS 増田 では、どういう懲戒が相応しいのか、教育業界ではどうすべきと考えられてるのか、「来年から教員になる学生」としての声が聞きたい。「きちんと話して分からせる」みたいな御題目じゃなく具体的に。
教育業界では「叱る」だと思います。普通の先生は子どもに「きちんと話して分からせる」ことが実際にできてると私は思うので、お題目とは思いません。
sisya 「線引きしてはいけません」なら、懲戒=体罰という線引きも存在するから子供に一切手出しできないね。ブクマコメントの多くは「体罰OK」という意見ではなく「線引きが厳しすぎる」という意見に見えるけど?
基本的にはその通りだと私は思ってます。
「線引きが厳しすぎる」と発言する根拠が自分?って言うのが私の意見ですね。
daichan330 増田, 教育 そもそも前提として何をもって「体罰」となるのかがよく分からないんだよなぁ。法律ではその辺り規程されてるんだろうか。されてるんだろうな。
法律じゃないですが、文科省の通知はあります(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/07020609.htm)。まあ、読んだ所で結構濁して書いてあるんですが。
SeiSaguru 教育, 治安 理想としてはそれが正しいとも思う。問題は「どうやったらその理想が叶うかな」ってところかもだな。体罰に代わる誰にでもわかりやすい指導方法が、あれば良いけども…
「叱る」で十分機能してると個人的には思うんですが。
Alceste 増田, 教育, 価値観 ごもっとも。しかし時に法や規則、裁判所さえも正しくない結論を出すし、またみんなが容易く破る法もあるのも事実。だから法が必ずしも絶対的でないという矛盾がある、と思う。
その通りだと思います。ですが、そのときは法律改正を叫ぶのが筋だと思うんです。そうしている人も居るんでしょうけども。
AKIY 来年教員になるんだったら教育論の一つくらい展開してくれよ。「体罰を加えることができない」っていう法律がダメな理由だなんて話にならない。自分のクラスに同級生をフルボッコしている生徒がいても殴らない気?
フルボッコしてる最中なら殴ってでも止めますが、それは体罰とは関係ない正当行為です。フルボッコしてる最中じゃないのに殴るやつがいたらそいつは教員じゃなくてただのナルシストですよ。
ブックマークへの返信、というか反応。長くなって見づらくなりそうなので分けました。(11月23日)
http://anond.hatelabo.jp/20070219194759
できないよなぁ・・・。つか同じ事を並列して書いた自分が悪かった。
「仇討ち」は相手を殺すことだよね。
で、(ry
仇討ちの連鎖を止める術はあると思う訳だ。
例えば世界史で皆が習う「ハンムラビ法典」だって、その内容は「目には目を。倍返しとか連鎖とか駄目よ。法典に書いてあるとおりにやるからね。」ってな訳で。
江戸時代の仇討ち制度だって、お上から仇討ちの免状を貰わなければ単なる私闘になって刑罰の対象になっていた。
今の法体系でハンムラビ法典やら江戸時代の仇討ち制度がイケナイっていう根拠って何だろうね?
なんか「フリージア」みたいな話になってきた。