2011-01-11

自分のために書くからこそ、読む人には礼を

書きたいことも書けることも、とうに尽きたように思う。

それでも何かを言いたいとは思う。何かを言わねば前に進めないと思う。

誰の身にもならぬ、脳みそを通り抜けていくような根拠のない戯言しか言えない。自分ではそう思っている。

しかし気が向けば何か書きたくなる。ふと「アウトプットせにゃあな」と突き動かされるときがある。

真っ白なルーズリーフレポート用紙に、作っては放置してきたネット上のブログに、こういう擬似匿名メモ帳に、

何かを書かねばと言語野に支配されてしまう。

書いて何が起きるか分からない。何も起こらないことのほうが多い。

それでもこうしてローマ字入力し文章を書いているのはきっと、何かが起きるかもしれないという「可能性」があるからなのだ。

現状を変えたいが、体を動かし時間と覚悟を尽くして動く勇気がないゆえに、

頭と手だけを動かし、実際にいてくれるかも分からない読み手に向かって、届くか怪しい文章を書いている。

何かが変わるかもしれない可能性を生みつつ、申し訳程度の向上心があることを確認するために、自分はキーを叩いているのだ。

読み手にとって意味があるかは分からない。読み流して、次の日にはまた別の記憶無意識に押しやってしまうくらいに、無意味である場合のほうが多いだろう。

それでもこの文章に何かを感じ、何かを見出し、何かを言ってくれる人がいる可能性があるのもまた確かだ。

読んでくれる人にはお礼を言わなくてはなと改めて思う。

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