犯罪心理学の書物をみると、「謝ればいいんでしょ」「弁償すればいいんでしょ」みたいな考えの人は再犯率が高いと当たり前のことが書いてある。
しかし、これは結構核心をついた考えと思われる。私は子供の頃から「やたら申し訳なさそうに謝る人」に違和感を感じてきた。
なるほど申し訳なさそうに謝れば許して貰える確率は高い。だからといってやたら申し訳なさそうにするのが礼儀みたいになってて、みんなわざとらしく申し訳なさそうに謝ってる。
罪悪感という言葉があるが、本心から自分の行為を悪いと思っていて、罪悪を感じているなら、
・今回のことをどう償うか
・今後どう改めるか
をはっきり言うものだろう。「仲間に謝る時はルールがある。次どうするかそいつと約束する。そしてそれを絶対守ることだ!!」(ジン=フリークス)
罪悪感ばかり強くて罪悪への理解と対策案がないのでは困る。なぜこんなことが起きるかといえば、そう、罪悪感から謝罪する慣習がそうさせているのではあるまいか?
恥や罪の意識はあくまで内省のきっかけに過ぎない。死刑制度など刑罰の議論においても、罪の重みを思い知らせるという言い方がされる。
ハンムラビ法典でも目には目を口には口をと言われる。確かにそうやって罪の意識を持たせることは大切だろう。特に罪の意識が皆無な人間には有効である。
しかしだな。恥や罪の強さと再犯率は本当に反比例しているのか?そこをよく考えてもらいたい。ここが犯罪心理学の神髄とも言える部分でもある。
再犯を防ぐには、ただ罪の意識があるだけでは駄目。不倫や近親相姦や露出プレイなどに背徳心から興奮する人も少なくないのは分かるだろう?
それと同じで、悪いことだ改めようと思いながらも止められない快楽殺人者がいることを我々はそろそろ理解しないといけない。
どうも人は殺人事件のような話になると感情的になって、犯罪心理を理解しようとしない。また理解をうながしても「理解したくもねえよ何眠たいこと言ってんねやヴォケ」と罵声を浴びてくる。
あのね。目の前の事件に感情をぶつけるだけでなくて、冷静に再発を防ぎましょうよ。再発を防ぐには理解が必要なことくらい分かりますよね。
そう、犯罪を防ぐには、周囲から憎悪をぶつけられて罪の意識を持つだけでは駄目。現実的な対策も必要なのだ。
でまあ、それは社会の側が用意するとして、犯罪者の側はどうすればいいのか?いや犯罪者なんて言うと「私には関係ないわ」って言われるので、
「悪いことをした人」でどうだろうか?何も人がごめんなさいするのは法令上アウトな場合だけではない。
ちょっとうるさい演奏しちゃって隣の人に 「クォラ!」と怒られたとか、友人にしつこく音楽勧めて嫌がられたとか、そんなことで謝ることもあるはずだ。
そんなとき、再発を防ぐためにはどうすればいいのか?罪悪感を持てばいいのか?違うでしょと。繰り返しになるが、罪悪感は反省のきっかけに過ぎない。
罪悪感がいくら強くてもそれは必ずしも自分の悪かったところの反省を意味しない。「謝罪を丁寧にして沢山弁償すればいいんでしょ」と思ってるだけかもしれない。
それなのに、色んな人の相談を聞いてると、どうも直したいと本気で思ってるのに、罪悪感を自らに強く植え付ける作業ばかりしている人がじつに多い。
そのことにずっとずっと常日頃から疑問を覚えるんだよな。真面目に反省する気はありそうなのに真面目に反省してない。
それとも表面は真面目に反省してるフリして「真面目に反省してる私正しい」と酔ってるだけなのか。いや、どうなんだろうか?
それは本人にしか分からないことであるが、少なくともそんなことして何の得にもならないのは確かだ。
本当に自分が哲学的な意味で善い生き方をしたいと望むなら、恥や罪の意識に酔うのはもう辞めにして、「自分を直す良い機会だ」とでも思ったらどうなんだろう?
そのほうが潔く「うん、俺は確かに悪かった!」と思えて清々しいのに。そのほうが俺の人生経験から言っても再犯を防げると思うんだが。
本当に直したいと思ってる人は、これからはそういう反省の仕方をし、罪悪感が先行した謝罪の仕方は辞めるようにしてみてはいかが?
でも、罪の意識を植え付けさせることばかり躍起になって「反省させない」「再発を防ごうとしない」風潮にも問題あると思うんだよな。
言い方は悪いけど、やってることはそういうことだよな。もちろん、「悪いことした人」は「社会が悪い!」なんて言っても不毛だし言ってはいけないけど。
再犯率が高いのは「謝るだけで改めない人」だというのはわかる。 被害者感情を抜きにしたら、「謝るだけで改めない人」より「謝らないが改める人」のほうが良いんじゃないかという...