はてなキーワード: キリスト教徒とは
1 人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「倫理にもとる行為」「倫理観」「政治倫理」
2 「倫理学」の略。
私は全人類が共通して守るべき倫理があると信じる者だが、それがどのような内容なのかは分からない。
キリスト教徒にはキリスト教の倫理があるだろうし、イスラム教徒にはイスラム教の倫理があるだろう。
同様に日本人には日本人の倫理があり、アメリカ人にはアメリカ人の倫理があるはずだ。
「倫理観のアップデートを」と書いてあるが、それはどの倫理規範を指すのだろうか?
それぞれがそれぞれの倫理を尊重する表現をするならば、それは現状と何ら変わりがないだろう。
ふと、社会人デビューする前にこれを吐露しておくと肩の荷が下りる気がしたので下ろしておくことにしました。推敲は一切しないので悪しからず。
自分は小学校の時、音楽の授業での合唱に何故か強いモチベーションを持っていた。確かあの時はパヴァロッティの演奏のビデオを見たり、ソプラノ歌手のものを見たりしたかと記憶してる。それでもって家に帰るや否やソプラノ歌手の声真似をしようとしていた。声が変わるとそれは厳しくなって少し苦悩はしたが、声は大きかったことと中学に混声の合唱部があったこともあって真っ先に合唱部を選択した。
中学で3年テノール(バリトン寄り)を歌い続けたのは自分にとって一番長い合唱経験になっている。
高校に入るとき、自分は先行き不安定な歌で身を立てる訳にはいかないだろうから、と合唱から距離を置いて勉強に勤しもうとした。が、これにいくつかの失敗を伴った。
合唱から距離を置いた結果中学の合唱部時代の同期達と疎遠になった自分は荒れた自称進学校で格好のストレスのはけ口だったようだ。合唱に勤しみすぎたのか、自分には頼れる人間が合唱部の同期の他にあまり多くはいなかった。それどころか一部の同期には大分冷たい目を向けられていたように今は思う。ただその一方人数合わせに先輩に呼ばれて一度だけステージに立ったこともあった。
高校を出る頃から今まで、自分は合唱から距離を置くべきだったかどうかについては結論が出ないままでいる。そしてこれからも出ないと思う(こういうことを吐露したかった。)
2年を経て上京して、大学に入った際、大学のグリークラブが一曲入学式で歌っていた。ゆるそうな雰囲気を感じてここならやっていけるかと思ったが、ここで思いのほか高い壁に当たった。ミサの聖句の一つ一つが余りにも自分にとって重い物になっていた。かつて中学の頃は文章の意味を追いかけて、恐らくは絵本程度の世界を思い浮かべることが限界だった。大学に入って、あまりにもミサの聖句は苦しいものだった。半年持たなかった。
それから翌年、中学の同期と後輩に呼び出されて歌った。これは昔ともに歌った人間も居て勝手も分かりよかったのだが、やはりミサの聖句は重かった。しかしミサが一番ウケがよかったのも事実だった。結局、1年半ほどたったところで仲たがいしてしまい、それっきり今に至る。
結局自分にとってミサは何だったんだろうか。家は浄土真宗本願寺派と日蓮宗の両親の下に生まれ、それなりに二人とも経を唱える程度のことはし、自分もさせられた。そんな家で育った自分にとって、若いころはミサはもう一つ、どこか別のところで誰かが信じている神の姿を描こうとするものだったように思える。つまり、そこに神は、自分の中では居たように思う。
しかし、恐らくは不登校と化して自傷まがいなこともやっていた(出席日数もギリギリだった)高校時代辺りが節目だったかもしれない。
大学時代に歌うミサは自分にとって余りにどう歌えばいいか分からない、そんな曲だった。旋律を美しく仕上げることは、特に死ぬほど練習した中学時代の勘が多少なり働いてくれる。でもそれだけだった。曲が自分たちを支えている。しかし支えられる自分が何も描くことが出来ないような空虚感があった。神はもう居なかったように思える。
それなりに人を信頼して生きていた中学時代、人を信頼しなくなった高校大学時代ではあまりにもミサに対してモチベーションが違った。
1日経って、やはりある程度肩の荷が下りているのを感じているところです。
思いのほか拙文を人が見ていたので幾分かの追記をしておこうと思います。
グリークラブ=聖歌隊なんだから今思えばバカをしたなと思っています
ではないんですがかなり出身校に偏りがあり、出身の中学から90人程度、ほかの中学も10~30人程度の塊で進学して来ている人が殆どで、既にその中でコミュニティが存在しているというのが実情でした。後東〇予備校に9割の生徒が通っていて、金銭的事情でそういった所に所属しなかったのも大きいかもしれません。
今の自分の思想は無神論に寄っていて、神を熱心に信仰している他人が不思議に思えてしまうのです。
それに、ミサはKyrieなどがそうですが、「私はあなた(神)を讃えます」みたいな内容、つまり信仰の告白を歌詞に含む曲が多い以上それを非キリスト教徒が歌うことに疑問符を隠せないでいます。
言われてみると、合唱と神というスコープを通して興味関心が少しずつハッキリとしてきた人生かもしれません。少なくとも信仰は無神論寄りになって、クラシックな合唱からは足が遠のいているのが実情ですが、時には歌を歌う人、神を信じる人の気持ちを感じる機会を得られればと思います。
つまりだな、世俗化っていうのは、宗教を信じる理由そのものが減じたことによるものだと思う。
多くの人は親から宗教を受け継ぐ。だから今でもキリスト教徒がいるし、子だくさんの国のイスラム教徒は増える。
しかし、例えば、宇宙の真理が知りたいから新たに教会に入門しましたっていう人たちはどう考えても中世頃と比べると減るよね。むしろ宇宙の真理を知りたいと考えた宗教者が無神論者に転向するルートもある。
そこまでいかなくても、親が宗教に熱心すぎるのに引くから子は軽い宗教者になり、孫は全く宗教を信じなくなる、とかね。
ミーム的な意味での世代交代が明らかにうまく行かなくなっているはずである。
これは科学に触れた人が信仰を失う、という話とは全く別なので、実感が得にくいかもしれないが。200年ってスパンにしてみたのは、世代交代を含めた長いスパンを経れば、という意味だ。
キリスト教徒は本当にこういうことを言い出す人がたくさんいる
https://hyperlapsepro.zendesk.com/hc/gol/community/posts/360042770253-01-04-2020-Солдатки-4-серия-качество-HD-от-1-апреля
https://hyperlapsepro.zendesk.com/hc/sos/community/posts/360042769013--Три-капитана-9-серия-01-04-2020-качество-HD-от-1-апреля-
https://hyperlapsepro.zendesk.com/hc/sos/community/posts/360042770133--Карпатский-рейнджер-21-серия-01-04-2020-смотреть-онлайн-в-хорошем-качестве-
https://hyperlapsepro.zendesk.com/hc/gol/community/posts/360042564414-01-04-2020-Три-капитана-7-серия-смотреть-в-хорошем-качестве-от-1-апреля
https://hyperlapse.zendesk.com/hc/en-us/community/posts/360042570314--Паромщица-7-серия-01-04-2020-смотреть-в-хорошем-качестве-
https://hyperlapse.zendesk.com/hc/sos/community/posts/360042777673-01-04-2020-Ничто-не-случается-дважды-2-сезон-5-серия-хорошее-качество-смотреть-от-1-апреля
https://hyperlapse.zendesk.com/hc/sos/community/posts/360042569934-01-04-2020-Паромщица-5-серия-смотреть-онлайн-в-хорошем-качестве-
https://hyperlapsepro.zendesk.com/hc/sos/community/posts/360042563914-01-04-2020-Карпатский-рейнджер-22-серия-качество-HD-от-1-апреля-
https://hyperlapse.zendesk.com/hc/sos/community/posts/360042775433--Паромщица-3-серия-01-04-2020-хорошее-качество-смотреть-от-1-апреля-
フェミVSオタクみたいな構図よく見るけど、根本的に価値観違う人と戦ってても成果上がりにくくない?
別にオタクのやることに異議をとなえるななんて言わないけどさ、そこをメインにしてもダメでしょ
LGBT団体が過激派キリスト教徒に戦い挑んでるみたいな、まあたまにならバトってもいいけど、そこを攻めたとて向こうも強い意志と正義を持って差別してるんだから無駄足になりそう感
そこ攻めるより先に女性内の啓発したほうがよくない?
「フェミはどう考えても正しい思想だからなにもしなくても女性内にはそのうち広まるだろう」という傲慢がインターネットのフェミニズムには蔓延しすぎてると思う
女オタク界隈一つとっても、BLで女性を「能無しの邪魔者」記号にしてる人やら、アイドルの交際相手の見た目やら「ふしだらさ」をたたきまくる人、そうやって内側から女性の尊厳を傷つけている人たちをフェミも見たことあるでしょ?
別に「女の敵は女」だとか「フェミはジェンダー問題のすべてに関われ」とかそんなアンチフェミみたいなことが言いたいんじゃない
そこら辺への注意を「同性に嫌われたくない」「女の子だからなにか事情があるはず」みたいな言い訳してほおっておいてる限りフェミニズムは女性内のマジョリティにすらなれないんだ
フェミニズムは絶対的に正しくて女性は絶対にそこに向かうって信じてるなら、そこと逆へ行く女性への注意や啓発を反発を恐れずにしなきゃだめなんだよ
そこら辺の活動を積極的にせずに派手な議論である「オタクたたき」ばっかりやってても敵ばかりが増えていって世界なんかかえられやしない
鶏は江戸時代から食用となり品種改良や料理本が出るようになった
戦国時代にはキリスト教徒のポルトガル人が西日本へ来航し、カステラやボーロ、鶏卵素麺など鶏卵を用いた南蛮菓子をもたらした[42]。江戸時代初期の寛永4年(1627年)にオランダ商館一行が江戸へ参府した際には道中でニワトリと鶏卵が用意されたという[43]。
江戸時代には無精卵が孵化しない事が知られるようになり、鶏卵を食しても殺生にはあたらないとして、ようやく食用とされるようになり、採卵用としてニワトリが飼われるようになった。寛永3年(1626年)に後水尾天皇が二条城へ行幸した際には鶏卵を用いた「卵ふわふわ」が出され[44]、寛永20年(1643年)の料理書『料理物語』では鶏卵を用いた各種の料理や菓子が記されている[45]。また、江戸初期には海外交易が盛んとなっており、朱印船によって軍鶏、チャボ、烏骨鶏が日本へと移入された[41]。
江戸時代中期以降、都市生活者となった武士が狩猟をする事が少なくなり、野鳥があまり食べられなくなり、代わって鶏肉が食べられるようになった。文化年間以降京都や大阪、江戸において食されるようになったとの記述が「守貞漫稿」にある[46]。料理書において鶏肉・鶏卵が登場し、1785年には「万宝料理秘密箱」という鶏卵の料理書も出版されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%AF%E3%83%88%E3%83%AA
ある宗派の僧侶でしたが先日めでたくキリスト教徒となりました。
日本では少数派ですが、教えをしっかりと守り修道院生活を続けるものです。
改宗する前の私は僧侶が妻帯することは絶対的に反対派で積極的に宗内に働きかけてきました。
変じゃないですか?戒律で決められている以前に僧侶は布施で生きる乞食なんですよ?
巷では子どもが欲しくても1人が限界という生活の中で、豪華な結婚式を挙げて何人も子どもを産むっておかしくないですか?
それって全部お布施なんですよ?肉食妻帯している中で会議では檀家離れを問題にしてばかりで自分たちの行いの1つも省みない。
突然すべてを変えるのは混乱を招くので、まずは宗派を代表するような立場となる最低条件として不妻帯を提案し続けました。
ある時、突然に仲の良かった僧侶たちが私との接触を避けるようになりました。
同じく不妻帯を貫いていた僧侶が「部長級たちがお前との接触を避けるようにお達しを出した」と告げてくれました。
また上級職からは「身の振り方に気をつけろよ」「不妻帯しろって俺に言えるんか?おお?」と直接言われたこともありました。
管長や長老というものは既に世襲化し、本山は一部の有力寺院の私有財産化してしまい、もはや手遅れだったのかもしれません。
上級職の息子が不倫しようが色恋沙汰で喧嘩をしようが、エスカレーターで出世していきました。
誰も咎める人もおらず、私が僧侶以前に人としての問題であろうと言っても無駄でした。
ある時、ある僧侶の結婚詐欺をしかる機関に相談したことがありました。
女性は突然に別れを告げられ、翌日にその僧侶は別の女性と結婚。
彼は女性に対して結婚すると告げ、自分のお寺を持ちたいからと女性から数百万円の借金をしていました。
大学から何年も付き添ってきた40歳近い女性を捨てて、その僧侶は師僧が紹介した若い金持ちの娘を選びました。
その女性は心身ともにボロボロで、見る影もないほど別人と化してしまいました。
翌日、私はその僧侶の師僧(本山の塔頭寺院住職)に呼ばれて次のようなことを言われました。
「お前やろ通報したの。まあ宗教内部の問題として外部権力なんて入られへんからな、覚えとけよ」
僧侶が不妻帯なのは当然なのではないですか?カフェを開いたり客寄せをする前に僧侶としての生き方を貫くべきではないのでしょうか。
もう僧侶として僧侶というものが分からなくなっていたとき、古いキリスト教の修道士の友人に相談しました。
お前に何があっても全力で守ってやる。
お前の求める道はヨーロッパの修道院にあるから手紙を書いてやる。
そこでは手を取り合いながら厳しい戒律を守って生活をしている。
お前にはそういう場所こそ相応しい。
そう言われ、見学をさせてもらって晴れて修道院生活をすることになりました。
仏教が悪いわけではなく、それを運用する側に問題があったんだと思います。
今でも仏教は好きです。
プッチーニのオペラ《トスカ》の第一幕は、スカルピアが教会で一人トスカへの邪な欲望を歌い上げるなか、聖歌が響き渡り幕が下りる。《テ・デウム》と言われる名シーンだ。
https://www.youtube.com/watch?v=tgWW6o1y9xI
このときスカルピアは「トスカ、お前は俺に神をも忘れさせる」と叫ぶ。これは、神を忘れなければ非道をなしえないという、彼の拭い切れない信仰心の残滓を感じさせる言葉である。オペラ最後で、トスカは「スカルピアよ、神の前で会おう」と言って飛び降りる。トスカと並んで神の前に立ったスカルピアの心中や如何。忘れ去ったはずの神を目前にして、彼の良心は傷んだのだろうか。
職場にキリスト教徒のフィリピン人がいる。こいつが、ちょっとした不正行為を行って、しかもその協力を俺に要求してくるんで困っているのだ。1回数百円程度の不正で、頻度も多いわけではないが、他の同僚にも協力してあげなよ的なプレッシャーをかけられるし、本人も当然のごとく不正の協力を要求してくるので断りづらく、ズルズルとやってしまっている。やってはいるが、不愉快でもやもやしている。その不正を自由にできる立場にありながら自分はやらないのは、それが不正だからだ。信仰心のある人間よりない俺の方が倫理的だというのはおもしろい話ではある。しかし不思議なのは、その不正行為を行っているとき、彼の神はどこにいるのだろうかということ。神の前で恥ずかしくないのだろうか。それとも神が不道徳であるとか盲目であるとかが想定されているのか。ひょっとしたら「数百円、お前は俺に神をも忘れさせる」なのかもしれないが。
まず、子供ができると特に日本においてありとあらゆることが出来なくなる
就職だってそうだし、出産までお腹そのままなら学校にもいけなくなるし、田舎なら周りの目が耐えられなくて転居もすることになるし、そもそも出産の痛み苦しみ、出産に伴う死の危険だって全部女のものだよ
いっときの快楽のためにきちんとゴムつけない男の子の責任がほとんどなのに、(ゴム外せよ!って言う女はそうそういないので…)実際は女が苦労するんだよ
結婚した後だって、育てるのに一人2000万円、離婚したら養育費払ってない人がめちゃくちゃ多い世の中で、シングルマザーの貧困とか散々言われてるのに、ポカポカうめないでしょ
無敵の人が子供を大量レイプみたいな事件起きても、みんな産むってそんなのおかしいよね?奥さんとか子供、レイプされて泣いて鬱になってでも産ませてじゃあ国が育てますんで!って鬼畜の所業じゃない?お母さんレイプされて弟できたせいで家庭壊れたら嫌でしょ?
自分は堕胎したことないしこれからもする予定はないけど、権利としては認められるべきことだと思っているよ。
だから、そもそも堕胎させる状態を作らないことが大事だと思う。
男女共に絶対にゴムつけさせるようにめちゃくちゃ教育して失敗したらアフターピル飲むとか、孕ませて逃げようとしたら全財産没収かつ望んだら結婚とか、そもそも何人産んでも育てられるし仕事に復帰できるような制度にするとかね。ここまでするならレイプ除いて堕胎禁止に賛成だわ。
ふとした事で子供の名前を沢山見るきっかけがあったんだけど、その中で驚いたのは
「ノア(字は色々)」
という名前が、女の子の名前に使われている件が、非常に多かった事。
人命ランキングで上位に来ている凜とか陽菜とかよりも多いんじゃない?っていうくらいに多かった。
ノアっていったらノアの方舟のあのノアじゃないですか。旧約聖書の創世記の!
なんでキリスト教の預言者の名前が日本の女の子の名前にこんなに多く使われているんだろう?意外とキリスト教徒が多い?
えーと、これって娘に人類を滅亡から救う救世主に匹敵するほどの偉大な人物になって欲しいという想いを籠めて付けた名前なのかな?
壮大な願いだな…。