2011-02-11

数学は方法

東大数学博士に学ぶ数学世界 - 「数学は方法である」をめぐる談義

http://t.hash.bz/archives/2526249.html

読んで違和感を感じたことをいくつか。

一応言っておくと、僕はだいぶ昔に京大数学博士をとった。

身内にばれるのがいやなので、ここで書く。

目次

まとめ
科学とは何か
数学とは何か
「沈没系思考」とは何を言いたいのか
数学は方法である」とは何を言いたいのか
最後

まとめ

しい人が多いだろうから最初にまとめを。

数学」に対しては、見る立場によっていろんな見方ができる。

しかしなぜか(どうしてなのかは誰も分からないはず)

数学という方法を使うと世の中はうまく理解でき、予測ができる。

このあたりの問題は数学をいくら勉強しても分かるようになるわけではなく、

どちらかと言えば科学哲学の分野。

科学とは何か

議論を始める前に、科学とは何かという基礎知識が必要だと思う。

科学とは何かという問いは難しい問いだけど、

などがある。

例えば、科学と聞いて原子爆弾原子力発電所パソコンテレビ蛍光灯などを思い浮かべる人もあると思う。

iPhoneを見て「科学ってすごい」と思ったりするかも知れない。

これは科学という言葉製品そのものを指したり、それを作るための技術を指したりする場合

科学はなぜかそれらの製品を作ることにも応用できる。

それがなぜなのかは誰も分からない。

しかし、科学目的はそれだけではない。

一時期、「科学技術」か「科学技術」かでもめたことがあった。

今もそうなのかもしれないけれど。

科学にそれらの「技術だけ」を求めている人にとっては、「科学技術」なのかもしれない。

しかし、繰り返すが、科学目的はそれだけではない。

いや、「科学目的技術はない」と言っても良いと個人的には思う。

技術屋さんは科学を利用しているのであって科学を学んだり研究しているのではない。

科学目的は別の所にあると思う。

では、科学目的は何か。

いろんな意見があるかもしれないが、ここではいわゆる「理論」を作ることとしておこう。

では「理論」とは何か。

それは「現象を理解する方法」である

例えば、万有引力法則を考えてみよう。

今、「りんごが木から落ちる」という現象がある。

それはなぜか、理解したい。

いわゆる理論提唱される。

それは正しいかもしれないし、正しくないかも知れない。

しかしその現象を理解する一つの方法を提案する。

その理論はいくつかの長所を持っている

その理論を使えば、どれくらいの早さで落ちるかという予測ができるようになる。

それだけではなく、「りんご地球がひきあっていると考えれば理解しやすい」ということも分かる。

理論がなければ「りんご地球を引っ張る」という発想は生まれにくいだろう。

そのような新しい見方ができるようになる。

繰り返すが、それは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。

しかし、一つの理解する方法を提供する。

では、どうした自然に現象を理解できるか、ということが問題になるだろう。

実験という方法や、検証という考え方も自然に出て来る。

それらの方法を指して科学と呼ぶこともある。

このようなことを繰り返しているうちに、理論には一つのパターンが現れていることに気がつく。

それが、論理である

そして多くの場合論理数学は同一視される。

宇宙数学言葉で書かれている」と言った人があるらしいが、

数学は多くの理論自然な形で現れる。

そこで、次に数学とはどのような形をしているかを見ていこう。

数学とは何か

ここでは、証明とは何か、公理定義定理の違い、などについて説明する。

三角形内角の和が180℃であることを証明したいとしよう。

証明とは何だろうか?

たい言葉で言えば「間違いないと確信できる証拠」ということだろう。

例えば「彼女浮気していた証明」など、その人は「確信」するかもしれないが、

本当にそうかどうかは究極の所分からないだろう。

例えば、AだからBで、BだからCだ。

と言っても、Cが本当に正しいかどうかは分からない。

そこにはいくつかの危うさがはらんでいる。

最初の例では、「論理」が正しいかという問題である

三段論法は本当に正しいのか?

しかし、これを疑い出すときりがない。

次に、「AだからB」「BだからC」「A」などは正しいか?

何かを証明したいのは、正しいかどうかがハッキリしないからだろう。

そこで、正しいことから論理」を使ってそれが導ければ正しい確信できるだろう。

では、何を持って「正しい」とすれば良いのか。

場合によっては「私が正しいと思えればそれでいい」かもしれない。

しかし、誰でも正しいと信じられるものはめったにない。

そこで、数学では「最初にこれを正しいと仮定しましょう」とする。

この最初に正しいと仮定するものを公理という。

そしてその公理から論理」を使って導かれたものが定理である

その中で名前をつけるそれが「定義である

時々「公理が正しければそこから導かれた定理は正しい」と言ったりするが、

厳密に言えば「公理が正しく、論理も正しければ、そこから導かれた定理は正しい」となるだろう。

しかし、そうやって考えている論理は正しいのか?という疑問も起きる。

そこで、最初に正しいとこれはしましょうというできるだけ公理を定める。

論理公理に含めて公理と思うのが良いだろう。

こうして、導かれた定理がどれだけ信じられるかは、

公理がどれだけ明らかであるかによることになる。

もちろん公理が少ないほど導かれた定理が信じられるだろう。

数学とはこういう形をしている。

そうすると、科学理論もそういう形をしているということである

現象を理解するために、何か仮定を置く。

それを数学公理と見なして、数学的にいろんな定理を導く。

その定理をまた解釈して予測する。

実験によって予測が正しければ、

「その仮定」も「数学」もきっと正しいだろうと信じられるわけだ。

数学という学問理論の中からそのような「仮定」「実験」「予測」を取り去ったものだ。

時々、数学者は全く役に立たないことをやっていると言われることがあるが、

数学という学問には「役に立たせる」という目的はない。

それを使う人が「役に立たせる」だけのことである

「沈没系思考」とは何を言いたいのか

ブログの記事に戻ろう。

「沈没系思考」という言葉でこの人は何を言いたいのだろうか。

「一歩目から躓く」という表現からして、

上で書いたような「仮定」「公理」の部分でつまづいているのだろう。

つまり普通感覚で言えば、「数学」というものを使って理論を組み立てようとは思わない。

数学はとても抽象的だから

しかし、様々な理論に共通に現れているため、その部分を抜き出し、洗練させてきたのが数学から

それを使う人にとっては、数学を利用することはある意味はとても不自然なことになってしまう。

最初はその不自然さを受け入れる勇気が要るだろう。

別の言葉にすれば「数学に対する素直さ」である

僕の周りの数学者はこれらにとても慣れているので、

しいモノを定義した時にも素直に受け取ってくれる。

数学とはそういうものであることを知っているからだ。

この時、僕はベクトルの使われ方、柔軟性に驚いた。

要するに、対称が何であろうとも「ベクトル」にしてしまえば後は「ベクトル」を扱う数学世界ルールで加工することができて、

そのアウトプットをまた現実世界に落とし込んでくれば、

現実世界の事象に関して何らかの知見が得られる、というわけだ。まさに数学は方法、である。すげぇ。

正直なところ、「何を今更」と言いたいところであるが、

しかしたら多くの人の理解はこんなものなのかもしれない。

数学は役に立たない」とか言っている人の理解もそうなのかもしれない。

科学が強力な力を持っているように、数学科学理論の中で強力な武器である

この重要性はもっと声を大にして叫ぶべきなのかも知れない。

一般に学習者の目に触れる「数学」は、これらの個別具体化された「数学理論」であり、

その奥底にある数学世界の深遠さ、柔軟さ、恣意性にはほとんど気付く機会がない!

かに数学についてある程度理解していて、それを客観的に見られるだけの余裕がないと、

数学の強力さはよく分からいかも知れない。

ふむ、これを、どうしたら伝えられるのだろうか?

数学は方法である」とは何を言いたいのか

しかし、いくつかの誤解もあるようだ。

公理はその内部で論理的に矛盾していなければ(たぶん)どのようなものを定めてもよく、一緒に使われない複数の公理が相互に矛盾することもふつーにあり得る。

そして「定義」は、これから議論しようとする具体的内容、適用しようとする世界に都合の良いものを定めることが出来る。

かに数学では、どのような公理を定めてもよい。

しかし、そこから導かれた定理およびその解釈が、現実予測に合わないのであれば意味がない。

数学そのものの正しさは誰も疑わないだろう。

ならば、もし予測に合わないのであれば、その最初の決めごとが不適切であったということになる。

最初に現象を数学的にモデル化する。

ここで「なぜ」と問うことは意味がない。

「そうするとうまくいくから」としか答えようがない。

逆に言えば「そうするとうまくいくことを示す」必要がある。

もう少し厳密に考えてみよう。

例えば万有引力法則では各惑星質量はあるが大きさはない質点と見なす。

「どうして?」と問われれば「そうするとうまく行くから」というのは一つの答えだ。

しかしもう少し言えば、

「そう仮定しないと計算が難しすぎる。そう仮定すると計算が簡単になる。

 そしてその仮定した結果でもそれなりに精度の良い予測ができる。

 ならば現実問題としてはそのように仮定するのは許されるのではないか。」

ということだ。

これは「数学からの要求」と言えるだろう。

数学」を知らないと、この「数学からの要求」があることが理解できない。

からまた、最初に「なぜ?」と問うてしまうのだと思う。

最後

数学は強力な武器ではあるが、習得するのに時間がかかる。

から、ある意味必殺技のようなものかも知れない。

そして、その個々の必殺技はかなり用途が限定される場合が多い。

しかし、数学モデルという抽象化という考え方そのものが、

もたらす恩恵は莫大である

それは「科学」を学んだ人とそうでない人の違いのようなものだ。

数学というと「ベクトル」とか「線形代数」とかそういうものを想像するかも知れないが、

抽象化した見方ができるようになるというのが、実は一番大切だと思う。

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