はてなキーワード: ポチとは
バットマンやってるんですよバットマン、めちゃくちゃムービーが多いんですよ。
あと台詞が多いんですよ。
そんで英語なんですよ。
私はただヒーローになってポチポチボタン押してコンボを決めたいだけなんですよ。
もうね、あんまりこういう態度を取るなら三國無双をやりますよ?
というわけで三國無双やったらこっちも割とストーリーが長いんですよ。
お前らねえ……戦闘中にしゃべる分だけで済ませろよ。
私がバトルしてポチポチボタン押してるから、そのあいだに全部喋れよ。
なんでコントローラー握ったままムービーをボーっと眺めてないとあかんねん。
まあ……別にそれで面白さが変わるわけじゃないんだけどさ……臨場感がちょっと下がるよね。
なんかこう作品っていうのはどうやっても体験だからさ、読み手の精神状態とか人生状態と同じく、作品に対するイメージそのものがかなり影響する。
本に出会うストーリー自体が作品の第0章になっているような所がやっぱあるじゃん。
ほら、ニュー死ねマパラダイスとか、主人公がキスシーンの雑コラみたいので涙流すのは、作品への評価はその背景により影響を受けるっていう最たるものっていうかさ。
値段も影響はあってさ、タダで読む作品と金払って読む作品はやっぱタダの方が面白いんだよ。
金払うと元を取ろうっていう気持ちが働いて邪念が交じるんだよね。
たとえそれが1000億持っていての10円だろうとさ。
買うという選択をした自分の判断力の正しさについて世界と勝負が始まっちゃうっていうのかな。
それが単にポチポチして読むだけなら、時間の使い方っていう面では世界と自分のバトルみたいなのは起こるっちゃ起こるけど、作品鑑賞への影響は最小限になるっていうか。
まあいいや。
とりあえずさ、魔法少女インタビュー https://ncode.syosetu.com/n5561er/ ってのがめちゃ面白かったよ。
さっきいつもとは違うコンビニ行ってきたんだけど、自転車を止める時足元にゴキブリがいて、寒くなったのに珍しいなと思ってたんだけど
買い物して出てきてLINEの返信しとこと思って自転車のそばでポチポチしてたらまた足元にゴキブリが歩いてきてて、さっきのやつかな?とふと思って振り返ったらコンビニのガラス面の下のタイル張りの隙間のところに5〜6匹うごめいてて、よく見たら軒下にも黒い点々があちこちにあって、そこら中にゴキブリがいやがんのw
びっくりしたわ
店の前だけじゃなく駐車場側にも黒い点々が所々にあってかなり異様な景色だったわ
あんなに一度に見たの初めて
一人で遊んでいても、そこには「難易度」という形で他者が介入してくる。
難しいステージに躓いて何度もクソゲーと叫ぶとき、それぐらいのステージを丁度いい歯応えと認識して楽しく遊ぶ人間の姿が浮かぶ。
解けっこないと決めつけた謎解きを解くために攻略サイトを見るとき、その攻略サイトに最初に書き込んだ人間はその謎を自力で解いたのだと突きつけられる。
ゲームとは、与えられた課題をこなす能力を自動的に計測してくれる装置だ。大部分のゲームはある種パンチングマシーンのような性質を持ちあわせている。
ただボタンをポチポチ押すだけのノベルゲームの中にさえ、ゲーム中に使われた比喩や引用を理解する教養、物語を読み解く理解力、キャラクターや世界観を覚える記憶力、心を動かされるための感受性、あらゆる能力が求められてしまう。
ランキングもPvPも存在せずとも、ゲームは否応なしにその人間の力を映し出す。
そうして暴かれる能力の中でも、最も残酷なものが、学習能力である。
同じ局面で同じようなミスを何度も繰り返す自分の姿を前にすれば、誰だって自分の限界に気付かされる。
目の前に与えられた課題の本質を知る努力を投げ出し、総当りの運任せを繰り返しては、同じような所でいつも失敗する。
試しにとポーズボタンを押してよくよく画面を見つめてみれば、成功するための道筋が論理的に炙り出せたことに気づいては、自分が闇雲にただボタンを押していただけだと突きつけられる。
タイプライターモンキーズ、無限の猿が存在すればシェイクスピアを書き上げることが可能だという言葉の裏にあるのは、猿とシェイクスピアを分けるのはその打鍵一つ一つが確かな方向性を持って行われているかどうかであるという事実だ。
レバガチャによって難局を乗り切ろうとするものは、シェイクスピアと猿のどちらに近いのか、答えは明白だ。
ろくにPDCAも組まない純粋な総当りによって答えを探すのは人間がやることではない。
そうしてゲームというものは容赦なく突きつけてくる、お前には人間と名乗るに値するだけの知性がなく、お前はその無知性の繰り返しの中でほとんど成長することも出来ず同じように失敗し続けるのだ、と。
その間に、きちんと答えを模索し、意味を持ってボタンを教えている誰かはずっと早く遠くにたどり着く、人生のすべての局面において、きっと一事が万事そうなのだ。
『ソレ』を突きつけられることがとても辛い。人生のすべてを否定され続けているような気分になる。
いつからかは分からないが私にとって「ゲームを遊ぶ」という行為は「『ソレ』を突きつけられにいく」行為になっていた。
その気付きは日に日に強くなり、もはや『ソレ』を意識することはやめらず、目の前の課題や光景に没頭することは不可能になっていた。
私は、ゲームの魅力とは没頭できることにあると思っている。
そして、それが失われた。
とても苦しい。
いつからだろう。
○調子
むきゅーはややー。
疲れてヘトヘトになったので帰ってからは、ぐっすりぐーぐーすぴーしてた。
けど、久々に太陽の光をたくさん浴びてセロトニンを作れたので、良い休日だったと思う。
ゲームも遊びたいけど、こうも疲れちゃうと、やる気が起きないので、本格スマホRPGと超大作アニメRPGをちまちまするだけ、
もう眠いので、本格スマホRPGの箱開けしながら寝落ちしようと思うので、もう日記書きます。
コマスターがラスト一ヶ月なので、色々したい気持ちも少しあったり、なかったり。(いや、その、過疎が激しくてさすがにモチベが……)
統べました、割と達成感凄いのでモチベが……
箱開けは、シエテ加入のおかげでポチ数減ったので、割と楽しい。
ツイッターで幼少期に色々禁止されたら大人になってから反動がくる的な呟きを見かけて思い出した話。だらだらと書いたので文章汚いし長いけど、3連休の暇つぶしにでもどうぞ...
小学生(多分3年生か4年生の頃)の冬休み前に任天堂DSが発売された。折りたたみ式で画面が上下ふたつあって、下の画面をペンでタッチして遊ぶ。最初に某学年誌だかで写真を見たとき驚いたし、素直に欲しい!!と思った。私はそれまでゲーム機という物を持っていなかった。ゲームキューブもゲームボーイも触った事がなかった。持っていなくても友達と遊べたし、別段興味がなかった。
けれどDSが発売されたのはクリスマス前で、友達は次々とDSを手に入れていった。クリスマスプレゼントで、お正月に祖父母から、お年玉で、学年末テストで頑張ったから、進級祝いで......学年が上がった頃には大半の同級生がDSで遊んでいた。
私は持っていなかった。クリスマスもお正月も隙あらば両親にお願いした。けれど全部だめで、ならば貰ったお年玉で買おうとしたものの、両親にきつく叱られてお年玉ごと没収された。懸賞で当たれば文句は言われないだろうと考えて、いくつも応募したが見事に全部落ちた。(むしろ既に持っている友達が当選していた)
両親はファミコンが発売された当時、成人していた世代のはずでも、2人ともファミコンを触った事はなかったらしい。そもそもゲームに興味が全くなかった。むしろ否定的。
私が「みんな持ってる。持っていないと遊べない」と言っても、「みんなって誰?クラスの何人?」「ゲームばっかりしてるとバカになるよ」「ゲームしている子と遊ばなければいい」と跳ね返された。(後々、中学で同級生が携帯を持ちはじめ、部活の連絡手段がメールしかない状態になり携帯を持ちたいと言った時にも同じ様な事を言われた。「中学生のくせにメールで連絡網は生意気(以下略)」)
当時の私にはその言葉は絶望でしかなかったし、せまい小学生の世界で、ゲームをしている子と遊ぶなというのはひたすらひとりで過ごすようなものだった。今でこそ1人でも平気になったけど当時、いつも遊んでいた友達は遊ぶ時はみんなマイDSを持参して通信機能で対戦して遊んでいた。
私はその輪に入れなかった。画面を覗き込む事しかできなかった。覗き込んだ所で理解はできないし、友達にうっとおしがられるだけだった。
次第に放課後の遊びには誘われなくなった。持ってない奴と遊んでも楽しくないらしい。
学校ではどうぶつの森ごっこが流行った。(おままごとの動物版のような感じ)私はキャラクターを知らないから、嫌われているorかわいくない動物役だった。どんなキャラクターか知らないので、なりきる事ができず、何か発言する度にダメ出しをされる。休み時間一緒にいるのがしんどくて、ひとり教室で本を読むしかできなかった。
友達に「なんで私ちゃんはDS持ってないの?」と聞かれても「買ってもらえないし、なぜかゲーム禁止されてるから...」としか言えないし、普通に悲しかった。
中学校に入学する頃にはDSブームは若干おさまってって、据置型のwiiとwii sports の板が発売されていた。大半の友達の家にwii があったし、それは一緒に遊ぶ事ができた。嬉しかったしとても楽しかった。ただ、使い方に慣れていない自分は、やはり足手まといになってしまった。確か同じ頃にMiiが流行った。友人達はゲーム内で勝手に私のアバターを作って遊んでいた。そして「私ちゃん、〇〇(クラスの男子)と結婚したよ〜子ども産まれたよ〜」とわざわざ報告してくれた。友人はゲームを持っていなかった私に疑似体験させてくれたのか...?そこまでならギリギリ許す(心が狭いので本当は許したくない)けど、「○○と付き合ったら?」とリアルで言われて流石に引いた...
かと言って、この状況がいつまでも続く訳もなく、中学3年生になる頃には再びブームは落ち着いた。
高校に進学して今日までは、ゲームを知らなくても何とかやっていくことができている。が、例え話でゲームの事を出されるとやっぱり分からない。(ポケモンのどれそれが何それ〜とか)そこでプレイした事がないのでその例えは分からない旨を伝えるとすごく意外な顔をされる。相手に悪気は一切ないし、国民的なゲーム(?)なのでまさかといった感じなのだろう。むしろこっちが申し訳なく感じる。(私の周囲には例え話にゲームの事を出す人が一定数いるので、他の方がどうかは分からない)一応自分でも調べるけど、付け焼き刃すぎてどうしようもない。まぁそれでなんとかなってきてるので多分今後もこんな感じだと思う。
ここまで書いてきて、そういえばたまごっちがリニューアル発売してブームになった時も手に入れられなかった事を思い出した。ちょうどDSと同時期だったような気がする...。1人で3台も持ってる友人がとても羨ましかった。ここでも完全に蚊帳の外だった。思い出したらまた悲しくなってきた...
別に今更、両親の教育方針にケチをつけるつもりはないし、当時より多少は自由に生きてるけど、件のツイートを見かけてふと思い出したので書いて残したかった。
反動というか、今はスマホのアプリゲームを慣れないながらもいくつかポチポチしてる。キャラクターやストーリーがそれぞれ素敵なのでのんびり続けてる。育成したりするのはすっごく苦手だけど楽しい。ゲーム楽しいね。もっと早く知りたかった。
といっても、5年かけて。つまり、平均1年間で40万の儲け。
もちろん毎年コンスタントに40万稼ぐわけじゃなくて、80万の利益がある年もあれば、-60万の年もある。
私自身はフルタイムで働いていて、年収は400-500万の間。ぜんぜん高くない。
なので、40万の儲けは大変うれしい。
一方で、自分の給料は朝から晩まで働いて辛い思いをして手に入れているのに対して、FXはなんかあぶく銭感があった。
でも、そうじゃないなと最近やっと気づいた。
ロングかショートか選ぶときに、損する可能性があるにもかかわらず、お金を投入する。
うまくいけば儲かる。失敗したら損する。そのリスクを取るという行為自体が一つの仕事なんだなとわかった。
PCの前に座ってエクセルをポチポチするのも仕事、客先に頭を下げに行くのも仕事。
そして、リスクを取るという行為自体もそれと同様の仕事なのだなと。
会社だって同じだ。誰を雇うか、誰を昇進させるか、次の新製品の方向性をどうするか、
それらの決定はリスクとリターンのトレードオフなのだ。自分の上司はそういう決断をしているからこそ、一見何も働いてないように見えるけど、自分より給与が高いのだなとわかった。
たしかにFXをやってみると、自分の金が減っていくと、ギリギリ心臓が痛くなる。
もちろん自分の300万円は来年は500万になるかもしれないし、100万に戻るかもしれない。
それは昇進したり、左遷されるのと何も違わないのかもしれない。