はてなキーワード: アウトプットとは
よぉ、同類。
大学出て就職してやっと気づいたけど、俺もそうだった。診断も出た。
他人の行動を見て、作業手順を学ぶってことが全くできない。
作業中に横から注意されたり指摘されたりすると、全ての手順がぐちゃぐちゃに入れ繰る。
書類仕事もダメだが、実際に物を組み立てたりする作業もダメ過ぎる。
ベッコベコに言われてパニックを起こすから、より一層悪化する。悪い循環だ。
とりあえず、俺は転職考えてるわ。
何かを学んでアウトプットするって作業は得意だから、そっち方面の仕事に就こうかと思ってる。
適性って大事だ。俺は言語能力や学習能力に全く問題のないADHDだったし、
多動は幼少期に収まってたけど、結局職場みたいなとこに来るとこーなるんだよなぁ。
それだけに今がヤバイ。期待に1割も応えられてない。
東大数学博士に学ぶ数学世界 - 「数学は方法である」をめぐる談義
http://t.hash.bz/archives/2526249.html
読んで違和感を感じたことをいくつか。
身内にばれるのがいやなので、ここで書く。
「数学」に対しては、見る立場によっていろんな見方ができる。
数学という方法を使うと世の中はうまく理解でき、予測ができる。
このあたりの問題は数学をいくら勉強しても分かるようになるわけではなく、
どちらかと言えば科学哲学の分野。
議論を始める前に、科学とは何かという基礎知識が必要だと思う。
などがある。
例えば、科学と聞いて原子爆弾や原子力発電所、パソコンやテレビ、蛍光灯などを思い浮かべる人もあると思う。
iPhoneを見て「科学ってすごい」と思ったりするかも知れない。
これは科学という言葉が製品そのものを指したり、それを作るための技術を指したりする場合。
それがなぜなのかは誰も分からない。
一時期、「科学技術」か「科学・技術」かでもめたことがあった。
今もそうなのかもしれないけれど。
科学にそれらの「技術だけ」を求めている人にとっては、「科学=技術」なのかもしれない。
いや、「科学の目的は技術ではない」と言っても良いと個人的には思う。
技術屋さんは科学を利用しているのであって科学を学んだり研究しているのではない。
いろんな意見があるかもしれないが、ここではいわゆる「理論」を作ることとしておこう。
では「理論」とは何か。
それは「現象を理解する方法」である。
その理論を使えば、どれくらいの早さで落ちるかという予測ができるようになる。
それだけではなく、「りんごと地球がひきあっていると考えれば理解しやすい」ということも分かる。
理論がなければ「りんごが地球を引っ張る」という発想は生まれにくいだろう。
そのような新しい見方ができるようになる。
繰り返すが、それは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。
では、どうしたら自然に現象を理解できるか、ということが問題になるだろう。
それらの方法を指して科学と呼ぶこともある。
このようなことを繰り返しているうちに、理論には一つのパターンが現れていることに気がつく。
「宇宙は数学の言葉で書かれている」と言った人があるらしいが、
ここでは、証明とは何か、公理、定義、定理の違い、などについて説明する。
証明とは何だろうか?
平たい言葉で言えば「間違いないと確信できる証拠」ということだろう。
例えば「彼女が浮気していた証明」など、その人は「確信」するかもしれないが、
本当にそうかどうかは究極の所分からないだろう。
そこにはいくつかの危うさがはらんでいる。
何かを証明したいのは、正しいかどうかがハッキリしないからだろう。
そこで、正しいことから「論理」を使ってそれが導ければ正しいと確信できるだろう。
では、何を持って「正しい」とすれば良いのか。
場合によっては「私が正しいと思えればそれでいい」かもしれない。
そこで、数学では「最初にこれを正しいと仮定しましょう」とする。
そしてその公理から「論理」を使って導かれたものが定理である。
時々「公理が正しければそこから導かれた定理は正しい」と言ったりするが、
厳密に言えば「公理が正しく、論理も正しければ、そこから導かれた定理は正しい」となるだろう。
しかし、そうやって考えている論理は正しいのか?という疑問も起きる。
そこで、最初に正しいとこれはしましょうというできるだけ公理を定める。
こうして、導かれた定理がどれだけ信じられるかは、
数学とはこういう形をしている。
そうすると、科学理論もそういう形をしているということである。
現象を理解するために、何か仮定を置く。
「その仮定」も「数学」もきっと正しいだろうと信じられるわけだ。
数学という学問は理論の中からそのような「仮定」「実験」「予測」を取り去ったものだ。
時々、数学者は全く役に立たないことをやっていると言われることがあるが、
それを使う人が「役に立たせる」だけのことである。
ブログの記事に戻ろう。
上で書いたような「仮定」「公理」の部分でつまづいているのだろう。
つまり普通の感覚で言えば、「数学」というものを使って理論を組み立てようとは思わない。
しかし、様々な理論に共通に現れているため、その部分を抜き出し、洗練させてきたのが数学だから、
それを使う人にとっては、数学を利用することはある意味ではとても不自然なことになってしまう。
僕の周りの数学者はこれらにとても慣れているので、
この時、僕はベクトルの使われ方、柔軟性に驚いた。
要するに、対称が何であろうとも「ベクトル」にしてしまえば後は「ベクトル」を扱う数学の世界のルールで加工することができて、
「数学は役に立たない」とか言っている人の理解もそうなのかもしれない。
科学が強力な力を持っているように、数学は科学理論の中で強力な武器である。
この重要性はもっと声を大にして叫ぶべきなのかも知れない。
確かに数学についてある程度理解していて、それを客観的に見られるだけの余裕がないと、
ふむ、これを、どうしたら伝えられるのだろうか?
しかし、いくつかの誤解もあるようだ。
公理はその内部で論理的に矛盾していなければ(たぶん)どのようなものを定めてもよく、一緒に使われない複数の公理が相互に矛盾することもふつーにあり得る。
しかし、そこから導かれた定理およびその解釈が、現実の予測に合わないのであれば意味がない。
数学そのものの正しさは誰も疑わないだろう。
ならば、もし予測に合わないのであれば、その最初の決めごとが不適切であったということになる。
ここで「なぜ」と問うことは意味がない。
逆に言えば「そうするとうまくいくことを示す」必要がある。
もう少し厳密に考えてみよう。
例えば万有引力の法則では各惑星は質量はあるが大きさはない質点と見なす。
「どうして?」と問われれば「そうするとうまく行くから」というのは一つの答えだ。
しかしもう少し言えば、
「そう仮定しないと計算が難しすぎる。そう仮定すると計算が簡単になる。
そしてその仮定した結果でもそれなりに精度の良い予測ができる。
ならば現実問題としてはそのように仮定するのは許されるのではないか。」
ということだ。
「数学」を知らないと、この「数学からの要求」があることが理解できない。
そして、その個々の必殺技はかなり用途が限定される場合が多い。
それは「科学」を学んだ人とそうでない人の違いのようなものだ。
僕は超がつくほどの音痴だ。
中学生の頃、一人ずつ順番に前に出てドレミファみたな発声練習をさせられるんだけど
いつも僕の番でつまづいて、みんながクスクス笑っててすごく恥ずかしかった。
好きな子の前で何度も何度もやり直しさせられて惨めだった。
そいで社会人になると接待や忘年会なんかでカラオケなんかも連れて行かれたりして
「よし、まず増田おまえなんか入れろ」
みたいな流れになったりするんだけど、それが嫌でいつも1次会で逃げてた。
音楽は好きなんだ。
歌う事もほんとは好きだ。
もっと大きな声で歌いたい。
「鼻歌でも音痴なんだねwww」なんてできれば言われたくない。
昔は一つだけ願いが叶うなら「歌を上手にしたい」ってお願いするって本気で思ってた。
今はくだんないと思うけどね。
耳(インプット)に入ってくる音が、正確に聞き取れてないから音痴なの?
声?喉?声域?声量?(アウトプット)がダメだから音痴になるの?
ちょっと歌と話がずれちゃったけど、SMAPの中居さんているよね。
彼はもう20年近く歌を歌ってきて、練習も常人じゃ考えられないくらいしてると思うの。
でもあのレベルなんだよ。いや僕からしたら旨いけどね。でも言いたい事わかるでしょ?
自分が歌ってる時、音ずれてんなーとかわかってるつもり。
バックリ言うと僕は芸術関係の学校に進学したんだけど、そこで学んだことは
絵の上手なヒトと下手なヒトは見えてる情報が圧倒的に違うってこと。
同じコンクリートの電柱を描いた時に黒と白の絵の具しか使わないヒトと多彩な絵の具を用意するヒトがいる。
音楽を聞いててもちゃんと聞き取れてるつもり。
でもやっぱり違うのかな。
わかんないんだよねぇ。
あとね、最後に同じような悩み抱えてるヒト。
僕が言うのもおこがましいけど気にすんな。
いかりや長介さんが言ってた。
「ヒトには笑われていろ」
カラオケで散々今までの鬱憤を晴らすようにダミ声でクソ音痴な歌で精一杯歌ってる。
コソコソする必要ない。
「オンチが一発目いきまぁっす!!!」つって自分から歌ってる。
すっげぇきもちいい。
みんな誘ってくれる。上司も「おまえいいなぁ最高だよ」って言ってくれる。
ただし、曲のセレクトはいつも明るくて盛り上がって誰でも知ってる、しかもちょっと短い曲を選んでる。
歌唱力で売ってる歌手の曲はだめだ。
平井堅さんとかは無理だ歌いたいけどそこは己を知るってことで我慢してる。
それで悩みが消えたわけじゃないけど、とりあえずハッピーだ。
まず、前提として失敗は必ず非難されるべきなのです。「誰のミスか」が明瞭になり、責任の所在を明らかにする必要があります。
責任と聞いて尻込みするような人は、社会人としてはふさわしくありません。とっとと後進に道を空け渡すべきです。
失敗には二種類あります。許されるミスと、許されないミスです。
たとえば、初めての経験によるミス、明らかに上司、営業の取引先との日程調整のミスによる、後発的なミスなどが、これにあたります。
基本的にミスはすべてにおいて非難されなければなりませんが、根っこでないミスをいくら非難したからといって、改善するわけではありません。
従い、許されないミスは根源にあるものです。これが改善されなければ、何度やっても同じミスが出がちです。
その根源にあるものを見極めるためにも、あらゆる仕事はチャート化され、ビジュアライズされることが望ましいのです。
好きな仕事ができる!あるいは得意な仕事ができる!と喜ぶ人もいるでしょうが、好きな仕事というわりに完成度が低い、得意だというわりにいつも同じ場所でミスをする。
こういうのは望ましいことではありません。
まして後者は得意だというのに成長していないのですから、そのことを指摘し、その後の数タスクのうちに改善しないのであれば、配置換えも必要でしょう。
好きな、というのは仕事とは無縁な価値です。嫌いな仕事だろうとやらなければいけないことぐらい、社会人なら理解しましょう。
社命に関わるミス、というのは他人を路頭に迷わし、それが理由で自殺をすれば、そのもとの失敗をした人は間接的な殺人をしたことと同義です。
そのあなたの失敗がどれだけの人を不幸にしてしまったか、どれだけ会社を不幸にしてしまったか、金額ベースで把握する必要があるでしょう。
たとえば、就活で何百という企業からお祈りされて、打ちひしがれて就活うつになったとしましょう(当然、就職が目的の学生です。起業ノウハウはゼロ。)
履歴書を送る、だいたい同じwebテストを受けるといった、ルーティンなもので成長なんてほとんど期待できませんが、それで手応えがないからと就活をやめるのは話になりません。
やらないなら、やって失敗した以上の損失があなたにふりかかります。
そして、何百といった企業から不採用を受けるということは、あなたのこれまでの人生、あるいはそれのアウトプットとしての履歴書に、問題があると見るのが自然です。
ゆえに、ルーティーンで、手応えがないから、というのは単なるワガママであり、ひとつひとつの作業に問題点を見出し、効率化させていくという作業を欠いてはいけません。
それをすれば、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるかのような、アホらしい作業も少なくなるでしょう。
最後になりました。繰り返しますが、すべての失敗は非難されて当然です。その中から、許されるミス、許されないミス、詳細に分析し、次回の戦略に役立てましょう。
http://d.hatena.ne.jp/sadadad54/20110204/1296767950
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/sadadad54/20110204/1296767950
失敗は絶対に非難しない方がいいと思う理由
東大卒。自分はギリギリで東大理Iに受かったぐらいの大したことのない頭の持ち主だが、東大に入ったおかげで、色々な東大生を見ることが出来た。その結果、論理操作能力というのは極めて遺伝的なものであるという事実を知ることが出来た。東大の中でも頭がイイ奴は、特に、時間あたりに操作できる論理操作の数が常人の数倍は速く、常人より1桁正確だと思う。この事実を知ることが出来たことが、東大に入って最も良かったことの一つだと思っている。
お勉強が出来るだけでは社会に出ても役に立たないというのは、その通りだと思うのだが、論理操作能力が速くて正確なことは社会に出る上で非常に役に立つ。特に、議論で圧倒的に有利になる。議論って言うのは、実は、試験よりも速くて正確な論理操作能力が要求される。その場で返答しなければいけないからだ。試験だったら、その場でとっさに答えを思いつかなくても、「とりあえず置いておいて、試験時間終了間際にもう一度見なおしてみるか」といった戦略が取れるが、議論の場では、相手は何十分も返答を待ってくれない。その場で返答しないと意味が無い。
論理操作能力は遺伝的なものだから、訓練しても高くはならない。だから、論理操作能力が低い(才能がない)我々のような人間が彼らに勝つためには、「論理操作能力が高いヤツとは最初からマトモに議論しない」ということが重要だ。例えば、相手が持っていない情報に基づいて反論する。いくら論理操作能力が高くても、知らないものを知ることは出来ない。それから、論理操作能力が高いヤツの前では、自分のやっている仕事を面白そうに見せない。論理操作能力が高いヤツが自分の仕事を持って行くからだ。
こういう勝つ技術の中でも一番多く使うのは「自分の仕事に関係ないことは黙っておく」という技術だ。会議の中で自分より論理操作能力が高そうな人間がいて、その会議が自分の仕事に直接関係なく、意見することで何か自分に利益がもたらされるのでなければ、黙っておく。論理操作能力が高い人間の意見は高い確率で正論なので、しばらく放っておけば、そういう人間が会議を引っ張っていくようになる。
論理操作能力が低い自分でも、論理操作能力が高い人間が多く集まる東大という環境にいられたおかげで、こういう論理操作能力が高い人間の中で立ち回る技術を身につけることが出来た。人類の大半は、論理操作能力が低い人間だ。みんなで、共闘して奴らを追い落とそう。
追記:最後の文の「奴ら」は、論理操作能力が高い人達の事です。時間がたってから校正しないと、こういう曖昧性に気がつかないのが、僕の論理操作能力が低い証拠です。論理操作能力が高い人達は、即興で曖昧性の低い文章を書くことが出来ます。
また、「情報処理能力」の方が適当ではないかという意見がありましたので、「論理」「操作」能力とした理由を説明します。「論理操作能力」というのは、平たく言えば、「頭の回転の速さ」だと思ってください。
まず、「情報」ではなく「論理」という言葉を使ったのは、「情報」では、人に上手く質問して情報を引き出す能力や、ネットや本で調べる調査能力を含むような誤解を与えると思ったからです。そういう調べ物が得意な人は居ますが、その人の専門にもよりますし、信頼できる情報源をどの程度「知っているか」という知識の問題でもあります。例えば、法学部卒の人が法律に関することについて情報入手能力が高いのは当たり前です。一方、「論理」なら、こういった調査能力を含むかのような誤解は与えません。ですから、「情報」より「論理」の方が適切であると思いました。
次に「処理」ではなく「操作」という言葉を使った理由は、「処理」では、処理した結果何をアウトプットとすれば良いのかが明確に決まっている、という誤解を与えるからです。例えば、漠然と「何かいいアイデアない?」と聞かれた場合は、欲しいアウトプットは定まっていません。このような得たいアウトプットが明確に決まっていない状況でも、与えられた条件から「この条件とこの条件をこう組み合わせれば、こういうことが言えて(=こういうアウトプットが得られて)、嬉しい!」ということを即興で考えつくことが出来る人がいます。僕は、「論理操作能力の高い人」という言葉で、こういう人たちのことを指したかったのです。
例えば、車を操作する、とは言いますが、車を処理する、とは言いません。「操作」という言葉が、どの方向に進みたいかを決めることをも含んでいるからです。一方、「車をA地点からB地点まで移動するという仕事を処理する」ということは出来ます。処理するためには、アウトプット(目的)が最初から決まっていないといけないのに対し、操作することは、アウトプットを定めることも含んでいます。ですから、「処理」よりも「操作」の方が適当であると思いました。
ところで、この文章では、遺伝的と先天的を同じ意味で使ってしまっています。僕が言いたかったのは「先天的」の方です。先天的だからといって遺伝的であるとは限りません。また、論理操作能力が先天的であるということは、実際に東大にいて、多くの東大生を見てきて、僕が経験的に(帰納的に)知ったことです。また、僕は、論理操作能力の高い人が東大だけに存在するとは思っていません。どの大学でも、名前が知られている大学なら、上位何%かは論理操作能力が先天的に高い人だと思います。東大は、その「何%」が、1~2割程度になっているぐらいです。東大は、一般教養の代わりに、シンフリ制度(最初は全員教養学部に属し、1年~2年前期までの成績で、他の学部学科に転籍する進学振り分け制度)を取っているので、学部・学科によって、論理操作能力の高い人の全体に占める比率は大きく異なります。シンフリ点数の高い学科は、やっぱり、論理操作能力の高い人が多いと思います。シンフリとかシケプリ・シケタイ・シケ長とかいった言葉を知っていることは、僕が実際に東大卒である傍証にはなると思います。
追記2:
言いたいことが伝わってこない、という人が何人かいるのですが、そういう方は、どこが悪いか教えていただけると幸いです。理系出身なので、各段落の1文目をキーセンテンスにして書く点や、曖昧性がないように書く点だけは気をつけて書いているつもりです。文章が長い(冗長性が無駄に高い)のは、校正してないのでしょうがないと思っています。
追記3:
何で「論理操作能力」っていう言葉を定義しただけで、こんなに反論が多いのだろう。とりあえず、「論理操作能力が高い」=「与えられた前提から、単位時間あたりに論理的な推論を用いて導き出せる有意義な結論の数が多く、また、その推論が精確なこと」と定義しておく。単に論理的な推論がたくさん出来るだけ(=論理演算能力が高い)では、コンピューターの方が人間より優秀だということになってしまう。論理的な推論を重ねて、「有意義な結論」を見出さなければならないから、「操作」という言葉を使った。また、人間は推論を間違えることも多々あるので(例えば、A→Bが、議論を進めていくうちに、B→Aも成り立つことになっていたり)、推論が精確であることも重要なので、「推論が精確なこと」を定義に含めなければならない。
「コミュニケーション能力」とか「国語力」とか「人間力」とかよりも、ずっと精確に定義できていると思うのだけど、何でこんなに反発を食らうのか分からない。
追記4:
英語を使うと冗長すぎるって言われそうなのでやめておいたのだが、やっぱり、書くことにしてみた。操作は、"operation"の意味で使っています。"operations"のように複数形に出来ることが大事。まぁ、"manipulation"の意味でもよいかもしれない…これも、"manipulations"にできるからね。"control", "exploit"の意味では使っていません。
追記5:
頭悪いんじゃ無いのか。
さっきから君は他の馬鹿と比べても真剣に意味がわからないんだが、
君は一生懸命に論文なり作品なりをアウトプットして、まあ何十年かして死ぬ。
生きてる間に君自身が「いい人生だ」と思う、これが"自己の満足"だ。
仕事でうだつが上がろうが上がるまいが自分が満足してりゃ人生は勝ちだよな。
一方、赤の他人が君の業績を測って評価する。
研究がどれだけ革新的で学問を進歩させたか、作品がアートシーンにどれほど影響を与えたか。
これが客観的な君の"スコア"だ。
こんなもの、カンフル剤的な建て直しは幾らでもやれるだろうよ。
それこそ、独裁者が犠牲を強いて「その場だけ取り繕う」のはな。
で、それで満足なんだろ?
後のことは知らないんだろ?
俺独裁の政策は「後から取り返しがつかないもの」から優先してある。
さっきもそう書いたけどな。
独裁者を打倒して縛り首にしてももう元には戻らない。
独裁者は死後も墓にクソを掛けられるだろうが
日本を立て直すことには成功して死んだわけだ。
それぞれ「これはもっと早い・遅い時期じゃないの?」という指摘はあると思うけど、今回は個人的な主観で振り分けた。はてブや SNS で見かけるあの人や、身近なあの人がどの辺りに属するだろうと考えながら読むと面白いかも。
2011年時点の今書くとこんな感じだけど、それぞれの時期にどのインターネット上のサービスを使っているかというのは着目点ではないと思う。昔は SNS も RSS も、さらに検索なんて無かった時代でも、それが別のものに置き換わるだけで「知識を蓄え段々と発信者になっていく」という流れは大筋でずっと変わっていないのではないかと。逆に言えば、それぞれのフェーズに適したサービスがうまくこのインターネットの流れに溶け込めているんじゃないかと。
インターネットに初めて触れる。
どうやら自分は他人を見下すことでしか幸せになれない人種だったようだ。
今、どうしてもそれを認めなければならなくなって、どうしようもなく辛い。
美しいハッピーエンド物語では、他人の評価を求めすぎた作家が、『他人のために』と思い直す。
自分はそれと逆だと気づいた。
考えれば考えるほど、小さい頃からそうだった気がする。
小さい頃、絵を褒められて何を勘違いしたのかそのまま絵を描いていた。
延長として小説も作った。
ランキング1位の作品を見て、あの人のようにすばらしい作品を書けるようになりたいと憧れた。
憧れの方向が違ってた。
だから作品につける説明文はその内容よりも、自分がどうだったぐらいしか書いてない。きもい。
作品の内容を考える時間よりも、その作品を出したらどんな評価がくるか、ということばかり考えてた。ばかだろ。
ずっとそこを勘違いしていたから、「人の評価であなたの価値は決まらないよ」という励ましの文句でさえ、何故か心に響かなかった。
もしかしたら、創作に向いてない性格なんじゃないか。根本的に。
しかし、それでも、自分の作品がランキング1位で、コメントがああだこうだぐらいしか考えてない。
肝心の中身がない。
他の人がこれを言った時、ちょwwwwきめえwwwとあざ笑ったが、
考えた末にたどり着いた答えが他でもない、自分がそういう人間だった。
「あなたが、嫌いだと思っている人間の性格はあなたにとって悪いと思っている部分です」というのは正しいと思った。
そんなことはどうでもいいや、もう疲れたよ。
どこから間違ってた?
人と喋ってストレス解消が、理解できない。
友情も理解できない。
自分は死にたいんじゃない。人間の居ないところに行きたいだけだ。
人間っていうのは、悪口陰口叩きあいしたり、利益のために詐欺スレスレをやったり、変に固まっていたり、変に考えている生物を指します。
人間扱いされない場所、かつ生きていけるところがいい。
一日三食で少々の水分と、少しの散歩でいいよ。
やる気が出ないので、どうやったらやる気が出るかを考えている。
まぁ、僕自身のおきまりの逃避方法なんだけどね。
思うに、作業興奮を生じさせるためには、「何をやったらいいかわかってて、もう少しでできそうな感じ」
の状態を作ってやることがいいんじゃないかと。
ジグソーパズルと一緒だ。最後のあと数ピースを残して「飽きた」って言う人ってあんまいないと思うんだ。
枠がしっかり決まっていることで引き出せる快感があるのだ。
RPGもそうだ。ゴールが明確にわかっているから楽しいのだ。レベル上げも楽しいのだ。
つまらないなーって思うって事は、ゴールがぼやけちゃってるのかもしれない。
ゴールに依然感じていた快感を、感じられなくなってきているのかもしれない。
ゴールに、より快感を感じられるような、なんらかの工夫が必要だ。
その作業はなんのためにやってるのか。それが満たされるとどんなことが起こるのか。
ゴール自体が快感であればあるほど、その過程の作業に集中することができる。
一昔前は、エロ動画をダウンロードするために色々な知識が必要だった。
まずダウンロードしたファイルを解凍するソフトが必要だったり、
やっとそろえたと思ったらコーデックが足りなかったり。
そもそも、動画をダウンロードできるサイトをみつけるのも大変で、
でも、そういうくそめんどくさい作業を乗り越えて動画を再生してきたのだよ我々は。
これはまぁ、極端な例というか。
目的が持つ快楽、それに対する期待だけで作業をやりきれる希有な例というか。
こういう作業って、別に作業それ自体を楽しんでいるわけではない。
目的があまりにも魅力的すぎて欲求に直接的過ぎる。
それでも、まるで解決策がわからないばあい、いくら魅力的な動画だったとしても、
なんとなく、解決できそう、ゴールまで行けそう、っていう感覚が必要なのだ。
そういう直感的に「できそう」っていう感覚が無いと、行動が誘発されないのだ。
何かを作ろうというモチベーションも同じだと思う。
プログラミング。普通の人は、こういうアプリが欲しいなーというアイディアが浮かんでも、
それを作るためのプログラミングの知識がないから、まず、それを自分で作ろうという発想にはならない。
多分、「あ、これくらいなら自分で作れそう」って思えたなら、そういうアプリを作る過程は、
それはそれは楽しい過程になるはずなのだ。
だから、まずは「自分にもできそうだ」っていう確信を得るために、どうするかってことになってくるんだよね。
自分にもできそう、っていう確信が得られるくらい、自分の「道具」を増やしていく、っていうか。
そのための勉強が必要なわけだけど、つまりはこの「勉強」をするときに、
枠を作ってやればいいんじゃないの、ってことになってくる。
最終的な到達地点は、商品になるくらいのアプリケーションを作ることだとしよう。
まぁ、絵を描いて食っていくとか、そういうのでもいいや。
その到達地点をゴールに据えたところで、自分としては何もやる気にならない。
あまりに大きすぎるジグソーパズルを買ってしまってげんなり、みたいな。
わくわくするとかそういう肉体的な快感を引き出すためには、もっともっと、
自分自身にリアルで無くてはいけない。性欲ほどで無いにしても、
もっと今の自分の欲求に近づけてやらないといけないのだ。
例えば「とりあえず何か将来的に役に立ちそうな知識を身につけるべく勉強をしたい」
っていう、不安に背中を押されているような欲求があるとしよう。
だったらそれをまずは利用する。とりあえず勉強したいという欲望を。
でもそれだけじゃ足りないのだ。もっと直接的に、自分の欲求に結びつける何かが必要だ。
生産、そう。生産だ。アウトプットが必要だ。排泄が必要なのだ。
自分のやっていることに、プロセスに快感を感じるためには、どうしたってその途中途中に
排泄行為が必要になってくるのだ。中途半端でもいい。今の自分でもアウトプットできる何かを、
カスでもいいから排出してやる。その排出されたものを見る。臭いをかぐ。
ほら、自分の髪をかいたりしたあとに臭いをかぎたくなるじゃない。
自分の体臭をかぎたくなるじゃない。あれとちょっとにてると思う。
自分が排出したものを、自分で確認する。そのプロセスって実は快感なのだ。
見られた上に「気持ち悪…」とかそういうフィードバックがもらえるとしらもう最高だ。
もう、何かを勉強するならはじめっからアウトプットをこまめに実践するといいってことだ。
ほんの少ししか勉強してなくて何も生み出せないと思うかもしれないけど、
たしかに誰かに見せるようなものは絶対に生み出せないと思うけど、
それでもカスくらいはひねり出せる。
そういうアウトプットをこまめに捻出していく、っていうのが、
つーことはだよ。この発想を、日々のToDoみたいなのを考えるときに役立てていこうとすると、こうなる。
みたいな作業の決め方はやる気が起きない。インプットしかしてないから。
「○○を勉強することにより△△ができるようになるはずだから、今日は□□を作る」
みたいに、最終的にアウトプットの形でフィニッシュさせるといいんじゃないかと。
日記にはこう記す。
「今日はこれができるようになった。」
何々をした、とか、何々をする、とかでは足りないのだ。
自分が今日、それを実践したことによって何ができるようになったのかを
ほんのちょっと考えてやるといいんじゃないかな。
書きたいことも書けることも、とうに尽きたように思う。
それでも何かを言いたいとは思う。何かを言わねば前に進めないと思う。
誰の身にもならぬ、脳みそを通り抜けていくような根拠のない戯言しか言えない。自分ではそう思っている。
しかし気が向けば何か書きたくなる。ふと「アウトプットせにゃあな」と突き動かされるときがある。
真っ白なルーズリーフやレポート用紙に、作っては放置してきたネット上のブログに、こういう擬似匿名メモ帳に、
書いて何が起きるか分からない。何も起こらないことのほうが多い。
それでもこうしてローマ字入力し文章を書いているのはきっと、何かが起きるかもしれないという「可能性」があるからなのだ。
現状を変えたいが、体を動かし時間と覚悟を尽くして動く勇気がないゆえに、
頭と手だけを動かし、実際にいてくれるかも分からない読み手に向かって、届くか怪しい文章を書いている。
何かが変わるかもしれない可能性を生みつつ、申し訳程度の向上心があることを確認するために、自分はキーを叩いているのだ。
読み手にとって意味があるかは分からない。読み流して、次の日にはまた別の記憶で無意識に押しやってしまうくらいに、無意味である場合のほうが多いだろう。
それでもこの文章に何かを感じ、何かを見出し、何かを言ってくれる人がいる可能性があるのもまた確かだ。
読んでくれる人にはお礼を言わなくてはなと改めて思う。
あなたがここで日頃どう否定されてるのかわからないけど人違いだと思う。
そして本題だけど、
例えばアマチュアバンドの練習スタジオにわざわざ入って行って「やめろ!」みたいなのは間違ってると思う。
客観的に技能が低かろうが上達しなかろうが、それは本人達のホビーだし。
身内がその人達の発表会に言って一緒に暖かく拍手送るのもいいことだ。
つまり、アマチュアバンド否定増田の言ってることは俺もよくわからない。あなたと一緒。
で、元増田なんだけど、具体的に何のこと言ってるのか曖昧だけど
この人は多分前述の駄サイクルアウトプットを、望まないのに見せられてる立場の人なんじゃねーの?
その場合「いい加減にしろや」っていう言い分は俺はわかる。
あまりに下手なのに路上ライブ。それも週に3日通勤通学の途上に居る。
とか。
それでも、高校の時は努力を欠かさず頑張ってきた
根気よく物事に取り組まなくなってきた
twitterの人たちは有能な人ばっかりだった
もちろんそうでないひともいるのだけれども
有能な人たちは思考の仕方も根本的に違うし
要領の良さもくらべものにならない。
才能もある
そういう人たちに追いつこうと
努力しようと思ったけど、
それで後ろからは抜かれていくありさま
院に行こうと思ったけど、
駄目だった
モチベーションはあったものの
要領の悪さや才能がない、詰めが甘い
思いはある
どうしていったらいいのかなって思う
自分が面白いアウトプットしなきゃ幸福でも成功でもないんだよ。
たとえ別の方法で金も地位も手に入れてもね。
つまんない奴がアウトプットしてることが問題なんじゃなくて、
その玉石混交の状態がはっきり区別されて、
つまんないものは日陰にそっと置かれて晒されないような仕組みが重要で、
はてブもかつてはそのフィルタリングのために存在してたはずなんだけど、
今は目も当てられない状態だよね。
それと、つまんないものをアウトプットすること自体は何も問題ないけど、
「これはつまらない」っていう認識がないままずっとアウトプットしてたら、
クリエイターとしてっていうよりも人としてのコミュニケーションがまずヤバくなる。
まともなコミュニケーションができるわけない。
だから大抵の人はそこで気づいて改善したり、諦めたりするんだけど、
そこで気づけないで同じ事を続ける奴は才能がないとか、要領が悪いって以前に、
そういうヤバい空気を読めない。
だから、こういうやり方もあるよって薦めるのは全然間違ってないけど、
大半の人は放っておくしかない。
確かにマンガ家とかでも1巻はひでえ絵なのに45巻とかになるとかなりうまくなってたりするよな。それだけ書いたからうまくなったんだろうけど。
1、45巻を書いてる時点で1巻のことをどう思っているのか。タレントなんかだと昔の映像を恥ずかしがったりするけど(例:井森美幸ダンス)。
の2点なんだけど、人それぞれだろうけど、俺が予想するに
1、別に恥ずかしくはない
2、そのときは最高の絵が書けたと思ってた
だと思うんだよ。でもこれって本人が自覚できる部分の話であって、心の底では
2、1巻の絵を書いてるときも下手だと思っている
んだと思うんだよ。だからこそ! もっとうまくなりたいっていう向上心が生まれてうまくなったんだと思うんだよね。満足から向上心は生まれないと思う。自分に対して不満だったからこそ。
だから「実力が足りないことに無自覚でアウトプットばかりしたがる人」にも心のどこかで「今自分がやってることは初歩的なことなんじゃないか」という自分に対する疑問を少しだけでいいから持って欲しいと思う。
カラオケとかで下手なのに無自覚で歌いたがるおっさんとか。
才能無い人は才能無い方面でいくら行動してもダメ
「批判を受け入れないから成長できない」?
違う気がする
才能無い人はどんなすごい人のアドバイスを聞いてもピンとこない
結局そういうの聞けるのは才能ある人だけなんだと思う
つまんないのにアウトプットしまくる人達は精神論や姿勢論の信奉者だと思う
「ダメなものでも前のめりにアウトプットしまくる姿勢が大事!」みたいな
「失敗作を百個作れば傑作が出来るんだ!」みたいな
もしくはそれ以前に、自分のアウトプットがゴミの山であると気付けてないか目を逸らしてる
クリエイター志望なら首を括るか前のめりにドブに突っ込むしかないけど
もしお金や名声を目当てに頑張ってるつもりならば
自分達のつまんなさと向き合った上で自分で作ろうとするのをやめて
面白い人を雇う、お世話をする、みたいなポジションやシステムを探求したほうが建設的だと思う
「センスが無い奴は面白い人を見分けて雇うのも一苦労だろ!」というツッコミはあろうけども
センスが無い人が面白い人の良き世話役になると言う幸運の方が
まだその辺に転がってることが多いと思うよ