はてなキーワード: アピールとは
最終週に当たる今回は「見た目が汚い」というテーマで、アンガールズの田中卓志と山根良顕が登場した。
「見た目が汚い」と聞いた山根は「気持ち悪いとは言われますが、汚くはないんじゃないですか?」と反論。田中も「私服も必死できれいにしてますし、毎日お風呂に入ってピカピカです!」と、必死に「汚くない」アピールを展開した。
まさに清潔にしてるのに清潔感がないと言われてきたのがアンガールズですよね
一切の脈絡が皆無。ネタバレも全部する。思い出した順に書く。たまに自分語りも遠慮なくしてる。全部乱文。
一応高校〜大学でずっとラヴェルを弾いていた身なので、伝記的要素を含む部分についてはほとんどが「史実により既知」であり、8割がたネタバレを喰らっている状態。その中で「例えシナリオが外れても、余程地雷を踏まない限り彼作曲の音楽がずっと流れてるっぽいからそっちで楽しめるしな」という期待半分、保険半分。
結果としては大当たりだったけど。
初っ端から病気(史実)。開始10分程度でサラッと彼のバックグラウンドとルーツのおさらい。ローマ大賞の落選。「お母様はスペイン?いえ、バスク人です」。15分で作曲依頼を受けるスピーディー加減。ラヴェルがちゃんと包み隠さないマザコン(史実)。時代設定的に正しい、遠慮のないタバコ演出。モクモクしてない時がないのでは?
音の演出。「全てがリズムから始まる(トントトトン)」がキーワードで、机を叩く指、時計の秒針(規則正しく、まるで体に染み込ませるかのような1秒刻みを60回)、教会の鐘の音、ザーザーという雨音エトセトラ、エトセトラ。猫が布を引っ掻く音、床の軋み、風、そういったありとあらゆる身の回りの生活音からすら、「音」とインスピレーションを拾おうとする彼が印象的。
何より工場の機械音、壮大で、規則正しく、統一感があって、それで彼のルーツにも関わるもの。彼のお父様は確か工場の技師ではなかったか...。
音楽の使い方、そのメリハリ。基本的に何かしらの形で音(音楽、ラヴェルが自分で弾くピアノも含)が流れているところ、母親の葬式の間に「マ・メール・ロア 妖精の国」が流れて、納棺したらしばし「完全な」無音。遺品を眺めている間とか。彼は、母親が亡くなってから意気消沈して数年間音符を譜面に置くことができなかったと聞いているので、あの「完全な無音」がそれを表しているのかも。
ちなみにこの曲は私も大好きな曲。音響の関係なのかそれとも本当に演奏がそうだったのかわからないけど、薄いシルクを何層にも重ねた向こう側から星を拾おうとする感じの繊細な音の「揺らぎ」があって、タイトルに場面にも相応しく儚くて、もしかしたら今まで聞いた中で一番好きな演奏かもしれないと思った。
あらすじの面。基本的に史実を派手に脚色したりすることのない、極めて「元ネタに忠実」で誠実なパターン。
メインキャラのミシアはラヴェルにとってのミューズ的な存在として描かれていて、まあ実際そうとしか言いようのない感じ。双方ラインを引いていて、その中でミシアは彼女にできる精一杯でラヴェルに近づいて彼の芸術を後押ししていた印象。ボレロを「良い曲だから、ぜひ外に出して」というあたりなど顕著。
ラヴェル→ミシアは、ある意味「敬虔」に近い崇拝の仕方をしていたと思う。キスじゃなくて曲を書いて捧げたいという思考回路。それが彼にできる精一杯の愛情表現?
物語の終盤で彼がミシアに「少しは愛していた?」と聞いたら「もっとずっと」って返ってきたのはあまりにも切なすぎないか。それに対して無言で呆然とするラヴェル。病気のせいもあってすでに一人老け込んでしまって、記憶障害も失語症もある中で、なんとか断片を拾い集めて、「少しは愛していた?」と問うのはミシアにとっても少し残酷だし、まあ割と「今更気がついたの?」みたいな面もある。そして「その拾い集めた断片であなたがようやく認識したものよりも、もっと、ずっと」ということなのだから。
命の終盤で知るには手遅れ感が、もう取り戻せないもののような感じが強い。
少なくとも二人は恋人になって一般的な恋人たちが踏む手順を全て踏みに行く「愛」じゃなくて、もっとこう、違うんだよね。詩的な感じがある。
あと、作中でミシア、マルグリット、イダ、マダム・ルヴロが4方向から、それぞれがそれぞれにできる「母親」的役割をしていたもの中々面白かった。
多分、一人でも欠けてたら色々もっと難しかったねと思う。作曲も、人生も。
だって、誰が「エナメルの靴がなかったら指揮できないです」ってなると思うねん。ルヴロ婦人めっちゃ爆走して靴だけ届けにきてたよ。
【ちょっと残念だったところ】
寂しかったともいう。従軍(といっても病弱により医療班・運転手)したところはしっかり描かれてたけど、それがきっかけで書かれた「クープラン」への言及が皆無。
【結局ボレロって】
作中でも「初っ端から病気」ラヴェル、病気になって体が上手く効かなくなり始めた頃に作曲した(ほぼ晩年の遺作扱い)のが「ボレロ」なのであんな真っ直ぐ空に突き抜けるような物を、あんな堂々として力強い物を、一体何を考えながら書いたんだろうってずっと思ってたら10年くらい経った気がする。
そしたら今回の映画ですわ。...って話。
大学生の時にモダンダンスの授業があって、そのレポートで私がテーマにしたのもラヴェルの「ボレロ」と作中でも踊られていたバレエだった。(もっとも私が題材にしたのはシルヴィ・ギエムのバレエなので、今回の映画内のものとは相違あるが...)(しかも「踊りだけ」に集中してレポートを書けばいいものを、余計に音楽に割いた文量が多かったために若干の減点を喰らっている。)
舞台は酒場の円卓、官能的な踊りを披露する踊り子と、周りを囲んで踊る男性たち。実際(これも映画内で言及あったが)絶妙なエロティックさがあるのだけれど、どちらかというと「存在の主張」をするかのように体を余すことなく使う振り付け(それ以前のバレエ作品というと「この世のものではないかのような舞」が多いので、その対照的位置づけとして)。
曲の音程が徐々に下がっていく箇所でも「むしろあえて」手を高くあげ、足を振り上げ、天井を見つめるような独特の「極めて原初的な生命力」のアピールを感じる踊り。スネアドラムの規則正しい音が、私たちの中にある何かを鼓舞しているように聞こえるまである。
去年、あの家を出る半月前くらい。引っ越す引っ越さないみたいな話で親と大揉めに揉めたら、仕事から帰ったあと19時くらいに追い出されて12時半くらいに入れてもらえるまで3センチヒールの靴で12キロとか歩いたことがある。(昨今話題になった狂歩に近い感覚。この場合、時間帯が時間帯なので、落ち着いて座る場所がなかったのも原因の一つだけど...)
その時、夜露が降った時間帯に濡れながら聞いたのも「ボレロ」だったな...という遠い思い出。何もかもがしんどくて仕方がなかった時に「規則正しく徐々にクレッシェンドに向かって、やがて崩壊する」音楽に救われたのは、私の人生の中で無視できないと言っても過言ではないと思う。
...夜露に濡れて、住宅地は灯りもまばらで暗くて、あんな時間帯に歩いている人なんかいなくて、ボレロがイヤホンから流れたときはすごい泣いてたけど、それでも、
規則正しいスネアドラムに引きづられるように、ヒールの靴できちんと歩いた。あの曲が最後「噴火するかのように」崩壊するのと同じように、私も「あの家の暮らしを終わらせてやる」と誓ったのを覚えている。
あれを思い出すたび、私はいつも冒頭の問いに戻る。
「病気になって体が上手く効かなくなり始めた頃に、なんで真っ直ぐ空に突き抜けるような物を、あんな堂々として力強い物を書けたんだろう、一体何を考えながら書いたんだろう。
そしてそれが100年以上経って私のような人間をある意味で救ったなら、あの曲の持つ力ってなんなんだろう」
まあ、考えながらというか...今日見た映画だと割と「メロディをふり絞ってた」けど...笑
ちなみに「同じリズムの繰り返し、催眠のよう」と映画内で言及があった。「確かに!」である。
少なくとも今日、私は「一つの解釈」を見ることができて非常に満足。
史実ラヴェル、脳の手術時に脳みそに生理食塩水をぶち込まれて四日後くらいに亡くなるわけで...。ナレ死とかやだなーって思ってたら。
手術する病院に行く車に乗り込むあたりからかかっていたのが、ボレロだった。
なんと、作中通して詩的なエロティックさ、生命力の象徴として描かれ扱われ、私たちに散々見せつけてきたあの「ボレロ」が
(本人や友人たちは知りようもないが、ラヴェルの最期を知ってる観客にはわかってしまう)死にに行く道中の、「葬 送 曲」になったのである。
「ラヴェルさん、靴をお忘れです!」「今はいいよ、後で届けてくれるかい」の会話すら、もはや「処刑場へ向かう馬車に乗る直前の風景」に見えるまである。
まさかラヴェル手術後の死に顔に登場人物たちのリフレインと一緒にボレロを聴くハメになるなんて、思ってもいないです。
最後は彼の亡霊のように、若く蘇ったラヴェルが指揮をふります。
はるかに昔のオタクしかいなかったコミケで見るコスプレは「作品好きアピールとしてのコスプレ」だったから良かったし好感持てた
20年くらい前かな?からコスプレイヤーという仕事が増えてきて美女が人気のキャラのコスプレしだした
「レイヤーに作品の話を振るのはタブー」なんておかしなマナーも出てきた
とはいえカメコのやつらがそっちをちやほやしてったせいで、そういうビジネスレイヤーが当たり前になって元々のコスプレって今は見る影もない
コスプレしてる女が可愛いとか可愛いくないとかはどうでも良くて花村紅緒のコスプレをする女にはつい声をかけたくなってしまうというもの
チー牛が差別用語なのは百も承知なのですが、それを避けた結果生まれるのは私のような人間です。
髪も肌も整えることをせず服も買わず、ママに育まれたプライドは自分を変える努力を遠ざけつづけます。
男にも女にもモテず、コミュニティに属せないため青春を楽しむことも、良い企業にアピールできる実績も積めません。
思春期に深夜までアニメやゲームにのめり込んだ結果身長は低く、頭もよくありません。今でも毎日アニメを見ています。
仕事ができなさそうという一見の評価から多くのチャンスを失います。
私の両親は私の自己実現を常に応援してくれる本当に素晴らしい人間です。
その延長として周りからの見られ方や社会でどんな人間が評価されるのかについて、一切何も言わないでくれました。言わないでくれやがりました。
チー牛という言葉を認識せずにいれば、社会的差別から逃れられるというわけではありません。
親がその差別を許す許さない考えることは自由ですが、あなたの息子さん娘さんは許されるわけではありません。
生物学的魅力で訴えられることはありませんし、犯罪になることもありませんから。
ぜひ息子さん、娘さんのために差別できる側にしてあげてください。
現役チー牛からのお願いでした。
主と妻の論点が異なってるし、どっちもそこそこ正当なことを言ってるから、主と妻がお互いどの領域でなにを言いたいのか冷静に整理しないと先に進めなさそう
妻の主張
①息子がチー牛かもしれん
②子育てのやり方を見直すべきでは?
主の主張
①(嫁に対して)チー牛とかいう差別的ネットスラングを(特に家族に)使う人間になるな。
②息子がチー牛の特徴に当てはまっていたとして、それのなにが悪い?
って感じで、議題が噛み合ってる箇所が②しかないし、
その②も簡単に論じれるような話題じゃないから、もっと慎重に論点を切り分けながら個別に意見のすり合わせをしていく必要があると思う
以下それぞれに対する俺の感想
まず主①の主張、これは賛同できる
チー牛とかいうかなり差別的なネットスラングをあろうことが子どもに対して向ける妻の精神性はかなり「それはやばくないか?」と思わざるを得ない
そして妻①の主張、「息子がチー牛かも?」これはまあ判断できる要素が書かれてないからなんとも言えないが、主が否定してる描写も無いしそこそこ当てはまっているのでは?と感じた
で、主妻それぞれの②の主張、まとめると
「チー牛っぽい特徴を持っているかもしれない息子に対して今後どうアプローチするべきか?」に対しては、
「息子がチー牛でなにが悪い?」という主の意見はわかる、わかりはするんだが、
一旦冷静になって、「悪い」のニュアンスを分けて考えるべきだと思う
チー牛っぽい特徴を持っていることは人格的に、もしくは社会的に、「悪」なのか?というと、これはもちろんそんなわけがない。そういう意味で、主の意見通り「息子がチー牛なのはなにも悪くない」。善悪の概念では、悪ではない。
が、チー牛っぽい特徴を持っていることが、今後何か不利益に働くか?と言われると、これは「だいぶ不利益に働く」と言わざるを得ない。良不良の意味では、不良。
そういう意味で、「なにか対策を打つべきなのでは?」という妻側の意見の方に賛同する。
そうだな、「学歴差別は不当」と「低学歴は苦労する」は両立するのに似てるな。
主は「生理的に無理」とか「キモい」とかそういう言葉を即物的だと言って一笑に付してるけど、
人間は理屈や正しさよりもかなり感情や第一印象や先入観で動きがちで、なんならたとえ理性的であろうと心がけている人でもなんだかんだ生理的感覚に引っ張られるものなので、
「生理的に無理」「キモい」と感じられてしまうような人間に対する世の中からの扱いはかなり悪くなってしまう
これが不当な差別だっていうのはわかる、わかるんだが、人種差別とかと違って、本能に根差したものとして指摘すればなくなるわけじゃないんだよ ある程度根拠のある差別と言ってもいい
学歴差別を無くしたからといって、学力方面での高学歴と低学歴の差がなくなるわけじゃないのと同じ
妻がいう通り、チー牛という言葉がそういう「感じ」を上手く言い表しているんだよね
昔は「ネクラ」とか「オタク」という言葉にその「感じ」が含まれてたけど、「オタク」がもっと価値中立な言葉に浄化されたから、代替としてチー牛という言葉が生まれただけ
チー牛という言葉を無くしても、その「感じ」がなくなるわけではない
妻はなんというか、チー牛というスラングがそこまで差別的な言葉だっていう認識が薄いんだろうね
だからもちろんチー牛という言葉を使うこと自体は咎めたほうがいい
ただその「感じ」があること、その「感じ」に世の中から差別的な目が常に向けられていることとは別に議論した方がいい
じゃあどうすりゃええねん、と言われると、
そうだな、そうだな……
ただなんとなくは、「父性」が鍵のような気がしている。
母親が過干渉で父親が無関心気味の家庭が「そう」なりがちというのは各所で言われがちで、
やっぱり教育家庭における「男らしさ」の不足が原因の一端なんじゃないかな?とは思う
男らしいとか女らしいとかそういうのはジェンダー平等に反してるだろ、と言いたいのはわかるが
なんだかんだ現代でも男は男らしい方が得するんだよな
男女平等を主張してる女たち自身が男らしい男を嗜好するし、男同士であってもそうだから、
男女平等、ジェンダーバイアスの解消というのはお題目としては立派であっても現実に即してはいないんだな
優しさとか誠実さとか生真面目さは世の中を渡っていくにあたってそこまで大きなプラスになる「見た目」ではないんだよな
これらを持つこと自体を否定してるわけじゃなくて、もちろん大事なものなんだけど、無害性のアピールにしかならないから、
必要な時に(時として他者のために)他者に対して強く出られる能力、責任を引き受けたりする能力、リーダーシップやイニシアチブを取る能力と見かけ上相反してるから、やっぱりなにかしらそういう芯の強さを育む機会が必要だと思う 無害性オンリーでは人間的評価だと下の上止まりになってしまう おそらく中の下にもいけない
運動部に入れろとかそういう感じに近いけど、部活を強要するわけにもいかないし、親にできることってどれぐらいなんだろうな……
まとめると、
•「チー牛」はその「感じ」を端的に表していることばではあるが、かなり差別的なので息子に向けるのはやめたほうがいいと伝える
•息子がチー牛的素質を持っていること自体は、すこしなんらかのアプローチを考えた方がいい
って意見かな。
主と妻の論点が異なってるし、どっちもそこそこ正当なことを言ってるから、主と妻がお互いどの領域でなにを言いたいのか冷静に整理しないと先に進めなさそう
妻の主張
①息子がチー牛かもしれん
②子育てのやり方を見直すべきでは?
主の主張
①(嫁に対して)チー牛とかいう差別的ネットスラングを(特に家族に)使う人間になるな。
②息子がチー牛の特徴に当てはまっていたとして、それのなにが悪い?
って感じで、議題が噛み合ってる箇所が②しかないし、
その②も簡単に論じれるような話題じゃないから、もっと慎重に論点を切り分けながら個別に意見のすり合わせをしていく必要があると思う
以下それぞれに対する俺の感想
まず主①の主張、これは賛同できる
チー牛とかいうかなり差別的なネットスラングをあろうことが子どもに対して向ける妻の精神性はかなり「それはやばくないか?」と思わざるを得ない
そして妻①の主張、「息子がチー牛かも?」これはまあ判断できる要素が書かれてないからなんとも言えないが、主が否定してる描写も無いしそこそこ当てはまっているのでは?と感じた
で、主妻それぞれの②の主張、まとめると
「チー牛っぽい特徴を持っているかもしれない息子に対して今後どうアプローチするべきか?」に対しては、
「息子がチー牛でなにが悪い?」という主の意見はわかる、わかりはするんだが、
一旦冷静になって、「悪い」のニュアンスを分けて考えるべきだと思う
チー牛っぽい特徴を持っていることは人格的に、もしくは社会的に、「悪」なのか?というと、これはもちろんそんなわけがない。そういう意味で、主の意見通り「息子がチー牛なのはなにも悪くない」。善悪の概念では、悪ではない。
が、チー牛っぽい特徴を持っていることが、今後何か不利益に働くか?と言われると、これは「だいぶ不利益に働く」と言わざるを得ない。良不良の意味では、不良。
そういう意味で、「なにか対策を打つべきなのでは?」という妻側の意見の方に賛同する。
そうだな、「学歴差別は不当」と「低学歴は苦労する」は両立するのに似てるな。
主は「生理的に無理」とか「キモい」とかそういう言葉を即物的だと言って一笑に付してるけど、
人間は理屈や正しさよりもかなり感情や第一印象や先入観で動きがちで、なんならたとえ理性的であろうと心がけている人でもなんだかんだ生理的感覚に引っ張られるものなので、
「生理的に無理」「キモい」と感じられてしまうような人間に対する世の中からの扱いはかなり悪くなってしまう
これが不当な差別だっていうのはわかる、わかるんだが、人種差別とかと違って、本能に根差したものとして指摘すればなくなるわけじゃないんだよ ある程度根拠のある差別と言ってもいい
学歴差別を無くしたからといって、学力方面での高学歴と低学歴の差がなくなるわけじゃないのと同じ
妻がいう通り、チー牛という言葉がそういう「感じ」を上手く言い表しているんだよね
昔は「ネクラ」とか「オタク」という言葉にその「感じ」が含まれてたけど、「オタク」がもっと価値中立な言葉に浄化されたから、代替としてチー牛という言葉が生まれただけ
チー牛という言葉を無くしても、その「感じ」がなくなるわけではない
妻はなんというか、チー牛というスラングがそこまで差別的な言葉だっていう認識が薄いんだろうね
だからもちろんチー牛という言葉を使うこと自体は咎めたほうがいい
ただその「感じ」があること、その「感じ」に世の中から差別的な目が常に向けられていることとは別に議論した方がいい
じゃあどうすりゃええねん、と言われると、
そうだな、そうだな……
ただなんとなくは、「父性」が鍵のような気がしている。
母親が過干渉で父親が無関心気味の家庭が「そう」なりがちというのは各所で言われがちで、
やっぱり教育家庭における「男らしさ」の不足が原因の一端なんじゃないかな?とは思う
男らしいとか女らしいとかそういうのはジェンダー平等に反してるだろ、と言いたいのはわかるが
なんだかんだ現代でも男は男らしい方が得するんだよな
男女平等を主張してる女たち自身が男らしい男を嗜好するし、男同士であってもそうだから、
男女平等、ジェンダーバイアスの解消というのはお題目としては立派であっても現実に即してはいないんだな
優しさとか誠実さとか生真面目さは世の中を渡っていくにあたってそこまで大きなプラスになる「見た目」ではないんだよな
これらを持つこと自体を否定してるわけじゃなくて、もちろん大事なものなんだけど、無害性のアピールにしかならないから、
必要な時に(時として他者のために)他者に対して強く出られる能力、責任を引き受けたりする能力、リーダーシップやイニシアチブを取る能力と見かけ上相反してるから、やっぱりなにかしらそういう芯の強さを育む機会が必要だと思う 無害性オンリーでは人間的評価だと下の上止まりになってしまう おそらく中の下にもいけない
運動部に入れろとかそういう感じに近いけど、部活を強要するわけにもいかないし、親にできることってどれぐらいなんだろうな……
まとめると、
•「チー牛」はその「感じ」を端的に表していることばではあるが、かなり差別的なので息子に向けるのはやめたほうがいいと伝える
•息子がチー牛的素質を持っていること自体は、すこしなんらかのアプローチを考えた方がいい
って意見かな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4757347938494232704/comment/nasumisox
フワちゃんが悪いのは勿論だけど、外野が追い詰めすぎないで欲しい。当事者じゃない人間が殴りつけるのはおかしいし、フワちゃんに言葉に責任持てと言うなら自分も責任持って発言して欲しい。フワちゃんが心配。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4757274885354956160/comment/nasumisox
こんなこと言うなんて幻滅したとか言ってる人居るけど、フワちゃんのラジオを聴いてるとまぁ言うだろと思うし、やす子も即可哀想な立場をアピールしてるように見えてモヤる
直接謝りたいってのは絶対会って早々に自撮りでイエーイってやって「ごめーんwめっちゃ反省してっしーww」って言って終わり