はてなキーワード: グルーピングとは
集団の傾向というものはあくまでも集団にのみ適用可能なものである。
数万人にダイレクトメールを送る際に、年齢や職業で送る対象をグルーピングするのはありうる。確率的に成功すればいいだけだから。
一方で、目の前の一人を相手にするときは、所属するグループの傾向にはなんの意味もない。グループの傾向の差よりも個人ごとの差はずっと大きく、個人については何も事前情報はないと考えてよい。
片手で数えられるくらいの人数を相手にする場合なら、一人一人個別のモデルを立てても特に困ることはない。
集団の傾向に意味があるとしたら、一人一人を相手にするのがコストに見合わず、ざっくりとした理解でざっくりと対処するので十分なときくらいである。
「非エンジニア」
この言葉が嫌いだ。たまに使ってるの見たり聞いたりすると、モヤッとイラッとする。
確かに非エンジニアではある。それは事実だ。グルーピングするときにはそうなるだろう。
けど、この字面がイメージさせるのは「エンジニアあらざるもの人にあらず」というエンジニア中心的な考え方が裏にある。そう意識してるのかは別にして。
たとえば「非ビジネス職」とかでエンジニアの人たちが分類されたとしたら、気持ち悪くないか。
「非管理職」なら、管理職と非管理職は組織上の上下関係があるから分からなくもない。(それでも気持ち悪いけども)
けど非エンジニアはまさにエンジニアを頂点として、その下に他の職種が存在してるかのよう。実際エンジニアはすごいと思うと思うけど、それ以外のリスペクトを感じさせないこの言葉に吐き気がするのだ。
エンジニアを前に語っているとしたとしても、やめてくれ。伝播して、それが見えた時の気持ち悪さは耐え難い。一緒に仕事がしづらいよ。
悪いけど賛同できない。
ちょっと話が逸れるが、聞いて欲しい。
ネタバレしてしまうと、「キーチ!!」は一人の直情型のコミュ障の少年が電通によってカリスマにされるまでの話。
少女買春に腹を立てて、少女を買った権力者たちをぶん殴りまくってヒーローになる。
「キーチVS」は、在日米軍のひき逃げが大人の事情でうやむやになったことに腹を立て、権力者たちを拉致る話。
在日アメリカ軍司令官、経団連会長、前総理大臣を拉致監禁をやらかし、一転、テロリストとなる。
電通によってカリスマにさせられた彼は、電通によって悪の化身にされる。
日本国の主権を無視して、アメリカは富士樹海に焼け野原を作り、地上部隊を投入して主犯の主人公は銃殺される。
「あやまちは繰り返しません」という平和記念碑が爆撃地に建てられる。
おしまい。
というあらすじ。
さすがに、いくらテロリストがいたとしても、日本にいる犯罪者を日本の警察を差し置いて、米軍が始末するっていうのはどうかな?
それも、空爆とかね。
って思った。
アメリカもフランスもシリアに対して宣戦布告しているわけではない。
イスラム国に宣戦布告、といっても国として認知してるわけではない。
あくまでシリアの(テロリストがいると思われる)一部地域に対する空爆。
考えてもみろよ。
自分の隣に悪い人がいたとする。
それを警察が捕まえにくる。わかる。
軍が捕まえに来る。…わからないでもない。
他国の軍が民間人もろとも空から爆撃。…わからない。…わからない。
なりふり構わない行動に出ている相手に対して、なりふり構わない行動で返していいものだろうか。
世の中を変えたかったら、選挙で政権をとって、外交努力をして、それでもダメだったらきちんと宣戦布告をして、という正規の手続きをしていない敵だからといって、空から爆撃とかそんな非合法な手段をとっていいものだろうか。
フランス対イスラム国であるべきでも、キリスト教国対イスラム過激派であるべきでもない。
法治国家対テロリストであるためには、法に従った行動を取るべきだと思う。
正当な手続きすらとらずに自分たちを爆撃する異国の軍隊は、住民にとってはテロリストでしかない。
難民に紛れ込んだのではないか、だから難民を受け付けてはいけない。ということを言う人がいる。
フランスでは非常事態宣言をひかずにもモスクを閉鎖したり出来るように憲法を改正したいという。
そもそもは、反米政権は打倒されるべきとして、アサド政権打倒のためにはもISの勢力が増すことはやむなしという姿勢のせいなのは言うまでもない。
アサドとイランが目の敵にするISは敵の敵だからお目こぼし、という最初の理屈から大間違い。
さて、長くなったけど、そんなこんなで、私は加害者を憎み、被害者に同情する。
でも、フランスとかイスラム国とか宗教とか、特定のグルーピングで、彼らを支援したり、避難したりはできない。
kamikazeは第二次世界大戦の日本の敗北という歴史から敗戦国の愚かさを示すという差別性を有しているだろ。
そもそも日本人の行為を表すものに対して、テロという明らかに悪と見なされているものとを結び付ける行為は、「悪意のないグルーピング」では済まされないでしょうに。
そりゃ現実的に言えば、黒人が猿のように扱われてきた歴史によって差別性は生まれるんだけど、
喩え話としては、あくまで「黒という共通点によるグルーピング」の話だよ。
そこに差別性はないでしょ。
ふーん、そうなんだね。で終わり。
ママさん同士が、夫の年収でヒエラルキーみたいな、ニュースを聞くについれ、イジメと差別は無くならないなと思ったよ。
イジメと差別をなくすんじゃなくて、そういう子(イジメを扇動する子と、イジメのターゲットに合いやすい子)は中央に集めちゃう。
地方から人をどんどん中央に集めていく。差別なく住所で学級を作るのではなく、区別をして同じ考え方の子を集めて学級をつくらないとダメだなと思ったよ。
学区という考え方が、イジメの元だ。 住所では正しく子どもたちをグルーピング出来ない。(場合がある)
特例的に学習速度の早い子、遅い子。5教科以外の才能を持っている子は、若くして同じ集団に集めないとダメだ。いじめの対象になるし、本人も周りも、百害あって一利なし。
教員の問題ではなく、学区の問題だ。
電子書籍議論が華々しいけど、どうしても僕は納得がいかない。なので、一度某所に名前付きで書いたものを、少しでも騒ぎになってくれる事を願って、編集してここに掲載する。僕が誰かわかった人は、黙ってくれるとありがたい。
まず、今の電子書籍に対する不満は、そもそも今の電子書籍の環境じゃ、生涯付き合えないということ。iBooks程度のインターフェイスだって、100冊もあれば面倒な事が多い。検索機能も無い、それ以外のツールはもっと酷い。生涯付き合うなら一万冊の管理をこなせるようになってほしい。一万冊というのは、読書家の一生を考えれば、決して無謀な数字じゃない。数代続く学者一家ならそれくらい書庫にあったりしてもおかしくないし、図書館で借りたりすれば、10歳から60歳までで一万というのはあり得る数字。マンガを買い込めば、普通の人でも数千冊は読破可能。
これくらいでも、一万冊と付き合うのは難しいだろうけど、ひとつひとつの機能は決して難しいとは思わない。
また、書籍自身も単なる複製で終わってしまっているので、これも不満。例えばこんな機能があってもいいはずだ。
要するに、紙だと必然的に対処せざるを得ないものを排除して、今まで頭を使ってこなしていた事を電子側でこなしてほしいのだ。
特に歴史物だと、今自分が読んでいる箇所がどこの場所で、いつの年代かがわからなくなる。紙の場合は、巻頭または巻末に資料があるけど、電子であれば、読んでいる場所からその場で呼び出せるようになってほしい。もし小説のネタバレをするようなら、進行状況に合わせて内容を変化させれば良い(既出の地名だけを表示する、など)。
こうした機能はゲームならおなじみで、主人公の位置をマップで示したり、あらすじが進行中に挟まって後から確認すると言った事が出来るけど、今の電子書籍は全くそういうことを学んでいない。これじゃ、値段を下げるくらいしか売り方が無い。こうした機能がつけば、同額か、値段を上げたって問題ないと思うくらい。元々文庫やマンガは安いので、これ以上値段を下げる議論なんてしていたら、業界自体が死んでしまう。付加価値で勝負してくれた方がよっぽど良い。
たまに「やっぱり紙の方が良い」という議論があるけど、決してそんな事無い。引っ越しでダンボールの中に蔵書がまぎれたり、本棚を二重に組んで取り出せないとか、紙の不便さは山のようにある。問題は、それを電子書籍が解決していない事だ。イノベーションでも、顧客需要でもなく、惰性で電子書籍に取り組んでいるからいけないのだけど。読書家の皆さんは、もっと声を大にして「紙は不便」と言おう。
http://anond.hatelabo.jp/20110709123151
http://anond.hatelabo.jp/20110716093416
組織的なセルフブクマは、現実の序列を越えて、注目される存在になろうとする手段。
はてぶで、組織的なセルフブックマークを繰り返すとはてぶスパムになるし、インターネット全体で組織的なリンクの受け渡しをするのも微妙だよね。
はてぶを作ったときの想定としては、インターネットは一人でするもの、友達の影響を受けるかもしれないけど、同じ感性で共感できたから面白いので、ブクマとだれかの感性をフィルターしたものとして、1ブクマだった。
仲良しグループ、有名になりたい会社などで、共感フィルターを通さずに継続的に一定数以上のブクマがされる状況って、はてぶの機能としての限界だったのかもしれない。
ソーシャルな流れで、自分と感性のあったブックマーカーをさがすといいと言われている。その人ブックマークを参考にすれば、共感できていないものはフィルターをすり抜けない。特定の人のブックマークを差し引く機能とかグルーピングランキング機能とかをはてなさんなら実装しそうな気もする。
統計的な路線から人を媒介とした路線に移ろうとしているのだろうけど、もともと、人為的なサクラ行為を越えた、おもしろいものやムーブメントを探すための統計的技術だったはずだった。
けれども、そんなにおもしろいものは日常の中にはなかったのかもしれない。
10年以上前のインターネットだったら、たとえば、「ニセ首相官邸」なんていうわかりやすいニセものパロディサイトがあったとしても、検索上位に存在できたけど、今となっては、Googleのフィルタリングで、そもそもにせものは検索結果の最下位に甘んじるしかないのだろう。
当時は、Googleで、表示されなくてもYahooもあったし、Altavistaだの、東芝のFleshEye、NTTのGoo、千里眼とかいろいろと検索サイトを選択する余地があったので、まだよかったのかもしれない。検索サイトごとにルールや規約がちがっていて、別の序列が表示されたからだ。
現実社会とは別の序列が存在したころは、インターネットはフロンティアだった。現実社会とインターネットの序列が同じになったとき、わざわざインターネットでヒマをつぶそうと思うひとはなくなるのではないだろうか。
某国産携帯向けSNSで、会社の社長に会ったら、すっごいゴージャスなアバターでベンツに乗って女の子たちにちやほやされてたとしたら、それでも平社員の増田クンは、某国産携帯向けSNSに遊びにいくのか。
インターネット上で正体がわからないけどおもしろいものが存在できないようになってくると、組織的なセルフブックマークをしている個人も組織も現実の序列の中に戻っていくしかなくるのかもしれない。そんな人や会社が現実にもどってみると、普通の地域情報紙だったり、しがないライターだったりするのかもしれない。組織的なセルフブクマは過渡的なもので、世界中の情報がすべてインデックスされてしまっときには、意味をなさないものになっているのかもしれない。
とはいえたいていの人間は高校のときに受験偏差値をたよりにしてくるし、東大合格者(下手すれば早稲田慶應レベルでも)が出れば学校掲げて大喜びするとこだってある。
というか受験偏差値気にしないなんてのは余程のことがない(気にしなくても関係ないほどの進学校)限りは学校の評価や親からの期待もあって結局受験偏差値は指標になるし、じっさいそれですべてを見てる人の方が圧倒的だということは、いまだに前世紀の日東駒専やらMARCHやらの大学グルーピングが機能していることからも伺えよう。
何番目の帝大だろうとそこらへんは頂点にほど近く、そういうところには有能な人材ばかりが集まってくるのだ。ディスカススキルが高い奴も多く集まるというモノ。
帝大でダメならそれ未満は言わずもがな、これが基本。
まあそんな東工大な僕もディスカッションしてる相手が女性でおっぱい大きかったらそんなことよりナンパしたいぐらいなんですがね、いかんせん顔が
呑んで、風呂入りながら呑んで、考えたこと。
とりあえず、現在時間でこういうことは考えたよとログを残したく、でも、素性が割れてしまいたくないので、
たいしたことではないけれど、匿名ダイアリーで書かせていただきたく。
話は2点。
一点目は、恋愛について。
仕事の関係で、10人くらいで飲み会があった。内女性は2人(どちらもアラフォー?)。一人は面識あり、その人と雑談で、「車の助手席に誰も座ってないんですよ」「私が座ろうか?」「(この流れなら次の展開は…)お願いしますww」「(笑)」となって、後に「お願いされちゃったよ(そんな選択肢ないだろう)(笑)」ってもう一人に言っていた。
まぁ、確かにちょっと無いなぁとは思ってたけど、この話の前とか、募集してるような話し方の気がしたから半分冗談、半分本気(姉さん女房希望)で言ったんだけどなぁ。まぁ、無いとは思っていたのでいいのですが、雑談を本気と捕らえてはいけないと実感した次第です。(逆に、雑談としてならもっと積極性を出したほうがいいのか>俺)
二点目は、人間関係について。
確認は出来ていないが、実姉に子供が出来たっぽい(30日に会うのでそこで断定できる)。
自分から近い(心を開いている?)位置に家族がいる(父、母、姉)。父と姉は軸は違うが、同じくらいの距離にいる。母は父と姉の中間くらいかな。それより距離の少し遠い所、(位置としては父の反対側に?)義兄が最近登場した。その外側にサークル、高校、大学、小学、中学の知り合いが方向不明で居る。子供は義兄と姉の中間あたりに居るのかなと考えた後、知り合いの位置について思いをめぐらせた。
知り合いって殆ど所属でグルーピングして配置しているなぁと。高校の知合はどんなに大学の知合よりでも高校の知合の領域を出ないなぁと思ったんだ。たとえば、知合の中で会計を任せられる人を考えた時、一位は○○で、二位以下は○○と同じ所属の奴ら、他の所属の人はランク外という感じ。
それはやはり自分の中で、各個人を見ていないということも含まれていると思った。
あなたがそのような基準で判断するのがどうしようもないのは事実だが、
それを堂々と主張すれば批判を受けるのは当たり前だろ。
「ある黒人にひどいことされたから、黒人はみんな悪人だと思うことにします」
と言ったとして、そう思うのは勝手だが、
「黒人はみんな悪人」ってのは違うよっていう批判を受けるのは当然だろ?
また、ある女にひどい扱いを受けたきっかけで、「女はすべて敵、魔物」って言っていたとして、
その女がひどいのは事実としても、それを「すべての女」に広げるのは偏見でしかないだろう。
こういうと「黒人」「女」と違って、「非コミュ」は実質的な差異を伴っていると言われそうだが、
根拠はなんだ?
他の「非コミュ」からすると、そいつは、そういうひどいことをする「非コミュ」なだけで、
自分は違うということになるだろう。
そのようにグルーピングされて「情報を受け取る側は、自分が同じ危険に遭遇しないよう、それを避けるための判断材料が欲しい」
などという理由で排除されるのはまっぴらごめんだろう。
そのように判断されるのが「仕方のないこと」なのは否定しない。
だが、こうやって批判を受けるのもやはり「仕方のないこと」だな。
なぜなら、ひどいことをする属性を持つ人として括られるのはまっぴらだからだ。
あなたが非コミュに好意的に接しないのは、あなたの勝手にすればいいが、
※追記
これは違うよ。
生まれ持ったもの、生育環境、そして自分自身が選んだことの3つから決まることであって、
すべて個人の選択によるとかいう性質のものじゃない。