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はてなキーワード: アウトプットとは

2011-02-27

http://anond.hatelabo.jp/20110227165452

残念だけど俺にとってここで文章を書くことそのものが「考える」ことなんだよ。

から、さっき書いためちゃくちゃ長い長文も思考の中で出てきたことをベラベラと書きまくっただけだし、よく脈絡がないとか筋が通ってないとか言われるけど、思考そのものをアウトプットしてるんだからカオスなのは当然なんだ。

ってたびたび説明してるけど、やっぱり初めて読む人には俺の文章があまりに意味不明・行き当たりばったりすぎるんだな。

あと、「AIに発想はないって誰が決めた」、と書いたのは俺じゃなくて別の人。たぶんその人はそれ以降書き込みしてない

またやっちまったよ

俺は一ページ以上を自分に関する文章で埋める癖があって困る。

世間では炎上というんだろうが、数人を動員してまた炎上させてしまったw半年ほど前にやったのが最後でおとなしくしてたのに。

ほんと暇な時に増田アウトプットするとロクなことにならない。

2011-02-26

http://anond.hatelabo.jp/20110226165046#tb

よぉ、同類。

大学出て就職してやっと気づいたけど、俺もそうだった。診断も出た。

他人の行動を見て、作業手順を学ぶってことが全くできない。

作業中に横から注意されたり指摘されたりすると、全ての手順がぐちゃぐちゃに入れ繰る。

書類仕事ダメだが、実際に物を組み立てたりする作業もダメ過ぎる。

ベッコベコに言われてパニックを起こすから、より一層悪化する。悪い循環だ。

とりあえず、俺は転職考えてるわ。

何かを学んでアウトプットするって作業は得意だから、そっち方面の仕事に就こうかと思ってる。

適性って大事だ。俺は言語能力学習能力に全く問題のないADHDだったし、

多動は幼少期に収まってたけど、結局職場たいなとこに来るとこーなるんだよなぁ。

それだけに今がヤバイ。期待に1割も応えられてない。

とりあえず、塾の講師でもやるか、それとも大学戻って研究者目指すか。

しいな、人生

2011-02-11

数学は方法

東大数学博士に学ぶ数学世界 - 「数学は方法である」をめぐる談義

http://t.hash.bz/archives/2526249.html

読んで違和感を感じたことをいくつか。

一応言っておくと、僕はだいぶ昔に京大数学博士をとった。

身内にばれるのがいやなので、ここで書く。

目次

まとめ
科学とは何か
数学とは何か
「沈没系思考」とは何を言いたいのか
数学は方法である」とは何を言いたいのか
最後

まとめ

しい人が多いだろうから最初にまとめを。

数学」に対しては、見る立場によっていろんな見方ができる。

しかしなぜか(どうしてなのかは誰も分からないはず)

数学という方法を使うと世の中はうまく理解でき、予測ができる。

このあたりの問題は数学をいくら勉強しても分かるようになるわけではなく、

どちらかと言えば科学哲学の分野。

科学とは何か

議論を始める前に、科学とは何かという基礎知識が必要だと思う。

科学とは何かという問いは難しい問いだけど、

などがある。

例えば、科学と聞いて原子爆弾原子力発電所パソコンテレビ蛍光灯などを思い浮かべる人もあると思う。

iPhoneを見て「科学ってすごい」と思ったりするかも知れない。

これは科学という言葉製品そのものを指したり、それを作るための技術を指したりする場合

科学はなぜかそれらの製品を作ることにも応用できる。

それがなぜなのかは誰も分からない。

しかし、科学目的はそれだけではない。

一時期、「科学技術」か「科学技術」かでもめたことがあった。

今もそうなのかもしれないけれど。

科学にそれらの「技術だけ」を求めている人にとっては、「科学技術」なのかもしれない。

しかし、繰り返すが、科学目的はそれだけではない。

いや、「科学目的技術はない」と言っても良いと個人的には思う。

技術屋さんは科学を利用しているのであって科学を学んだり研究しているのではない。

科学目的は別の所にあると思う。

では、科学目的は何か。

いろんな意見があるかもしれないが、ここではいわゆる「理論」を作ることとしておこう。

では「理論」とは何か。

それは「現象を理解する方法」である

例えば、万有引力法則を考えてみよう。

今、「りんごが木から落ちる」という現象がある。

それはなぜか、理解したい。

いわゆる理論提唱される。

それは正しいかもしれないし、正しくないかも知れない。

しかしその現象を理解する一つの方法を提案する。

その理論はいくつかの長所を持っている

その理論を使えば、どれくらいの早さで落ちるかという予測ができるようになる。

それだけではなく、「りんご地球がひきあっていると考えれば理解しやすい」ということも分かる。

理論がなければ「りんご地球を引っ張る」という発想は生まれにくいだろう。

そのような新しい見方ができるようになる。

繰り返すが、それは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。

しかし、一つの理解する方法を提供する。

では、どうした自然に現象を理解できるか、ということが問題になるだろう。

実験という方法や、検証という考え方も自然に出て来る。

それらの方法を指して科学と呼ぶこともある。

このようなことを繰り返しているうちに、理論には一つのパターンが現れていることに気がつく。

それが、論理である

そして多くの場合論理数学は同一視される。

宇宙数学言葉で書かれている」と言った人があるらしいが、

数学は多くの理論自然な形で現れる。

そこで、次に数学とはどのような形をしているかを見ていこう。

数学とは何か

ここでは、証明とは何か、公理定義定理の違い、などについて説明する。

三角形内角の和が180℃であることを証明したいとしよう。

証明とは何だろうか?

たい言葉で言えば「間違いないと確信できる証拠」ということだろう。

例えば「彼女浮気していた証明」など、その人は「確信」するかもしれないが、

本当にそうかどうかは究極の所分からないだろう。

例えば、AだからBで、BだからCだ。

と言っても、Cが本当に正しいかどうかは分からない。

そこにはいくつかの危うさがはらんでいる。

最初の例では、「論理」が正しいかという問題である

三段論法は本当に正しいのか?

しかし、これを疑い出すときりがない。

次に、「AだからB」「BだからC」「A」などは正しいか?

何かを証明したいのは、正しいかどうかがハッキリしないからだろう。

そこで、正しいことから論理」を使ってそれが導ければ正しい確信できるだろう。

では、何を持って「正しい」とすれば良いのか。

場合によっては「私が正しいと思えればそれでいい」かもしれない。

しかし、誰でも正しいと信じられるものはめったにない。

そこで、数学では「最初にこれを正しいと仮定しましょう」とする。

この最初に正しいと仮定するものを公理という。

そしてその公理から論理」を使って導かれたものが定理である

その中で名前をつけるそれが「定義である

時々「公理が正しければそこから導かれた定理は正しい」と言ったりするが、

厳密に言えば「公理が正しく、論理も正しければ、そこから導かれた定理は正しい」となるだろう。

しかし、そうやって考えている論理は正しいのか?という疑問も起きる。

そこで、最初に正しいとこれはしましょうというできるだけ公理を定める。

論理公理に含めて公理と思うのが良いだろう。

こうして、導かれた定理がどれだけ信じられるかは、

公理がどれだけ明らかであるかによることになる。

もちろん公理が少ないほど導かれた定理が信じられるだろう。

数学とはこういう形をしている。

そうすると、科学理論もそういう形をしているということである

現象を理解するために、何か仮定を置く。

それを数学公理と見なして、数学的にいろんな定理を導く。

その定理をまた解釈して予測する。

実験によって予測が正しければ、

「その仮定」も「数学」もきっと正しいだろうと信じられるわけだ。

数学という学問理論の中からそのような「仮定」「実験」「予測」を取り去ったものだ。

時々、数学者は全く役に立たないことをやっていると言われることがあるが、

数学という学問には「役に立たせる」という目的はない。

それを使う人が「役に立たせる」だけのことである

「沈没系思考」とは何を言いたいのか

ブログの記事に戻ろう。

「沈没系思考」という言葉でこの人は何を言いたいのだろうか。

「一歩目から躓く」という表現からして、

上で書いたような「仮定」「公理」の部分でつまづいているのだろう。

つまり普通感覚で言えば、「数学」というものを使って理論を組み立てようとは思わない。

数学はとても抽象的だから

しかし、様々な理論に共通に現れているため、その部分を抜き出し、洗練させてきたのが数学から

それを使う人にとっては、数学を利用することはある意味はとても不自然なことになってしまう。

最初はその不自然さを受け入れる勇気が要るだろう。

別の言葉にすれば「数学に対する素直さ」である

僕の周りの数学者はこれらにとても慣れているので、

しいモノを定義した時にも素直に受け取ってくれる。

数学とはそういうものであることを知っているからだ。

この時、僕はベクトルの使われ方、柔軟性に驚いた。

要するに、対称が何であろうとも「ベクトル」にしてしまえば後は「ベクトル」を扱う数学世界ルールで加工することができて、

そのアウトプットをまた現実世界に落とし込んでくれば、

現実世界の事象に関して何らかの知見が得られる、というわけだ。まさに数学は方法、である。すげぇ。

正直なところ、「何を今更」と言いたいところであるが、

しかしたら多くの人の理解はこんなものなのかもしれない。

数学は役に立たない」とか言っている人の理解もそうなのかもしれない。

科学が強力な力を持っているように、数学科学理論の中で強力な武器である

この重要性はもっと声を大にして叫ぶべきなのかも知れない。

一般に学習者の目に触れる「数学」は、これらの個別具体化された「数学理論」であり、

その奥底にある数学世界の深遠さ、柔軟さ、恣意性にはほとんど気付く機会がない!

かに数学についてある程度理解していて、それを客観的に見られるだけの余裕がないと、

数学の強力さはよく分からいかも知れない。

ふむ、これを、どうしたら伝えられるのだろうか?

数学は方法である」とは何を言いたいのか

しかし、いくつかの誤解もあるようだ。

公理はその内部で論理的に矛盾していなければ(たぶん)どのようなものを定めてもよく、一緒に使われない複数の公理が相互に矛盾することもふつーにあり得る。

そして「定義」は、これから議論しようとする具体的内容、適用しようとする世界に都合の良いものを定めることが出来る。

かに数学では、どのような公理を定めてもよい。

しかし、そこから導かれた定理およびその解釈が、現実予測に合わないのであれば意味がない。

数学そのものの正しさは誰も疑わないだろう。

ならば、もし予測に合わないのであれば、その最初の決めごとが不適切であったということになる。

最初に現象を数学的にモデル化する。

ここで「なぜ」と問うことは意味がない。

「そうするとうまくいくから」としか答えようがない。

逆に言えば「そうするとうまくいくことを示す」必要がある。

もう少し厳密に考えてみよう。

例えば万有引力法則では各惑星質量はあるが大きさはない質点と見なす。

「どうして?」と問われれば「そうするとうまく行くから」というのは一つの答えだ。

しかしもう少し言えば、

「そう仮定しないと計算が難しすぎる。そう仮定すると計算が簡単になる。

 そしてその仮定した結果でもそれなりに精度の良い予測ができる。

 ならば現実問題としてはそのように仮定するのは許されるのではないか。」

ということだ。

これは「数学からの要求」と言えるだろう。

数学」を知らないと、この「数学からの要求」があることが理解できない。

からまた、最初に「なぜ?」と問うてしまうのだと思う。

最後

数学は強力な武器ではあるが、習得するのに時間がかかる。

から、ある意味必殺技のようなものかも知れない。

そして、その個々の必殺技はかなり用途が限定される場合が多い。

しかし、数学モデルという抽象化という考え方そのものが、

もたらす恩恵は莫大である

それは「科学」を学んだ人とそうでない人の違いのようなものだ。

数学というと「ベクトル」とか「線形代数」とかそういうものを想像するかも知れないが、

抽象化した見方ができるようになるというのが、実は一番大切だと思う。

2011-02-06

結局オンチって耳なの声なの?

僕は超がつくほどの音痴だ。


中学生の頃、一人ずつ順番に前に出てドレミファみたな発声練習をさせられるんだけど

いつも僕の番でつまづいて、みんながクスクス笑っててすごく恥ずかしかった。

きな子の前で何度も何度もやり直しさせられて惨めだった。

音楽室でいつも居残りさせられてて悲しかった。


いで社会人になると接待忘年会なんかでカラオケなんかも連れて行かれたりして

「よし、まず増田おまえなんか入れろ」

たいな流れになったりするんだけど、それが嫌でいつも1次会で逃げてた。


音楽は好きなんだ。

歌う事もほんとは好きだ。

もっと大きな声で歌いたい

いで、あわよくばみんなに「うまいね」って言われたい

鼻歌でも音痴なんだねwww」なんてできれば言われたくない。

昔は一つだけ願いが叶うなら「歌を上手にしたい」ってお願いするって本気で思ってた。

今はくだんないと思うけどね。

でもアウトプットが出来ないってもどかしい


不思議なんだけど音痴メカニズムってなんなの?

耳(インプット)に入ってくる音が、正確に聞き取れてないか音痴なの?

声?喉?声域?声量?(アウトプット)がダメから音痴になるの?

色盲画家は?すごいヒトも沢山いるね。

確かベートーベン難聴だったんだっけ?

ちょっと歌と話がずれちゃったけど、SMAP中居さんているよね。

彼はもう20年近く歌を歌ってきて、練習も常人じゃ考えられないくらいしてると思うの。

でもあのレベルなんだよ。いや僕からしたら旨いけどね。でも言いたい事わかるでしょ?


自分が歌ってる時、音ずれてんなーとかわかってるつもり。

バックリ言うと僕は芸術関係の学校に進学したんだけど、そこで学んだことは

絵の上手なヒトと下手なヒトは見えてる情報が圧倒的に違うってこと。

同じコンクリート電柱を描いた時に黒と白の絵の具しか使わないヒトと多彩な絵の具を用意するヒトがいる。

音楽を聞いててもちゃんと聞き取れてるつもり。

でもやっぱり違うのかな。

わかんないんだよねぇ。


あとね、最後に同じような悩み抱えてるヒト。

僕が言うのもおこがましいけど気にすんな。

僕はある時から音痴」を気にしなくなった。

いかりや長介さんが言ってた。

「ヒトには笑われていろ」

カラオケで散々今までの鬱憤を晴らすようにダミ声でクソ音痴な歌で精一杯歌ってる。

コソコソする必要ない。

オンチが一発目いきまぁっす!!!」つって自分から歌ってる。

すっげぇきもちいい。

みんな誘ってくれる。上司も「おまえいいなぁ最高だよ」って言ってくれる。

その言葉を嘲笑ととるか本心ととるかは僕次第だ。

ただし、曲のセレクトはいつも明るくて盛り上がって誰でも知ってる、しかもちょっと短い曲を選んでる。

日曜日よりの使者」とか。セレクトさえ間違わなければいい。

歌唱力で売ってる歌手の曲はだめだ。

平井堅さんとかは無理だ歌いたいけどそこは己を知るってことで我慢してる。

それで悩みが消えたわけじゃないけど、とりあえずハッピーだ。


歌も絵もオナニーなんだってやっと最近気がついた。

カラオケなんてその程度だし、その程度の場所しか社会に出たら歌う機会なんてない。

まさかこんな僕に結婚式の余興の話はこないでしょうしね(笑)

2011-02-05

それでも失敗は絶対に非難した方がいい理由

非難して許す失敗と、非難して許さない失敗がある

まず、前提として失敗は必ず非難されるべきなのです。「誰のミスか」が明瞭になり、責任の所在を明らかにする必要があります

責任と聞いて尻込みするような人は、社会人としてはふさわしくありません。とっとと後進に道を空け渡すべきです

失敗には二種類あります。許されるミスと、許されないミスです

たとえば、初めての経験によるミス、明らかに上司、営業の取引先との日程調整のミスによる、後発的なミスなどが、これにあたります

基本的にミスはすべてにおいて非難されなければなりませんが、根っこでないミスをいくら非難したからといって、改善するわけではありません。

従い、許されないミスは根源にあるものです。これが改善されなければ、何度やっても同じミスが出がちです

その根源にあるものを見極めるためにも、あらゆる仕事チャート化され、ビジュアライズされることが望ましいです

学習しないものは配置換えという処分も視野

好きな仕事ができる!あるいは得意な仕事ができる!と喜ぶ人もいるでしょうが、好きな仕事というわりに完成度が低い、得意だというわりにいつも同じ場所でミスをする。

こういうのは望ましいことではありません。

まして後者は得意だというのに成長していないのですから、そのことを指摘し、その後の数タスクのうちに改善しないのであれば、配置換えも必要でしょう。

好きな、というのは仕事とは無縁な価値です。嫌いな仕事だろうとやらなければいけないことぐらい、社会人なら理解しましょう。

失敗、損失の規模を理解する

社命に関わるミス、というのは他人を路頭に迷わし、それが理由で自殺をすれば、そのもとの失敗をした人は間接的な殺人したことと同義です

失敗とは定性的はなく、定量的なのです

そのあなたの失敗がどれだけの人を不幸にしてしまたか、どれだけ会社を不幸にしてしまたか、金額ベースで把握する必要があるでしょう。

もちろん、失敗を恐れて何もしない、尻込みするほうが問題としては悪質

たとえば、就活で何百という企業からお祈りされて、打ちひしがれて就活うつになったとしましょう(当然、就職目的学生です起業ノウハウゼロ。)

履歴書を送る、だいたい同じwebテストを受けるといった、ルーティンなもので成長なんてほとんど期待できませんが、それで手応えがないからと就活をやめるのは話になりません。

やらないなら、やって失敗した以上の損失があなたにふりかかります

そして、何百といった企業から不採用を受けるということは、あなたのこれまでの人生、あるいはそれのアウトプットとしての履歴書に、問題があると見るのが自然です

誰もが内定がないわけではないのです

ゆえに、ルーティーンで、手応えがないから、というのは単なるワガママであり、ひとつひとつの作業に問題点見出し、効率化させていくという作業を欠いてはいけません。

それをすれば、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるかのような、アホらしい作業も少なくなるでしょう。



最後になりました。繰り返しますが、すべての失敗は非難されて当然です。その中から、許されるミス、許されないミス、詳細に分析し、次回の戦略に役立てましょう。

http://d.hatena.ne.jp/sadadad54/20110204/1296767950

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/sadadad54/20110204/1296767950

失敗は絶対に非難しない方がいいと思う理由

2011-02-02

論理操作能力の高いヤツとは議論するな

東大卒自分ギリギリ東大理Iに受かったぐらいの大したことのない頭の持ち主だが東大に入ったおかげで、色々な東大生を見ることが出来た。その結果、論理操作能力というのは極めて遺伝的なものであるという事実を知ることが出来た。東大の中でも頭がイイ奴は、特に、時間あたりに操作できる論理操作の数が常人の数倍は速く、常人より1桁正確だと思う。この事実を知ることが出来たことが、東大に入って最も良かったことの一つだと思っている。

勉強が出来るだけでは社会に出ても役に立たないというのは、その通りだと思うのだが論理操作能力が速くて正確なことは社会に出る上で非常に役に立つ。特に、議論で圧倒的に有利になる。議論って言うのは、実は、試験よりも速くて正確な論理操作能力が要求される。その場で返答しなければいけないからだ。試験だったら、その場でとっさに答えを思いつかなくても、「とりあえず置いておいて、試験時間終了間際にもう一度見なおしてみるか」といった戦略が取れるが、議論の場では、相手は何十分も返答を待ってくれない。その場で返答しないと意味が無い。

論理操作能力は遺伝的なものだから、訓練しても高くはならない。だから論理操作能力が低い(才能がない)我々のような人間が彼らに勝つためには、「論理操作能力が高いヤツとは最初からマトモに議論しない」ということが重要だ。例えば、相手が持っていない情報に基づいて反論する。いくら論理操作能力が高くても、知らないものを知ることは出来ない。それから論理操作能力が高いヤツの前では、自分のやっている仕事面白そうに見せない。論理操作能力が高いヤツが自分仕事を持って行くからだ。

こういう勝つ技術の中でも一番多く使うのは「自分仕事に関係ないことは黙っておく」という技術だ。会議の中で自分より論理操作能力が高そうな人間がいて、その会議自分仕事に直接関係なく、意見することで何か自分利益がもたらされるのでなければ、黙っておく。論理操作能力が高い人間意見は高い確率正論なので、しばらく放っておけば、そういう人間会議を引っ張っていくようになる。

論理操作能力が低い自分でも、論理操作能力が高い人間が多く集まる東大という環境にいられたおかげで、こういう論理操作能力が高い人間の中で立ち回る技術を身につけることが出来た。人類の大半は、論理操作能力が低い人間だ。みんなで、共闘して奴らを追い落とそう。

追記:最後の文の「奴ら」は、論理操作能力が高い人達の事です時間がたってから校正しないと、こういう曖昧性に気がつかないのが、僕の論理操作能力が低い証拠です論理操作能力が高い人達は、即興曖昧性の低い文章を書くことが出来ます

また、「情報処理能力」の方が適当はないかという意見がありましたので、「論理」「操作能力した理由を説明します。「論理操作能力」というのは、平たく言えば、「頭の回転の速さ」だと思ってください。

まず、「情報」ではなく「論理」という言葉を使ったのは、「情報」では、人に上手く質問して情報を引き出す能力や、ネットや本で調べる調査能力を含むような誤解を与えると思ったかです。そういう調べ物が得意な人は居ますが、その人の専門にもよりますし、信頼できる情報源をどの程度「知っているか」という知識の問題でもあります。例えば、法学部卒の人が法律に関することについて情報入手能力が高いのは当たり前です。一方、「論理」なら、こういった調査能力を含むかのような誤解は与えません。ですから、「情報」より「論理」の方が適切であると思いました

次に「処理」ではなく「操作」という言葉を使った理由は、「処理」では、処理した結果何をアウトプットとすれば良いのかが明確に決まっている、という誤解を与えるからです。例えば、漠然と「何かいアイデアない?」と聞かれた場合は、欲しいアウトプットは定まっていません。このような得たいアウトプットが明確に決まっていない状況でも、与えられた条件から「この条件とこの条件をこう組み合わせれば、こういうことが言えて(=こういうアウトプットが得られて)、嬉しい!」ということを即興で考えつくことが出来る人がいます。僕は、「論理操作能力の高い人」という言葉で、こういう人たちのことを指したかったのです

例えば、車を操作する、とは言いますが、車を処理する、とは言いません。「操作」という言葉が、どの方向に進みたいかを決めることをも含んでいるかです。一方、「車をA地点からB地点まで移動するという仕事を処理する」ということは出来ます。処理するためには、アウトプット目的)が最初から決まっていないといけないのに対し、操作することは、アウトプットを定めることも含んでいます。ですから、「処理」よりも「操作」の方が適当であると思いました

ところで、この文章では、遺伝的と先天的を同じ意味で使ってしまっています。僕が言いたかったのは「先天的」の方です先天的からといって遺伝的であるとは限りません。また、論理操作能力先天的であるということは、実際に東大にいて、多くの東大生を見てきて、僕が経験的に(帰納的に)知ったことです。また、僕は、論理操作能力の高い人が東大だけに存在するとは思っていません。どの大学でも、名前が知られている大学なら、上位何%かは論理操作能力先天的に高い人だと思います。東大は、その「何%」が、1~2割程度になっているぐらいです。東大は、一般教養の代わりに、シンフリ制度最初は全員教養学部に属し、1年~2年前期までの成績で、他の学部学科に転籍する進学振り分け制度)を取っているので、学部・学科によって、論理操作能力の高い人の全体に占める比率は大きく異なります。シンフリ点数の高い学科は、やっぱり、論理操作能力の高い人が多いと思います。シンフリとかシケプリシケタイシケ長かいった言葉を知っていることは、僕が実際に東大卒である傍証にはなると思います。

追記2:

言いたいことが伝わってこない、という人が何人かいるのですが、そういう方は、どこが悪いか教えていただけると幸いです。理系出身なので、各段落の1文目をキーセンテンスにして書く点や、曖昧性がないように書く点だけは気をつけて書いているつもりです。文章が長い(冗長性が無駄に高い)のは、校正してないのでしょうがないと思っています。

追記3:

何で「論理操作能力」っていう言葉定義しただけで、こんなに反論が多いのだろう。とりあえず、「論理操作能力が高い」=「与えられた前提から単位時間あたりに論理的な推論を用いて導き出せる有意義な結論の数が多く、また、その推論が精確なこと」と定義しておく。単に論理的な推論がたくさん出来るだけ(=論理演算能力が高い)では、コンピューターの方が人間より優秀だということになってしまう。論理的な推論を重ねて、「有意義な結論」を見出さなければならないから、「操作」という言葉を使った。また、人間は推論を間違えることも多々あるので(例えば、A→Bが、議論を進めていくうちに、B→Aも成り立つことになっていたり)、推論が精確であることも重要なので、「推論が精確なこと」を定義に含めなければならない。

コミュニケーション能力」とか「国語力」とか「人間力」とかよりも、ずっと精確に定義できていると思うのだけど、何でこんなに反発を食らうのか分からない。

追記4:

英語を使うと冗長すぎるって言われそうなのでやめておいたのだが、やっぱり、書くことにしてみた。操作は、"operation"の意味で使っています。"operations"のように複数形に出来ることが大事。まぁ、"manipulation"の意味でもよいかもしれない…これも、"manipulations"にできるからね。"control", "exploit"の意味では使っていません。

追記5:

ところで、上条当麻イマジンブレイカー論理操作能力の一種だと思います。今週の禁書IIも見てね!!

2011-02-01

http://anond.hatelabo.jp/20110201113555

頭悪いんじゃ無いのか。

死後、赤の他人しかスコアを計れないのに、死亡時点のスコアを競うってのが、自己満足でなくて何なんだよw

さっきから君は他の馬鹿と比べても真剣意味がわからないんだが

じゃあ妄想ゲームじゃなくて君の実人生で考えてみよう。

君が何かの研究者だったとする。芸術家でもいいけど。


君は一生懸命論文なり作品なりをアウトプットして、まあ何十年かして死ぬ。

生きてる間に君自身が「いい人生だ」と思う、これが"自己の満足"だ。

仕事でうだつが上がろうが上がるまいが自分が満足してりゃ人生は勝ちだよな。

一方、赤の他人が君の業績を測って評価する。

研究がどれだけ革新的で学問進歩させたか、作品がアートシーンにどれほど影響を与えたか

これが客観的な君の"スコア"だ。

死後に赤の他人に頂く評価こそが客観的スコアであり

君が生きている間に自分の脳で認知する満足感が自己満足だ。


君は根っこから日本語の使い方間違ってない?

こんなもの、カンフル剤的な建て直しは幾らでもやれるだろうよ。

それこそ、独裁者犠牲を強いて「その場だけ取り繕う」のはな

で、それで満足なんだろ?

後のことは知らないんだろ?

独裁の政策は「後から取り返しがつかないものから優先してある。

さっきもそう書いたけどな。

した老人も本国送還した外国人保険制度の血を見る改革も

独裁者を打倒して縛り首にしてももう元には戻らない。


独裁者を吊るした綺麗な手の日本政体後継者

独裁者悪名と共に主要病巣が取り除かれた日本を引き継ぐ。

独裁者は死後も墓にクソを掛けられるだろうが

日本を立て直すことには成功して死んだわけだ。

2011-01-27

インターネット中毒度を幼年期〜老年期で書いてみた(2011年1月)

それぞれ「これはもっと早い・遅い時期じゃないの?」という指摘はあると思うけど、今回は個人的な主観で振り分けた。はてブSNS で見かけるあの人や、身近なあの人がどの辺りに属するだろうと考えながら読むと面白いかも。

2011年時点の今書くとこんな感じだけど、それぞれの時期にどのインターネット上のサービスを使っているかというのは着目点ではないと思う。昔は SNSRSS も、さらに検索なんて無かった時代でも、それが別のものに置き換わるだけで「知識を蓄え段々と発信者になっていく」という流れは大筋でずっと変わっていないのではないかと。逆に言えば、それぞれのフェーズに適したサービスがうまくこのインターネットの流れに溶け込めているんじゃないかと。

幼年期

インターネットに初めて触れる。


少年


青年


中年


高年期


老年

ここ最近エンジニア向けの勉強会は多く、

その他の職業勉強会が少ないという感覚があった。

エンジニア人達勉強熱心だなとも思ったりした

しかし、私の情報ソースインターネット

インターネット上にはエンジニアが多数いると仮定するなら、

インターネット上でアウトプットしている人達エンジニア比率は多い。

よって勉強会全体を俯瞰すれば、エンジニア向けは決して多くないが、

インターネット上の勉強会しか見ていない為、

また、私がエンジニアに関係する情報を中心に集めている為、

エンジニア向けの勉強会が多いと感じてしまっている。

よって、私の感覚はただの勘違いであると思っている。

数字はないのであくまでも仮定。


私がこういった感覚に陥ったことも含まれるのだが

どうもエンジニア自分達が物事の中心にいると思いがちである

客観的に見ているようで見れていない。

プログラミングという、絶対的な機械言語ルールに則りながら、

一方で数字という絶対的なルールを無視し感覚的な世界に生きる。

全てのエンジニアがそうではない。

中には客観的に物事を見れている人もいるがそういう人はエンジニア卒業していく。


これの何が悪いかという話をすると、

特に悪いことはない。誰にも害を与えていない。

ふと、エンジニアの傾向として、こういうのが見られるのではと思った。

2011-01-26

最低な人種自分が入っていることに最近気がついた

どうやら自分は他人を見下すことでしか幸せになれない人種だったようだ。

今、どうしてもそれを認めなければならなくなって、どうしようもなく辛い。

しいハッピーエンド物語では、他人の評価を求めすぎた作家が、『他人のために』と思い直す。

自分はそれと逆だと気づいた。

考えれば考えるほど、小さい頃からそうだった気がする。

小さい頃、絵を褒められて何を勘違いしたのかそのまま絵を描いていた。

延長として小説も作った。

ランキング1位の作品を見て、あの人のようにすばらしい作品を書けるようになりたいと憧れた。

憧れの方向が違ってた。

すばらしい作品を作りたいんじゃない。

すばらしい作品だと褒めて欲しかった。

から作品につける説明文はその内容よりも、自分がどうだったぐらいしか書いてない。きもい。

作品の内容を考える時間よりも、その作品を出したらどんな評価がくるか、ということばかり考えてた。ばかだろ。

ずっとそこを勘違いしていたから、「人の評価であなた価値は決まらないよ」という励ましの文句でさえ、何故か心に響かなかった。

しかしたら、創作に向いてない性格なんじゃないか根本的に。

もうアウトプットする気はないのに、気がついたら考えている。

しかし、それでも、自分の作品がランキング1位で、コメントがああだこうだぐらいしか考えてない。

肝心の中身がない。

妄想中毒なんだ(はあと」

他の人がこれを言った時、ちょwwwwきめえwwwとあざ笑ったが、

考えた末にたどり着いた答えが他でもない、自分がそういう人間だった。

あなたが、嫌いだと思っている人間性格あなたにとって悪いと思っている部分です」というのは正しいと思った。

そんなことはどうでもいいや、もう疲れたよ。

でもこの行為を自分から取ったら何すればいいんだろう。

もう生きる希望はない?

どこから間違ってた?

人と喋ってストレス解消が、理解できない。

友情も理解できない。

人のためという感覚意味不明

自分死にたいんじゃない。人間の居ないところに行きたいだけだ。

人間っていうのは、悪口陰口叩きあいしたり、利益のために詐欺スレスレをやったり、変に固まっていたり、変に考えている生物を指します。

人間扱いされない場所、かつ生きていけるところがいい。

隔離された独房たいなところに入りたいな。

一日三食で少々の水分と、少しの散歩でいいよ。

2011-01-20

anondtwitterへの投稿数と仕事の捗り度

俺の場合anondtwitterへの投稿が滞っていると、仕事も滞っている。自分アウトプット力がガタ減りしているためと考えられる。

仕事twitter禁止、anond禁止とか言われても、行き場のないアウトプットを押し殺す過程で本来仕事に向くはずのアウトプット力まで減衰させることになり、精神衛生上大変よろしくない。

自称ネット世代の俺だが、どうもそういうものみたいだ。他の人はどうなんだろう?

2011-01-12

どうやったらやる気って出るか適当に考えてみる



やる気が出ないので、どうやったらやる気が出るかを考えている。

まぁ、僕自身のおきまりの逃避方法なんだけどね。


思うに、作業興奮を生じさせるためには、「何をやったらいいかわかってて、もう少しでできそうな感じ」

の状態を作ってやることがいいんじゃないかと。


ジグソーパズルと一緒だ。最後のあと数ピースを残して「飽きた」って言う人ってあんまいないと思うんだ。


ジグソーパズルは直感的にあとどれくらいで完成かがわかる。

ちゃんと、ゴールがある。それがポイントなんじゃないかと。


枠がしっかり決まっていることで引き出せる快感があるのだ。


RPGもそうだ。ゴールが明確にわかっているか楽しいのだ。レベル上げも楽しいのだ。


まらないなーって思うって事は、ゴールがぼやけちゃってるのかもしれない。

ゴールに依然感じていた快感を、感じられなくなってきているのかもしれない。


そういうときは、快感を補給してやる必要があると思うのだ。


ゴールに、より快感を感じられるような、なんらかの工夫が必要だ。


その作業はなんのためにやってるのか。それが満たされるとどんなことが起こるのか。

ゴール自体が快感であればあるほど、その過程の作業に集中することができる。


一昔前は、エロ動画ダウンロードするために色々な知識が必要だった。

まずダウンロードしたファイル解凍するソフトが必要だったり、

その動画再生するためのソフトも必要だったり。

やっとそろえたと思ったらコーデックが足りなかったり。

そもそも、動画ダウンロードできるサイトをみつけるのも大変で、

そのサイト入り口も巧妙に隠されていたりして。


でも、そういうくそめんどくさい作業を乗り越えて動画再生してきたのだよ我々は。


これはまぁ、極端な例というか。

目的が持つ快楽、それに対する期待だけで作業をやりきれる希有な例というか。


こういう作業って、別に作業それ自体を楽しんでいるわけではない。

目的があまりにも魅力的すぎて欲求に直接的過ぎる。


それでも、まるで解決策がわからないばあい、いくら魅力的な動画だったとしても、

その再生はあきらめるしかない。


なんとなく、解決できそう、ゴールまで行けそう、っていう感覚が必要なのだ。

そういう直感的に「できそう」っていう感覚が無いと、行動が誘発されないのだ。


何かを作ろうというモチベーションも同じだと思う。

プログラミング普通の人は、こういうアプリが欲しいなーというアイディアが浮かんでも、

それを作るためのプログラミングの知識がないから、まず、それを自分で作ろうという発想にはならない。


多分、「あ、これくらいなら自分で作れそう」って思えたなら、そういうアプリを作る過程は、

それはそれは楽しい過程になるはずなのだ。


から、まずは「自分にもできそうだ」っていう確信を得るために、どうするかってことになってくるんだよね。


自分にもできそう、っていう確信が得られるくらい、自分の「道具」を増やしていく、っていうか。

そのための勉強が必要なわけだけど、つまりはこの「勉強」をするときに、

枠を作ってやればいいんじゃないの、ってことになってくる。


最終的な到達地点は、商品になるくらいのアプリケーションを作ることだとしよう。

まぁ、絵を描いて食っていくとか、そういうのでもいいや。


その到達地点をゴールに据えたところで、自分としては何もやる気にならない。

あまりに大きすぎるジグソーパズルを買ってしまってげんなり、みたいな。


わくわくするとかそういう肉体的な快感を引き出すためには、もっともっと、

自分自身にリアルで無くてはいけない。性欲ほどで無いにしても、

もっと今の自分の欲求に近づけてやらないといけないのだ。


そう、今の自分の欲求に近づける、これが重要だ。


例えば「とりあえず何か将来的に役に立ちそうな知識を身につけるべく勉強したい」

っていう、不安背中を押されているような欲求があるとしよう。

だったらそれをまずは利用する。とりあえず勉強したいという欲望を。


でもそれだけじゃ足りないのだ。もっと直接的に、自分の欲求に結びつける何かが必要だ。


生産、そう。生産だ。アウトプットが必要だ。排泄が必要なのだ。


自分のやっていることに、プロセス快感を感じるためには、どうしたってその途中途中に

排泄行為が必要になってくるのだ。中途半端でもいい。今の自分でもアウトプットできる何かを、

カスでもいいから排出してやる。その排出されたものを見る。臭いをかぐ。

そういうプロセスが多分、快感なんじゃないかと思うのだ。


ほら、自分の髪をかいたりしたあとに臭いをかぎたくなるじゃない。

自分体臭をかぎたくなるじゃない。あれとちょっとにてると思う。


自分が排出したものを、自分で確認する。そのプロセスって実は快感なのだ。

それをだれかに見られるとしたらなおのこと快感だ。

見られた上に「気持ち悪…」とかそういうフィードバックがもらえるとしらもう最高だ。


もう、何かを勉強するならはじめっからアウトプットをこまめに実践するといいってことだ。


ほんの少ししか勉強してなくて何も生み出せないと思うかもしれないけど、

しかに誰かに見せるようなものは絶対に生み出せないと思うけど、

それでもカスくらいはひねり出せる。


そういうアウトプットをこまめに捻出していく、っていうのが、

多分、自分のやる気を増長させていくんじゃないかな。


つーことはだよ。この発想を、日々のToDoたいなのを考えるときに役立てていこうとすると、こうなる。


今日は○○を勉強する」


たいな作業の決め方はやる気が起きない。インプットしかしてないから。


「○○を勉強することにより△△ができるようになるはずだから今日は□□を作る」


たいに、最終的にアウトプットの形でフィニッシュさせるといいんじゃないかと。

自分への問いかけはこうだ。

今日は何ができるようになりたいの?」

日記にはこう記す。

今日はこれができるようになった。」

何々をした、とか、何々をする、とかでは足りないのだ。

自分今日、それを実践したことによって何ができるようになったのかを

ほんのちょっと考えてやるといいんじゃないかな。

2011-01-11

http://anond.hatelabo.jp/20110111225639

こういうクソなアウトプットをしている馬鹿はどうにかならないものかねぇ。

自分のために書くからこそ、読む人には礼を

書きたいことも書けることも、とうに尽きたように思う。

それでも何かを言いたいとは思う。何かを言わねば前に進めないと思う。

誰の身にもならぬ、脳みそを通り抜けていくような根拠のない戯言しか言えない。自分ではそう思っている。

しかし気が向けば何か書きたくなる。ふと「アウトプットせにゃあな」と突き動かされるときがある。

真っ白なルーズリーフレポート用紙に、作っては放置してきたネット上のブログに、こういう擬似匿名メモ帳に、

何かを書かねばと言語野に支配されてしまう。

書いて何が起きるか分からない。何も起こらないことのほうが多い。

それでもこうしてローマ字入力し文章を書いているのはきっと、何かが起きるかもしれないという「可能性」があるからなのだ。

現状を変えたいが、体を動かし時間と覚悟を尽くして動く勇気がないゆえに、

頭と手だけを動かし、実際にいてくれるかも分からない読み手に向かって、届くか怪しい文章を書いている。

何かが変わるかもしれない可能性を生みつつ、申し訳程度の向上心があることを確認するために、自分はキーを叩いているのだ。

読み手にとって意味があるかは分からない。読み流して、次の日にはまた別の記憶無意識に押しやってしまうくらいに、無意味である場合のほうが多いだろう。

それでもこの文章に何かを感じ、何かを見出し、何かを言ってくれる人がいる可能性があるのもまた確かだ。

読んでくれる人にはお礼を言わなくてはなと改めて思う。

http://anond.hatelabo.jp/20110111114719

いつもの否定ますだってなんだ?

あなたがここで日頃どう否定されてるのかわからないけど人違いだと思う。


そして本題だけど、

例えばアマチュアバンドの練習スタジオにわざわざ入って行って「やめろ!」みたいなのは間違ってると思う。

客観的に技能が低かろうが上達しなかろうが、それは本人達のホビーだし。

身内がその人達の発表会に言って一緒に暖かく拍手送るのもいいことだ。

つまり、アマチュアバンド否定増田の言ってることは俺もよくわからない。あなたと一緒。


で、元増田なんだけど、具体的に何のこと言ってるのか曖昧だけど

この人は多分前述の駄サイクルアウトプットを、望まないのに見せられてる立場の人なんじゃねーの?

その場合「いい加減にしろや」っていう言い分は俺はわかる。


音楽の例で言うと路上ライブする人達か。

あまりに下手なのに路上ライブ。それも週に3日通勤通学の途上に居る。

とか。

http://anond.hatelabo.jp/20110111100722

ここで言う要領悪い人というのは気付かないし、気付いても治せない。

そういう人って居るんだよ。ほとんど上達しなくなる人。

一般的に言ってアウトプットは勿論重要だと言うことはあなたと同意見

そういう一般から外れた人達の話をしてるし、元増田もそうだと思う。

細かく見ていけばいろいろ原因は究明できるんだろうけどね。

課題がわかってないとか、

目標設定に無理があるとか、

一回全力出すべきなのに同じ力で同じとこ繰り返してるとか。

http://anond.hatelabo.jp/20110109232616

言っていることはなんとなく分かるけど、どうにかしてほしいと言われてもね。

単に気に入らないってだけなら、もう少し寛容になりなよとしか言いようがないわな。

元増田は「面白くないことをアウトプットすべきではない」とか、「活動は建設であるべき」と思っているみたいだけど、

世の中にはそういうふうに思っていない人がいるってことでしょ。

自分と考えの違う人に対して寛容になれない人」をどうにかして欲しいって思う人もいるかもよ?

2011-01-10

努力して意味があるのかって悩んでる

できればアドバイスよろしくお願いします

自分は一つのことをやり込むタイプじゃなくて

色んなことをやる器用貧乏中途半端人間だと思う

それでも、高校の時は努力を欠かさず頑張ってきた

努力したけど、結局挫折しまった

これをきっかけにあまり努力した

根気よく物事に取り組まなくなってきた

大学の時twitterを始めた

twitterの人たちは有能な人ばっかりだった

もちろんそうでないひともいるのだけれども

有能な人たちは思考の仕方も根本的に違うし

要領の良さもくらべものにならない。

才能もある

そういう人たちに追いつこうと

努力しようと思ったけど、

どうやって努力したり身につけていったらいいかからない

それで後ろからは抜かれていくありさま

院に行こうと思ったけど、

絶望的に英語が駄目だったので

駄目だった

モチベーションはあったものの

要領の悪さや才能がない、詰めが甘い

だけど、知的好奇心スキルを身につけようという

思いはある

どうしていったらいいのかなって思う

自分たちより有能な人たちがいるか

自分努力意味があるのだろうと思う

自分はあまり人の役に立ててないし

クソみたいアウトプットをすることしか出来ないか

http://anond.hatelabo.jp/20110109232616

自分面白いアウトプットしなきゃ幸福でも成功でもないんだよ。

たとえ別の方法で金も地位も手に入れてもね。

皆が羨む良い女モノにするより自分が惚れた女モノにする方が幸せだろ?

この記事読んだら↓のエントリを思い出した

http://anond.hatelabo.jp/20110109011320

http://anond.hatelabo.jp/20110109232616

この手の議論ってもう随分前からされ尽くしたように思うけど、

つまんない奴がアウトプットしてることが問題なんじゃなくて、

その玉石混交の状態がはっきり区別されて、

つまんないものは日陰にそっと置かれて晒されないような仕組みが重要で、

はてブもかつてはそのフィルタリングのために存在してたはずなんだけど、

今は目も当てられない状態だよね。

それと、つまんないものアウトプットすること自体は何も問題ないけど、

「これはつまらない」っていう認識がないままずっとアウトプットしてたら、

クリエイターとしてっていうよりも人としてのコミュニケーションがまずヤバくなる。

笑えない話をずっと面白いと思ってしゃべってるような人間

まともなコミュニケーションができるわけない。

から大抵の人はそこで気づいて改善したり、諦めたりするんだけど、

そこで気づけないで同じ事を続ける奴は才能がないとか、要領が悪いって以前に、

そういうヤバい空気を読めない。

空気を読めないから、確かにこういう人はなかなか直らない。

から、こういうやり方もあるよって薦めるのは全然間違ってないけど、

大半の人は放っておくしかない。

http://anond.hatelabo.jp/20110110004843

かにマンガ家とかでも1巻はひでえ絵なのに45巻とかになるとかなりうまくなってたりするよな。それだけ書いたからうまくなったんだろうけど。

そのとき疑問なのは

1、45巻を書いてる時点で1巻のことをどう思っているのか。タレントなんかだと昔の映像を恥ずかしがったりするけど(例:井森美幸ダンス)。

2、1巻を書いてるとき自分の実力をどう思っていたのか?

の2点なんだけど、人それぞれだろうけど、俺が予想するに

1、別に恥ずかしくはな

2、そのときは最高の絵が書けたと思ってた

だと思うんだよ。でもこれって本人が自覚できる部分の話であって、心の底では

1、45巻の今から見て1巻の絵は恥ずかしい

2、1巻の絵を書いてるときも下手だと思っている

んだと思うんだよ。だからこそ! もっとうまくなりたいっていう向上心が生まれてうまくなったんだと思うんだよね。満足から向上心は生まれないと思う。自分に対して不満だったからこそ。

から「実力が足りないことに無自覚でアウトプットばかりしたがる人」にも心のどこかで「今自分がやってることは初歩的なことなんじゃないか」という自分に対する疑問を少しだけでいいから持って欲しいと思う。

カラオケとかで下手なのに無自覚で歌いたがるおっさんとか。

2011-01-09

つまんないのに精力的にアウトプットする人達をどうにかしてほしい

あい人種見ると本当、

無闇な行動礼賛みたいなのは違うなと思う

才能無い人は才能無い方面でいくら行動してもダメ

何回アウトプットしてもまるで成長しないし


「批判を受け入れないから成長できない」?

違う気がする

才能無い人はどんなすごい人のアドバイスを聞いてもピンとこない

ピンとこないか謙虚に聞けないわけだし

結局そういうの聞けるのは才能ある人だけなんだと思う


精神論とか姿勢論の話をしてるんじゃないよ、その逆を言ってる

つまんないのにアウトプットしまくる人達精神論姿勢論の信奉者だと思う

ダメなものでも前のめりにアウトプットしまくる姿勢が大事!」みたい

「失敗作を百個作れば傑作が出来るんだ!」みたい

もしくはそれ以前に、自分アウトプットゴミの山であると気付けてないか目を逸らしてる


クリエイター志望なら首を括るか前のめりにドブに突っ込むしかないけど

もしお金や名声を目当てに頑張ってるつもりならば

自分達のつまんなさと向き合った上で自分で作ろうとするのをやめて

面白い人を雇う、お世話をする、みたいポジションシステムを探求したほうが建設的だと思う


「センスが無い奴は面白い人を見分けて雇うのも一苦労だろ!」というツッコミはあろうけども

センスがない人が面白いアウトプットするなんていう幸運よりは

センスが無い人が面白い人の良き世話役になると言う幸運の方が

まだその辺に転がってることが多いと思うよ

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