http://www.watanabemiki.net/journal/post-475.html
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/06/01/232610
のふたつを前提にして。
世の中のは、収入能力が1のひとも2のひとも3のひともあるいは10のひとも20のひともいるわけですよ。
で、渡邉さんはたしかに「8未満のやつはイラねえ(≒死ね)」かもしれない。店長はその点にたいして全霊で反論している。
そのこと自体、その社会感覚自体は賛成する。正しいとも思う。店長はこの記事において、良い仕事をしたと思う。
ここから先を書くと、反射的な叩きを総スカンで喰らいそうな話なのですが
現代の政治に求められている機能のうち、最大のもののひとつが、富の再分配です。
資本主義はいままでの歴史を見る限り、どうやら内部で成功者と失敗者が極端に別れていくという特徴があるようです。格差ですね。
ですから、それを解消するという視点に立てば「より富めるものからおおくをもらい、富めない側にばらまく」というのは意味のある政策です。
しかし、だとしても、では、「より富める」ってのはどういう線引きなのか? 8以上なのか、12以上なのか?
「富んでいない」ってのはどれくらいなのか? 10未満なのか、8未満なのか? 「最低限の文化的生活」というのは幾つなのか。5なのか、10なのか?
政治の現場では、そういうライン引きを議論していかなければならないし、それはかなりデリケートな問題です。
つまり店長がいうように「きれいごとじゃない話」として、社会維持にかかるコストを持てるものはより多く払ってるわけです。
収入4の人の年収からは税金を5%徴収し、その一方で収入15の人の年収からは税金を50%徴収する――そんなシステムでこの国は回っています。
これは明らかに非対称で、その事実だけをみるのであれば、より多く働いてる人を差別する構造があります。
この差別は、上の「格差=悪」という考えに基づけば正当化されうるでしょうが、いっぽうで「格差=悪」という考えを徹底するならそこに現れるのは社会主義であって、それが上手くないことをもう我々は判っている。
社会主義を否定した我々は「ある程度を越えた格差は悪」といってるわけですが、これは要するに、たとえば14をこえたひとを指さして「君はいまから格差戦犯」と弾劾しているわけです。
現在の日本のあらゆるところにこれは見え隠れしています。社会を維持してきた人にたいして、いきなりレッテルを貼って差別する構図ですね。
また一方で「生活保護を受けている人は勝ち組」のような発言にあるとおり、努力するモノが馬鹿を見る社会の影も見え隠れしています。
そういう社会の中で、富める側がいらだつのも仕方ないことかと思います。
生活保護叩きはまさに富める側の苛立ちの表れでしょう。しかし同じ構図を採用するのならば、生活保護叩きをする人々は、渡邉さんの理論で切り捨てられても仕方がないことになる。
これからの日本をデザインするにあたって、僕たちは、上で書いたような「どこから先が富裕層で、どの辺が中間層で、どこから先は貧困層(=助けを必要とする)か」を話し合って決めていかなければならない。
そしてその話し合いは富裕層(他者を支えられる側)を説得できなければならない。じゃないとフランスのように富裕層の海外移住が進むだけですし、たとえそうではないにしろ、貧困層と中間層の合意だけで富裕層の財産を徴収するのであれば、それは私有財産権に対する冒涜であり、国の形が壊れるからです。むしろ国力というものをかんがえれば、富裕層が喜んで私財を振る舞うという形にした方がよほど良いです。(欧米の富裕層にみられる寄付文化は、その点で日本よりずっと進んでいます)
そこまで考えた時、日本の政治や文化は、「富裕層が富裕層をな得させるためのロジック」「富裕層が私有財産を失う代わりになにかを得られる仕組み」「情緒面から納得するための理屈」をないがしろにしてきたように思えます。「連中金もってんだから奪って良いよ」というのは貧困層と中間層の言い分かもしれないですけれど、実際そんな攻撃的な言説では物事進まないのです。そこにたいして文化を提供できないってのは社会全体の責任です。
この問題はデリケートな問題で、細心の注意を払って発言しても、あっという間に敵味方論に巻き込まれ、炎上案件になってしまうからなのでしょうが、でもだとしたところで、この点に踏み込んで発言をおこなうマスコミ人をみたことがありません。上の話もそういう人にとってみれば、富裕層が自己利益を守るような話に聞こえるのかもしれません。そんな気がします。