はてなキーワード: 社会主義とは
「仕事こそわが人生」という生き方でイイジャマイカ、という主張は、おそらくこれまであなたが避けてきたであろう『左翼思想』と大変相性がよい。そもそもあなたの思う『みんなが必死に努力して目標の実現に邁進する理想社会』なるものにもっとも近いのは、社会主義の理想とする社会でもある。資本主義社会とは、勤労して小金(資本)を貯めたら独立起業し、資本で人を雇い働かせて利潤を得つつ社会に貢献する、あとは50代でそれを売り払い、ボランティアなどしながら余生を悠々自適に暮らす勝ち組を目指す……そういう社会だ。多分、現場主義、職人的仕事観のあなたから見れば一番遠い考え方ではないか?
あなたは、自分を資本主義社会に適応した人間だと思っているのだろう。多くの日本のブラック企業社員と同じように。だが、おそらくあなたのスタイルは、世界のほとんどの「資本主義社会」では受け入れられていないことを知るべきである。あなたは「勤勉に誠実に仕事に努めればそれが評価され、賃金は生きて生活できれば満足であり、細かな生活の面倒は会社に任せればいい」……とでも思っているのでは? 実に素晴らしい。同志スターリンなら手を叩いて「理想の共産主義戦士よ」と褒め称えただろう。
あるいは、もう少し時代を遡ればもっと理想に近いかもしれない。鍛冶屋の次郎左右衛門の子に生まれれば、鍛冶屋次郎左右衛門を継ぐ、という生き方。子供のときからそれが生きる意味であるような社会。封建主義身分制社会。100年経っても何のブレークスルーも起きない社会。そういう社会でなら、「仕事こそわが人生」という生き方は全面肯定され、あなたは心安らかに職人仕事に邁進できただろう。
現状の資本主義すらちゃんと始まったのがそれぞれ世界大戦後だとしても100年経ってないし、
100年後に現在の資本主義がボロクソに言われてるかもしれないし、
全く違う形になってるかもしれないし、分からんだろう。
元々マルクスなんかは、資本主義を労働層が内倒して社会主義にして、その究極が共産主義ってなるわけでしょ?
そういう意味で、今の日本だってより"平等"を目指そうとしてるのってある意味社会主義に向かおうとしてるんだよね。
実際に行われた"共産主義"ってのは、実は名ばかりで、結局統治する側が労働者が自分たち側に這い上がれない様に"平等なまま"にしておくシステムだったわけで、
ネットでは、歴史の面白い部分やネタにできる部分が戯作化(ここでは、戯れに作品がつくられること、を指すことにしてほしい)されることが大変多くなっている。
たとえば、「ニコニコ動画」の「赤いニコニコ動画」タグなどが代表例だ。
他にも、二度の世界大戦中を中心に、イデオロギーや政局・人物たちを面白おかしく紹介したり、歌ったり、何かのパロディとして用いたり、そういうことがブラウジングすると日夜行なわれていることがわかる。他の時代の歴史も大変多く戯作化されている。
このままでいいのだろうか。
歴史に詳しい、既に知識を持っている人にとって、その戯作が到達点でいいのだろうか?これに満足しないでその分野の最新鋭の知見を雑誌や書物から得るべきではないのだろうか。歴史に知識があり、興味を持っているのならば、戯作にとどまるだけではもったいないのではないだろうか。日夜生産される戯作により、他の歴史に関する著作や作品に目が及びにくくなる可能性を指摘したい。
また歴史(や歴史認識)をこれからどんどん学んでいきたいと思う人たちにとっては、誤解を恐れずに言えば、戯作は足かせになるのではないか。すなわち、戯作に現れる単純なコミカライズ、キャラクター化は、歴史認識の多様な可能性を摩減させてしまう。「あ、これはこういうキャラなんだ」とそこで思考を停止させかねない。無論これらの戯作は、歴史の面白さを伝え、興味を惹起させることにかなりの役割をはたしていよう。ネットで気軽に歴史人物に触れられるのは、歴史の醍醐味への入り口として非常に適した環境にあると思う。でも、現在その入口が広く広く広くなってしまい、奥に行かなくても「なんか人がたくさんがやがやしているし、まあここでいいか」になってしまうのではないか。
私はネットの戯作で、個人がキャラクター化され単純化されネタ化されるのははっきり言って嫌いだ。特にスターリンやヒトラーなど、充分かつ慎重に議論・研究が進められるべき人物に対して、安直なキャラクター化が図られるのは見るに堪えられない。そもそも、人間が一人の人物に対して評価を下すことは可能なのだろうかと思う。またイデオロギーに対してもだいたい同じで、現今のネット環境では社会主義や新左翼の各地での活動が、かなり単純化されて戯作化されている。これを見るだけで、真にこうした人物やイデオロギーやそれらが生きた時代に迫ることができるだろうか。歴史認識のあり方としてどうなのだろうか。戯作を楽しむだけでいいのだろうか。
正しい歴史認識なんてぜったい構築できやしそんなものは幻想なのだろうけど、だからと言ってネットの戯作だけを栄養とするのももったいない、もっと色々なアプローチがあるのではないか、という話でした。
http://anond.hatelabo.jp/20130611130854
社会主義に向いていない人の特徴 はあまり見かけたことがないので、10個挙げてみました。
過去に出会った人々の中で、「社会主義に向いていない」と思った人々の特徴をあげていってみました。さすがにこの特徴を全て満たしている人には会ったことないですが、近い人はいた気がします。
他にもたくさんあると思うので、これぞという人を思いついたらぜひ教えてください。
文責 内務人民委員部
http://blog.goo.ne.jp/y-tech/e/fb9551797181b875aed504df67cb53fb
経済的なインセンティブが無いから結婚しない、というのは違っていて、そもそも結婚する相手がいない。
しかし、皆がゴールにたどり着けるほど恋愛が上手いわけじゃない。
恋愛したくないわけじゃないけど、恋愛なんて面倒くさい、というのが多くの人々の本音じゃないでしょうか。
子供を作らないのも「損だから」「経済的なインセンティブがないから」なのでしょうか?
経済的な保障が得られないからという理由も切実ではあるでしょうが、そもそも多くの夫婦がセックスレスなのが実状です。
なぜセックスレスかと言えば、要するにセックスが面倒くさいからではないでしょうか。
夫婦仲が冷め切ってるわけでもなくて、疲れてるし他にやりたいこともあるし、別にセックスしなくても支障がない。
つまり恋愛やセックスそのものに、人を行動させるだけのインセンティブがない。
恋愛してないのだから結婚もしないし、セックスしてないのだから子供が生まれるわけがない。
恋愛したい、恋人が欲しい、セックスしたい、セックスするパートナーが欲しい、恋愛主義的な世界観においてはこういう肉体的な欲望によって「自然に」結婚し「自然に」子供が生まれるはずでした。
しかしそうはならなかった。
もう一つ特筆すべきは、多くの人が「適齢期」には未だ子供を生む状態に至っていないということです(男性も女性もです)。
同時に実質的な「成人」年齢も上昇している。
現代日本の30才が幼いのは当然です。親が60になっても70になっても元気なのですから、30才はまだまだ「子供」なのです。
それはそれでよいのですが、問題は30才を過ぎてから恋愛をして、結婚して、夫婦仲が上手くいき、セックスもして、やっと子供が生まれるわけですが、この時いったい何才になっているのか。
では高齢出産の何が問題化というと、本人たちが妊娠出産を躊躇してしまうことです。
やっと精神的にも「大人」になり、経済的にもどうにか安定して、親になる覚悟と準備ができても、今度は色々と考え込んでしまう。
障害をもって生まれてしまったら子供が(自分たちも)可哀想なんじゃないか。
たとえ健康に生まれてきても、自分たち子供の親が年をとり過ぎてたら、結局は子供が可哀想なんじゃないか。
そんなことを考えて躊躇してしまうわけです。
http://www.watanabemiki.net/journal/post-475.html
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/06/01/232610
のふたつを前提にして。
世の中のは、収入能力が1のひとも2のひとも3のひともあるいは10のひとも20のひともいるわけですよ。
で、渡邉さんはたしかに「8未満のやつはイラねえ(≒死ね)」かもしれない。店長はその点にたいして全霊で反論している。
そのこと自体、その社会感覚自体は賛成する。正しいとも思う。店長はこの記事において、良い仕事をしたと思う。
ここから先を書くと、反射的な叩きを総スカンで喰らいそうな話なのですが
現代の政治に求められている機能のうち、最大のもののひとつが、富の再分配です。
資本主義はいままでの歴史を見る限り、どうやら内部で成功者と失敗者が極端に別れていくという特徴があるようです。格差ですね。
ですから、それを解消するという視点に立てば「より富めるものからおおくをもらい、富めない側にばらまく」というのは意味のある政策です。
しかし、だとしても、では、「より富める」ってのはどういう線引きなのか? 8以上なのか、12以上なのか?
「富んでいない」ってのはどれくらいなのか? 10未満なのか、8未満なのか? 「最低限の文化的生活」というのは幾つなのか。5なのか、10なのか?
政治の現場では、そういうライン引きを議論していかなければならないし、それはかなりデリケートな問題です。
つまり店長がいうように「きれいごとじゃない話」として、社会維持にかかるコストを持てるものはより多く払ってるわけです。
収入4の人の年収からは税金を5%徴収し、その一方で収入15の人の年収からは税金を50%徴収する――そんなシステムでこの国は回っています。
これは明らかに非対称で、その事実だけをみるのであれば、より多く働いてる人を差別する構造があります。
この差別は、上の「格差=悪」という考えに基づけば正当化されうるでしょうが、いっぽうで「格差=悪」という考えを徹底するならそこに現れるのは社会主義であって、それが上手くないことをもう我々は判っている。
社会主義を否定した我々は「ある程度を越えた格差は悪」といってるわけですが、これは要するに、たとえば14をこえたひとを指さして「君はいまから格差戦犯」と弾劾しているわけです。
現在の日本のあらゆるところにこれは見え隠れしています。社会を維持してきた人にたいして、いきなりレッテルを貼って差別する構図ですね。
また一方で「生活保護を受けている人は勝ち組」のような発言にあるとおり、努力するモノが馬鹿を見る社会の影も見え隠れしています。
そういう社会の中で、富める側がいらだつのも仕方ないことかと思います。
生活保護叩きはまさに富める側の苛立ちの表れでしょう。しかし同じ構図を採用するのならば、生活保護叩きをする人々は、渡邉さんの理論で切り捨てられても仕方がないことになる。
これからの日本をデザインするにあたって、僕たちは、上で書いたような「どこから先が富裕層で、どの辺が中間層で、どこから先は貧困層(=助けを必要とする)か」を話し合って決めていかなければならない。
そしてその話し合いは富裕層(他者を支えられる側)を説得できなければならない。じゃないとフランスのように富裕層の海外移住が進むだけですし、たとえそうではないにしろ、貧困層と中間層の合意だけで富裕層の財産を徴収するのであれば、それは私有財産権に対する冒涜であり、国の形が壊れるからです。むしろ国力というものをかんがえれば、富裕層が喜んで私財を振る舞うという形にした方がよほど良いです。(欧米の富裕層にみられる寄付文化は、その点で日本よりずっと進んでいます)
そこまで考えた時、日本の政治や文化は、「富裕層が富裕層をな得させるためのロジック」「富裕層が私有財産を失う代わりになにかを得られる仕組み」「情緒面から納得するための理屈」をないがしろにしてきたように思えます。「連中金もってんだから奪って良いよ」というのは貧困層と中間層の言い分かもしれないですけれど、実際そんな攻撃的な言説では物事進まないのです。そこにたいして文化を提供できないってのは社会全体の責任です。
この問題はデリケートな問題で、細心の注意を払って発言しても、あっという間に敵味方論に巻き込まれ、炎上案件になってしまうからなのでしょうが、でもだとしたところで、この点に踏み込んで発言をおこなうマスコミ人をみたことがありません。上の話もそういう人にとってみれば、富裕層が自己利益を守るような話に聞こえるのかもしれません。そんな気がします。
何かハイパーインフレになってお金の価値が下がるとかいう人いますけど、価値が下がる意味がわかりません。
今まで通りの値段で物を売っていつも通りの生活してればいいだけじゃないですか。
じゃあ、そういうのが分かるようになってから意見を言おうね、僕ちゃん。
物の値段は今まで通りで値上げしちゃダメっていう風にすればいいだけの話じゃないですか?
・・・と煽りはさておき、この元増田が選挙権を持ってるかどうかが心配だ。
こんな理解じゃ「お金を刷って、ヘリコプターからばらまきます。これでみんなお金持ちですよ」ってトンデモ公約の政党にホイホイ投票しかねん。
これの続き
http://anond.hatelabo.jp/20130525211446
・障害者ウゼー
・区別されるのは嫌だ「区別するのは良くない!自由にしろ」って言い出す。
・低所得者ウゼー
・どうやら人を区別するとうまくいかない。乙武を批判すると回りまわって自身に跳ね返るっぽい。
何で健常者が障害者に対して特別扱いしなきゃいけないのか?やる必要もなければしたくもない。
大体あいつら働いてるかもわかんねーし、社会に貢献度合いも低い。
そんなやつらに手間ひまやコストを掛けるだけ無駄だし、ほかの所に掛けたほうがよい。
ってなことを言い出すと
障害者と同じような、もしくはそれ以下の待遇を受けてしまう。(弱肉強食の世界のため)
用語説明
低所得者=年間所得800万以下の人たち(日本の税金の50%は、人口11%に過ぎない年収800万以上の人達だけで払っている。)
弱肉強食の世界では障害者・低所得者は虐げられて当然であり、自然なこと。
虐げることは悪いことじゃない。当たり前。自然の摂理。
障害者のなんか相手したくない!って虐げると、回りまわって自身も虐げられてしまう。
でもそれは嫌。だからこそ大部分の人たちは理想世界を目標にして
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」とか「人は全て、生まれながらにして生きる権利を有する」
ですがこの偽善を否定すると、障害者・低所得者は虐げらちゃうというポルポル状態。
非常に不服なのですが、障害者でも幸せに生きられる世界を構築しないと駄目のようです。
いやーめんどくさいですねー。
どれだけのコストがかかるのか。障害者用エレベータも作らないと駄目だし、点字ブロックや
障害者専用スペースとかも作らないと駄目なんですよ。うざすぎる。
はちょーめんどくさい以外の何者でもないんですけどね。
何が言いたいのかというと
「どれだけコストが掛かったとしても、どうにかしないと駄目」
ということです。
そうしないと、図書管理の利用とかトイレ、水道とか使えなくなっちゃうかもしれません。
Exactly(そのとおりでございます)
現実問題として、何から何まで対応しろってのは無理があります。
ですので、優先度が高い順に、
少ない費用で効果が大きく緊急度が高いものから対応していきます。
全体的に見て、かなり低い位置にあります。
本来であれば乙武さんをお店に入店させるべきですが、現実問題として無理があったと思います。
「どれだけコストが掛かったとしても、どうにかしないと駄目」なので
現実問題として無理があったとしても、どうにかできなかったお店が悪いことになります。
つまり、お店の作りが悪かったため、障害者が入店できなかったことが駄目ということになります。
現実問題として、普通の飲食店は障害者に厳しいお店が一般的です。
ですが今回のお店が障害者にやさしい作りになっていれば
※何だか話が変な方向に流れてきましたが、お付き合いください。
1.理想としては、日本中のお店を障害者にやさしい作りにすれば万事解決なのですが
2.現実としては、日本中のお店を障害者にやさしい作りにするのは不可能です。
3.ですが不可能といってもうちらは、誰もが(障害者も)幸せになる理想世界を構築しないと駄目なわけです。
上記1.~3.のことを認識・理解しているか否かで、人の対応が全然違いますね。
お店側は「理想世界の対応すべきですが、まだできていないお店です。すいません」とか言って
乙武側は「障害者に対応するのは現実問題きびしいですよね。頑張ってください」とか言えばよかった。
つまり
双方が自身のおかれている現実を直視すればよかったのだよ(キバヤシ)
逆に、言っちゃまずいのが
お店側が3.のことを考えずに「障害者にやさしくする気なんて微塵も無い。視ね!」で
乙武側が2.のことを考えずに「障害者にきびしいお店ってバカか!配慮しろボケ!」ですね。
今回の問題は不味い方向に転びましたね(達観)
この手の問題でよく出てくるのが、理想世界構築の自身がどこまでやるのかです。
障害者に対して、どこまで配慮すべきなのか?
最近の話だと、今後発生する深刻な食料不足のために昆虫を食べないと駄目のなのか?
などなど、やるべき事はたくさんあります。
本来であれば、理想世界構築のためには上であげたこと全てを全力でやるべきです。
といいたいところですが、これもまた現実問題として不可能です。
少し前に、共産主義、社会主義というものが大流行して、世界の約50%が共産・社会主義になりましたが
がすぐに廃れてしまいましたね。
共産主義は理念的には大変素晴らしいものでしたが、どうも人間が扱うと、
汚職まみれになったり、独裁国家ができたり、市民を虐殺しちゃったりと
これは理想のために全力だしすぎると、駄目になる典型パターンです。
【 無理をしないで、自身ができる範囲でやる 】
がおおむね正解のようです
理想世界に全力出しすぎると駄目になるので、「自身ができる範囲でやる」
といっても、だーれもその気が無かったら始まりません。
というか、理想世界構築って面倒すぎてやる気すら沸きません(本音)
そんななか、乙武さんっていう人たちは
うちらの殆ど変動しないであろう「自身ができる範囲」を拡張させる
ある種すげー貴重で、ありがたい存在でもあり、
※問題に対する意識が高くなると理想世界構築への行動をし始めちゃいます。
「あ、障害者の事すげー尊重したくなってきた」
とか気持ち悪いことを平然と言えるようになります。
今では自分も
「あ、低所得者の事すげー尊重したくなってきた」
っていえるようになりました。
乙武の行動を過度に阻害することです。(適度に正しい方法を使って阻害するのはOK。)
考えてみてください
「障害者にやさしくしてください!」とか「障害者の入りやすいお店の啓蒙活動するぞ!」
なんて事をしたいですか?めんどくさすぎて自分はごめんです。
ああいった人たちが勝手に行動してくれるから、勝手に理想世界に近づいているのです。
勝手にやらしておきましょう。ですが変なこと言い出したら止めましょう
ただ乙武をバカにして、やる気を失わせるのだけは得策じゃないので控えましょう
乙武の役目は、社会全体のやる気パラメータを上げることにあるにも関わらず
今回の問題では、それが全くできていなかった。
うまくいけば、飲食店全体の障害者対応への認識が変わりそうだったにも関わらず
問題提起になったが、成果がともなっていなかった。
・理想世界を構築しないと障害者と年収800万以下の低所得者は虐げられる
・現実問題として、理想世界への対応には資金・資源が有限だからすぐに全部やるのは難しい
・理想と現実をちゃんと認識、理解すれば、うちらがどんな対応とればいいのか自然とわかる
・理想世界構築のためには「自身ができる範囲で頑張りましょう」
・乙武みたいな人は「自身のできる範囲」を拡張するハタ迷惑な存在
・社会全体のために乙武みたいな人は勝手にやらしときましょう(提案)
・乙武をバカにしてやる気を失わせるのは得策ではないのでやめましょう(戒め)
いやー長かった。